手芸部糸島の推理

 実習室には低いアイロンの唸りと、ミシンのリズムが重なっていた。
 糸島はその光をぼんやりと見つめながら、手を止めた。文化祭まで、あと二か月。手芸部はそれぞれ、自分の作品づくりに没頭していた。
 事件のことを、誰も口に出さなかった。けれど、どこか張りつめたような沈黙が、部室の奥底に残っていた。その沈黙を埋めるように、誰もが布と糸に向かっていた。
 桜は、淡いグレーのタフタ生地を机いっぱいに広げていた。生地の表面は光を受けて、静かに水面のように揺れている。作っているのは、シンプルで、けれど息をのむほど上品なイブニングドレスだった。ハイウエストで、背中の飾りボタンが長く連なるデザイン。スカートの裾には細かいプリーツが入り、動くたびに静かな音を立てた。
 隣では、湯川が紺色のタフタを扱っていた。彼のドレスは、桜とは対照的に構築的で、どこか彫刻のようだった。胸元に入った斜めのタック、立ち上がるような肩のライン。
 糸島が「なんだか建築みたいですね」と言うと、湯川は少し笑った。
「服も構造物だからね。支えと重力のバランスで形が決まる」
 言葉は理屈っぽいのに、不思議とやさしかった。
 牛針は反対側の机で、派手なオレンジと白の幾何学模様を裁断していた。
「それ、いつの服ですか?」
「六〇年代のモッズファッション。ミニスカートにAライン、ケネディ夫人の時代だね!」
 牛針は嬉々として語りながら、布を持ち上げてみせた。その大胆な柄が、まるで手芸室の空気まで明るく染めてしまうようだった。
 吉岡は少し離れた机で、白地に黒い刺繍の入った布を広げていた。「愛羅武勇」と背中に金糸で文字が入っている。
 夏樹はいつものように無口で、ベージュのトレンチコートの袖を縫っていた。襟元にはきれいにステッチが入っていて、裏地はこっそり深いボルドー。彼の机の上は整然としていて、まるで展示スペースのようだった。
「ボタンの位置、低めだね」
 糸島がそう言うと、夏樹はちらりと視線を上げた。
「高いと、風でめくれるから」
 その返答はいつも通りのそっけなさだったが、どこか、服を着る人をちゃんと想像しているように聞こえた。
 糸島だけが、まだ何も作っていなかった。机の上にはスケッチブックが一冊、開いたまま。そこには、いくつもの未完成の線が重なっていた。ドレスも、ブラウスも、スカートも描いては消されていた。
 何を作ればいいのか、決められなかった。何を作っても、あのオレンジ色のドレスが頭をよぎった。
「綾、どうするの?」とあおいが尋ねる。
「まだ、考え中」
 アイロンの蒸気が白く立ちのぼる。
 ミシンの音、布の擦れる音、糸を引く音。それらがひとつの静かな旋律のように重なっていく。
 構想がまとまらないまま、時間だけが静かに過ぎていった。時計を見ると、もう八時を少し過ぎている。窓の外はとっくに群青に沈み、校舎の向かいのグラウンドでは外灯が二つ、ぼんやりと白い光を放っていた。
 周囲を見渡すと、実習室に残っているのは糸島と、片付けをしている夏樹だけだった。夏樹は机の上の糸くずを手のひらで払い、ハサミを布ケースに戻していた。
「俺、もう帰るけど、どうする?」
 その声は、昼間の喧噪の残り香の中で、やけにくっきり響いた。
 糸島は一瞬迷って、手の上の布を見つめた。
 もう少し、考えたかった。
 でも、今日の糸の手触りはどこか冷たく、これ以上ここにいても何も進まない気がした。
「私も帰る」
 そう答えると、夏樹は軽くうなずいた。
 二人で蛍光灯を消すと、実習室は一瞬、暗闇の底に沈む。
 鍵は糸島が職員室に持っていった。事件以来、施錠の確認は二度行うのが暗黙の決まりになっていた。
 校門を出ると、夜気が肌にまとわりつく。初夏の夜は、昼間の熱を地面の奥にまだ残していて、湿った風が靴底にまとわりつくようだった。
 門のそばには、夏樹が立っていた。
 街灯の下で、自転車の金属がかすかに光っている。
「暗いから、送ってくよ」
