夏休みに入った。
手芸部の活動も一旦区切りとなり、それぞれが自分の作品を家で仕上げる期間に入っている。 真夏の光が、白い壁に反射していた。駅から夏樹の家までの道は、遠くにかすむほど陽炎が立っている。アスファルトの上では蝉の声が波のように押し寄せ、風が吹くたびに庭木の葉がきらきらと裏返った。
あおいは肩にかけたトートバッグを持ち直し、「もう溶けそう」とつぶやいた。
糸島は日傘の影からあおいの後ろ姿を見つめていた。白いシャツの背中が、汗で少し透けている。
「着いた」
夏樹が出迎え、木製の門扉を開けた。
玄関を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んだ。レモンミントの香りが微かにする。すると、奥の部屋から低く落ち着いた声が響いた。
「おや、夏樹。お客さんか」
現れたのは橘正二——ソーイング界のレジェンド。雑誌の表紙で何度も見たその顔が、目の前にある。糸島もあおいも思わず姿勢を正した。
「こ、こんにちは。糸島です」
「同じ手芸部の、水橋です」
正二は穏やかな笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
「息子がいつもお世話になっているようで。この部屋は自由に使ってください」
声は柔らかく、しかしその奥に、どこか距離を感じさせた。まるで完璧に縫われたステッチのように、隙のない人。
夏樹は無言のまま、靴を揃え、二人を手招きした。
「こっち」
階段を上がりながら、あおいが小声で言う。
「いいお父様じゃない」
すると夏樹は足を止め、短く息を吐いた。
「……あの人は仕事だけ」
あおいと糸島は顔を見合わせる。
「俺は一度も縫製について教わったことはない。ただ、学べる環境が整っていただけ。スキルとかは全部、自分で身につけた。でも俺がどんなに頑張っても、全部あの人の手柄になる。『橘正二の指導がいい』『橘正二の技術を受け継いでいる』って。もううんざりだ」
その言葉には、乾いた夏の空気よりも重い熱があった。
糸島は、何も言えなかった。尊敬と反発、その狭間で苦しむ彼の背中が痛いほど伝わってきた。
作業部屋に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
それぞれが持ち寄った生地を広げる。
「とりあえず麦茶でも?」
夏樹は冷蔵庫から麦茶を取り出し、氷の入ったグラスに注いだ。グラスの表面に水滴がつたう。糸島はその小さな光の粒を目で追った。
少し落ち着いたところで、夏樹が腕を組んで言う。
「じゃ、各自報告を」
あおいが眉を上げた。
「なんであんたが仕切ってんのよ」
文化祭の展示品を作る傍ら、三人は各々ドレス切り裂き事件について調べていたのだ。
糸島はデニムのワンピースの布を広げ、型紙を置いた。あおいはボックスプリーツスカートの布端をアイロンで押さえ、夏樹はトレンチコートの袖をしつけ縫いしている。
ミシンの音が交互に鳴り、窓の外では蝉が鳴いている。
「じゃあまず私から。羽毛田先生に、いろいろ聞いてきたの」
糸島がメジャーを巻き取りながら言った。
「大野先輩のドレスがグランプリを獲得して、展示されることになったときウエディングドレスは羽毛田先生と桜先輩が、実習室にあったトルソーに二人で着せたらしい。そのときにね、トルソーに切り傷があるのを見つけたんだって。ドレスで隠れるから特に気にせずそのまま着せたみたい」
糸島は一息つき、手元の布に目を落とした。
「だからあのトルソーの傷は、この間の事件でつけられたものじゃない」
「なるほど」
あおいが手を打った。
「だからトルソーにはあの傷一本だけだったんだね。犯人は、トルソーに傷がつくほど強く刃を押しあてたわけじゃない。つまり、あの傷は——事件とは無関係」
「そういうこと」
糸島は軽くうなずいた。ミシン台の上で、針が小さく光る。
「あのトルソーにドレスを着せたとき、すでに傷があった。そして今も、同じ場所にその傷が残っている……。ということは俺たちが入学した時からトルソーは変わっていない。入れ替わったのは、ドレスだけってことか」
あおいは腕を組んだまま、黙って考え込んでいた。
「次、俺の番かな」
夏樹がコップを軽く持ち上げ、息を吐いた。
窓の外では、風にあおられた洗濯物がはためいている。真夏の午後、光は強く、影は濃かった。
「大野先輩の昔の作品、他にもいくつか見せてもらった。結論から言うと——出来にすごいムラがある」
「ムラ?」とあおい。
「うん。欠点が多い作品もあれば、驚くほど完成度の高いものもある。たとえばジャージ素材のラップドレス。あれは見事だった。縫い目もきれいで、ラインも自然。動きに合わせて柔らかく揺れる。でも、そのすぐ横にあったシャツワンピースなんて、柄合わせが全然できてない。襟の幅が違うし、ボタンの位置もズレてた」
夏樹は布の切れ端を指先でつまみながら言葉を続けた。
