手芸部糸島の推理

 六月の初め。桐ノ宮高校は中間テスト期間に入り、校内の空気は少しだけぴりっとしていた。手芸ばかりはしていられない。学生の本分は、やはり勉強だった。
 手芸部も、例に漏れず活動停止。
 放課後の実習室には鍵がかけられ、いつも漂っている糸と布の匂いも、今はひっそりと沈黙の中にあった。
 糸島は、図書館の窓際の席に腰を下ろした。
 雨上がりのアスファルトが少しだけ湿っていて、蝉の声がまだ遠く、どこか頼りなげに聞こえていた。机の上には、世界史の教科書。
 薄いクリーム色のページをめくるたびに、紙の匂いが立ち上る。
「カール五世」「ルイ十四世」「ナポレオン」――。
 登場人物の名前を追っていると、まるで歴史の中に果てしない糸が通っているような気がした。けれど、どこまで読んでも、その糸はすぐに絡まってしまう。
「どうしてみんな、似たような名前なんだろ」
 思わず小さく呟いてしまう。
 カールもルイもヘンリーも、ページの上で何度も繰り返し現れては消える。そのたびにノートの端にメモを取っても、翌日にはすっかり忘れているのだった。
 でも、彼女が本当に気を取られてしまうのは、名前ではなかった。
 教科書の挿絵に描かれた、王の衣装や貴族のドレス。肩口の刺繍、袖のふくらみ、レースの模様。そんな細部ばかりが、目を奪って離さない。
 ルネサンスの肖像画を見つめているうちに、気づけば糸島は、布の種類を思い浮かべていた。
「このベールはオーガンジーかな、それともチュール?」
「この襟の縁取りは、手縫いのボビンレース?」
 気づけばノートの隅に、小さなドレスのスケッチを描いてしまっていた。
 我に返って、慌ててページをめくる。
「だめだ、集中しないと」
 けれど、集中という言葉ほど、難しいものはない。教科書の活字を追う目は、いつの間にか別の世界を探してしまう。誰もいない図書館の空気の中で、静けさが逆に思考を漂わせた。
 顔を上げると、あおいが照れくさそうに鼻を押さえていた。どうやら彼女も勉強に来ていたらしい。参考書を山のように積み上げ、鉛筆をくるくると回している。
「世界史、やってるの?」とあおい。
「うん、でも全然覚えられない。名前が多すぎて」
「わかる。私も昨日、ルイが大勢いるって気づいて、やる気なくした」
 ふたりで小さく笑った。
 図書館の静けさが一瞬だけ、やわらかくほどけた気がした。
 笑いが消えたあと、糸島はペンを握り直した。窓の外の空が、少しずつ茜に染まっていく。その光が、机の上の紙を金色に照らしている。
 針も糸もいらないけれど、勉強だって、きっと縫うことに似ている。一つひとつの知識を、丁寧に結びつけていく。そう思うと、ほんの少しだけ、気持ちが軽くなった。
 ペン先を走らせるたびに、ノートに小さな線が増えていく。まるで針目のように、白い紙に淡い模様が生まれていった。
 日が沈むころ、校内放送のチャイムが鳴った。
 図書館を出ると、風が湿り気を帯びて頬に触れた。

 長野の梅雨は、静けさと深い緑の季節だ。
 山々の稜線は白くけぶり、霧が谷を渡っては、民家の屋根や畑をやさしく包みこむ。
 朝、軒先の紫陽花がまだ眠たげに濡れていて、その青が、湿った空気のなかでいっそう鮮やかに見える。
 遠くでカッコウが鳴き、その声が森の奥から何度も反響して聞こえる。
 糸のような雨が降り続けるその間に、自然がゆっくりと息を整え、夏の準備をしているのがわかる。
 テスト期間が終わった校内の静かな湿り気のなかで、糸島は困惑していた。
 高校に入ってからは、もう手芸だけに没頭すると決めていた。針と糸だけが、自分の世界のすべてになるはずだったのに――なぜ、こうもたびたび小さな事件が起こるのだろう。
 まるで、平穏でいようとすればするほど、運命がいたずらに糸を絡めてくるようだった。
それは偶然か、それとも、彼女の中にまだ「中佐都中の糸島」が眠っているせいなのか。
 今日も今日とて、糸島はその渦中にいた。
 岡部の家で見つかった「黒い糸の手紙」が、すべての始まりだった。
 その日、手芸部の部室にはゆるやかな午後の空気が流れていた。
「ちょっと、みんな見てほしいものがあるの」
 岡部がそう言って、スマホを取り出した。どこか興奮したような表情をしている。
