夏の日差しが実習室の床を白く染め、その中で桜の影だけが細く伸びていた。ドアの閉まる音が静寂に溶け、室内には糸島の浅い呼吸だけが響く。
「すみません。失礼だとは思ったのですが」
糸島は唇をきゅっと結び、顔を上げた。
「でも、私、先輩のこと、許せません」
その言葉に、桜のまつげがわずかに揺れた。
それでも彼女は、笑みを崩さなかった。
「どうして?」
「ドレスを引き裂いたからです」
糸島の声は震えていた。けれど、その瞳の奥には、真夏の陽光のような強さが宿っていた。
「自分の作った作品を切り刻むなんて。それに大野先輩の作品も盗み出した。手芸部も混乱させた。あのオレンジ色のドレスは、みんなの憧れでした。先輩もきっとわかっていたはずです」
桜は机の角に腰を預け、両腕を組んだ。
「言いがかりね」
「違います」
糸島はまっすぐに桜を見た。
「入学してすぐに、先輩の持っていた春物のコートを見て、おかしいと思いました」
「おかしい?」
「はい。先輩の裁縫はいつも完璧に近いのに、あのコートは不出来でした。袖山の小さな縫い目の歪み。裾の表地も少したるんでいて、裏地が短すぎて引っ張られたみたいでした」
桜の瞳が、ほんの一瞬だけ細くなった。それは驚きではなく、どこか記憶を探るような仕草だった。
糸島は息を整えて続ける。
「その時は、ただ珍しいなと思っただけでした。でも——」
机の上に置いたスマートフォンを軽く叩く。
「後で大野先輩の昔の作品を見る機会があって、気づいたんです。あのコートは大野先輩が昔作ったものだって」
「どういうこと?」
「ミスの仕方が、まったく同じでした。つまり、あのコートは大野先輩の作品で、桜先輩のサイズに合わせて大野先輩が仕立てたものです」
桜は何も言わず、ゆっくりと窓の方に視線を向けた。その光の中で、彼女の横顔はひどく淡く見えた。
糸島は小さく息を呑んだ。
「大野先輩のこと、好きだったんですよね」
桜は目を閉じた。
しばらくの沈黙。
やがて、吐息のような声で「どうしてそう思うの」と問うた。
「あの不出来なコートを、先輩はもう二年も着ているからです」
蝉の声が遠くで鳴き続けている。
「大野先輩が三年生のときには、既にユキ先輩と付き合っていたって聞きました。彼女がいるのに、他の女の人に服を手作りしてプレゼントするなんて、ちょっと考えにくい。だからあのコートは、大野先輩が二年生で、桜先輩が一年生のときに作られたんだと思います。つまり、あの不出来なコートを、先輩は二年もずっと着続けているんです」
糸島の言葉が終わると、部屋の空気が少しだけ重くなった。
桜は腕をほどき、机の上に両手を置いた。その指先は、白くて、少し震えていた。
「あまり他人の恋愛事情を詮索するものじゃないわよ」
そう言って、桜は小さく笑った。その笑みには、怒りも驚きもなかった。
ただ、どこかで遠くを見つめるような、寂しさがあった。糸島はその表情を見て、胸が少し痛んだ。けれども、言葉を引っ込めるわけにはいかなかった。
「大野先輩にはユキ先輩がいました。だから、想いは叶わないって、きっとわかっていたんですよね。でも、それでも何かが欲しかった。彼が残したものの中で、いちばん特別なものを。そしてドレスの偽物を作って本物と入れ替える計画を思いついた」
糸島の声はやわらかく、それでいて、どこか確信めいていた。
桜は椅子の背に手を置いた。その手が光に透け、白く細く見えた。
「型紙通りに、春休みから少しずつ時間をかけて縫っていき、数か月かけて本物と瓜二つのドレスを完成させた。それから、本物を持ち出して――先輩のドレスを代わりに置いた」
部屋の中が静まり返った。
桜は、何も言わない。ただ、視線を落としたまま、唇をかすかに動かした。
「先輩のドレスは、本物みたいでした」
糸島は机の上の布に目を落とした。
「でも、ひとつだけ違ってた。ピオニーの刺繍です」
「刺繍?」
桜の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「花びらの縁の糸の流れが、ほんの少し乱れていました。よく見ないと気づかないくらい。でも、光が当たるとわかるんです。本物の刺繍は、もっと自然だった」
糸島の声は、どこか優しかった。
桜は、長い沈黙のあとで、ようやく口を開いた。その声は、かすかに震えていたが、不思議と穏やかでもあった。
「彼は、極端な人だったの」
桜は、窓の向こうの光を見つめるように言った。
「ときどき驚くほど不出来なものを作るのに、次の瞬間には息をのむような傑作を仕上げてしまう。そういう人だった。きっと、魂がこもっているものは、自然と出来が良くなるのね」
彼女は、そっと微笑んだ。けれどその笑みはどこか遠く、懐かしさと痛みが混じっていた。
「きっと私のコートには、魂なんて込められていなかったの。それでも嬉しかった」
桜の声が、少しだけ掠れた。
「深い理由なんてなかったと思う。ただ、女性用のコートを作る中で、たまたまサイズを測る相手が必要で、そこに私がいた。ただそれだけ。でもね、彼は仕上げたコートを、完成したその日に私に渡してくれたの」
「そうだったんですね」
指先が机の縁をなぞる。その動きは、まるで過去の記憶に触れているかのようだった。
「大野先輩には、ユキ先輩という完璧な恋人がいた」
桜はゆっくり言葉を続けた。
「だから、どうしても欲しかった。叶わぬ恋と分かっていたから。せめて彼の最高傑作を、ウエディングドレスという特別な服を、自分の手の届くところに置いておきたかったの。ばかみたいでしょう?」
「そんなことは……」
声が、ほとんど囁きのように小さくなった。
「入れ替えてから、二週間。誰も気づかなかった。誰も、疑いもしなかった」
桜は、淡く笑った。
「バレるはずがないと思ってたわ。自分の腕には、それなりに自信があったし……ね」
風が吹き抜け、机の上の糸束がふわりと揺れた。
「……なんで、私だとわかったの?」