「つまり、大野先輩の作品は——まるで二人の人間が作ってるみたいに、出来のいいものと悪いもの、極端に分かれてる」
静寂が落ちた。
ミシンのコードの上に落ちた陽射しが、ゆっくりと伸びていく。
「それで、湯川先輩に訊いてみたんだ」
「湯川先輩に?」と糸島。
夏樹はうなずいた。
「ああ。あのオレンジ色のウエディングドレスについて。湯川先輩曰く——あれは実習室で作られたものじゃない。みんなの前で縫っていたわけじゃなくて、大野先輩はいつも家で作業していたらしい」
「家で……?」
糸島の声がかすかに揺れた。
「だから、実際に大野先輩があのドレスを縫っている姿を見た人はいないんだ」
夏樹の声には、どこか乾いた響きがあった。
「もし、誰かほかの人が代わりに作っていたとしても、誰も気づかない。ただし、その人物は手芸部の人間ではない」
「どうして?」とあおい。
「だって、大野先輩が家に持ち帰って作業していた時間、他の部員は全員、実習室にいたんだ。同時に二つの場所で作業するなんて、物理的に不可能だろう? 自分の作品で手一杯だろうし」
風が一度、カーテンを持ち上げて、ふわりと机の上を撫でた。
「最後は私ね」と、あおいが口を開いた。
「私が調べたのは、大野先輩の彼女——ユキ先輩のこと。二人は同じ中学出身で、付き合い始めたのは二年生の終わり頃だったみたい。で、同じ中学の牛針先輩が言うには、ユキ先輩も中学までは手芸部にいたんだって。高校に入ってからは弓道部に移ったらしいけど」
糸島が少し身を乗り出す。
「じゃあ、もしかして……ユキ先輩が大野先輩の代わりに、あのドレスを作ってた可能性もあるってこと?」
あおいはうなずいた。
「うん。あくまで可能性のひとつだけどね。家で作業してたのも、そう考えれば辻褄が合うし」
夏樹が小さく息をついた。
「でも、中学で手芸をやめた人間に、あの完成度のドレスが作れるかって言われたら、ちょっと考えにくいな」
「ああ、それはそうかも」
あおいは視線を伏せた。
「それと、二人は大学に進学してからも遠距離で付き合ってたらしいけど、最近別れたんだって。理由は分からないけど」
「へえ」
あおいはボックスプリーツの幅を微調整し、糸島はデニムの厚地にアイロンを当てる。布が焼けるような甘い匂いが部屋にこもり、真夏の午後の熱気がゆるやかに流れていた。
蝉の声が遠くに聞こえる。扇風機の風が、縫い上げた布端を揺らす。
「そういえば、ケーキあるけど食うか?」
沈黙を断ち切るように、夏樹が言った。
糸島が顔を上げるより早く、あおいが弾んだ声をあげる。
「ケーキ!?」
夏樹が無言で冷蔵庫から白い箱を取り出す。ふたを開けると、きちんと並んだ三つのケーキが現れた。ショートケーキ、チーズタルト、そしてチョコレートムース。
フォークが皿にあたる音が、ミシンのリズムと重なる。
食べ終わると、三人はまたそれぞれの作業に戻った。夏樹は無言でミシンを踏み続けていた。糸島がそっと横目で見ると、針目はまっすぐで、ステッチの間隔も完璧だった。
ぶっきらぼうな性格からは想像できないほど、丁寧で緻密な仕事ぶりだ。時間が経つにつれて、形が少しずつ姿を現していく。
そして夕方、最後のボタンを縫い終えたとき、彼の手が止まった。
「――できた」
低く静かな声。
机の上には、一着のトレンチコートが広がっていた。淡いベージュの生地が光を受け、まるで息をしているように見えた。
あおいが思わず感嘆の声をもらす。
「すごい。既製品みたい」
夏樹は肩をすくめただけで、何も言わなかった。けれどその横顔には、ほんの少しだけ満足の色があった。
糸島は休憩がてら、机の脇に積まれた古い帳簿を何気なくめくる。「橘ソーイングアトリエ門下生記録」や「受講者名簿」といったラベルが貼られている。
ふとページをめくる指先が止まった。――糸島はそっと帳簿を閉じた。
画面の中で、試合が延長に入る。灼けるようなグラウンドに、白球が高く舞い上がった。
窓の外では、入道雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていた。
甲子園スタンドでは応援団が一糸乱れぬリズムで太鼓を叩き、アルプス席の歓声が波のように押し寄せる。ピッチャーが投げるたび、実況が熱を帯びる声で言う。
「ストレート、外角ギリギリ!」
汗に濡れた選手たちの顔が一瞬映る。真剣で、苦しくて、でも少し羨ましい。糸島はアイスコーヒーの氷をカランと鳴らした。
糸島は勉強が得意だった。教科書の内容は一度読めばほとんど覚えられたし、課題も早めに片づけてしまうタイプだ。
裁縫も同じだった。
いったん頭の中で構想ができあがれば、手を動かすのは早い。布を裁ち、しつけ糸を通し、縫い目を整える――その一連の作業が、彼女にとっては呼吸のように自然なことだった。
だから、夏休みの前半には、文化祭に出す予定のデニムのワンピースもほぼ仕上がっていて、特にすることがなかった。