 夏樹はそう言って、ハンドルを軽く押した。
 糸島は一瞬、ことばを探した。断る理由はなく、ただ頷いて「うん」と小さく答えた。
 二人はゆっくりと歩き出した。
 夏樹は自転車を押し、糸島はその少し後ろを歩いた。
 道路の脇にはまだ咲き残ったツツジが並び、車が通るたびに花弁が小さく震えた。
 沈黙が落ちた。けれど、それは気まずいものではなく、糸島も夏樹も、ただ歩くリズムと夜の匂いを確かめているようだった。
 自動車が通り過ぎるたび、光の筋が二人の足元を横切る。そのたびに、影が交わり、離れた。
「なんかさ」
 ふいに、夏樹が口を開いた。声は低く、けれど迷いを含んでいた。
「俺、あの引き裂かれたドレスに、ずっと違和感を感じてるんだよ」
 糸島は足を止めかけた。
 胸の奥がざわついた。
「……私も」
 思わず口をついて出たその言葉に、自分でも驚いた。
「何かが引っかかるんだけど、分からないの」
 糸島の声は夜の空気に溶けていった。
「俺だけかと思ってた」
 夏樹は、自転車を止めて言った。
「でも糸島もそう感じてるのなら、やっぱり何かあるな」
 二人は顔を見合わせた。
 通りを照らすヘッドライトの明かりが、一瞬二人の瞳を照らす。
「違和感を感じる人間が二人もいるってことは、やっぱりあのドレス、何かあるってことだ。……明日、少し詳しく調べてみるか」
 糸島は少し考えてから、ぽつりと訊いた。
「気になるの? 犯人のこと」
「作業に集中したいだけ」
 夏樹は短く答えた。
 それが嘘ではないことを、糸島はなんとなくわかった。
 でも、自分は違った。
「私は気になる」
 夜風にかき消されそうな声で、糸島は言った。
「というか——許せない」
 その言葉を聞いて、夏樹は何も言わなかった。
 ただ、ほんの少しだけ息を吸って「そうか」とつぶやいた。
 街の明かりが少なくなり、遠くで電車の音が聞こえた。
 
 長野の夏は、心地よいと言われている。
 それでも、暑いことには変わりなかった。
 朝、糸島は額の汗をハンカチでぬぐいながら、あおいと並んで歩いていた。セミの声が、校舎の方角からも、住宅街の奥からも聞こえてくる。遠くの山の稜線はかすかに白く霞んでいて、風は涼しいけれど、太陽の光は強く、肌をじりじりと焼いた。
「他の場所より少しましってだけだよね」
 あおいがそう言って笑った。
 糸島も笑い返す。
 朝の通学路は緩やかな坂になっていて、二人の影が長くのびている。校門まであと少しというところで、前を歩く人影が見えた。手芸部の三年生、湯川だった。
 寝癖の残った髪が、朝の光を受けて少し跳ねている。
「あ、湯川先輩! おはようございます!」
 あおいが声をかけると、湯川はゆっくり振り返った。
「ああ、おはよう。糸島さんも」
「おはようございます」
 糸島も会釈をする。
「先輩、髪どうしたんですか?」
 あおいが笑いながら言うと、湯川は苦笑した。
「寝坊した。昨日、夜更かししててさ。ミシンかけてたら、気づいたら夜中の二時だった」
「作品って、家で作ってもいいんですか?」
 あおいが興味深そうに尋ねた。
「うん、まあ自由だよ。学校でやっても、家でやっても。家の方が集中できるって人もいるし。ただ、持ち帰りがちょっと大変なんだよね。布ってかさばるから」
「そうなんですね」
「一個上の先輩方も、卒業制作はほとんど家で作業してたよ」
「え、大野先輩も?」
 その名前を聞いて、糸島はわずかに反応した。
「うん。家の作業台が広いからって言ってた。あの人、道具にもこだわり強かったし」
 湯川は懐かしそうに笑う。
 その笑顔の裏に、あの事件のことを思い出しているような、かすかな陰りが見えた。
「文化祭の制作、どうですか?」
 あおいが話題を変えた。
 湯川は少し肩をすくめた。
「うーん、まあ正直ちょっと苦戦してる。桜を見習わないと」
「たしかに、部長の技術すごいですよね」
 あおいの言葉に、湯川は静かにうなずく。
