岡部が最初に異変に気づいたのは、昼に実習室前の廊下を通りかかったときだった。わずかな違和感と、乱れた布の陰影が目に入り、思わず立ち止まる。
鍵のかかっていない実習室の扉を開けると、視界に飛び込んできたのは、まさに悪夢のような光景だった。オレンジ色のウエディングドレスが、トルソーの上で無惨に引き裂かれていた。胸元のギャザーはぐちゃりと歪み、裾のフリルは糸がほつれて床に散らばっている。トルソーそのものにも深い傷が刻まれ、肩の部分には裂けた布の繊維が絡みついていた。
すぐに手芸部員が緊急招集された。
糸島はその場に立ち尽くし、息が止まる。
光を受けて柔らかに揺れる姿。その美しさを知っていたからこそ、視界に入った惨状はあまりに非現実的だった。思わず手を胸に当て、肩を震わせる。言葉が出ない。
糸島の目には、涙が光っていた。
あおいも目を大きく見開き、唇をわずかに震わせた。
「どうして、こんな……」
声にならない声を漏らし、床に散らばるオレンジ色の布片をそっと指で触れた。指先に残る感触は、以前の柔らかさではなく、無機質な破片のようで、胸の奥をえぐるようだった。
夏樹は少し離れた場所で、無言のままドレスを見つめていた。眉をひそめ、口元を引き結び、にらみつけるような目で布の裂け目を追う。普段はクールな彼だが、その視線には怒りとも警戒ともつかない鋭さがあった。
手芸部の空気が、瞬間的に張りつめる。
部屋の隅のミシンや机も、いつもより冷たい光を帯びて見える。床には糸くずと布片が散乱し、嵐の後のようだった。
普段は穏やかな空気を纏っていた手芸部の実習室が、今や重苦しい沈黙に包まれる。
桜は腕を組み、トルソーとドレスの破片を交互に見つめたまま、静かに言った。
「……誰がこんなことを」
手芸部の平和は、オレンジ色のドレスと共に引き裂かれてしまったのだ。 部長の桜は、その場ですぐに顧問の羽毛田先生のところへ駆けて行った。部室の床に散らばるオレンジの布切れを見たときの、彼女の顔はいつもの穏やかさを欠いていた。手芸に対する誇りと、守るべきものが壊されたことへの怒りが、静かな輪郭を濃くしていた。
「すぐに校長先生に」
手芸部の顧問として、生徒の作ったものが傷つけられた事実を、見過ごすわけにはいかなかった。彼女は携帯を取り出して震える指で番号を押すと、まず学校の内線を回した。羽毛田先生の声は伝え方を選びながらも速く、緊張を含んでいた。
報告はすぐに上へと伝わった。校長室の扉は普段より早く閉められ、学内にも重い空気が広がる。校長はゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の外の校庭を見やったあと、硬い口調で一言告げた。
「生徒の作品が損壊されたというのは、学校として看過できません。明日の全校集会で、事実関係を説明し、校内の安全と相互の尊重について改めて確認します。犯人の発見と、被害の回復に向けて全力を尽くします」
校長の声は大きく、校舎の奥にまで届いた。彼の言葉には責任の重みがあり、教員たちの顔からは安堵と憂いが交互に現れた。全校集会で取り上げることは、事件の深刻さを示すものであり、同時に学内の注目を集めることでもあった。手芸部の「日常」は、明日からもう以前のようには戻らないのだと、誰もが漠然と感じた。
その連絡は、製作者である大野真のもとへもすぐに届いた。羽毛田先生が、震える声を落ち着けながら電話で伝えたのだ。受話器の向こうでしばらく沈黙があり、次に大野の声が割れたように響いた。
「そんな、そんなはずはない。信じられない……」
彼はひどくショックを受けているらしく、言葉が途切れ途切れで、何度も同じように繰り返した。作品はただの布切れではない。手の内の技術と、時間と、祈りのような思いが重ねられている。ましてやそれが公の場で評価され、学校の名誉を飾った作品であれば、作者の心に残る痛みは計り知れない。
実習室の惨状を前に、部室に戻った手芸部のメンバーたちは、まだ言葉を失ったまま固まっていた。そんな空気の中で、顔面蒼白の吉岡が急に口を開いた。
「先輩! すみません」
桜が振り向き、少し驚いた顔で尋ねる。
「どうしたの、吉岡?」
吉岡は頭を深く下げ、言葉を震わせた。
「こんなことになったのは……俺のせいです」
桜は眉をひそめながらも、静かに吉岡の顔を見つめている。
吉岡は言葉を続けた。
「昨日、手芸部のメンバーで一番遅くまで残っていたのは俺です。ただ……」
彼の声がわずかに震える。
「……鍵をかけるのを忘れて、そのまま職員室に返してしまいました」
部室の中に、微かなざわめきが広がる。
手芸部が作業する実習室は、普段授業ではほとんど使われない教室で、放課後だけ部員が職員室から鍵を借りて利用するという決まりがあった。最後に部室を出る者が鍵をかけ、職員室に返すというルール——しかし昨日の彼は、鍵をかけずに実習室を出てしまった。
桜は静かにうなずき、低い声で言った。
「わかったわ。吉岡、責めない。忘れることは誰にでもあるもの」
その声は柔らかく、部屋の中の重苦しい空気を少しだけ和らげる。
あおいが、静かに口を開いた。
「じゃあ、つまり……犯人は昨日の放課後、吉岡先輩が実習室を出てから、今日の昼、岡部先輩が見つけるまでの間にドレスを引き裂いたってことですよね」