「あ、そういえば」
ふと思い出した。そういえば夏休みの間に大野先輩が、あの破れたドレスを引き取りに来るんだった。
確か、日付は——。カレンダーに目をやる。
今週の金曜日。明後日だ。
見られなくなる前に、もう一度、あのドレスを確認したい。
糸島はスマートフォンを手に取り、あおいにメッセージを送った。
すぐに返信が返ってくる。〈ごめん!明日から家族で新潟に行くの〉
そう書かれた文字の軽やかさが、少しだけ遠く感じた。
糸島は次に、夏樹へ連絡した。〈明日、実習室行ける?〉
〈行ける。十時でいい?〉
いつも通りのそっけない返事。けれど、それがどこか心強かった。
翌日。
朝から蝉が鳴いている。
糸島が校門に着くと、夏樹はすでにベンチに腰を下ろしていた。白いシャツの袖をまくり上げ、ペットボトルの麦茶を傾けている。
「早いね」と糸島が言うと、夏樹は軽く肩をすくめた。
「暑くて家にいられなかった」
「外の方が暑いよ」
鍵を借り、実習室の扉を開けると、もわっとした空気が二人を包んだ。誰もいない広い部屋。窓のブラインド越しに、真夏の光が淡く差し込む。ドレスは、部屋の奥、外に出すために壁際に移動されていた。
かつて華やかなオレンジを放っていた布は、いまや見る影もない。幾重にも裂かれた生地が無残に垂れ下がり、裾は埃をかぶっていた。
——ふと言葉にならない思考が、喉の奥でからまった。
そして次の瞬間、糸島ははっと顔を上げ、思わず息を呑んだ。
「……あっ」
「どうした?」と夏樹。
「トルソーが、違う」
糸島は膝をつき、トルソーの脚の部分を指差した。
「ここ。台座の形が丸じゃなくて、角ばってる」
糸島は慌ててスマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。入学して間もない頃に撮った一枚――入れ替わる前のドレスが、当時の実習室に飾られている写真。
画面を拡大して、糸島は思わず息をのんだ。
「ほんとだ……たしかに違うな」
夏樹は腕を組み、少し黙りこんだ。
「ってことは、ドレスは――トルソーごと入れ替えられたってことになる」
夏樹はしばらく考え込んだあと、静かに言った。
「でもそうなると、おかしな点が一つある」
「そうね」
「あのトルソーにあった切り傷。あれは事件の前からついていた傷だったはずだろ? でももしトルソーごと入れ替えたなら、その傷が、今も残ってるのはおかしい」
その瞬間、糸島の脳裏に何かが閃いた。
「そうか……」
声が漏れる。胸の奥がきゅっと縮むような感覚。
「夏樹くん……私、犯人、分かったかも」
空は夏の匂いを孕みながら、ゆっくりと暗くなっていった。
「シャネルドレス窃盗事件」を解決した「中佐都中の糸島」はもう卒業したのだと、自分に言い聞かせてきた。
あの出来事は、たしかに誇らしかった。
けれど、それ以上に、胸の奥を冷たくしてしまった。
賞賛の声が飛び交うたび、糸島綾は少しずつ、自分の名前が自分のものではなくなっていく気がしていた。新聞やSNSに載った文字列の中で、「糸島綾」という名は、まるで誰か別人のもののように踊っていた。
だから桐ノ宮高校に入ってからは、ひたすら針と糸に向き合いたかった。他人の秘密や罪を暴くのは、シャーロック・ホームズのような探偵の仕事だ。
他人の秘密も、誰かの心の闇も、もうほどきたくなかった。
それなのに――また、やってしまったのだ。どうしても許すことができなかった。
真実はいつだって冷たくて、誰かを傷つける。
実習室にあった銀色の針が光を受けて、一瞬だけ鋭く輝く。
それはまるで、自分の眼差しのようだった。真実を射抜くことに長けているがゆえに、誰かを傷つけてしまう、そんな眼差し。
「もう、やめよう」
声に出してみる。
その響きは小さく、けれど確かに胸の奥に沈んだ。
これからは、ただ縫うだけでいい。
真実を暴くためではなく、誰かの心の布をやさしく結び直すために。
糸島はスマートフォンを握りしめ、しばらく迷ってから、ある人物の名前をタップした。
呼び出し音が三度鳴ったところで、相手が出た。
「――あの、糸島です。突然すみません。お願いがあって。明日、大野先輩がドレスを引き取りに来るの、知ってますよね? えっと、その一時間前――十四時に、実習室に来てほしいんです」
声が少し震えていた。けれど、もう迷いはなかった。
「はい。ちょっと、確かめたいことがあるんです」
通話を終えると、糸島は小さく息を吐いた。蝉の声がいっそう強く響いていた。
外へ出ると、照りつける夏の日差しが容赦なく肌を刺した。アスファルトが白く光り、空気が揺れている。
夏樹は、校舎の陰で自転車の鍵をいじっていた。
「夏樹くん」
糸島は声をかける。
彼が顔を上げると、真剣な目をして続けた。
「ちょっと付き合ってくれる?」
夏樹は一瞬だけ糸島の表情をうかがい、黙って頷いた。