桜の声は静かだった。けれど、ほんのわずかに震えていた。
糸島は、まっすぐに彼女を見つめた。
「――トルソーの傷です」
「傷?」桜の眉がかすかに動いた。
「羽毛田先生が仰ってました。ウエディングドレスを展示するとき、先生と桜先輩の二人でトルソーに着せたって。そのとき、見たんですよね。トルソーの細い切り傷を」
桜のまつ毛が、わずかに揺れた。
息をするような小さな沈黙が、二人のあいだを流れる。
「先輩はドレスを入れ替えるとき、トルソーごと入れ替えた。入学してすぐに撮った写真と見比べて、台座の形が少し違っていたので分かりました」
糸島の声は、淡々としているようでいて、どこか痛みを含んでいた。
「でも、変なんです。トルソーが入れ替わっているのに、あの傷はそのままだったんです」
桜が、そっと視線を伏せた。
光がカーテンの隙間から差し込み、彼女の頬をやわらかく照らした。
「新しいトルソーには、最初その傷はなかったんです。けれど――もし傷がなくなっていたら、誰かが入れ替わりに気づいてしまうかもしれない。だから、犯人は同じ場所に、同じ形の傷をつけた。まるで、前のものをそのまま再現するように」
糸島の声が静かに落ちた。
桜はふっと笑った。
「すごいわね、糸島さん。よくそこまで気づいたわ」
「これ、決定的な証拠なんです」
糸島は言葉を継いだ。
「なぜなら、古いトルソーに傷がついていたことを知っているのは、羽毛田先生と桜先輩だけなので――」
「先生がそんなことをするわけない。だから私?」
桜の声は穏やかだった。まるですべてを受け入れているような響きだった。
「ええ」糸島は静かに頷いた。
「先生には偽物のドレスは作れません。縫製が上手すぎるからです。先生が作れば、一目で本物と区別がつかないほど美しくなってしまう。完璧な作品は、偽物にはなれないんです」
桜はその言葉を聞いて、小さく息を吐いた。
「……なるほどね」
その声には、少しだけ寂しさが混じっていた。
しばらくの沈黙のあと、糸島が問いかけた。
「――なぜ、切り裂いたんですか?」
桜の肩が、かすかに揺れた。答えを探すように、視線が宙をさまよった。
吉岡が鍵を閉め忘れた、あの日。
桜は忘れ物を取りに、夕方の実習室へ向かっていた。廊下の突き当たり、ドアの隙間から白い光がこぼれている。吉岡は電気まで消し忘れていたのだ。
「誰か、まだ残ってるのかしら」と苦笑しながら扉を開けると、そこには誰もいなかった。
ミシンの匂いと、糸くずの散らばった床。その真ん中に、トルソーが静かに立っていた。自分が縫い上げた、偽物のウエディングドレスを纏って。
思わず足が止まった。
偽物のドレス。どれほど似せたところで、刺繍の深みも、針の迷いも、彼の手の跡には敵わない。
大野先輩が作った、完璧な作品。そして、そのドレスを纏ったのはユキ先輩。彼に選ばれた人。彼の針の温もりを、いちばん近くで感じられる人。
あまりにも、惨めだった。
彼が作った本物のドレス。その模様も糸の色も、すべてを盗み見て、そっくりに縫った。まるで呪いのように、ひと針ずつ。
でも――それは、他人のためのドレスだった。
自分のために作られたものじゃない。
自分が着るためのものでも、祝福されるためのものでもない。最初から、何もかもが他人のものだった。
そのことに、いまさら気づいた。
そして、気づいた瞬間に、心の奥底から、沸き上がるような屈辱が襲ってきた。
どうしてこんなことをしてしまったんだろう。
どうして、自分をこんなにも安くしてしまったんだろう。
嫉妬なんて、もっと上品に隠せばよかった。それを、こんなに露骨に、形にしてしまうなんて。
「最低だ……」
小さく、呟いた声は震えていた。
涙が出そうだったけれど、出なかった。
泣くより先に、身体の奥から込み上げるのは――怒りだった。
彼への怒り。
そして、ユキ先輩への怒り。
でも一番強かったのは、自分への嫌悪だった。
桜は、ゆっくりとトルソーに近づいた。ライトに照らされて、オレンジのドレスがぼんやりと輝いている。
「こんなの……」
そう言いながら、机の上に置かれていたカッターに手を伸ばした。怒りと羞恥と後悔が混ざり合って、どこにも出口がなかった。気づいたときには、もう布を裂いていた。
オレンジの布が、乱暴に、無惨に崩れていく。
カッターを握る手が震え、床には、切り刻まれた布が散乱していた。
暫くしてから、喉の奥で渦を巻くような後悔が桜を襲った。
「どうしよう……」
誰に謝ればいいのかも分からなかった。
発覚するのが怖かった。
でもそれ以上に――彼のドレスを盗み、自分の作った偽物を置いたことを知られるのが、恐ろしかった。
そんな女だと、知られるのが。――大野先輩に、軽蔑されるのが。
慌ててトルソーに傷をつけた。わざと、前のものと同じ位置に。誰にも気づかれないように、完璧に。せめて偽物のドレスだと、悟られないように。
桜は、カーテン越しに差し込む午後の光を見つめたまま、ゆっくりと続けた。
「恋って、精神病みたいね」
かすかに笑って、桜は自分の胸に手を当てた。
「おかしくなっちゃうのよ。ほんとに」
その横顔は、泣いているようにも、微笑んでいるようにも見えた。
「そんなことはないよ」
――背後から、静かな声がした。
桜はびくりと肩を震わせた。
振り向くと、実習室の入り口に大野先輩が立っていた。蛍光灯の白い光に照らされて、彼の影が床に長く伸びている。
胸が一瞬で凍りついた。
「……先輩」
声が掠れた。
逃げなきゃ、と思った。けれど、足が動かなかった。
膝の力が抜け、ただ立っているだけで精一杯だった。
大野はゆっくりと部屋に入ってきた。
桜の傍らに散らばる、切り裂かれたドレスを見下ろして、小さく息を吐いた。その表情には怒りも軽蔑もなく、ただ、深い疲れのようなものが滲んでいた。
「俺も、君に謝らなきゃならないことがある」
桜はその言葉の意味がわからず、ただ震えていた。
謝る? 彼が? 何を?