すると夏樹が文庫本を片手に、軽い口調で言った。
「外部犯だろ」
みんなが一瞬、顔を見合わせる。夏樹は普段通りのクールな表情のまま、静かに本に目を落としている。
「いつも実習室を利用している手芸部の誰かが犯人なら、最後まで残って引き裂けばいいだけの話だ。いつでもできる」
あおいが眉をひそめる。
「つまり、このタイミングを狙ったってこと?」
夏樹はゆっくり本を閉じ、ちらりと部屋の天井を見上げる。
「そう。実習室に鍵がかかっていなかったこのタイミングを狙ったということは、普段自由に実習室に出入りできない人間、手芸部以外の誰か、ということになるんじゃない?」
牛針が口を開いた。
「まあ、確かに……」
しかし糸島は眉をひそめ、首を傾げながら反論する。
「いや、私は犯人は手芸部の誰かである可能性が高いと思います」
その言葉に、夏樹がふっと顔を上げて糸島を見た。無言の間、視線だけで何かを測るように。
牛針が小さく息を呑む。
「手芸部の誰かが?」
岡部は口元に手を当て、驚きの色を隠せない。
「そんな……」
桜も軽く首を傾げる。
「どういうことかしら」
糸島はトルソーにかけられたままの、無惨に裂かれたドレスの裾をそっと持ち上げた。
「このドレスの構造を見てください。上はシルク、下はオーガンジーです」
陽の当たらない実習室の午後、光が透けて、裂け目から細い糸の筋が光って見える。
「上の部分には明確な刃物のあとがあります。けれど、下――オーガンジーの部分には刃の跡がない。これは手で引き裂かれた痕です」
誰も言葉を発しなかった。
ミシンの針が止まったままの作業台が並び、漂う糸くずと布のにおいが、いつもよりずっと重く感じられた。
「つまり、上は刃物で切られ、下は手で引き裂かれている。なぜ全部を刃物でやらなかったのか」
糸島は少し間を置き、静かに続けた。
「皆さんご存じの通り、オーガンジーは手で引き裂くことが容易な生地です。けれども、吊るされた状態のまま刃物で切ろうとすると、生地が滑って逃げてしまう。固定されていないオーガンジーに刃を入れるのは、けっこう手間です」
桜が腕を組んだまま、わずかにうなずく。
「……たしかに。オーガンジーは滑る」
「はい。だから、手芸に詳しい人なら『オーガンジーは、刃物より手で裂いたほうが早い』と判断したはずです」
糸島の声は、静かに張り詰めていた。
「そんなの、知識がなくても手触りとかで判断できるだろ。それにオーガンジーを刃物で切り裂くこともできないわけじゃない」
夏樹が、椅子の背にもたれながら言った。彼の言葉には少しの挑発が混じっているように聞こえた。
糸島は、視線をまっすぐに向けたまま、わずかに首を横に振った。
「もう一つ、気づいたことがあります。犯人は、上のシルクを切り裂くのにカッターを使いました」
「なんでカッターだと分かるの?」
牛針が眉を寄せて尋ねた。
「落ちてました」
糸島は、ドレスのそば、床の端を指さした。そこには緑色のテープが巻かれたカッターが、光を反射して転がっている。
「これ、実習室のやつです。ほら、ここに」
テープの上に、黒いマジックで『2』と書かれていた。
「……あ」
岡部が小さく息を呑んだ。
「手芸部の道具には、全部番号を振ってあるの。誰が使ってもどこに戻せばいいかわかるように。私が、そう決めたの」と桜が言った。
カッターは全部で3本。それぞれ『1』『2』『3』と番号が振られている。
「皆さんもご存じの通り、『2』のカッター以外の切れ味はひどいです」
糸島が言うと、何人かの部員が小さくうなずいた。
「そうね、最近『1』と『3』は全然切れなかった。刃を変えなきゃって話してたわ」
牛針が思い出したように言う。
「犯人が『2』を使っているということは、『2』が一番切れるカッターだって知っていたからってことかい?」
湯川が腕を組みながら言った。
「でもそれなら、犯人が三つのカッターの切れ味を確かめて、一番切れ味がいいものを選んだのかもしれない」
糸島は小さく首を傾げた。
「だとしたら、『1』と『3』だけ元あった場所に戻すというのは不自然です。三つとも床に放るか、もしくは三つとも戻すか、だと思います」
「……つまり?」と牛針。
「つまり犯人は、最初から切りやすい『2』のカッターを選んだ可能性が高いわけです」
教室の空気が、少し冷たくなったような気がした。
「そのことは、手芸部員しか知らない」
桜の声は、低く静かだった。
夏樹が目を細めた。
「たまたま、『2』を選んだってことは?」
「可能性はもちろんある」
糸島は慎重に言葉を選びながら続ける。
「けど、手芸部員以外だとすると、どの引き出しにカッターがあるかもわからない。もし最初からドレスを傷つけるつもりだったなら、カッターくらい持参するはずです」
桜が静かにうなずいた。
「確かに。そもそも、この部屋にカッターがあるかどうか、外部の人は知らないでしょうね」
「それでも、外部犯の線が消えたわけじゃない」と夏樹が言った。
「もちろん」糸島はうなずいた。
「ただ――内部犯である方が、自然だと思う」
その言葉に、部屋の温度がもう一段下がったように感じた。
桜は唇を引き結び、牛針は俯いた。岡部がそっとペンを握りしめる音が聞こえる。