蝉の鳴き声が遠ざかり、二人の足音だけが、真夏の午後の校庭に響いた。
夏樹と糸島は、校門を出てからしばらく無言のまま歩いた。
陽炎がゆらめく舗道の向こうに、いつもの商店街のアーチが見えてくる。赤い布の日よけが並び、ガラス越しに並ぶ雑貨や果物が、夏の光を反射してきらめいていた。
二人は小さな鐘の音を鳴らして、手芸屋「みどりや」に入った。
古い木の床がきゅっと鳴る。天井の扇風機がゆっくりと回っており、カウンターの向こうで店主のおばあさんが縫い目をほどいていた。
店の奥からは、糸や布のほのかな匂い――日なたで乾いた綿と、金属のミシンの油が混ざった香りがした。
「いらっしゃい、綾ちゃん」
「こんにちは」
糸島が軽く頭を下げる。夏樹も「どうも」と小さく返した。
壁一面の棚には、整然と色分けされたミシン糸が並んでいた。白、生成り、紅、葡萄色。糸島はつい指で巻きの表面を撫でた。光沢が柔らかく、色の深みが指に伝わる。
「やっぱり、糸っていいね」
「そう?」
「うん。色がきれいだし、見てるだけで想像がふくらむの。たとえば、この淡いグレーの糸、デニムと合わせたら可愛いと思わない?」
夏樹は少し考えて、頷いた。
「トップステッチに使えば映えるな。少し太めの番手で、二本取りにしたら立体感も出る」
「そうそう、そんな感じ。やっぱり夏樹くん、すごい」
糸島は笑いながら、木箱から針のセットを手に取った。
夏樹は隣の棚でファスナーを見ていた。色、長さ、素材――一見同じようで、どれも微妙に違う。
「俺は最近、金属ファスナーの音が好きなんだ」
「音?」
「うん。閉めるときの、ちょっと硬い感じ。あの感触が、服に重みを与える気がする」
「わかる気がする。布と金属がぶつかる感じ、気持ちいいよね」
おばあさんが麦茶を出してくれた。グラスの表面に水滴がついている。
「ありがとうございます」
冷たい麦茶を一口飲むと、糸島の頭の中で、夏のざわめきが少し遠のく。
店の奥で、おばあさんがラジオのボリュームを上げると、夏の高校野球の実況の声が大きくなった。
「綾ちゃん、甲子園好きだったでしょ。今年はどこを応援してるの?」
「えっと、地元の高校です。初戦突破したんですよ」
「そうかい。暑いのに若い人は元気だねえ」
おばあさんは笑いながら、手元のボタンを糸で留め直している。
糸島はその指先をじっと見た。年老いても針を持つ手は、正確で、どこか美しかった。
「裁縫って、どうしてこんなに心が落ち着くんだろうね」
「たぶん、整うからじゃない? 針を入れて、糸を通して、縫い目が揃うと、世界が少しだけきれいに見える」
「……うん。そうかもしれない」
二人はそのあともしばらく、事件のことを忘れて、ただ布と糸の話をしていた。新しい生地の手触り。ステッチの太さ。ボタンの質感。
外では風鈴が鳴り、午後の光が少し傾き始めていた。
店を出ると、光はやわらかくなっていて、商店街のアスファルトの上に長い影が伸びていた。
振り返ると、「みどりや」のショーウィンドウに飾られた白いワンピースが、風に揺れていた。
糸島はその揺れをしばらく見つめていた。
八月八日。
夏の喧騒が、朝から街を覆っていた。駅前の空気には湿気がまざり、立ち止まるたびに背中を汗が伝った。
糸島は日傘をたたみ、坂道を登っていく。桐ノ宮高校の校舎は、真夏の陽射しの中で、どこか眠たげに沈黙していた。
長野の夏は、都会ほど蒸し暑くはない。それでも八月の陽射しは容赦なく、風が止むと一気に肌を焼く。
校門の前に立つと、静寂があった。
部活もほとんどが休みに入り、グラウンドの声もない。糸島は額の汗をハンカチでぬぐい、昇降口を抜けた。廊下の蛍光灯は消えたままで、窓から差し込む光が、白い床に帯を作っている。足音が、ひとつひとつ反響して、校舎の奥に吸い込まれていった。
空気は重く、湿度が肌にまとわりつく。冷房のない廊下では、ただ歩くだけで息苦しかった。実習室の前まで来ると、ドアのガラス越しに、切り裂かれたドレスが見える。
誰かが先に来ているのだろうか、と糸島は思う。
けれども、鍵はかかっていない。
羽毛田先生が、きっと午後に大野先輩へ引き渡す準備をするために、開けておいてくれたのだろう。
ドアノブに手をかけた瞬間、指先が汗で滑った。
「……暑い」
中に入ると、空気がむっとした。すぐに窓を開ける。
天窓から差し込む光が机の上に白く落ち、裁縫用の針や糸がその中で鈍く光っている。額の髪が張り付き、制服の襟がじっとりと濡れる。
糸島は机の上のペットボトルを開け、一口飲んだ。ぬるい麦茶の味。冷たいはずの飲み物が、舌の上であっという間に体温と混ざる。
そのとき、背後でドアがゆっくりと開く音がした。
「わざわざ、すみません」
静寂の中で、自分の声がやけに響いた。
夏の空気が一気に揺らぎ、窓辺のカーテンが大きくはためく。白い布が、まるで誰かの影のように、糸島の頬をかすめた。
糸島の声は、わずかに震えていた。
「桜先輩——」