糸島には、その瞬間、すべてが見えた。
このあと彼が何を言うのか、どんな真実がこの場を壊してしまうのか。
――「言うな」心の中で、必死にそう呟いた。
それを桜に告げるのは、あまりにも残酷だったから。
けれど大野は、躊躇わなかった。沈黙のあと、静かに言葉を紡いだ。
「……あのドレスは、俺が作ったものじゃないんだ」
時間が止まったようだった。
桜は、瞬きを忘れたまま、彼の顔を見ていた。
唇がわずかに動いたが、声にならなかった。
「その――ユキが作ったんだ。グランプリを獲ったから、もう引き返せなくて……言えなかった」
糸島が息を呑んだ。
桜の表情から、血の気が引いていくのが見えた。
指先がかすかに震えていた。
「俺に裁縫の才能がないことは、分かってたよ。たまに褒められた作品もあったけど……実はそれも全部、ユキが作っていたんだ」
彼の声は、自嘲のように低かった。
「なぜならユキは――」
その続きを言う前に、糸島がそっと口を開いた。
「……橘正二さんのアトリエ〈Tachibana stitch works〉の門下生、ですよね」
大野は驚いたように彼女を見た。
「君は?」
「手芸部の一年、糸島綾です」
糸島は穏やかに、けれど確信のある声で続けた。
「実は、橘正二さんの息子さんがうちの部にいまして。何度かご自宅に伺ったときに、門下生の名簿を見たんです。その中に――ユキ先輩の名前がありました」
大野は、短く「そうか」とだけ答えた。
その顔には、どこか諦めの色が浮かんでいた。
「ユキ先輩、部活は中学まででしたけど、高校ではもっと本格的に技術を磨いていたみたいですね。ソーイング界のレジェンドのもとで」
糸島の言葉に、大野は視線を落とした。
バツの悪そうな表情。唇を噛みしめるその姿が、かえって痛々しかった。
その間にも、桜は何も言えなかった。
声を出すという機能が、自分の中から消えていた。
――どういうこと?
頭の中で、言葉が渦を巻く。
私が、あの夜に入れ替えたドレス。
それは大野先輩の作品だと、彼が縫った最高傑作だと信じていた。
それが――彼の作品じゃなかった。
ユキ先輩の作品。彼女が作ったものを、彼が「自分のもの」として出した。
そして、私はその「嘘の上塗り」に、自分の人生を賭けた。
――なんて、滑稽なんだろう。
心が、音もなく崩れ落ちていくのが分かった。
全身の力が抜けていく。
ただ立っていることすら、難しかった。唇の端が震える。
「私、ほんとに……馬鹿だな」
その言葉のあと、しばらく誰も何も言わなかった。
糸島は目を伏せ、桜の痛みを見届けるしかできなかった。
胸の奥が熱くなった。
こんな真実、知らなければよかった。
知らなければ、桜はただ「恋に敗れた」だけで済んだのに。桜の頭の中では、過去のすべての記憶が、ぐるぐると回っていた。
負けた。
女としても、縫い手としても完敗だった。
足元に広がる、裂かれたドレスの切れ端を見下ろす。それがまるで、自分の心の断片のように見えた。
涙の跡が乾ききらない頬を、風がやさしく撫でていく。
やっと呼吸を整えるように小さく息を吐くと、桜は静かに顔を上げた。
「……大野先輩」
か細い声だった。けれど、その声には、確かな落ち着きが戻っていた。
「本当に、すみませんでした」
そう言って深く頭を下げた。
肩が震えているのが見えたが、その姿にはもう、先ほどまでの混乱はなかった。ただ、すべてを受け入れた静けさがあった。
大野は少しの間、何も言わなかった。視線を落としたまま、桜の謝罪を黙って受け止めているようだった。
やがて、彼は小さく頷いた。
「ありがとう。話してくれて」
その言葉に桜は、ようやく微笑んだ。儚く、けれど確かに笑っていた。
「本物のドレス、うちにあります。傷一つないまま、ちゃんと保管してました」
「……」
「すぐに送ります。先輩の家に」
その声には、もう涙の響きはなかった。ただ、すべてを終わらせようとする穏やかさがあった。
糸島は、桜が許せなかった。彼女のしたことは、明らかに間違っている。ドレスを盗み、偽物を置き、嘘をつき通した。そして、結果的に多くの人を巻き込んだ。
でも、桜を裁くことは、できなかった。
この出来事を、誰かに話す気もなかった。自分と、桜先輩と、大野先輩だけの秘密にしておくべきだ。
それがいちばん穏やかな終わり方だと思った。
校門を出るころには、空は淡い茜色に染まっていた。
夏の終わりの匂い。桜は少しうつむきながら歩いていた。どこか疲れているようでもあり、何かから解放されたようでもあった。
「糸島さん」
「はい」
「私、もう手芸部の部長を引退しようと思うの」
糸島は歩みを止めた。
「……引退、ですか」
「うん。受験もあるし、もうみんなに合わせる顔がないの」
「そんな……」
「大丈夫。湯川くんもきっと納得してくれると思う」
桜は、そう言って微笑んだ。
しばらく無言で並んで歩く。夕方の商店街に差し込む西日が、二人の影を細長く伸ばしていた。
「ねえ、糸島さん」
桜がふいに言った。
「少し寄っていかない?」
「え?」
「おいしいタルトのお店があるの。ここの近くに」
桜の声はどこか遠く、でも確かに穏やかだった。糸島はその横顔を見つめながら、思った。
人は失ったものの形を探して、何かを作るのかもしれない。あるいは、作ることでしか自分を保てないのかもしれない。
記憶も恋も、輪郭はすぐに薄れていく。だからこそ、人は明確な形を求める。
やはり、人生は決して「無色の糸の束」などではないのだ。
夏休みが明けた。あの濃密で、どこか苦い時間が終わったのだ。
蝉の声が遠のき、代わりに赤とんぼが校庭を横切るようになった。朝の空気はひんやりしていて、陽ざしの角度も少し変わった気がした。
長野の秋は、いつも駆け足でやってくる。
糸島が登校すると、校門のそばに金木犀の香りがほのかに漂っていた。ふと立ち止まって深呼吸をする。あの夏の熱気が、ほんの少し懐かしく思えた。