窓の外では、放課後のグラウンドを吹き抜ける風が、遠くの砂埃を舞い上げていた。実習室の中には、糸と布のにおい、それに、どこか焦げつくような緊張が漂っていた。
「だったら一番怪しいのは吉岡ね」
牛針が、少し震える声で言った。その口調には苛立ちが混じっていた。
「昨日、最後まで残っていたわけだし。それに、たまたま鍵がかかっていないことを知っていたのは、あんたしかいないんだから」
その瞬間、吉岡の肩がぴくりと動いた。顔面は蒼白で、唇がかすかに震えている。
「……違う。俺は、そんなこと……」
声はか細く、消え入りそうだった。
「たしかに、最後に出たのは俺だ。でも――」
「もうよさないか」
低い声が部屋を静めた。湯川だった。
三年生らしい落ち着きで、柔らかな口調のまま、全員を見渡す。
「責めたところで、真実には近づけない。あとのことは先生に任せればいい。これで手芸部内の関係に亀裂が入る方が、よほど問題だよ」
その言葉に、誰も何も言い返せなかった。
糸島も、唇を閉ざしたままうつむいた。
トルソーの下に散らばる布の破片が、まるで夕暮れの光のかけらのように見えた。糸の端が空気に揺れ、ひとすじの白い糸が風に踊る。窓の外では、吹奏楽部の練習音がかすかに響いていた。しかしその音さえ、どこか遠くの出来事のように感じられた。
噂は、翌朝にはすでに校内の隅々まで広がっていた。
「手芸部でドレスが破られたらしい」「犯人はまだ見つかってない」
廊下ですれ違うたびに、そんな声が小さく響いた。まるで風のように流れて、形を変えながら、誰の口からも同じ話題が漏れ出していた。
昼休み、手芸部の「当面の活動休止」が正式に告げられた。顧問の羽毛田先生の声が、どこか沈んでいた。
放課後、あおいが糸島の机に来て、そっと声をかけた。
「帰ろ。……今日はもう、部活ないし」
「うん」
二人は並んで昇降口を出た。校舎の影が長く伸び、アスファルトの上に二人の足音が軽く響いた。
「期末テスト、もうすぐだね」
あおいが言った。
「全然勉強してないや」
「わたしも。なんか、ドレスのことばっかり考えちゃって」
歩道を抜けると、夕方の風が頬を撫でた。線路沿いには赤茶けたフェンスが続き、踏切の音が遠くで鳴った。
「ねえ、」とあおいが声を上げた。
「佐久平駅前に、新しいパフェ屋さんができたって。行ってみない?」
「パフェ?」
「うん。テスト前に、ちょっとくらい甘いものいいでしょ」
糸島は少し考えて、ふっと笑った。
「……行こうか」
佐久平駅は、新しい街並みが広がる長野県東部の中心駅だ。
ガラス張りの自由通路が東西をつなぎ、駅の北側にはショッピングモールやカフェ、南側には住宅街が広がっている。
夕方のホームには、新幹線の白い車体が音もなく滑り込んでいた。
二人は駅前のロータリーを抜けて、ガラス張りのカフェに入った。
店内は明るく、白いタイルの床に木のテーブルが並び、空気はほのかに甘い香りがした。
入ってすぐ、あおいが「あっ」と声を上げた。
窓際の席に、ひとりの男子生徒が座っていた。制服の上着を脱ぎ、白いシャツの袖を肘までまくっている。
「……夏樹じゃん」
あおいが眉をしかめた。
「なに一人でパフェとか食ってんだよ」
糸島は少しあわてて、あおいの腕を引いた。
「やめなよ、別にいいじゃない。人が何食べてても」
「いや、でもさ、なんか似合わないっていうか」
夏樹は、そんな言葉にもまったく動じず、視線を上げて二人を見た。
「よう。偶然だな」
「偶然っていうか……」
「俺、甘いの好きなんだよ」
そう言って、フォークでパフェの上の生クリームを崩した。表情はいつも通りの無表情で、どこか飄々としていた。
糸島は少し笑って言った。
「夏樹くんも、一緒に食べない? こっちの席、空いてるし」
「え、ちょっと……」とあおいが小声で言ったが、糸島の優しい声に押されるように、三人は同じテーブルについた。
店員がメニューを持ってくる。
いちごパフェ、抹茶あずき、季節限定のシャインマスカット。
糸島は迷って「ベリーベリーパフェ」を、あおいは「ピスタチオとチョコレートのパフェ」を選んだ。
「夏樹くんは?」
「俺、さっき頼んだ。バナナチョコ」
「あんた、まだ食うの?」
空になりかけたグラスの底には、溶けたアイスの名残があった。
注文を終えると、自然に話題は例の事件のことへ向かった。店内の音楽が静かに流れる中、三人の声だけが小さく響く。
「ねえ、二人は去年のファッションショー行った?」
糸島がパフェのスプーンをくるくると回しながら言った。
「行ったよ、お母さんと。手芸部の作品展示も見たし」
「俺も行った」と夏樹。
「あの時もあのドレス、ひときわ目立ってたよね」
あおいがうっとりとした声で言う。
「ドレスは勿論そうなんだけど、あれを着ていた女の人のこともすごく印象に残ってて……あの人、誰だか知ってる?」糸島が尋ねた。
あおいは首を傾げた。
「ううん、分からない。でも、モデルの中でもなんか違った。雰囲気っていうか……服に着られてるんじゃなくて、ちゃんと着こなしてる感じだった」
夏樹がパフェの底をつつきながら、ぼそりと言った。
「サイズがぴったりだった」
「え?」と糸島が顔を上げる。
「つまり、あのウエディングドレスの型紙は、その人で採寸されたってこと。あの人が基準になってる」