振り返った瞬間、光の中に立っていたのは、淡い水色のブラウスを着た桜だった。
その微笑は、どこか曖昧で、夏の終わりを告げる風のように、静かに、そして確かに、糸島の心をかき乱した。
手芸部の活動も一旦区切りとなり、それぞれが自分の作品を家で仕上げる期間に入っている。 真夏の光が、白い壁に反射していた。駅から夏樹の家までの道は、遠くにかすむほど陽炎が立っている。アスファルトの上では蝉の声が波のように押し寄せ、風が吹くたびに庭木の葉がきらきらと裏返った。
あおいは肩にかけたトートバッグを持ち直し、「もう溶けそう」とつぶやいた。
糸島は日傘の影からあおいの後ろ姿を見つめていた。白いシャツの背中が、汗で少し透けている。
「着いた」
夏樹が出迎え、木製の門扉を開けた。
玄関を開けると、ひんやりとした空気が流れ込んだ。レモンミントの香りが微かにする。すると、奥の部屋から低く落ち着いた声が響いた。
「おや、夏樹。お客さんか」
現れたのは橘正二——ソーイング界のレジェンド。雑誌の表紙で何度も見たその顔が、目の前にある。糸島もあおいも思わず姿勢を正した。
「こ、こんにちは。糸島です」
「同じ手芸部の、水橋です」
正二は穏やかな笑みを浮かべ、軽く頭を下げた。
「息子がいつもお世話になっているようで。この部屋は自由に使ってください」
声は柔らかく、しかしその奥に、どこか距離を感じさせた。まるで完璧に縫われたステッチのように、隙のない人。
夏樹は無言のまま、靴を揃え、二人を手招きした。
「こっち」
階段を上がりながら、あおいが小声で言う。
「いいお父様じゃない」
すると夏樹は足を止め、短く息を吐いた。
「……あの人は仕事だけ」
あおいと糸島は顔を見合わせる。
「俺は一度も縫製について教わったことはない。ただ、学べる環境が整っていただけ。スキルとかは全部、自分で身につけた。でも俺がどんなに頑張っても、全部あの人の手柄になる。『橘正二の指導がいい』『橘正二の技術を受け継いでいる』って。もううんざりだ」
その言葉には、乾いた夏の空気よりも重い熱があった。
糸島は、何も言えなかった。尊敬と反発、その狭間で苦しむ彼の背中が痛いほど伝わってきた。
作業部屋に入ると、ひんやりとした空気が肌を撫でた。
それぞれが持ち寄った生地を広げる。
「とりあえず麦茶でも?」
夏樹は冷蔵庫から麦茶を取り出し、氷の入ったグラスに注いだ。グラスの表面に水滴がつたう。糸島はその小さな光の粒を目で追った。
少し落ち着いたところで、夏樹が腕を組んで言う。
「じゃ、各自報告を」
あおいが眉を上げた。
「なんであんたが仕切ってんのよ」
文化祭の展示品を作る傍ら、三人は各々ドレス切り裂き事件について調べていたのだ。
糸島はデニムのワンピースの布を広げ、型紙を置いた。あおいはボックスプリーツスカートの布端をアイロンで押さえ、夏樹はトレンチコートの袖をしつけ縫いしている。
ミシンの音が交互に鳴り、窓の外では蝉が鳴いている。
「じゃあまず私から。羽毛田先生に、いろいろ聞いてきたの」
糸島がメジャーを巻き取りながら言った。
「大野先輩のドレスがグランプリを獲得して、展示されることになったときウエディングドレスは羽毛田先生と桜先輩が、実習室にあったトルソーに二人で着せたらしい。そのときにね、トルソーに切り傷があるのを見つけたんだって。ドレスで隠れるから特に気にせずそのまま着せたみたい」
糸島は一息つき、手元の布に目を落とした。
「だからあのトルソーの傷は、この間の事件でつけられたものじゃない」
「なるほど」
あおいが手を打った。
「だからトルソーにはあの傷一本だけだったんだね。犯人は、トルソーに傷がつくほど強く刃を押しあてたわけじゃない。つまり、あの傷は——事件とは無関係」
「そういうこと」
糸島は軽くうなずいた。ミシン台の上で、針が小さく光る。
「あのトルソーにドレスを着せたとき、すでに傷があった。そして今も、同じ場所にその傷が残っている……。ということは俺たちが入学した時からトルソーは変わっていない。入れ替わったのは、ドレスだけってことか」
あおいは腕を組んだまま、黙って考え込んでいた。
「次、俺の番かな」
夏樹がコップを軽く持ち上げ、息を吐いた。
窓の外では、風にあおられた洗濯物がはためいている。真夏の午後、光は強く、影は濃かった。
「大野先輩の昔の作品、他にもいくつか見せてもらった。結論から言うと——出来にすごいムラがある」
「ムラ?」とあおい。
「うん。欠点が多い作品もあれば、驚くほど完成度の高いものもある。たとえばジャージ素材のラップドレス。あれは見事だった。縫い目もきれいで、ラインも自然。動きに合わせて柔らかく揺れる。でも、そのすぐ横にあったシャツワンピースなんて、柄合わせが全然できてない。襟の幅が違うし、ボタンの位置もズレてた」
夏樹は布の切れ端を指先でつまみながら言葉を続けた。