桜が引退したのは、数週間前のことだった。そのとき彼女は、穏やかな笑顔で部員たちを見渡し「これからは、あなたたちの部活にしていってね」と言った。
同時に、湯川も手芸部を去った。彼は桜の引退を聞いたその日に、顧問に退部届を出していた。
手芸部は新体制になる。
桜も湯川もいない実習室は、少し空虚に感じられた。でもすぐに、その空気は新しい形で満たされていった。
新しい部長は、牛針。彼女は桜に強いあこがれを抱いていた。
牛針が部長になってからの手芸部は、少しずつ変わった。作業台が整理され、作品管理のノートが新しくなり、「今日のひと針日記」という記録帳まで用意された。
部員がそれぞれ、その日の作業や気づきを書き込む。
糸島は、初めてのページにこう書いた。
――秋の風が冷たくなってきた。糸が手に触れるたびに、夏の名残が遠ざかる。
そして迎えた、文化祭の朝。体育館の外では吹奏楽部の音合わせが響き、模擬店のテントからは、早くも焼きそばの香りが漂っていた。校舎全体が、どこか浮き立つような熱気を帯びていた。
手芸部の展示室は、家庭科棟の二階にある和室だ。障子越しの光が柔らかく差し込み、畳の上には部員たちの作品が丁寧に並べられていた。
入口には手書きの看板――「縫い目のむこう側」
牛針が考えたテーマだ。
「ただの縫い物じゃなくて、作った人の気持ちも伝わる展示にしたいの」
そう言って、彼女は何度もレイアウトを組み直していた。
展示室の中央には、桜の最後の作品――淡いグレーのイブニングドレスが置かれていた。小さなタグに「旧部長制作」とだけ記されている。誰もがそれ以上の説明を求めなかった。
午後になると、窓の外の空が薄金色に変わり始めた。
通り抜ける風が涼しくて、カーテンの裾がそよいだ。展示の合間に、牛針がポットにお茶を淹れてくれた。
「みんな、おつかれさま。あたたかいの飲んでね」
その声がやわらかく響く。
糸島は、障子越しの光の中で、展示された作品を見つめた。
――ドレス引き裂き事件の犯人のことは、誰も知らない。
それでいい。
時間は静かに流れ、少しずつ記憶の輪郭を薄めていく。でも、縫い目だけは残る。誰かの想いが通ったその跡は、たとえ年月が過ぎても消えない。
放課後、文化祭の片づけが終わるころ、糸島は窓辺に立ち、外の夕焼けを眺めていた。
校庭の端に、赤とんぼが群れをなし、風が稲の匂いを運んでくる。
「糸島」
背後から、夏樹が声をかけた。
「なに見てるの?」
「秋、だなって」
「なんだそれ」
夏樹は苦笑した。
あおいも近づいてきて、三人で並んで外を見た。
「来年は、どんな作品つくる?」と夏樹が言う。
「まだ決めてないけど、でも、誰かの心に残るものがいい」
放送部のアナウンスが流れ、文化祭の閉会が告げられた。歓声が上がり、廊下の向こうから拍手が聞こえてくる。
校庭の彼方で、赤く沈む太陽が、まるで一枚の布の端を、そっとかがっているように見えた。
スターバックスの窓際の席に、あおいと糸島が並んで座っていた。
コーヒーの香りが、ゆるやかに空気を満たしている。店内はほどよくにぎやかで、大学生らしきグループの笑い声が奥から聞こえてくる。
糸島は、トールサイズのカフェラテを両手で包むように持ちながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
外の歩道には、小学生の一団がランドセルを揺らして歩いている。
「ねえ、あれ」
糸島が小さく声を上げた。
「ん?」
あおいが視線を向ける。
「いちばん後ろの子のシャツ、たぶん手作りだよ」
あおいは目を細めて外を見た。
背の低い男の子が、白地に青いストライプのシャツを着ている。よく見ると、肩の縫い目のラインが少し不ぞろいで、裾のステッチも市販品ほど整っていない。けれど、その不完全さが妙にあたたかく見えた。
「なんでわかるの?」
「袖の布、よく見るとちょっと色が違う。たぶん、別の服から取ったんだと思う。あと、ボタンが全部ちがう形。あれ、家にある余りボタン使ってる」
「そんなの、よく気づくね」
あおいは笑いながらストローを回した。
「でも確かに、言われてみるとそうかも。リメイクってやつ?」
「うん。たぶん、お母さんが作ったのかもね。ほら、布の端のほつれ方が家庭用ミシンっぽいし」
糸島は言いながら、少し微笑んだ。
その横顔は、手芸部のときの真剣な表情とも違って、どこかやわらかい。
あおいはその横顔を眺めながら、ふとつぶやくように言った。
「綾ってさ、そうやって観察してるとき、いきいきしてるよね」
糸島は目を瞬かせた。
「え?」
「なんか、糸を見る目っていうの? 普通の人がただの布にしか見えないものから、物語を見つける感じ。『小さなことにこそ真実が宿る』って言うじゃない。あれ、手芸にも通じてる気がするんだよね」
糸島はしばらく考えるように黙っていた。
それから、指先でカップのふちをなぞりながら言った。
「ミース・ファン・デル・ローエの言葉ね」
「それそれ」
あおいが笑う。
糸島もつられて微笑む。
「でもほんと、あの子の服を見たときに思ったんだ。――たぶん、作った人は『直したい』じゃなくて、『生かしたい』と思ったんだろうなって。破れたところを隠すんじゃなくて、別の布を重ねて、新しい形にしてあげた。そういうの、すごく好き」
あおいはその言葉に、すこし息をのんだ。
窓の外では、さっきの男の子が角を曲がって見えなくなるところだった。
カップの中のミルクフォームが静かに泡を弾けさせる音がした。
「黒い糸の手紙もそうだけど、糸って、弱そうに見えて、すごく強いんだよ。人の言葉や想いよりも、長く残ることもある」
糸島はふと、自分の指先を見つめた。
針を持つときのように、心の奥に小さな静けさが生まれる。
誰かの想いも、過去の記憶も、見えない糸のようにこの世界に張りめぐらされている。
悲涙の黒も、個我の緑も、恋慕のオレンジも。