糸島の脳裏に、トルソーに掛けられたドレスのラインが浮かんだ。ウエストのくびれ、裾の流れ。あの形が偶然のものでないことを、彼女はすぐに理解した。
「その女性って誰なんだろう」
夏樹は少しだけ眉を寄せた。
「多分、大野先輩の彼女」
「知ってるの?」とあおいが身を乗り出す。
「いや、詳しくは知らない。でも吉岡先輩が言ってた。『大野先輩はベストカップルにも選ばれていた』って」
「ベストカップル?」とあおいが首を傾げた。
「文化祭で毎年やるでしょ、あのイベント」
夏樹が、まるでどうでもいいことを言うようにスプーンを口に運ぶ。
「それに、ウエディングドレスなんだし、彼女以外の女に作る理由なんてないだろ」
スプーンの先から、チョコレートソースがとろりと垂れた。
「でも、素敵ね。彼氏からウエディングドレス作ってもらえるなんて。世界にひとつしかないんだよ」
「そうか?重いだろ、普通に」夏樹が冷たく言った。
あおいの瞳がきらりと光る。
「そういう言い方しなくてもいいじゃない。女にとっては特別なのよ」
「ドレスが特別なんじゃなくて、思い出が特別なんだろ」
二人の間に、わずかな火花が散った。糸島は慌てて間に割って入るように笑う。
「まあまあ、落ち着いて。価値観の違いってことで」
暫くして三人の注文したパフェが運ばれてきた。店員がトレイを置くと、テーブルの上が一気に華やぐ。
「わあ……!」
あおいの目がぱっと輝く。
「見てこれ、かわいすぎない?」
スマホを取り出して、角度を変えながら写真を撮る。糸島と夏樹のパフェも一緒に収めようとして、「ちょっと、スプーンどけて!」と笑った。
その笑顔を見て、糸島の胸の中の重さが、ほんの少しだけやわらいだ。
七月の初めに停止されていた手芸部の活動が、ようやく再開された。
引き裂かれたウエディングドレスは、そのままトルソーにかけられることになった。
大野先輩が夏休みに引き取りに来るとのことだが、彼は東京の大学に進学していて、夏休みまでは長野に戻らないらしい。それまで、あのドレスは実習室の隅で、静かに時間を過ごすことになる。
ドレスのことを口にする者もいない。話題にすれば糸がほつれるように空気が乱れるのを、皆が知っていた。
放課後のチャイムが鳴り、糸島が部室のドアを開けると、先に来ていたのは岡部だけだった。
窓のそばの席に座り、トーションレースを机に広げている。
小柄で、黒髪を耳の後ろでまとめている二年生。部内ではあまり目立たない存在だが、裁縫の腕は確かで、黙々と作業を続ける姿は糸島から見てもどこか職人めいていた。
「こんにちは」
糸島が声をかけると、岡部はゆっくり顔を上げて小さく会釈した。
それだけで会話は終わった。
しばらくのあいだ、部屋には糸が針に通される細い音だけが響いた。沈黙に耐えられなくなった糸島は、思いきって尋ねた。
「岡部先輩は、いま何を作ってるんですか?」
岡部は手を止め、少し考えるようにしてから答えた。
「コスプレ衣装」
その言葉が意外で、糸島は瞬きをした。
「コスプレ……ですか?」
「うん。文化祭のステージに出る友だちに頼まれてるの」
岡部の声は小さいが、話し始めると糸のように滑らかに続いた。
「去年も作ったんだ。白いブラウスと、青いケープ。アニメのキャラクターで、細かい装飾が多くて大変だったけど、楽しかったよ。ああいう衣装って、日常の服よりも自由に縫えるから好き」
彼女の指先が、布端を撫でるように動く。
その横顔には、普段見えない情熱のようなものが微かに灯っていた。
「岡部先輩は、文化祭のファッションショーにも出たんですか?」
「私は出てないよ。ああいう舞台は苦手。裏方で針仕事してた」
「そうなんですね」
糸島は、机の上のレースを見つめながら言った。外の風が窓を揺らし、白いカーテンがやさしく波打った。
少しの沈黙があってから、糸島はおそるおそる切り出した。
「そういえば、去年のファッションショーで、ウエディングドレスを着ていたのって誰か知ってますか?」
岡部は糸通しを止め、わずかに首を傾げた。
「ウエディングドレス? ああ、大野先輩のやつ?」
「はい」
岡部は懐かしむように目を細めた。
「確か、大野先輩の彼女だったと思う。弓道部の道長ユキ先輩」
糸島の心臓が一度だけ強く跳ねた。
「……ユキ先輩?」
「うん。すごく綺麗な人だったよ。黒髪が長くて、背筋がまっすぐで。あのドレス、ユキ先輩にぴったりだった」
言葉を選ぶように、岡部は糸を巻き取る。
「二人はベストカップルにも選ばれてた。文化祭の恒例イベントでね。見た目も雰囲気もお似合いだったから、みんな納得してた」
岡部が机の下から、細い指で紙パックを取り出した。
「これ飲む?」
差し出されたのは、ミルクティーだった。夏なのに。
「あ、ありがとうございます」
岡部は自分の分を飲みながら、目を伏せたまま何も言わない。沈黙が続くけれど、不思議と居心地は悪くなかった。
ほどなくして、廊下の向こうから笑い声が近づいてくる。
ドアが開いて、牛針が大きな声で「おはよー!」と叫んだ。
そのあとに、あおいと夏樹、そして湯川と桜が続いて入ってくる。
一瞬で空気が変わる。
机の上に布地が広がり、アイロンのコードが伸び、糸巻きがころころと転がる。誰かが笑い、誰かが針を落とし、実習室はいつもの賑やかさを取り戻した。