「つまり、大野先輩の作品は——まるで二人の人間が作ってるみたいに、出来のいいものと悪いもの、極端に分かれてる」
静寂が落ちた。
ミシンのコードの上に落ちた陽射しが、ゆっくりと伸びていく。
「それで、湯川先輩に訊いてみたんだ」
「湯川先輩に?」と糸島。
夏樹はうなずいた。
「ああ。あのオレンジ色のウエディングドレスについて。湯川先輩曰く——あれは実習室で作られたものじゃない。みんなの前で縫っていたわけじゃなくて、大野先輩はいつも家で作業していたらしい」
「家で……?」
糸島の声がかすかに揺れた。
「だから、実際に大野先輩があのドレスを縫っている姿を見た人はいないんだ」
夏樹の声には、どこか乾いた響きがあった。
「もし、誰かほかの人が代わりに作っていたとしても、誰も気づかない。ただし、その人物は手芸部の人間ではない」
「どうして?」とあおい。
「だって、大野先輩が家に持ち帰って作業していた時間、他の部員は全員、実習室にいたんだ。同時に二つの場所で作業するなんて、物理的に不可能だろう? 自分の作品で手一杯だろうし」
風が一度、カーテンを持ち上げて、ふわりと机の上を撫でた。
「最後は私ね」と、あおいが口を開いた。
「私が調べたのは、大野先輩の彼女——ユキ先輩のこと。二人は同じ中学出身で、付き合い始めたのは二年生の終わり頃だったみたい。で、同じ中学の牛針先輩が言うには、ユキ先輩も中学までは手芸部にいたんだって。高校に入ってからは弓道部に移ったらしいけど」
糸島が少し身を乗り出す。
「じゃあ、もしかして……ユキ先輩が大野先輩の代わりに、あのドレスを作ってた可能性もあるってこと?」
あおいはうなずいた。
「うん。あくまで可能性のひとつだけどね。家で作業してたのも、そう考えれば辻褄が合うし」
夏樹が小さく息をついた。
「でも、中学で手芸をやめた人間に、あの完成度のドレスが作れるかって言われたら、ちょっと考えにくいな」
「ああ、それはそうかも」
あおいは視線を伏せた。
「それと、二人は大学に進学してからも遠距離で付き合ってたらしいけど、最近別れたんだって。理由は分からないけど」
「へえ」
あおいはボックスプリーツの幅を微調整し、糸島はデニムの厚地にアイロンを当てる。布が焼けるような甘い匂いが部屋にこもり、真夏の午後の熱気がゆるやかに流れていた。
蝉の声が遠くに聞こえる。扇風機の風が、縫い上げた布端を揺らす。
「そういえば、ケーキあるけど食うか?」
沈黙を断ち切るように、夏樹が言った。
糸島が顔を上げるより早く、あおいが弾んだ声をあげる。
「ケーキ!?」
夏樹が無言で冷蔵庫から白い箱を取り出す。ふたを開けると、きちんと並んだ三つのケーキが現れた。ショートケーキ、チーズタルト、そしてチョコレートムース。
フォークが皿にあたる音が、ミシンのリズムと重なる。
食べ終わると、三人はまたそれぞれの作業に戻った。夏樹は無言でミシンを踏み続けていた。糸島がそっと横目で見ると、針目はまっすぐで、ステッチの間隔も完璧だった。
ぶっきらぼうな性格からは想像できないほど、丁寧で緻密な仕事ぶりだ。時間が経つにつれて、形が少しずつ姿を現していく。
そして夕方、最後のボタンを縫い終えたとき、彼の手が止まった。
「――できた」
低く静かな声。
机の上には、一着のトレンチコートが広がっていた。淡いベージュの生地が光を受け、まるで息をしているように見えた。
あおいが思わず感嘆の声をもらす。
「すごい。既製品みたい」
夏樹は肩をすくめただけで、何も言わなかった。けれどその横顔には、ほんの少しだけ満足の色があった。
糸島は休憩がてら、机の脇に積まれた古い帳簿を何気なくめくる。「橘ソーイングアトリエ門下生記録」や「受講者名簿」といったラベルが貼られている。
ふとページをめくる指先が止まった。――糸島はそっと帳簿を閉じた。
画面の中で、試合が延長に入る。灼けるようなグラウンドに、白球が高く舞い上がった。
窓の外では、入道雲が、ゆっくりと形を変えながら流れていた。
甲子園スタンドでは応援団が一糸乱れぬリズムで太鼓を叩き、アルプス席の歓声が波のように押し寄せる。ピッチャーが投げるたび、実況が熱を帯びる声で言う。
「ストレート、外角ギリギリ!」
汗に濡れた選手たちの顔が一瞬映る。真剣で、苦しくて、でも少し羨ましい。糸島はアイスコーヒーの氷をカランと鳴らした。
糸島は勉強が得意だった。教科書の内容は一度読めばほとんど覚えられたし、課題も早めに片づけてしまうタイプだ。
裁縫も同じだった。
いったん頭の中で構想ができあがれば、手を動かすのは早い。布を裁ち、しつけ糸を通し、縫い目を整える――その一連の作業が、彼女にとっては呼吸のように自然なことだった。
だから、夏休みの前半には、文化祭に出す予定のデニムのワンピースもほぼ仕上がっていて、特にすることがなかった。
「あ、そういえば」
ふと思い出した。そういえば夏休みの間に大野先輩が、あの破れたドレスを引き取りに来るんだった。