「うん。あいつは本当に手が正確だから。針目の間隔も、仮縫いも完璧。感覚で縫ってるのに狂いがない」
 その言葉を聞きながら、糸島は黙って歩いていた。
 たしかに、桜部長の縫製はすごい。針を動かすたびに生地が生き物のように形を変え、彼女の指先から新しい服が生まれていくようだった。
 ただ、ひとつだけ引っかかるのが、入学したばかりの頃に桜が抱えていた淡いグレージュの生地のコート。あれだけは、お世辞にも出来がいいとは言えなかった。その後、彼女の作品に同じような乱れは一度もない。
 なぜあれだけ——。糸島は、ふと疑問に思ったが、その理由を深く考えようとはしなかった。
「そういえば、糸島さんはもう作品のテーマ決まった?」
「え……いえ、まだです」
「焦らなくていいよ。時間はまだあるし」
 湯川はそう言って、手をひらひらと振った。
 その手の甲に、まち針を刺した跡のような小さな傷が見えた。
 あおいがそれに気づき、「先輩もがんばってますね」と笑うと、「まあ、毎年こんな感じだよ」と湯川も笑い返した。
 校門が近づくにつれ、朝のざわめきが大きくなる。
 部活の道具を抱えた生徒たちの声、吹奏楽のチューニング音、運動部の掛け声。その中を、三人は並んで歩いた。
 
 その日の放課後、糸島は鞄を机に置いたまま、まっすぐ実習室へ向かった。
 まだ夕方の光が校舎の窓から斜めに差し込んでいて、廊下の床がオレンジ色に光っている。空気は少し蒸しているのに、胸の内は妙にひんやりしていた。
 あらかじめ夏樹と連絡をとり、先輩たちが来る前に集合することを決めていた。
 あの「違和感」を確かめたかったのだ。あの、見れば見るほど胸の奥がざわつくウエディングドレスの正体を。
 実習室の前にはすでに夏樹が立っていた。「鍵は?」と糸島が訊くと、「借りてきた」と夏樹が短く答えた。
 室内には誰もいない。ミシンの列が静かに並び、午後の光がレース布の上をやわらかく撫でていた。
 二人は足音を立てないように倉庫へ向かった。
 そこに――あのドレスがあった。
 引き裂かれたままのウエディングドレスが、トルソーにかけられている。まるで痛みを抱えたまま立ち尽くしているように、オレンジの裾が光を吸い込んでいた。
「うん……なんだろう、この違和感」
 糸島が小さく呟いた。
「何というか……胸が躍らない」
「そりゃ、これだけ裂かれてるんだから、仕方ないんじゃないの」
 夏樹が淡々と言う。
「ううん、そうじゃなくて」
 糸島は首を振った。言葉は続かなかった。
 彼女は近づいて、そっとドレスの裾を指先で持ち上げる。縫い目は整っている。裾始末もきれいで、折り代の処理も丁寧だった。針目のひとつひとつに神経が行き届いていることがわかる。なのに――何かが違う。心に響かない。
「この刺繍、見て」
 糸島は胸元のピオニーを指差した。
 薄桃色の糸で縫い取られた花びら。重ねるように陰影をつけ、光を反射するような美しさがあった。
 けれど、糸島は眉をひそめた。
「刺繍は特に、技術力の差が出るポイント。この刺繍、上手ではあるんだけど……洗練されてない」
「洗練、ね」
 夏樹はその言葉を反芻するように呟いた。
「でも、いまさらそんな欠点を指摘しても仕方ないだろ」
「うん、そうなんだけど」
 糸島は小さく息を吐いた。彼女の中に、何かがもやのように引っかかっていた。
 そのとき――。
「何してるの?」
 不意に背後から声がした。
 二人が振り向くと、倉庫の入り口に牛針が立っていた。
 白いブラウスの袖をたくし上げ、腕を組んでこちらを見ている。
 その目はいつもよりずっと鋭かった。
「あ、いえ。ちょっと、作品の参考にしようかと」
 糸島がとっさに答える。
「そのドレスじゃなきゃ、ダメなわけ?」
 牛針の声は低く、冷たかった。
「いえ、そんなことは……」
 糸島の声が小さくなる。
 倉庫の中の空気が、急に重くなった。
「……もう閉めるわよ」