「新しい布の仕入れ情報とかか?」と湯川が軽い調子で言う。
「違います。これ、家の蔵で見つけたんです」
 岡部が画面を皆に向ける。そこには古びた布の写真が映っていた。
 灰色がかった麻布のような生地。そこに、黒い糸で何かが縫い取られている。
 一見すると、不規則なステッチ――。だが、よく見ると妙に規則的で、繰り返されるリズムのようなものがある。
 糸島は無言で画面に目を凝らしていた。
 写真の布は、光を吸い込むように鈍く沈んでいる。生地の目は荒く、古びて、ところどころに小さなほつれ。
 だが、黒糸の部分だけが異様にくっきりと残っていた。
「……ランニングステッチと、フレンチノット」
「え?」とあおいが聞き返す。
「まっすぐ縫うのがランニングステッチ。小さな粒みたいに見えるのがフレンチノット。その二つで構成されてますね」
 糸島はそう言って、画面に指を走らせる。
 窓の外で、ツバメの声が遠くに響いていた。
「その布、どこにあったんですか?」と糸島が訊ねた。
「うちの蔵。ずっと閉め切ってた古い蔵なんだけど、母が整理してたら見つかったの。木箱の中に入ってて、他にも昔の裁縫道具とかが出てきた」
「へえ、蔵か。岡部の家って、けっこう歴史あるんだね」と湯川が感心したように言う。
「うん。明治の頃からあるみたいです。曽祖父の代には養蚕もやってたみたい」
「その頃の布かな」と糸島。
「うーん、どうだろう。母も『ずいぶん古いけど、いつのものかはわからない』って」
「実物はあるの?」と桜が訊く。
「はい。家にあるけど、ちょっと湿気てるから今日は持ってきてないんです」
 あおいが机の上のボタン瓶を手で転がしながら言う。
「でもさ、わざわざ黒い糸で模様みたいなの縫うって、ちょっと怖くない? 呪いとかだったりして」
 確かに、縫い目のひとつひとつに、意志のようなものを感じる。
「岡部先輩」
「なに?」
「この黒糸、色が退色してます。でも赤みがかってる。たぶん植物染料。いまの合成染料じゃこんな色落ち方はしません」
「へえ、さすが糸島さん。じゃあ、やっぱりかなり古いんだ」
「はい。糸の撚りも少し甘いし、スフっぽい手触りに見える。もしそうなら、昭和の戦中あたりかも……。先輩、その布。今度、実物を持ってきてもらえますか?」
「うん。明日でもいい?」
「はい。できれば、布の裏側も見たいので。縫い始めと縫い終わり、玉止めの仕方に、何か手がかりがあるかもしれない」
「まるで探偵みたいだな」と湯川が笑った。
 翌日の放課後、校舎の外では、雨が静かに降り続いていた。その湿った空気の中で、岡部がそっと風呂敷をほどいた。
「持ってきたわ。これが、例の黒い糸の手紙」
 部員たちの視線が、一斉にその布へ集まる。
 岡部が慎重に取り出したのは、掌ほどの大きさの布片だった。灰色がかった布地に、黒い糸で不規則な模様が縫い取られている。縫い目の方向も長さもまちまちで、どこか焦燥を帯びたような、切迫した手の動きが刻まれていた。
 糸島は、机の上にそっと布を広げた。
 まるで医者が患者を診察するように、息を潜め、指先で布の表面をなぞる。
「やっぱり」
 小さくつぶやいた。
「やっぱり?」と桜がのぞきこむ。
「ややざらついてる。絹みたいな滑らかさはないし、木綿ほど強くもない。スフだと思います」
 スフ。
 その言葉に、湯川が首をかしげた。
「あのさ、スフって何?」
「ステープル・ファイバー。再生繊維の一種です。戦時中、絹とか木綿が軍需品で不足して、代わりにたくさん使われてたんです」
 糸島は、光の角度を変えながら布の繊維を観察した。
 指先で少し引くと、糸の撚りが不均一にほどける。
 布の上をなぞっていた糸島の指が、ふと黒い縫い糸の色合いで止まった。
「ログウッド」
 糸島の声が低くなる。
「たぶん、昭和の初め頃の染め方です。つまり、これは――戦時中の布だと思う」
 糸島はそう言って、少しだけ我に返ったように笑った。
「まあ、あくまで推測ですけど……」
「いや、すごいよ。そんなことまでわかるなんて」と湯川が感嘆の声を上げる。
 岡部は、少し沈んだ声で言った。
「そういえば……うちの曾祖父、太平洋戦争に出兵したって聞いたことがあるの。パプアニューギニアで戦死したって」