表では、誰も事件のことなど気にしていないようだった。
鍵のかかっていない実習室の扉を開けると、視界に飛び込んできたのは、まさに悪夢のような光景だった。オレンジ色のウエディングドレスが、トルソーの上で無惨に引き裂かれていた。胸元のギャザーはぐちゃりと歪み、裾のフリルは糸がほつれて床に散らばっている。トルソーそのものにも深い傷が刻まれ、肩の部分には裂けた布の繊維が絡みついていた。
すぐに手芸部員が緊急招集された。
糸島はその場に立ち尽くし、息が止まる。
光を受けて柔らかに揺れる姿。その美しさを知っていたからこそ、視界に入った惨状はあまりに非現実的だった。思わず手を胸に当て、肩を震わせる。言葉が出ない。
糸島の目には、涙が光っていた。
あおいも目を大きく見開き、唇をわずかに震わせた。
「どうして、こんな……」
声にならない声を漏らし、床に散らばるオレンジ色の布片をそっと指で触れた。指先に残る感触は、以前の柔らかさではなく、無機質な破片のようで、胸の奥をえぐるようだった。
夏樹は少し離れた場所で、無言のままドレスを見つめていた。眉をひそめ、口元を引き結び、にらみつけるような目で布の裂け目を追う。普段はクールな彼だが、その視線には怒りとも警戒ともつかない鋭さがあった。
手芸部の空気が、瞬間的に張りつめる。
部屋の隅のミシンや机も、いつもより冷たい光を帯びて見える。床には糸くずと布片が散乱し、嵐の後のようだった。
普段は穏やかな空気を纏っていた手芸部の実習室が、今や重苦しい沈黙に包まれる。
桜は腕を組み、トルソーとドレスの破片を交互に見つめたまま、静かに言った。
「……誰がこんなことを」
手芸部の平和は、オレンジ色のドレスと共に引き裂かれてしまったのだ。 部長の桜は、その場ですぐに顧問の羽毛田先生のところへ駆けて行った。部室の床に散らばるオレンジの布切れを見たときの、彼女の顔はいつもの穏やかさを欠いていた。手芸に対する誇りと、守るべきものが壊されたことへの怒りが、静かな輪郭を濃くしていた。
「すぐに校長先生に」
手芸部の顧問として、生徒の作ったものが傷つけられた事実を、見過ごすわけにはいかなかった。彼女は携帯を取り出して震える指で番号を押すと、まず学校の内線を回した。羽毛田先生の声は伝え方を選びながらも速く、緊張を含んでいた。
報告はすぐに上へと伝わった。校長室の扉は普段より早く閉められ、学内にも重い空気が広がる。校長はゆっくりと椅子から立ち上がり、窓の外の校庭を見やったあと、硬い口調で一言告げた。
「生徒の作品が損壊されたというのは、学校として看過できません。明日の全校集会で、事実関係を説明し、校内の安全と相互の尊重について改めて確認します。犯人の発見と、被害の回復に向けて全力を尽くします」
校長の声は大きく、校舎の奥にまで届いた。彼の言葉には責任の重みがあり、教員たちの顔からは安堵と憂いが交互に現れた。全校集会で取り上げることは、事件の深刻さを示すものであり、同時に学内の注目を集めることでもあった。手芸部の「日常」は、明日からもう以前のようには戻らないのだと、誰もが漠然と感じた。
その連絡は、製作者である大野真のもとへもすぐに届いた。羽毛田先生が、震える声を落ち着けながら電話で伝えたのだ。受話器の向こうでしばらく沈黙があり、次に大野の声が割れたように響いた。
「そんな、そんなはずはない。信じられない……」
彼はひどくショックを受けているらしく、言葉が途切れ途切れで、何度も同じように繰り返した。作品はただの布切れではない。手の内の技術と、時間と、祈りのような思いが重ねられている。ましてやそれが公の場で評価され、学校の名誉を飾った作品であれば、作者の心に残る痛みは計り知れない。
実習室の惨状を前に、部室に戻った手芸部のメンバーたちは、まだ言葉を失ったまま固まっていた。そんな空気の中で、顔面蒼白の吉岡が急に口を開いた。
「先輩! すみません」
桜が振り向き、少し驚いた顔で尋ねる。
「どうしたの、吉岡?」
吉岡は頭を深く下げ、言葉を震わせた。
「こんなことになったのは……俺のせいです」
桜は眉をひそめながらも、静かに吉岡の顔を見つめている。
吉岡は言葉を続けた。
「昨日、手芸部のメンバーで一番遅くまで残っていたのは俺です。ただ……」
彼の声がわずかに震える。
「……鍵をかけるのを忘れて、そのまま職員室に返してしまいました」
部室の中に、微かなざわめきが広がる。
手芸部が作業する実習室は、普段授業ではほとんど使われない教室で、放課後だけ部員が職員室から鍵を借りて利用するという決まりがあった。最後に部室を出る者が鍵をかけ、職員室に返すというルール——しかし昨日の彼は、鍵をかけずに実習室を出てしまった。
桜は静かにうなずき、低い声で言った。
「わかったわ。吉岡、責めない。忘れることは誰にでもあるもの」
その声は柔らかく、部屋の中の重苦しい空気を少しだけ和らげる。
あおいが、静かに口を開いた。
「じゃあ、つまり……犯人は昨日の放課後、吉岡先輩が実習室を出てから、今日の昼、岡部先輩が見つけるまでの間にドレスを引き裂いたってことですよね」
すると夏樹が文庫本を片手に、軽い口調で言った。
「外部犯だろ」