確か、日付は——。カレンダーに目をやる。
今週の金曜日。明後日だ。
見られなくなる前に、もう一度、あのドレスを確認したい。
糸島はスマートフォンを手に取り、あおいにメッセージを送った。
すぐに返信が返ってくる。〈ごめん!明日から家族で新潟に行くの〉
そう書かれた文字の軽やかさが、少しだけ遠く感じた。
糸島は次に、夏樹へ連絡した。〈明日、実習室行ける?〉
〈行ける。十時でいい?〉
いつも通りのそっけない返事。けれど、それがどこか心強かった。
翌日。
朝から蝉が鳴いている。
糸島が校門に着くと、夏樹はすでにベンチに腰を下ろしていた。白いシャツの袖をまくり上げ、ペットボトルの麦茶を傾けている。
「早いね」と糸島が言うと、夏樹は軽く肩をすくめた。
「暑くて家にいられなかった」
「外の方が暑いよ」
鍵を借り、実習室の扉を開けると、もわっとした空気が二人を包んだ。誰もいない広い部屋。窓のブラインド越しに、真夏の光が淡く差し込む。ドレスは、部屋の奥、外に出すために壁際に移動されていた。
かつて華やかなオレンジを放っていた布は、いまや見る影もない。幾重にも裂かれた生地が無残に垂れ下がり、裾は埃をかぶっていた。
——ふと言葉にならない思考が、喉の奥でからまった。
そして次の瞬間、糸島ははっと顔を上げ、思わず息を呑んだ。
「……あっ」
「どうした?」と夏樹。
「トルソーが、違う」
糸島は膝をつき、トルソーの脚の部分を指差した。
「ここ。台座の形が丸じゃなくて、角ばってる」
糸島は慌ててスマートフォンを取り出し、写真フォルダを開いた。入学して間もない頃に撮った一枚――入れ替わる前のドレスが、当時の実習室に飾られている写真。
画面を拡大して、糸島は思わず息をのんだ。
「ほんとだ……たしかに違うな」
夏樹は腕を組み、少し黙りこんだ。
「ってことは、ドレスは――トルソーごと入れ替えられたってことになる」
夏樹はしばらく考え込んだあと、静かに言った。
「でもそうなると、おかしな点が一つある」
「そうね」
「あのトルソーにあった切り傷。あれは事件の前からついていた傷だったはずだろ? でももしトルソーごと入れ替えたなら、その傷が、今も残ってるのはおかしい」
その瞬間、糸島の脳裏に何かが閃いた。
「そうか……」
声が漏れる。胸の奥がきゅっと縮むような感覚。
「夏樹くん……私、犯人、分かったかも」
空は夏の匂いを孕みながら、ゆっくりと暗くなっていった。
「シャネルドレス窃盗事件」を解決した「中佐都中の糸島」はもう卒業したのだと、自分に言い聞かせてきた。
あの出来事は、たしかに誇らしかった。
けれど、それ以上に、胸の奥を冷たくしてしまった。
賞賛の声が飛び交うたび、糸島綾は少しずつ、自分の名前が自分のものではなくなっていく気がしていた。新聞やSNSに載った文字列の中で、「糸島綾」という名は、まるで誰か別人のもののように踊っていた。
だから桐ノ宮高校に入ってからは、ひたすら針と糸に向き合いたかった。他人の秘密や罪を暴くのは、シャーロック・ホームズのような探偵の仕事だ。
他人の秘密も、誰かの心の闇も、もうほどきたくなかった。
それなのに――また、やってしまったのだ。どうしても許すことができなかった。
真実はいつだって冷たくて、誰かを傷つける。
実習室にあった銀色の針が光を受けて、一瞬だけ鋭く輝く。
それはまるで、自分の眼差しのようだった。真実を射抜くことに長けているがゆえに、誰かを傷つけてしまう、そんな眼差し。
「もう、やめよう」
声に出してみる。
その響きは小さく、けれど確かに胸の奥に沈んだ。
これからは、ただ縫うだけでいい。
真実を暴くためではなく、誰かの心の布をやさしく結び直すために。
糸島はスマートフォンを握りしめ、しばらく迷ってから、ある人物の名前をタップした。
呼び出し音が三度鳴ったところで、相手が出た。
「――あの、糸島です。突然すみません。お願いがあって。明日、大野先輩がドレスを引き取りに来るの、知ってますよね? えっと、その一時間前――十四時に、実習室に来てほしいんです」
声が少し震えていた。けれど、もう迷いはなかった。
「はい。ちょっと、確かめたいことがあるんです」
通話を終えると、糸島は小さく息を吐いた。蝉の声がいっそう強く響いていた。
外へ出ると、照りつける夏の日差しが容赦なく肌を刺した。アスファルトが白く光り、空気が揺れている。
夏樹は、校舎の陰で自転車の鍵をいじっていた。
「夏樹くん」
糸島は声をかける。
彼が顔を上げると、真剣な目をして続けた。
「ちょっと付き合ってくれる?」
夏樹は一瞬だけ糸島の表情をうかがい、黙って頷いた。
蝉の鳴き声が遠ざかり、二人の足音だけが、真夏の午後の校庭に響いた。
夏樹と糸島は、校門を出てからしばらく無言のまま歩いた。
陽炎がゆらめく舗道の向こうに、いつもの商店街のアーチが見えてくる。赤い布の日よけが並び、ガラス越しに並ぶ雑貨や果物が、夏の光を反射してきらめいていた。
