契約結婚は終了しました


   ◆

 走馬灯のように思い出を振り返りながら裏口にたどり着く。
 眠りに包まれた館はしんと静まり返り、裏口とは反対方向にある玄関ホールにある柱時計の音がかすかに聞こえてくる気がする。
 ドアを開けるため持っていたトランクを静かにおろすと、なんの気配もなかったはずの背後から声を掛けられ、メリーベルはびくりと飛び上った。

「お待ちください、奥様」
「さ、サイラスさん? びっくりした。驚かさないでください」
「すみません。そんなつもりはなかったのですが」

 バクバクする胸を押さえて振り返れば、そこにはいつも通りビシッと一部の隙もなく身支度済ませている執事のサイラスが立っていた。ピンと伸びた背筋に、整えられた口ひげ。年齢はもう五十をとうに超えているはずだが、いったい彼はいつ眠ってるんだろう? と、こんな時でも不思議な気がしてしまう。
 それでもいつになく焦った声だったなと思い、かすかに口元をほころばせると、彼は怪訝そうに眉をひそめた。その視線がトランクに注がれてることに気づき、メリーベルは軽く肩をすくめる。養父の形見でもあるトランクは、高貴な女性が持つには不似合いな代物だが、これもメリーベルにとっては大切な財産だ。
 それだけ? と問われる前に、これですべてだと伝えた。
 後で送ってもらうようなものは何もない。

(そういえば三年前、このトランクを運んでくれたのは彼だったわね)

 昨日で契約期間が終わったことを知っているはずなのに、まだ「奥様」と呼んでくるサイラスに苦笑すると、彼は痛ましげとも必死ともいえるような色を目に浮かべた。

「奥様、せめて旦那様がお戻りになるまでお待ちください。何もこんな時間に出ていかなくても」

 周囲に配慮したのか最大限に抑えられた声は淡々としているけれど、心配そうな口ぶりに心の奥が温かいもので満たされる。それでもメリーベルは、彼の言葉にゆっくりと首を振った。

「契約期間は終わりましたもの。昔から、巣立つ鳥は古巣を汚さないものと言いますでしょう? いつまでもわたくしがいたら、むしろ旦那様が驚かれますわ。みなさんへの挨拶は昨日済ませましたしね?」

 事情を知る彼とメイド長のノラ、それから料理人のジェナ以外、最後の挨拶だとは思わなかっただろうけれど……。

 何か言いかけたサイラスの後ろに気配を感じると、暗がりから当のメイド長と料理人が静かに現れた。

「ではせめてこれを持って行ってください」

 ジェナが差し出したバスケットをのぞけば弁当と、日持ちのする菓子がこれでもかというくらい詰め込まれていた。菓子の半分は、メリーベルの弟ギルの好物だ。

「弟さん、もうすぐ学校の休暇でお戻りになるのでしょう。初めての長期帰省とのことですし、沢山召し上がるでしょうから、本当はもっと入れたかったんですけど」

 あまり重いと持っていけないだろうと気遣ったらしい。
 偶然にも養父の縁者であった内気な料理人は、最初からメリーベルの正体を知っていて沈黙を守っていてくれた。くしゃっと顔をゆがめてノラの陰に隠れる彼女に、感謝を込めて微笑む。

「ありがとう。きっと喜ぶわ」

 ジェナを気遣うように背中を軽くたたいたノラが、やはり何か言いたげに逡巡したあと首を振り、気を取り直したように小さく微笑んだ。

「手紙をくださいね。引退したら絶対遊びに行きますから」
「ええ、歓迎するわ。引退してからじゃなく、休暇の時でもいいのよ?」

 今回最大の報酬である海沿いの古い家を思い浮かべ、メリーベルは明るく微笑んだ。実父からもらった家は、彼自身「本当にいいのか?」とオロオロするほどのボロ屋だ。塗装のはげた壁、雨漏りして傷んだ室内。それでも正式に譲られたメリーベルのうちだ! すべて好きにしていい家の修繕に今から腕が鳴る!

「では皆さんごきげんよう。お見送りに感謝するわ」

 最後まで貴婦人の役を全うしたメリーベルは、スカートを少しつまんでおどけて礼をする。するとビシッと姿勢を正した三人が揃って頭を下げたのでびっくりした。

「「「行ってらっしゃいませ奥様。いつまでも奥様のお帰りをお待ちしております」」」

(えっと……それはないわよ?)

 気持ちは嬉しいけれど―――――。