 牛針がそう言って、手を伸ばした。ギィ、と軋んだ音を立てて、倉庫の扉がゆっくり閉まる。最後に差し込んだ光が、引き裂かれたドレスの裾を照らし、きらりと光った。

 部活中、実習室の静かな空気の中で、夏樹が糸島にそっと目で合図を送った。糸島はすぐに気づき、視線を返すと、夏樹は軽く首を振った後、口を開いた。
「すみません。ちょっと集中できないので、今日は家で作業してもいいですか」
 部長の桜は淡々と頷き、言葉を添える。
「構わないわよ」
 夏樹は軽く礼をしてから、糸島の方をちらりと見る。糸島は一瞬、心臓が跳ねた気がしたが、すぐに笑みを返す。
「あ、先輩。私も家でやってきていいですか」
 夏樹は眉を少し上げ、口元に小さな笑みを浮かべる。
「水橋は?」
 あおいは一瞬戸惑った。
「え? 私? えーと、一年生が私だけになっちゃうのもあれなんで……」
 小さく息をつき、肩をすくめた。「わ、私も今日は家でやります」
 それぞれが作業途中の布や型紙、道具を手早くまとめる。糸島は自分の机に置かれたスケッチブックを軽く抱え、そっと指先で確認した。あおいは自分のボックスプリーツスカート用の布を抱きかかえ、少し慌てた様子で後ろ髪を押さえる。夏樹は黙って、整然と自分のトレンチコート用の布をまとめる。
「じゃあ、先に行きます」と夏樹が軽く言う。
 実習室を出ると、あおいが振り返り、軽く眉をひそめた。
「ちょっと何よ」
 夏樹は足を止め、振り返った。その表情はどこか真剣で、普段の無表情とは違った温度があった。
「話したいことがある。続きは俺ん家でやろう。本当は糸島だけで良かったんだけど、女一人だと男の家に上がりづらいだろうから。お前も呼んだ、おまけで」
「おまけ?」とあおいは少し声を詰まらせる。
 初夏の空気は、校門を抜けると柔らかく、温かく二人の肌に触れる。風が軽く木々の葉を揺らし、時折、遠くの遊歩道を歩く学生たちの笑い声が混ざる。糸島は肩越しに夏樹の後ろ姿を見つめながら、自分の心臓が少し速くなるのを感じた。
「家、もうすぐだから」と夏樹が言う。声は普段より少し低く、しかし穏やかだった。糸島はそれに頷き、あおいも小さく笑った。二人の後ろを歩きながら、あおいは初夏の風に髪を揺らされ、少しの緊張と少しの期待を胸に抱いていた。
 夏樹の家は、駅前の通りから少し奥まった住宅街にひっそりと佇んでいた。表通りの喧騒から隔絶された静けさの中で、庭の緑が柔らかい影を落としている。玄関の扉は木目を生かしたシンプルな作りだが、光に照らされるとどこか落ち着いた品格を漂わせ、糸島は思わず立ち止まった。庭の植木の剪定や石畳の整い方からして、住む人の几帳面さが伝わってくる。
 扉を開けると、すぐに木の香りが立ち込めた。土間には整然と靴が並び、壁のフックには布製の袋や手提げが掛けられている。生活感はあるものの、乱雑さはなく、整頓された空間は、ただの家庭の居間ではないことを示していた。廊下を抜け二階へ上がると、そこはリビング兼作業空間になっており、天井の高さが適度に開放感を与えている。
 窓際には大きな作業台が鎮座しており、上には裁断済みの布や型紙、定規、ミシン道具が整然と並んでいた。糸島はその光景に息をのむ。机の大きさだけでなく、道具の種類や配置の緻密さから、この家が単なる趣味の裁縫空間ではなく、プロフェッショナルの仕事場であることが伝わってくる。机の上には精密な裁断用カッターや、色とりどりの糸巻き、ミシンの付属品が隙間なく整えられ、どれも使用頻度の高さと扱いの丁寧さを示していた。
 壁際には本棚があり、裁縫関係の書籍やファッション雑誌がぎっしりと並んでいる。その中には、父である橘正二の名前が表紙にある専門書や受賞記録の書籍も混じっていた。糸島はそのタイトルをちらりと目にして、自然と息を呑む。
 夏樹はキッチンに立ち、手際よくコーヒーを淹れ、湯気の立つカップを三つ揃えて机の上に置いた。香ばしい香りが室内に広がり、夏樹は淡々とした声で言った。
「作業しながら話そう」
 三人はそれぞれ、自分の裁縫道具を作業台に並べ始める。