その全部があって、ようやく一枚の布になる。今日もまた、ひとすじの糸を結びながら、生きていくのだ。
糸島はカップを傾け、残りのフラペチーノを飲み干した。
「すみません。失礼だとは思ったのですが」
糸島は唇をきゅっと結び、顔を上げた。
「でも、私、先輩のこと、許せません」
その言葉に、桜のまつげがわずかに揺れた。
それでも彼女は、笑みを崩さなかった。
「どうして?」
「ドレスを引き裂いたからです」
糸島の声は震えていた。けれど、その瞳の奥には、真夏の陽光のような強さが宿っていた。
「自分の作った作品を切り刻むなんて。それに大野先輩の作品も盗み出した。手芸部も混乱させた。あのオレンジ色のドレスは、みんなの憧れでした。先輩もきっとわかっていたはずです」
桜は机の角に腰を預け、両腕を組んだ。
「言いがかりね」
「違います」
糸島はまっすぐに桜を見た。
「入学してすぐに、先輩の持っていた春物のコートを見て、おかしいと思いました」
「おかしい?」
「はい。先輩の裁縫はいつも完璧に近いのに、あのコートは不出来でした。袖山の小さな縫い目の歪み。裾の表地も少したるんでいて、裏地が短すぎて引っ張られたみたいでした」
桜の瞳が、ほんの一瞬だけ細くなった。それは驚きではなく、どこか記憶を探るような仕草だった。
糸島は息を整えて続ける。
「その時は、ただ珍しいなと思っただけでした。でも——」
机の上に置いたスマートフォンを軽く叩く。
「後で大野先輩の昔の作品を見る機会があって、気づいたんです。あのコートは大野先輩が昔作ったものだって」
「どういうこと?」
「ミスの仕方が、まったく同じでした。つまり、あのコートは大野先輩の作品で、桜先輩のサイズに合わせて大野先輩が仕立てたものです」
桜は何も言わず、ゆっくりと窓の方に視線を向けた。その光の中で、彼女の横顔はひどく淡く見えた。
糸島は小さく息を呑んだ。
「大野先輩のこと、好きだったんですよね」
桜は目を閉じた。
しばらくの沈黙。
やがて、吐息のような声で「どうしてそう思うの」と問うた。
「あの不出来なコートを、先輩はもう二年も着ているからです」
蝉の声が遠くで鳴き続けている。
「大野先輩が三年生のときには、既にユキ先輩と付き合っていたって聞きました。彼女がいるのに、他の女の人に服を手作りしてプレゼントするなんて、ちょっと考えにくい。だからあのコートは、大野先輩が二年生で、桜先輩が一年生のときに作られたんだと思います。つまり、あの不出来なコートを、先輩は二年もずっと着続けているんです」
糸島の言葉が終わると、部屋の空気が少しだけ重くなった。
桜は腕をほどき、机の上に両手を置いた。その指先は、白くて、少し震えていた。
「あまり他人の恋愛事情を詮索するものじゃないわよ」
そう言って、桜は小さく笑った。その笑みには、怒りも驚きもなかった。
ただ、どこかで遠くを見つめるような、寂しさがあった。糸島はその表情を見て、胸が少し痛んだ。けれども、言葉を引っ込めるわけにはいかなかった。
「大野先輩にはユキ先輩がいました。だから、想いは叶わないって、きっとわかっていたんですよね。でも、それでも何かが欲しかった。彼が残したものの中で、いちばん特別なものを。そしてドレスの偽物を作って本物と入れ替える計画を思いついた」
糸島の声はやわらかく、それでいて、どこか確信めいていた。
桜は椅子の背に手を置いた。その手が光に透け、白く細く見えた。
「型紙通りに、春休みから少しずつ時間をかけて縫っていき、数か月かけて本物と瓜二つのドレスを完成させた。それから、本物を持ち出して――先輩のドレスを代わりに置いた」
部屋の中が静まり返った。
桜は、何も言わない。ただ、視線を落としたまま、唇をかすかに動かした。
「先輩のドレスは、本物みたいでした」
糸島は机の上の布に目を落とした。
「でも、ひとつだけ違ってた。ピオニーの刺繍です」
「刺繍?」
桜の肩が、ほんの少しだけ揺れた。
「花びらの縁の糸の流れが、ほんの少し乱れていました。よく見ないと気づかないくらい。でも、光が当たるとわかるんです。本物の刺繍は、もっと自然だった」
糸島の声は、どこか優しかった。
桜は、長い沈黙のあとで、ようやく口を開いた。その声は、かすかに震えていたが、不思議と穏やかでもあった。
「彼は、極端な人だったの」
桜は、窓の向こうの光を見つめるように言った。
「ときどき驚くほど不出来なものを作るのに、次の瞬間には息をのむような傑作を仕上げてしまう。そういう人だった。きっと、魂がこもっているものは、自然と出来が良くなるのね」
彼女は、そっと微笑んだ。けれどその笑みはどこか遠く、懐かしさと痛みが混じっていた。
「きっと私のコートには、魂なんて込められていなかったの。それでも嬉しかった」
桜の声が、少しだけ掠れた。
「深い理由なんてなかったと思う。ただ、女性用のコートを作る中で、たまたまサイズを測る相手が必要で、そこに私がいた。ただそれだけ。でもね、彼は仕上げたコートを、完成したその日に私に渡してくれたの」
「そうだったんですね」
指先が机の縁をなぞる。その動きは、まるで過去の記憶に触れているかのようだった。
「大野先輩には、ユキ先輩という完璧な恋人がいた」
桜はゆっくり言葉を続けた。
「だから、どうしても欲しかった。叶わぬ恋と分かっていたから。せめて彼の最高傑作を、ウエディングドレスという特別な服を、自分の手の届くところに置いておきたかったの。ばかみたいでしょう?」
「そんなことは……」
声が、ほとんど囁きのように小さくなった。
「入れ替えてから、二週間。誰も気づかなかった。誰も、疑いもしなかった」
桜は、淡く笑った。
「バレるはずがないと思ってたわ。自分の腕には、それなりに自信があったし……ね」
風が吹き抜け、机の上の糸束がふわりと揺れた。
「……なんで、私だとわかったの?」