 部室の空気が、少しだけ重くなった。
 窓の外で雨が降り始め、遠くの空をくぐもらせている。
「あの、もしかしたら」
 あおいが、おそるおそる口を開いた。
「戦線で亡くなる前に、家族に何か伝えたかったのかも。この布、手紙の代わりに残したとか」
 桜は、その言葉にゆっくりとうなずいた。
「手元に手紙も、ペンもなかったのね。だから、針と糸で、言葉を縫った」
 彼女は、黒い縫い目を指先でなぞりながら言った。
「手紙もペンもないのに、どうして針と糸は持っていたんだろ?」とあおい。
「戦時中、多くの軍隊では、軍装の修繕用具として針と糸を個人装備として持たされていたの。軍服が破れたら、自分で縫わなきゃいけなかったから。背嚢がほつれたり、靴下が破けたりしても、替えなんてなかった。だから、裁縫道具は必需品だったの。特に南方の戦地では、湿気と熱で布がすぐに傷む。衣服を直せないことは、そのまま命に関わることだった」
 誰もすぐには言葉を返さなかった。
 糸の交差が、まるで息づくように沈黙をつないでいた。
 やがて、夏樹が小さくつぶやいた。
「糸で書かれた手紙か」
 糸島は頷きながらも、まだ何かに心を引っかけたような表情をしていた。
「けど、不思議なの。これ、ただの模様には見えないのに、意味のある文字でもない。……何か、隠されてる気がする」
 その目は、糸の一本一本を追うように静かに動く。
「もしかして、これって――暗号?」
 湯川が思わず言った瞬間、糸島の指先が止まった。
 彼女は、黒い縫い目を見つめたまま、ぽつりとつぶやく。
「ランニングステッチと、フレンチノット。線と、点」
 そして顔を上げた。
「モールス信号」
 部室にいた全員が、一瞬息をのんだ。
 雨脚が強まり、窓に当たる音が、まるで遠い戦地から届く鼓動のように響いていた。

 その日の考察は、結局途中で終わった。
 岡部が布を風呂敷に包み直すと、部室の空気はゆるやかに日常へ戻っていった。しかし、ミシンの針が布を貫くたび、誰もがふと、あの黒い糸の縫い目を思い出していた。
 ランニングステッチの細い線。フレンチノットの小さな点。
 ――あの縫い目には、何が書かれていたのだろう。
 雨音が静かに部室を包み、外の光が薄暗くなっていく。糸島はミシンの手を止め、窓の方へ視線を向けた。
 部屋を見つめるオレンジ色のドレスが、雨にあおられた風でゆらりと揺れた。その揺れ方が、いつもと少し違って見えた。
 オレンジの布地が光を吸い、薄暗い空気の中で淡く浮かび上がっていた。
 その日の部活は、予定より早く切り上げられた。
 皆が片づけを終えて帰り支度をするころには、雨はさらに強くなり、部室の外の廊下には水たまりができていた。
 翌朝。
 雨は上がっていたが、空はまだ薄い鉛色をしていた。
 登校してきた岡部が、興奮気味に手芸部の部室へ駆け込んできた。
「みんな、聞いて。おばあちゃんから聞いたの」
 糸島たちは手を止めた。岡部の目は、いつになく真剣だった。
「曾祖父、通信兵だったらしいの。戦地で電信の仕事をしてたって」
「通信兵……!」と湯川が声を上げた。
 糸島が小さくつぶやいた。
「やっぱりこれはモールス信号だ。おそらく、欧文じゃなくて和文のほうだと思う」
 糸島とあおいの二人は机の上に布を広げ、スマホを取り出した。
 画面には、和文モールス信号の一覧表。
 糸島が指で縫い目をなぞる。
「まず、点二つ、線、点、線。これで『ミ』」
 あおいが続ける。
「次は……線、点、線三つ。『エ』?」
 針目を追いながら、ふたりは少しずつ言葉を紡いでいく。
 ほつれた縫い目の中から、まるで遠い声が少しずつ浮かび上がってくるようだった。
 岡部はその様子を、息を呑んで見守っていた。
 ――曾祖父が、戦地で、家族に伝えたかった言葉。
 それが今、自分たちの手で読み解かれようとしている。
 雨上がりの光が窓から差し込み、机の上の黒い糸がかすかにきらめいた。
「ヲ、タ、ノ、ム……」
 静寂が部屋を包み込んだ。
 雨の音が、いっそう近くに聞こえる。
 そして、糸島は最後の符号に目を落とした。
「アリガトウ」
 その瞬間、部室の空気が少し震えたような気がした。