 この家に漂う空気のすべてが、裁縫の技術と、美的感覚を尊ぶ家族の空気で満たされていた。

「あの切り裂かれたドレスは、大野先輩が作ったものじゃない」
 あおいは顔を上げ、驚いた。「え? どういうこと?」
「そのままの意味だ。あのドレスは偽物だ。正確に言うなら、俺たちがファッションショーで見た傑作とは異なるドレスだ」
「うそ? 入学した時、実習室に飾られていたあのオレンジのドレス、すごく素敵だなって思ったけど、あれが偽物?」とあおい。
 糸島は鉛筆を持つ手を小刻みに揺らしながら答える。
「いや、私たちが入学した時に実習室にあったドレスは確かに大野先輩の作品だった。どこかのタイミングで入れ替わったんだと思う」
「あんたたち何か知ってるの?」とあおい。
「実は今日、引き裂かれたドレスを糸島と二人でじっくり観察してみた」と夏樹は言い、手元の裁ち台に広げた布地の上で型紙を整えながら話を続ける。ミシンを軽く動かす指先の音が、言葉の間に静かなリズムを作った。
「偽物のドレスもすごくよくできているけど、刺繍が違う」
「刺繍?」とあおいが首をかしげる。
「大野先輩のSNSのアカウントを見つけたの。ここに色々な作品をアップしている。卒業制作もね。ほら、この写真」と糸島はスマホを差し出す。
 画面には、鮮やかなオレンジ色のウエディングドレスが写っていた。布地の光沢、ギャザーの寄せ方、そして胸元に施された刺繍まで、丁寧に撮られている。
「そしてこれが、引き裂かれていたドレスの写真」
 画面をスワイプすると、実習室で撮ったドレスの画像が現れた。
「ほら、見比べてみて。微妙に違わない?」
 確かに、SNSに載っているドレスの刺繍は繊細で、花弁の一枚一枚が光を含んでいるようだった。それに比べ、実習室で裂かれていたドレスの刺繍はどこか重たく、線がわずかによれている。
「偽物の方は、刺繍が洗練されていないの」
 あおいは目を見開いた。
「じゃあ、本物は無事ってこと?」
 夏樹は軽く頷きながら、トレンチコートの袖口を縫い合わせる手を止めない。
「そもそも、犯人があれを偽物だと分かっていたかも怪しい」
 あおいはスカートのプリーツを一つずつ、アイロンで整えている。
「でもさ、どうして偽物を置いたの、なんで誰も気づかなかったの」とあおいがつぶやく。
「型紙が同じだから、ぱっと見は誰も気づかない。素材感や刺繍で差は出るけど、距離を置けば見分けるのは難しい」と糸島。
「私たちが今日確認したのも、近くでじっくり見たから分かったこと」
 光の加減によって、室内の布の色合いが微妙に変化し、作業台の上で布目や刺繍が一層鮮やかに見える。
 作業のリズムと香り、そして静かな集中の中で、三人の間に微妙な緊張感と連帯感が漂う。外の世界の喧騒や学校での騒ぎから切り離されたこの空間は、まるで手芸のためだけに用意された特別な場所のようだった。
「そういえば」と、夏樹がふと思い出したように言った。
「ドーナツあるけど、食うか?」
「ドーナツ!?」と、あおいが勢いよく顔を上げた。
 それまでミシンに向かっていた彼女の目が、ぱっと花のように明るくなる。
 夏樹は作業机の端に置いていた紙袋を開けた。中には三つのドーナツが入っていた。ひとつは砂糖がきめ細かくまぶされたオールドファッション。もうひとつはチョコが半分だけけられて、白いナッツが散っている。そして最後のひとつは、淡いピンク色のシュガーコーティングが光を吸っていた。
「どれにする?」
「えー、悩む!」とあおいは子どものように両手を頬にあてて、目を輝かせた。
「私チョコの!」
「ほら」と夏樹が無表情で手渡す。
 糸島は少し迷って、ピンクのドーナツを取った。ほんの少しベリーの香りがした。
「それにしても」と、夏樹はトレンチコートの布を整えながら言った。
「そもそも、なんであのドレスが二つもあるんだ?」
 糸島はコーヒーをひと口飲み、静かに応じる。