桜の声は静かだった。けれど、ほんのわずかに震えていた。
糸島は、まっすぐに彼女を見つめた。
「――トルソーの傷です」
「傷?」桜の眉がかすかに動いた。
「羽毛田先生が仰ってました。ウエディングドレスを展示するとき、先生と桜先輩の二人でトルソーに着せたって。そのとき、見たんですよね。トルソーの細い切り傷を」
桜のまつ毛が、わずかに揺れた。
息をするような小さな沈黙が、二人のあいだを流れる。
「先輩はドレスを入れ替えるとき、トルソーごと入れ替えた。入学してすぐに撮った写真と見比べて、台座の形が少し違っていたので分かりました」
糸島の声は、淡々としているようでいて、どこか痛みを含んでいた。
「でも、変なんです。トルソーが入れ替わっているのに、あの傷はそのままだったんです」
桜が、そっと視線を伏せた。
光がカーテンの隙間から差し込み、彼女の頬をやわらかく照らした。
「新しいトルソーには、最初その傷はなかったんです。けれど――もし傷がなくなっていたら、誰かが入れ替わりに気づいてしまうかもしれない。だから、犯人は同じ場所に、同じ形の傷をつけた。まるで、前のものをそのまま再現するように」
糸島の声が静かに落ちた。
桜はふっと笑った。
「すごいわね、糸島さん。よくそこまで気づいたわ」
「これ、決定的な証拠なんです」
糸島は言葉を継いだ。
「なぜなら、古いトルソーに傷がついていたことを知っているのは、羽毛田先生と桜先輩だけなので――」
「先生がそんなことをするわけない。だから私?」
桜の声は穏やかだった。まるですべてを受け入れているような響きだった。
「ええ」糸島は静かに頷いた。
「先生には偽物のドレスは作れません。縫製が上手すぎるからです。先生が作れば、一目で本物と区別がつかないほど美しくなってしまう。完璧な作品は、偽物にはなれないんです」
桜はその言葉を聞いて、小さく息を吐いた。
「……なるほどね」
その声には、少しだけ寂しさが混じっていた。
しばらくの沈黙のあと、糸島が問いかけた。
「――なぜ、切り裂いたんですか?」
桜の肩が、かすかに揺れた。答えを探すように、視線が宙をさまよった。
吉岡が鍵を閉め忘れた、あの日。
桜は忘れ物を取りに、夕方の実習室へ向かっていた。廊下の突き当たり、ドアの隙間から白い光がこぼれている。吉岡は電気まで消し忘れていたのだ。
「誰か、まだ残ってるのかしら」と苦笑しながら扉を開けると、そこには誰もいなかった。
ミシンの匂いと、糸くずの散らばった床。その真ん中に、トルソーが静かに立っていた。自分が縫い上げた、偽物のウエディングドレスを纏って。
思わず足が止まった。
偽物のドレス。どれほど似せたところで、刺繍の深みも、針の迷いも、彼の手の跡には敵わない。
大野先輩が作った、完璧な作品。そして、そのドレスを纏ったのはユキ先輩。彼に選ばれた人。彼の針の温もりを、いちばん近くで感じられる人。
あまりにも、惨めだった。
彼が作った本物のドレス。その模様も糸の色も、すべてを盗み見て、そっくりに縫った。まるで呪いのように、ひと針ずつ。
でも――それは、他人のためのドレスだった。
自分のために作られたものじゃない。
自分が着るためのものでも、祝福されるためのものでもない。最初から、何もかもが他人のものだった。
そのことに、いまさら気づいた。
そして、気づいた瞬間に、心の奥底から、沸き上がるような屈辱が襲ってきた。
どうしてこんなことをしてしまったんだろう。
どうして、自分をこんなにも安くしてしまったんだろう。
嫉妬なんて、もっと上品に隠せばよかった。それを、こんなに露骨に、形にしてしまうなんて。
「最低だ……」
小さく、呟いた声は震えていた。
涙が出そうだったけれど、出なかった。
泣くより先に、身体の奥から込み上げるのは――怒りだった。
彼への怒り。
そして、ユキ先輩への怒り。
でも一番強かったのは、自分への嫌悪だった。
桜は、ゆっくりとトルソーに近づいた。ライトに照らされて、オレンジのドレスがぼんやりと輝いている。
「こんなの……」
そう言いながら、机の上に置かれていたカッターに手を伸ばした。怒りと羞恥と後悔が混ざり合って、どこにも出口がなかった。気づいたときには、もう布を裂いていた。
オレンジの布が、乱暴に、無惨に崩れていく。
カッターを握る手が震え、床には、切り刻まれた布が散乱していた。
暫くしてから、喉の奥で渦を巻くような後悔が桜を襲った。
「どうしよう……」
誰に謝ればいいのかも分からなかった。
発覚するのが怖かった。
でもそれ以上に――彼のドレスを盗み、自分の作った偽物を置いたことを知られるのが、恐ろしかった。
そんな女だと、知られるのが。――大野先輩に、軽蔑されるのが。
慌ててトルソーに傷をつけた。わざと、前のものと同じ位置に。誰にも気づかれないように、完璧に。せめて偽物のドレスだと、悟られないように。
桜は、カーテン越しに差し込む午後の光を見つめたまま、ゆっくりと続けた。
「恋って、精神病みたいね」
かすかに笑って、桜は自分の胸に手を当てた。
「おかしくなっちゃうのよ。ほんとに」
その横顔は、泣いているようにも、微笑んでいるようにも見えた。
「そんなことはないよ」
――背後から、静かな声がした。
桜はびくりと肩を震わせた。
振り向くと、実習室の入り口に大野先輩が立っていた。蛍光灯の白い光に照らされて、彼の影が床に長く伸びている。
胸が一瞬で凍りついた。
「……先輩」
声が掠れた。
逃げなきゃ、と思った。けれど、足が動かなかった。
膝の力が抜け、ただ立っているだけで精一杯だった。
大野はゆっくりと部屋に入ってきた。
桜の傍らに散らばる、切り裂かれたドレスを見下ろして、小さく息を吐いた。その表情には怒りも軽蔑もなく、ただ、深い疲れのようなものが滲んでいた。
「俺も、君に謝らなきゃならないことがある」
桜はその言葉の意味がわからず、ただ震えていた。
謝る? 彼が? 何を?