 湯川が小さく息をのむ。
 できあがった文字は「ミエコヲタノム アリガトウ」。
「ミエコって?」
 湯川が顔を上げる。
 岡部はしばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「うちの祖母の名前です。岡部三重子」
 誰もが言葉を失った。
 雨の音だけが、すこし遠くで続いていた。
「祖母がまだ子どもだった頃、曾祖父は戦争に行って、帰ってこなかったって。でも、祖母がよく言ってたんです。あの人は、きっとどこかで私たちを想ってくれていたはずだって」
 あおいが小さく頷く。
「ほんとに手紙だったんだね。言葉を、糸で縫った手紙」
 糸島はその布をもう一度見つめた。
 細い糸が、年月に耐えて残っている。
 赤茶けた黒――植物染料の色が、長い時間を経て柔らかく褪せている。
「きっと、この布を日本に持ち帰ったのは、同じ部隊にいた誰かだと思います」
 糸島の声は、雨音に溶けて消えそうに静かだった。
「曾祖父さんが託した最後の手紙を、誰かが責任を持って届けてくれたんでしょうね」
 岡部は、布を静かにたたんだ。
 それは、長い時間を超えて届いた「ありがとう」の重みを、そっと受け止めるような仕草だった。

 梅雨がようやく明けた。朝から照りつける日差しがアスファルトを白く染め、空気の中に、夏の匂いが漂っていた。
 糸島は、放課後の昇降口を出たところで、偶然夏樹に会った。
「おう」
 夏樹は、肩にカバンをかけたまま軽く手を上げた。いつもより少し眩しそうな顔をしている。
「夏樹くん」
 糸島も小さく頭を下げた。
 部活が休みだったせいか、校門から千曲川へ続く道には、人影がまばらだった。
 二人は、並んで歩き出した。
 川の水はまだ少し濁っていて、梅雨の名残を抱えている。でも空はもう夏で、雲の形もどこか伸びやかだった。
「俺、これから夏服買いに行くんだけど」
 夏樹が唐突に言った。
「一緒に行くか?」
「え?」
 糸島は少し驚いて立ち止まった。
 けれど、夏の光に押されるように「いいよ」と答えていた。
 佐久平駅前のショッピングモールは、休日のように人が多かった。天井の高いフロアには冷房の風が循環していて、外の熱気が嘘のようだった。
 夏樹はスポーツブランドの店に入り、Tシャツのラックをめくっていく。
「どう思う?」と、無造作に一枚を持ち上げて糸島に見せる。
「うーん」
 糸島は少し首をかしげて、生地の端を指でつまんだ。
「ポリかな。これ、吸汗速乾って書いてあるけど、織りが粗いから、汗が乾く前に少し張りつくかも」
「張りつく?」
 夏樹は思わず自分のTシャツを見下ろした。
 糸島はくすっと笑って、別の棚を指さす。
「こっちのは平織りで、糸の密度が細かいから、肌触りがさらっとしてるよ。夏に着るならこっちの方がいいと思う」
 夏樹は「なるほどな」と頷いて、その棚から一枚を取った。
 糸島が、服を「見る」のではなく、「縫い目で読む」ように観察していることが伝わってきた。
「糸島って、服のことなら何でもわかるんだな」
「そんなことないよ。ただ、縫ってあるものを見ると、どうしても気になっちゃうだけ」
「たとえば?」
 糸島は、陳列されているシャツの袖口を指差した。
「このカフスのステッチ、ミシンの針目が少し荒いでしょ? たぶん量産ラインの調整が甘いんだと思う。でも、この店の奥にあるこっちのシャツは、針目が均等。裾の始末もきれい。工場が違うんじゃないかな」
 夏樹は思わず笑った。
「まるで職人だな」
「職業病みたいなもの、かな」
 糸島は照れくさそうに言った。
 二人は店を出て、モールの中を歩いた。吹き抜けの通路から見下ろすと、人の流れが布の模様のように見えた。
 ハンバーガーショップは、夕方の喧噪がようやく落ち着きはじめた頃だった。冷房の風が少し強すぎて、糸島は指先を擦りながら席に着いた。
 夏樹は迷うことなくダブルチーズバーガーとベーコンレタスバーガー、それにポテトのLサイズを注文していて、カウンターのスタッフが一瞬驚いた顔をしていた。
 糸島は迷った末にアップルパイとアイスティーだけ。トレイの上がすこし寂しいようにも見えた。
「少食なんだな」