「型紙があったとしても、あのドレスは簡単に作れるものじゃない。布も特殊だし、縫製にもかなりの時間と技術が必要」
 あおいはチョコをつけた指先を見つめながら言った。
「それに、入れ替える意味がわからない。わざわざ偽物を置くなんて、なんでそんなことするんだろ」
 夏樹は無言でミシンの電源を切った。
 部屋に静寂が落ちる。時計の秒針が、壁の上で淡く音を刻んだ。
「あと気になるのは、トルソーの傷だな」
「うん、私もそう思う」と糸島。
「え? なにそれ。どうして二人にはわかるの?」とあおいが首をかしげた。
 糸島はそっと鉛筆を置きながら、少し考えるように言葉を選んだ。
「服を裂きたいなら、そんなに力をこめなくていいの。肉を切ってるわけじゃないんだから。カッターを滑らせるだけで切れる。でもトルソーに傷が入るってことは、相当強く刃を押しあてたってことよ」
 あおいは息をのんだ。
 夏樹も軽く頷く。
「そう。刃を入れる角度を間違えたとか、勢いで当たったとか、そういう感じじゃないよな」
「それに」と糸島が続けた。
「トルソーの切り傷は一本だけ。真っすぐに。ドレスには何本も刃が入っていたけど、トルソーにまで届いたのは、その一度きりだった」
 夏樹は指先で糸を切り、針を置いた。
「難解だな」
「うん。話を整理してみよっか」
 糸島が針山を指先で軽く押さえながら言った。その声には、わずかな熱と冷静さが同居していた。
「主な疑問点はまとめると四つ」
 あおいと夏樹が、ほぼ同時に顔を上げる。部屋の照明が三人の影を作業台の上に落とし、糸の束がそれを縫い止めるように揺れていた。
「まず一つ目。本物のドレスはどこにあるのか」
 糸島は指を一本立てる。
「二つ目。偽のドレスは誰が作ったのか」
 二本目の指が、白い布の上に影を落とす。
「三つ目。なぜ犯人はトルソーに傷がつくほど強く刃を押しあてたのか」
 その言葉に、あおいが無意識に腕を抱いた。トルソーの白いボディに残された、あの鋭い一筋の線。思い出しただけで、冷たいものが背筋を走る。
「そして四つ目。なぜトルソーには傷が一つしかついてないのか」
 沈黙が降りた。
 ミシンの針の音も止まっている。糸島の声だけが、静かに空気の上を流れていく。
「前途多難だな」
 夏樹がため息をつき、背もたれに身を預けた。

 放課後の実習棟は、しんと静まり返っていた。
 廊下の奥からミシンのかすかな音が聞こえる気がしたが、それもすぐに遠ざかる。糸島は、革のトートバックを抱えたまま、職員室の前で立ち止まった。中から聞こえる羽毛田先生の声に、夏樹が軽くノックをする。
「先生、今ちょっとお時間いいですか」
 ドアの隙間から顔を覗かせた羽毛田先生は、眼鏡を指で押し上げて三人を見た。
「どうしたの、みんなそろって」
「少しお願いがあって」
 夏樹が言うと、糸島とあおいもそっと頷いた。
 先生の机の上には、生地のサンプル帳や採寸票が山のように積まれていた。裁縫室の明かりが反射して、眼鏡の奥の瞳がやわらかく光る。
「卒業生の作品を、見せていただけませんか」
「卒業生?」
 羽毛田先生は少し驚いたように眉を上げ、それからゆっくり椅子を回して立ち上がった。
「どうして急にそんなことを?」
「参考にしたいんです。ファッションショーで使われた作品の構造とか、デザインの工夫とか」
 夏樹の言葉はどこか冷静で、少し計算された響きがあった。
 糸島はそれに合わせて言葉を重ねる。
「同じ課題で自分たちの作品を作っているので、前の年の資料があると助かるんです」
 羽毛田先生は短くため息をつくと、「まあ、いいでしょう」と微笑んだ。
「少しだけね。保管している倉庫には鍵がかかってるから、私が開けてあげる」
 先生が先に立って歩き出し、三人はあとに続いた。長い廊下を抜け、階段を下りると、空気がひんやりと変わる。倉庫の前で先生はポケットから鍵を取り出した。
 金属のこすれる音がして、扉がゆっくりと開く。
 奥の棚には、透明なビニールカバーに包まれたドレスやスーツが整然と吊られている。