みんなが一瞬、顔を見合わせる。夏樹は普段通りのクールな表情のまま、静かに本に目を落としている。
「いつも実習室を利用している手芸部の誰かが犯人なら、最後まで残って引き裂けばいいだけの話だ。いつでもできる」
あおいが眉をひそめる。
「つまり、このタイミングを狙ったってこと?」
夏樹はゆっくり本を閉じ、ちらりと部屋の天井を見上げる。
「そう。実習室に鍵がかかっていなかったこのタイミングを狙ったということは、普段自由に実習室に出入りできない人間、手芸部以外の誰か、ということになるんじゃない?」
牛針が口を開いた。
「まあ、確かに……」
しかし糸島は眉をひそめ、首を傾げながら反論する。
「いや、私は犯人は手芸部の誰かである可能性が高いと思います」
その言葉に、夏樹がふっと顔を上げて糸島を見た。無言の間、視線だけで何かを測るように。
牛針が小さく息を呑む。
「手芸部の誰かが?」
岡部は口元に手を当て、驚きの色を隠せない。
「そんな……」
桜も軽く首を傾げる。
「どういうことかしら」
糸島はトルソーにかけられたままの、無惨に裂かれたドレスの裾をそっと持ち上げた。
「このドレスの構造を見てください。上はシルク、下はオーガンジーです」
陽の当たらない実習室の午後、光が透けて、裂け目から細い糸の筋が光って見える。
「上の部分には明確な刃物のあとがあります。けれど、下――オーガンジーの部分には刃の跡がない。これは手で引き裂かれた痕です」
誰も言葉を発しなかった。
ミシンの針が止まったままの作業台が並び、漂う糸くずと布のにおいが、いつもよりずっと重く感じられた。
「つまり、上は刃物で切られ、下は手で引き裂かれている。なぜ全部を刃物でやらなかったのか」
糸島は少し間を置き、静かに続けた。
「皆さんご存じの通り、オーガンジーは手で引き裂くことが容易な生地です。けれども、吊るされた状態のまま刃物で切ろうとすると、生地が滑って逃げてしまう。固定されていないオーガンジーに刃を入れるのは、けっこう手間です」
桜が腕を組んだまま、わずかにうなずく。
「……たしかに。オーガンジーは滑る」
「はい。だから、手芸に詳しい人なら『オーガンジーは、刃物より手で裂いたほうが早い』と判断したはずです」
糸島の声は、静かに張り詰めていた。
「そんなの、知識がなくても手触りとかで判断できるだろ。それにオーガンジーを刃物で切り裂くこともできないわけじゃない」
夏樹が、椅子の背にもたれながら言った。彼の言葉には少しの挑発が混じっているように聞こえた。
糸島は、視線をまっすぐに向けたまま、わずかに首を横に振った。
「もう一つ、気づいたことがあります。犯人は、上のシルクを切り裂くのにカッターを使いました」
「なんでカッターだと分かるの?」
牛針が眉を寄せて尋ねた。
「落ちてました」
糸島は、ドレスのそば、床の端を指さした。そこには緑色のテープが巻かれたカッターが、光を反射して転がっている。
「これ、実習室のやつです。ほら、ここに」
テープの上に、黒いマジックで『2』と書かれていた。
「……あ」
岡部が小さく息を呑んだ。
「手芸部の道具には、全部番号を振ってあるの。誰が使ってもどこに戻せばいいかわかるように。私が、そう決めたの」と桜が言った。
カッターは全部で3本。それぞれ『1』『2』『3』と番号が振られている。
「皆さんもご存じの通り、『2』のカッター以外の切れ味はひどいです」
糸島が言うと、何人かの部員が小さくうなずいた。
「そうね、最近『1』と『3』は全然切れなかった。刃を変えなきゃって話してたわ」
牛針が思い出したように言う。
「犯人が『2』を使っているということは、『2』が一番切れるカッターだって知っていたからってことかい?」
湯川が腕を組みながら言った。
「でもそれなら、犯人が三つのカッターの切れ味を確かめて、一番切れ味がいいものを選んだのかもしれない」
糸島は小さく首を傾げた。
「だとしたら、『1』と『3』だけ元あった場所に戻すというのは不自然です。三つとも床に放るか、もしくは三つとも戻すか、だと思います」
「……つまり?」と牛針。
「つまり犯人は、最初から切りやすい『2』のカッターを選んだ可能性が高いわけです」
教室の空気が、少し冷たくなったような気がした。
「そのことは、手芸部員しか知らない」
桜の声は、低く静かだった。
夏樹が目を細めた。
「たまたま、『2』を選んだってことは?」
「可能性はもちろんある」
糸島は慎重に言葉を選びながら続ける。
「けど、手芸部員以外だとすると、どの引き出しにカッターがあるかもわからない。もし最初からドレスを傷つけるつもりだったなら、カッターくらい持参するはずです」
桜が静かにうなずいた。
「確かに。そもそも、この部屋にカッターがあるかどうか、外部の人は知らないでしょうね」
「それでも、外部犯の線が消えたわけじゃない」と夏樹が言った。
「もちろん」糸島はうなずいた。
「ただ――内部犯である方が、自然だと思う」
その言葉に、部屋の温度がもう一段下がったように感じた。
桜は唇を引き結び、牛針は俯いた。岡部がそっとペンを握りしめる音が聞こえる。
窓の外では、放課後のグラウンドを吹き抜ける風が、遠くの砂埃を舞い上げていた。実習室の中には、糸と布のにおい、それに、どこか焦げつくような緊張が漂っていた。