糸島には、その瞬間、すべてが見えた。
このあと彼が何を言うのか、どんな真実がこの場を壊してしまうのか。
――「言うな」心の中で、必死にそう呟いた。
それを桜に告げるのは、あまりにも残酷だったから。
けれど大野は、躊躇わなかった。沈黙のあと、静かに言葉を紡いだ。
「……あのドレスは、俺が作ったものじゃないんだ」
時間が止まったようだった。
桜は、瞬きを忘れたまま、彼の顔を見ていた。
唇がわずかに動いたが、声にならなかった。
「その――ユキが作ったんだ。グランプリを獲ったから、もう引き返せなくて……言えなかった」
糸島が息を呑んだ。
桜の表情から、血の気が引いていくのが見えた。
指先がかすかに震えていた。
「俺に裁縫の才能がないことは、分かってたよ。たまに褒められた作品もあったけど……実はそれも全部、ユキが作っていたんだ」
彼の声は、自嘲のように低かった。
「なぜならユキは――」
その続きを言う前に、糸島がそっと口を開いた。
「……橘正二さんのアトリエ〈Tachibana stitch works〉の門下生、ですよね」
大野は驚いたように彼女を見た。
「君は?」
「手芸部の一年、糸島綾です」
糸島は穏やかに、けれど確信のある声で続けた。
「実は、橘正二さんの息子さんがうちの部にいまして。何度かご自宅に伺ったときに、門下生の名簿を見たんです。その中に――ユキ先輩の名前がありました」
大野は、短く「そうか」とだけ答えた。
その顔には、どこか諦めの色が浮かんでいた。
「ユキ先輩、部活は中学まででしたけど、高校ではもっと本格的に技術を磨いていたみたいですね。ソーイング界のレジェンドのもとで」
糸島の言葉に、大野は視線を落とした。
バツの悪そうな表情。唇を噛みしめるその姿が、かえって痛々しかった。
その間にも、桜は何も言えなかった。
声を出すという機能が、自分の中から消えていた。
――どういうこと?
頭の中で、言葉が渦を巻く。
私が、あの夜に入れ替えたドレス。
それは大野先輩の作品だと、彼が縫った最高傑作だと信じていた。
それが――彼の作品じゃなかった。
ユキ先輩の作品。彼女が作ったものを、彼が「自分のもの」として出した。
そして、私はその「嘘の上塗り」に、自分の人生を賭けた。
――なんて、滑稽なんだろう。
心が、音もなく崩れ落ちていくのが分かった。
全身の力が抜けていく。
ただ立っていることすら、難しかった。唇の端が震える。
「私、ほんとに……馬鹿だな」
その言葉のあと、しばらく誰も何も言わなかった。
糸島は目を伏せ、桜の痛みを見届けるしかできなかった。
胸の奥が熱くなった。
こんな真実、知らなければよかった。
知らなければ、桜はただ「恋に敗れた」だけで済んだのに。桜の頭の中では、過去のすべての記憶が、ぐるぐると回っていた。
負けた。
女としても、縫い手としても完敗だった。
足元に広がる、裂かれたドレスの切れ端を見下ろす。それがまるで、自分の心の断片のように見えた。
涙の跡が乾ききらない頬を、風がやさしく撫でていく。
やっと呼吸を整えるように小さく息を吐くと、桜は静かに顔を上げた。
「……大野先輩」
か細い声だった。けれど、その声には、確かな落ち着きが戻っていた。
「本当に、すみませんでした」
そう言って深く頭を下げた。
肩が震えているのが見えたが、その姿にはもう、先ほどまでの混乱はなかった。ただ、すべてを受け入れた静けさがあった。
大野は少しの間、何も言わなかった。視線を落としたまま、桜の謝罪を黙って受け止めているようだった。
やがて、彼は小さく頷いた。
「ありがとう。話してくれて」
その言葉に桜は、ようやく微笑んだ。儚く、けれど確かに笑っていた。
「本物のドレス、うちにあります。傷一つないまま、ちゃんと保管してました」
「……」
「すぐに送ります。先輩の家に」
その声には、もう涙の響きはなかった。ただ、すべてを終わらせようとする穏やかさがあった。
糸島は、桜が許せなかった。彼女のしたことは、明らかに間違っている。ドレスを盗み、偽物を置き、嘘をつき通した。そして、結果的に多くの人を巻き込んだ。
でも、桜を裁くことは、できなかった。
この出来事を、誰かに話す気もなかった。自分と、桜先輩と、大野先輩だけの秘密にしておくべきだ。
それがいちばん穏やかな終わり方だと思った。
校門を出るころには、空は淡い茜色に染まっていた。
夏の終わりの匂い。桜は少しうつむきながら歩いていた。どこか疲れているようでもあり、何かから解放されたようでもあった。
「糸島さん」
「はい」
「私、もう手芸部の部長を引退しようと思うの」
糸島は歩みを止めた。
「……引退、ですか」
「うん。受験もあるし、もうみんなに合わせる顔がないの」
「そんな……」
「大丈夫。湯川くんもきっと納得してくれると思う」
桜は、そう言って微笑んだ。
しばらく無言で並んで歩く。夕方の商店街に差し込む西日が、二人の影を細長く伸ばしていた。
「ねえ、糸島さん」
桜がふいに言った。
「少し寄っていかない?」
「え?」
「おいしいタルトのお店があるの。ここの近くに」
桜の声はどこか遠く、でも確かに穏やかだった。糸島はその横顔を見つめながら、思った。
人は失ったものの形を探して、何かを作るのかもしれない。あるいは、作ることでしか自分を保てないのかもしれない。
記憶も恋も、輪郭はすぐに薄れていく。だからこそ、人は明確な形を求める。
やはり、人生は決して「無色の糸の束」などではないのだ。
夏休みが明けた。あの濃密で、どこか苦い時間が終わったのだ。
蝉の声が遠のき、代わりに赤とんぼが校庭を横切るようになった。朝の空気はひんやりしていて、陽ざしの角度も少し変わった気がした。
長野の秋は、いつも駆け足でやってくる。
糸島が登校すると、校門のそばに金木犀の香りがほのかに漂っていた。ふと立ち止まって深呼吸をする。あの夏の熱気が、ほんの少し懐かしく思えた。