 年月が経った布地は、ところどころに淡い黄ばみを帯びていた。それでも、ひとつひとつが丁寧に仕立てられた跡を残している。
「これは去年の三年生の作品。向こうの列が一昨年のね」
 先生が指さす。
 あおいが思わず声をあげた。
「すごい……美術館みたい」
 先生は小さく笑って、「用が済んだら鍵をかけて職員室までもってきてね」と言い残し、静かに部屋を出ていった。扉が閉まると、空気が少しだけ軽くなった。残ったのは一年生の三人。並べられた作品はどれも丁寧にカバーがかけられ、タグに卒業年度と名前が記されている。
 彼らの目当てはただ一つ。大野の名が貼られた作品だった。
「これだね」
 糸島が小さくつぶやき、カバーをそっと外す。
 姿を現したのは、淡いベージュのジャケット。
 一見すると上品に見えたが、近づくと糸島の表情が曇る。
「……あれ?」
 襟の幅が左右で微妙に違っていた。
 縫い代の始末も甘く、糸を引けばすぐにほどけそうだ。
「襟の角、きちんと出てないな」と夏樹。
「ボタンホールの位置もずれてる」と糸島。
 さらに裏地をめくると、縫い目の途中に小さな穴があいていた。
「これ……本当に大野先輩の作品?」
 あおいの声には戸惑いが滲んでいた。
「信じられない。あのウエディングドレスを作った人と同じとは思えない」
 夏樹は無言で縫い目を指でなぞる。
「この雑さ。まるで途中でやる気をなくしたみたいだ」
「でも、もしこの時点で技術がまだ未熟だったとしたら?」とあおい。
「三年の卒業制作までに、上達したってこと?」と糸島。
 あおいが首をかしげた。
「たった一年で、あのレベルに?」
「無理だと思う」と糸島。
「だよな」と夏樹も頷く。
 布の上を淡い光が流れ、三人はしばらく言葉を失った。
 やがて糸島が、小さく息をつく。
「ねえ、もしかして、あのドレス、本当は大野先輩が作ったものじゃないのかも」
 その言葉が落ちた瞬間、部屋の空気が変わった。
 誰もすぐには否定できなかった。
 
 糸島は文化祭に出展する作品を、ついに決めた。
 ——デニムのワンピース。
 それは彼女にとって、少し特別な選択だった。
 シルクやレースのような繊細な素材ではなく、どこか頑丈で素朴な布。だけど、糸島はその重みとざらつきを愛していた。針を通すたびに、布が抵抗するようにきゅっと鳴く。その音が、彼女の中の何かを落ち着かせた。
 構想ノートのページには、いくつものスケッチが貼られている。肩を少し落としたシルエット。胸元には小さなピンタック。裾には、ゴールドの目立つステッチを入れる予定だった。デニムの青が陽に透ける瞬間を、糸島は頭の中で何度も思い描く。
 けれど、心の奥では別の色がちらついていた。あのドレスの、眩しいほどのオレンジ。
 光を吸い込み、放つようなあの布の輝き。文化祭の準備室にいても、教室でミシンを動かしていても、ふとした瞬間にその色が脳裏をよぎる。
 あのファッションショーの日のことを、糸島は何度も思い返した。
 モデルの動き、布の揺れ、縫い目の美しさ。すべてが完璧だった。あの瞬間が、糸島を桐ノ宮高校へ導いたといってもいい。その日から、糸島の中で何かが決定的に変わった。
 ただ「手芸が好き」ではなく、「自分もあんなものを作りたい」と心の底から思った。だからこそ、あのドレスが「引き裂かれていた」と知ったとき、胸の奥がぐしゃりと潰れた。
 許せなかった。
 あんなにも完璧なものを、無惨に傷つけるなんて。
 布に刃を当てるという行為の痛みを、犯人は知らない。
 なぜあんなことをしたのか。
 糸島は、デニムの生地を手に取りながら思う。厚みのあるインディゴブルー。指先で撫でると、かすかな糸くずの感触が残った。
 その夜、作業机の上には型紙と糸、裁ちばさみ。窓の外では雨が降っていた。
 糸島はペンを持ち、作業予定を書き込む。
 《日曜日 夏樹くんの家 十時集合》
 糸島は電気スタンドを消す。部屋の中に、雨音だけが残った。