「だったら一番怪しいのは吉岡ね」
牛針が、少し震える声で言った。その口調には苛立ちが混じっていた。
「昨日、最後まで残っていたわけだし。それに、たまたま鍵がかかっていないことを知っていたのは、あんたしかいないんだから」
その瞬間、吉岡の肩がぴくりと動いた。顔面は蒼白で、唇がかすかに震えている。
「……違う。俺は、そんなこと……」
声はか細く、消え入りそうだった。
「たしかに、最後に出たのは俺だ。でも――」
「もうよさないか」
低い声が部屋を静めた。湯川だった。
三年生らしい落ち着きで、柔らかな口調のまま、全員を見渡す。
「責めたところで、真実には近づけない。あとのことは先生に任せればいい。これで手芸部内の関係に亀裂が入る方が、よほど問題だよ」
その言葉に、誰も何も言い返せなかった。
糸島も、唇を閉ざしたままうつむいた。
トルソーの下に散らばる布の破片が、まるで夕暮れの光のかけらのように見えた。糸の端が空気に揺れ、ひとすじの白い糸が風に踊る。窓の外では、吹奏楽部の練習音がかすかに響いていた。しかしその音さえ、どこか遠くの出来事のように感じられた。
噂は、翌朝にはすでに校内の隅々まで広がっていた。
「手芸部でドレスが破られたらしい」「犯人はまだ見つかってない」
廊下ですれ違うたびに、そんな声が小さく響いた。まるで風のように流れて、形を変えながら、誰の口からも同じ話題が漏れ出していた。
昼休み、手芸部の「当面の活動休止」が正式に告げられた。顧問の羽毛田先生の声が、どこか沈んでいた。
放課後、あおいが糸島の机に来て、そっと声をかけた。
「帰ろ。……今日はもう、部活ないし」
「うん」
二人は並んで昇降口を出た。校舎の影が長く伸び、アスファルトの上に二人の足音が軽く響いた。
「期末テスト、もうすぐだね」
あおいが言った。
「全然勉強してないや」
「わたしも。なんか、ドレスのことばっかり考えちゃって」
歩道を抜けると、夕方の風が頬を撫でた。線路沿いには赤茶けたフェンスが続き、踏切の音が遠くで鳴った。
「ねえ、」とあおいが声を上げた。
「佐久平駅前に、新しいパフェ屋さんができたって。行ってみない?」
「パフェ?」
「うん。テスト前に、ちょっとくらい甘いものいいでしょ」
糸島は少し考えて、ふっと笑った。
「……行こうか」
佐久平駅は、新しい街並みが広がる長野県東部の中心駅だ。
ガラス張りの自由通路が東西をつなぎ、駅の北側にはショッピングモールやカフェ、南側には住宅街が広がっている。
夕方のホームには、新幹線の白い車体が音もなく滑り込んでいた。
二人は駅前のロータリーを抜けて、ガラス張りのカフェに入った。
店内は明るく、白いタイルの床に木のテーブルが並び、空気はほのかに甘い香りがした。
入ってすぐ、あおいが「あっ」と声を上げた。
窓際の席に、ひとりの男子生徒が座っていた。制服の上着を脱ぎ、白いシャツの袖を肘までまくっている。
「……夏樹じゃん」
あおいが眉をしかめた。
「なに一人でパフェとか食ってんだよ」
糸島は少しあわてて、あおいの腕を引いた。
「やめなよ、別にいいじゃない。人が何食べてても」
「いや、でもさ、なんか似合わないっていうか」
夏樹は、そんな言葉にもまったく動じず、視線を上げて二人を見た。
「よう。偶然だな」
「偶然っていうか……」
「俺、甘いの好きなんだよ」
そう言って、フォークでパフェの上の生クリームを崩した。表情はいつも通りの無表情で、どこか飄々としていた。
糸島は少し笑って言った。
「夏樹くんも、一緒に食べない? こっちの席、空いてるし」
「え、ちょっと……」とあおいが小声で言ったが、糸島の優しい声に押されるように、三人は同じテーブルについた。
店員がメニューを持ってくる。
いちごパフェ、抹茶あずき、季節限定のシャインマスカット。
糸島は迷って「ベリーベリーパフェ」を、あおいは「ピスタチオとチョコレートのパフェ」を選んだ。
「夏樹くんは?」
「俺、さっき頼んだ。バナナチョコ」
「あんた、まだ食うの?」
空になりかけたグラスの底には、溶けたアイスの名残があった。
注文を終えると、自然に話題は例の事件のことへ向かった。店内の音楽が静かに流れる中、三人の声だけが小さく響く。
「ねえ、二人は去年のファッションショー行った?」
糸島がパフェのスプーンをくるくると回しながら言った。
「行ったよ、お母さんと。手芸部の作品展示も見たし」
「俺も行った」と夏樹。
「あの時もあのドレス、ひときわ目立ってたよね」
あおいがうっとりとした声で言う。
「ドレスは勿論そうなんだけど、あれを着ていた女の人のこともすごく印象に残ってて……あの人、誰だか知ってる?」糸島が尋ねた。
あおいは首を傾げた。
「ううん、分からない。でも、モデルの中でもなんか違った。雰囲気っていうか……服に着られてるんじゃなくて、ちゃんと着こなしてる感じだった」
夏樹がパフェの底をつつきながら、ぼそりと言った。
「サイズがぴったりだった」
「え?」と糸島が顔を上げる。
「つまり、あのウエディングドレスの型紙は、その人で採寸されたってこと。あの人が基準になってる」
糸島の脳裏に、トルソーに掛けられたドレスのラインが浮かんだ。ウエストのくびれ、裾の流れ。あの形が偶然のものでないことを、彼女はすぐに理解した。