桜が引退したのは、数週間前のことだった。そのとき彼女は、穏やかな笑顔で部員たちを見渡し「これからは、あなたたちの部活にしていってね」と言った。
同時に、湯川も手芸部を去った。彼は桜の引退を聞いたその日に、顧問に退部届を出していた。
手芸部は新体制になる。
桜も湯川もいない実習室は、少し空虚に感じられた。でもすぐに、その空気は新しい形で満たされていった。
新しい部長は、牛針。彼女は桜に強いあこがれを抱いていた。
牛針が部長になってからの手芸部は、少しずつ変わった。作業台が整理され、作品管理のノートが新しくなり、「今日のひと針日記」という記録帳まで用意された。
部員がそれぞれ、その日の作業や気づきを書き込む。
糸島は、初めてのページにこう書いた。
――秋の風が冷たくなってきた。糸が手に触れるたびに、夏の名残が遠ざかる。
そして迎えた、文化祭の朝。体育館の外では吹奏楽部の音合わせが響き、模擬店のテントからは、早くも焼きそばの香りが漂っていた。校舎全体が、どこか浮き立つような熱気を帯びていた。
手芸部の展示室は、家庭科棟の二階にある和室だ。障子越しの光が柔らかく差し込み、畳の上には部員たちの作品が丁寧に並べられていた。
入口には手書きの看板――「縫い目のむこう側」
牛針が考えたテーマだ。
「ただの縫い物じゃなくて、作った人の気持ちも伝わる展示にしたいの」
そう言って、彼女は何度もレイアウトを組み直していた。
展示室の中央には、桜の最後の作品――淡いグレーのイブニングドレスが置かれていた。小さなタグに「旧部長制作」とだけ記されている。誰もがそれ以上の説明を求めなかった。
午後になると、窓の外の空が薄金色に変わり始めた。
通り抜ける風が涼しくて、カーテンの裾がそよいだ。展示の合間に、牛針がポットにお茶を淹れてくれた。
「みんな、おつかれさま。あたたかいの飲んでね」
その声がやわらかく響く。
糸島は、障子越しの光の中で、展示された作品を見つめた。
――ドレス引き裂き事件の犯人のことは、誰も知らない。
それでいい。
時間は静かに流れ、少しずつ記憶の輪郭を薄めていく。でも、縫い目だけは残る。誰かの想いが通ったその跡は、たとえ年月が過ぎても消えない。
放課後、文化祭の片づけが終わるころ、糸島は窓辺に立ち、外の夕焼けを眺めていた。
校庭の端に、赤とんぼが群れをなし、風が稲の匂いを運んでくる。
「糸島」
背後から、夏樹が声をかけた。
「なに見てるの?」
「秋、だなって」
「なんだそれ」
夏樹は苦笑した。
あおいも近づいてきて、三人で並んで外を見た。
「来年は、どんな作品つくる?」と夏樹が言う。
「まだ決めてないけど、でも、誰かの心に残るものがいい」
放送部のアナウンスが流れ、文化祭の閉会が告げられた。歓声が上がり、廊下の向こうから拍手が聞こえてくる。
校庭の彼方で、赤く沈む太陽が、まるで一枚の布の端を、そっとかがっているように見えた。
スターバックスの窓際の席に、あおいと糸島が並んで座っていた。
コーヒーの香りが、ゆるやかに空気を満たしている。店内はほどよくにぎやかで、大学生らしきグループの笑い声が奥から聞こえてくる。
糸島は、トールサイズのカフェラテを両手で包むように持ちながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
外の歩道には、小学生の一団がランドセルを揺らして歩いている。
「ねえ、あれ」
糸島が小さく声を上げた。
「ん?」
あおいが視線を向ける。
「いちばん後ろの子のシャツ、たぶん手作りだよ」
あおいは目を細めて外を見た。
背の低い男の子が、白地に青いストライプのシャツを着ている。よく見ると、肩の縫い目のラインが少し不ぞろいで、裾のステッチも市販品ほど整っていない。けれど、その不完全さが妙にあたたかく見えた。
「なんでわかるの?」
「袖の布、よく見るとちょっと色が違う。たぶん、別の服から取ったんだと思う。あと、ボタンが全部ちがう形。あれ、家にある余りボタン使ってる」
「そんなの、よく気づくね」
あおいは笑いながらストローを回した。
「でも確かに、言われてみるとそうかも。リメイクってやつ?」
「うん。たぶん、お母さんが作ったのかもね。ほら、布の端のほつれ方が家庭用ミシンっぽいし」
糸島は言いながら、少し微笑んだ。
その横顔は、手芸部のときの真剣な表情とも違って、どこかやわらかい。
あおいはその横顔を眺めながら、ふとつぶやくように言った。
「綾ってさ、そうやって観察してるとき、いきいきしてるよね」
糸島は目を瞬かせた。
「え?」
「なんか、糸を見る目っていうの? 普通の人がただの布にしか見えないものから、物語を見つける感じ。『小さなことにこそ真実が宿る』って言うじゃない。あれ、手芸にも通じてる気がするんだよね」
糸島はしばらく考えるように黙っていた。
それから、指先でカップのふちをなぞりながら言った。
「ミース・ファン・デル・ローエの言葉ね」
「それそれ」
あおいが笑う。
糸島もつられて微笑む。
「でもほんと、あの子の服を見たときに思ったんだ。――たぶん、作った人は『直したい』じゃなくて、『生かしたい』と思ったんだろうなって。破れたところを隠すんじゃなくて、別の布を重ねて、新しい形にしてあげた。そういうの、すごく好き」
あおいはその言葉に、すこし息をのんだ。
窓の外では、さっきの男の子が角を曲がって見えなくなるところだった。
カップの中のミルクフォームが静かに泡を弾けさせる音がした。
「黒い糸の手紙もそうだけど、糸って、弱そうに見えて、すごく強いんだよ。人の言葉や想いよりも、長く残ることもある」
糸島はふと、自分の指先を見つめた。
針を持つときのように、心の奥に小さな静けさが生まれる。
誰かの想いも、過去の記憶も、見えない糸のようにこの世界に張りめぐらされている。
悲涙の黒も、個我の緑も、恋慕のオレンジも。
その全部があって、ようやく一枚の布になる。今日もまた、ひとすじの糸を結びながら、生きていくのだ。
糸島はカップを傾け、残りのフラペチーノを飲み干した。