二人は小さな鐘の音を鳴らして、手芸屋「みどりや」に入った。
古い木の床がきゅっと鳴る。天井の扇風機がゆっくりと回っており、カウンターの向こうで店主のおばあさんが縫い目をほどいていた。
店の奥からは、糸や布のほのかな匂い――日なたで乾いた綿と、金属のミシンの油が混ざった香りがした。
「いらっしゃい、綾ちゃん」
「こんにちは」
糸島が軽く頭を下げる。夏樹も「どうも」と小さく返した。
壁一面の棚には、整然と色分けされたミシン糸が並んでいた。白、生成り、紅、葡萄色。糸島はつい指で巻きの表面を撫でた。光沢が柔らかく、色の深みが指に伝わる。
「やっぱり、糸っていいね」
「そう?」
「うん。色がきれいだし、見てるだけで想像がふくらむの。たとえば、この淡いグレーの糸、デニムと合わせたら可愛いと思わない?」
夏樹は少し考えて、頷いた。
「トップステッチに使えば映えるな。少し太めの番手で、二本取りにしたら立体感も出る」
「そうそう、そんな感じ。やっぱり夏樹くん、すごい」
糸島は笑いながら、木箱から針のセットを手に取った。
夏樹は隣の棚でファスナーを見ていた。色、長さ、素材――一見同じようで、どれも微妙に違う。
「俺は最近、金属ファスナーの音が好きなんだ」
「音?」
「うん。閉めるときの、ちょっと硬い感じ。あの感触が、服に重みを与える気がする」
「わかる気がする。布と金属がぶつかる感じ、気持ちいいよね」
おばあさんが麦茶を出してくれた。グラスの表面に水滴がついている。
「ありがとうございます」
冷たい麦茶を一口飲むと、糸島の頭の中で、夏のざわめきが少し遠のく。
店の奥で、おばあさんがラジオのボリュームを上げると、夏の高校野球の実況の声が大きくなった。
「綾ちゃん、甲子園好きだったでしょ。今年はどこを応援してるの?」
「えっと、地元の高校です。初戦突破したんですよ」
「そうかい。暑いのに若い人は元気だねえ」
おばあさんは笑いながら、手元のボタンを糸で留め直している。
糸島はその指先をじっと見た。年老いても針を持つ手は、正確で、どこか美しかった。
「裁縫って、どうしてこんなに心が落ち着くんだろうね」
「たぶん、整うからじゃない? 針を入れて、糸を通して、縫い目が揃うと、世界が少しだけきれいに見える」
「……うん。そうかもしれない」
二人はそのあともしばらく、事件のことを忘れて、ただ布と糸の話をしていた。新しい生地の手触り。ステッチの太さ。ボタンの質感。
外では風鈴が鳴り、午後の光が少し傾き始めていた。
店を出ると、光はやわらかくなっていて、商店街のアスファルトの上に長い影が伸びていた。
振り返ると、「みどりや」のショーウィンドウに飾られた白いワンピースが、風に揺れていた。
糸島はその揺れをしばらく見つめていた。
八月八日。
夏の喧騒が、朝から街を覆っていた。駅前の空気には湿気がまざり、立ち止まるたびに背中を汗が伝った。
糸島は日傘をたたみ、坂道を登っていく。桐ノ宮高校の校舎は、真夏の陽射しの中で、どこか眠たげに沈黙していた。
長野の夏は、都会ほど蒸し暑くはない。それでも八月の陽射しは容赦なく、風が止むと一気に肌を焼く。
校門の前に立つと、静寂があった。
部活もほとんどが休みに入り、グラウンドの声もない。糸島は額の汗をハンカチでぬぐい、昇降口を抜けた。廊下の蛍光灯は消えたままで、窓から差し込む光が、白い床に帯を作っている。足音が、ひとつひとつ反響して、校舎の奥に吸い込まれていった。
空気は重く、湿度が肌にまとわりつく。冷房のない廊下では、ただ歩くだけで息苦しかった。実習室の前まで来ると、ドアのガラス越しに、切り裂かれたドレスが見える。
誰かが先に来ているのだろうか、と糸島は思う。
けれども、鍵はかかっていない。
羽毛田先生が、きっと午後に大野先輩へ引き渡す準備をするために、開けておいてくれたのだろう。
ドアノブに手をかけた瞬間、指先が汗で滑った。
「……暑い」
中に入ると、空気がむっとした。すぐに窓を開ける。
天窓から差し込む光が机の上に白く落ち、裁縫用の針や糸がその中で鈍く光っている。額の髪が張り付き、制服の襟がじっとりと濡れる。
糸島は机の上のペットボトルを開け、一口飲んだ。ぬるい麦茶の味。冷たいはずの飲み物が、舌の上であっという間に体温と混ざる。
そのとき、背後でドアがゆっくりと開く音がした。
「わざわざ、すみません」
静寂の中で、自分の声がやけに響いた。
夏の空気が一気に揺らぎ、窓辺のカーテンが大きくはためく。白い布が、まるで誰かの影のように、糸島の頬をかすめた。
糸島の声は、わずかに震えていた。
「桜先輩——」
振り返った瞬間、光の中に立っていたのは、淡い水色のブラウスを着た桜だった。
その微笑は、どこか曖昧で、夏の終わりを告げる風のように、静かに、そして確かに、糸島の心をかき乱した。