「その女性って誰なんだろう」
夏樹は少しだけ眉を寄せた。
「多分、大野先輩の彼女」
「知ってるの?」とあおいが身を乗り出す。
「いや、詳しくは知らない。でも吉岡先輩が言ってた。『大野先輩はベストカップルにも選ばれていた』って」
「ベストカップル?」とあおいが首を傾げた。
「文化祭で毎年やるでしょ、あのイベント」
夏樹が、まるでどうでもいいことを言うようにスプーンを口に運ぶ。
「それに、ウエディングドレスなんだし、彼女以外の女に作る理由なんてないだろ」
スプーンの先から、チョコレートソースがとろりと垂れた。
「でも、素敵ね。彼氏からウエディングドレス作ってもらえるなんて。世界にひとつしかないんだよ」
「そうか?重いだろ、普通に」夏樹が冷たく言った。
あおいの瞳がきらりと光る。
「そういう言い方しなくてもいいじゃない。女にとっては特別なのよ」
「ドレスが特別なんじゃなくて、思い出が特別なんだろ」
二人の間に、わずかな火花が散った。糸島は慌てて間に割って入るように笑う。
「まあまあ、落ち着いて。価値観の違いってことで」
暫くして三人の注文したパフェが運ばれてきた。店員がトレイを置くと、テーブルの上が一気に華やぐ。
「わあ……!」
あおいの目がぱっと輝く。
「見てこれ、かわいすぎない?」
スマホを取り出して、角度を変えながら写真を撮る。糸島と夏樹のパフェも一緒に収めようとして、「ちょっと、スプーンどけて!」と笑った。
その笑顔を見て、糸島の胸の中の重さが、ほんの少しだけやわらいだ。
七月の初めに停止されていた手芸部の活動が、ようやく再開された。
引き裂かれたウエディングドレスは、そのままトルソーにかけられることになった。
大野先輩が夏休みに引き取りに来るとのことだが、彼は東京の大学に進学していて、夏休みまでは長野に戻らないらしい。それまで、あのドレスは実習室の隅で、静かに時間を過ごすことになる。
ドレスのことを口にする者もいない。話題にすれば糸がほつれるように空気が乱れるのを、皆が知っていた。
放課後のチャイムが鳴り、糸島が部室のドアを開けると、先に来ていたのは岡部だけだった。
窓のそばの席に座り、トーションレースを机に広げている。
小柄で、黒髪を耳の後ろでまとめている二年生。部内ではあまり目立たない存在だが、裁縫の腕は確かで、黙々と作業を続ける姿は糸島から見てもどこか職人めいていた。
「こんにちは」
糸島が声をかけると、岡部はゆっくり顔を上げて小さく会釈した。
それだけで会話は終わった。
しばらくのあいだ、部屋には糸が針に通される細い音だけが響いた。沈黙に耐えられなくなった糸島は、思いきって尋ねた。
「岡部先輩は、いま何を作ってるんですか?」
岡部は手を止め、少し考えるようにしてから答えた。
「コスプレ衣装」
その言葉が意外で、糸島は瞬きをした。
「コスプレ……ですか?」
「うん。文化祭のステージに出る友だちに頼まれてるの」
岡部の声は小さいが、話し始めると糸のように滑らかに続いた。
「去年も作ったんだ。白いブラウスと、青いケープ。アニメのキャラクターで、細かい装飾が多くて大変だったけど、楽しかったよ。ああいう衣装って、日常の服よりも自由に縫えるから好き」
彼女の指先が、布端を撫でるように動く。
その横顔には、普段見えない情熱のようなものが微かに灯っていた。
「岡部先輩は、文化祭のファッションショーにも出たんですか?」
「私は出てないよ。ああいう舞台は苦手。裏方で針仕事してた」
「そうなんですね」
糸島は、机の上のレースを見つめながら言った。外の風が窓を揺らし、白いカーテンがやさしく波打った。
少しの沈黙があってから、糸島はおそるおそる切り出した。
「そういえば、去年のファッションショーで、ウエディングドレスを着ていたのって誰か知ってますか?」
岡部は糸通しを止め、わずかに首を傾げた。
「ウエディングドレス? ああ、大野先輩のやつ?」
「はい」
岡部は懐かしむように目を細めた。
「確か、大野先輩の彼女だったと思う。弓道部の道長ユキ先輩」
糸島の心臓が一度だけ強く跳ねた。
「……ユキ先輩?」
「うん。すごく綺麗な人だったよ。黒髪が長くて、背筋がまっすぐで。あのドレス、ユキ先輩にぴったりだった」
言葉を選ぶように、岡部は糸を巻き取る。
「二人はベストカップルにも選ばれてた。文化祭の恒例イベントでね。見た目も雰囲気もお似合いだったから、みんな納得してた」
岡部が机の下から、細い指で紙パックを取り出した。
「これ飲む?」
差し出されたのは、ミルクティーだった。夏なのに。
「あ、ありがとうございます」
岡部は自分の分を飲みながら、目を伏せたまま何も言わない。沈黙が続くけれど、不思議と居心地は悪くなかった。
ほどなくして、廊下の向こうから笑い声が近づいてくる。
ドアが開いて、牛針が大きな声で「おはよー!」と叫んだ。
そのあとに、あおいと夏樹、そして湯川と桜が続いて入ってくる。
一瞬で空気が変わる。
机の上に布地が広がり、アイロンのコードが伸び、糸巻きがころころと転がる。誰かが笑い、誰かが針を落とし、実習室はいつもの賑やかさを取り戻した。
表では、誰も事件のことなど気にしていないようだった。