 夏樹が紙包みを開けながら言った。
「夕飯、食べれなくなっちゃうから」
 糸島は笑って答えた。アップルパイの箱を開けると、甘いシナモンの香りがふわりと立ち上がる。外は雨上がりの光が白く滲んでいて、モールの窓ガラスに反射していた。
 夏樹はハンバーガーをひと口で半分近く食べ、すぐにポテトをつまんだ。細身の体のどこにそんな量が入るのだろう、と糸島は不思議に思った。
 二人の席は窓際。通路を行き交う人たちの姿が映り込んで、ガラス越しに時間だけが穏やかに流れていく。はたから見たら、たぶんカップルに見えるのだろう。糸島は少しだけ頬を熱くした。
「糸島ってもしかして、『シャネルドレス事件』の糸島?」
 ハンバーガーを持ったまま、夏樹が不意に言った。
「……うん、まあね」
 糸島は視線をアップルパイに落とした。
「でも、その呼び名は好きじゃないの。私は、『糸島綾』」
 声は静かで、油を吸ったトレイの紙のしみのようにじわりと滲んでいった。
「悪い」
 夏樹は少し眉を下げた。
「あ、いや。夏樹くんが謝ることじゃないけど」
「俺も同じ」
 夏樹は空になったバーガーの包みを丸めながら言った。
「親が有名人だから、俺もよく言われる。『橘正二の息子』ってね。どんなに頑張っても、名前の影から抜けられないっていうかさ」
「……そうだったんだ」
「まあ、あんまり言いたくないんだけど」
 夏樹は照れくさそうに笑い、ストローをいじった。
「糸島綾、か」
 ふと、夏樹がつぶやくように言った。
「手芸をやるために生まれたみたいな名前だな」
 糸島は、その言葉に少しだけ息をのんだ。 
 アップルパイの端をフォークで割ると、カリッという音がした。夏樹のトレイの紙には、バーガーの油が円を描いて染みていた。

 風がやわらかくなり、校庭のハイビスカスが咲きはじめた。
 窓を開けると糸と花粉が一緒に舞いこんでくる。
 ミシンの音。糸を通す息づかい。それらの間に、静かに桜の笑い声がまじる。
「そのスカートの裾、もうちょっとだけ内側に折ったほうが綺麗かも」
「はい。ありがとうございます」
 桜の指示はいつも柔らかい。強くも弱くもない声で、きちんと相手の耳に届く。
 その穏やかなやり取りの向こうで、少し険のある声が飛んだ。
「水橋、目が斜めになってる」
「えっ、そんなことないでしょ」
「なってるって。もう少し角度見て」
「夏樹こそ、細かすぎるんだよ。これくらいズレてても着たら分かんないって」
「分かるよ。少なくとも俺には」
 二人は、何かにつけてぶつかる。
 あおいは大胆で、手が早い。夏樹は几帳面で、完成度にこだわる。どちらも真剣で、どちらも譲らない。
「まあまあ、いいじゃない」と桜が笑って割って入る。
「二人とも、手段が違うだけで目指してる場所は一緒なんだから」
「場所?」とあおい。
「うん。いいものを作りたいっていう気持ち」
 この部には、緊張とやわらかさが同居している。それを保っているのが、三年生の桜と湯川だった。
 その週の金曜日。「たまには針を置いて遊びに行こう!」という吉岡の提案で、手芸部の八人はボウリング場に来ていた。
 学校帰りの制服のまま、貸靴を履いて、ボールを選ぶ。
 岡部がピンクの軽いボールを手に取り、「これ、可愛い」と言うと、牛針が「じゃあ私それの青にする」と負けじとボールを選んだ。
「糸島は?」と牛針。
「えっと……この緑の、軽いやつで」
「初心者っぽいね」とあおいが笑う。
「うん。初心者です」
 糸島も笑って答えた。
「じゃ、順番は……桜先輩から!」
 吉岡が勢いよく手を叩く。
 桜はすっと助走をつけて、軽やかに投げた。ストライクではなかったけれど、ピンがきれいに倒れた。
「さすが桜先輩!」
「いやいや、まぐれだよ」
 次は吉岡。勢いだけは誰よりもある。
 ボールは隣のレーンまで飛び出しそうになって、店員が慌てた。
「ちょっとー!危ないって!」
「ごめんなさーい!」とぺこぺこする吉岡。
 笑い声の中で、あおいと夏樹が並んだ。
「負けないからね」とあおい。
 ボウリングでも勝負が始まるらしい。
 結果、夏樹は丁寧にスコアを伸ばし、あおいは勢いでガターを連発。
「ずるい、計算して投げてるでしょ!」
「それがボウリングだし」
 そんなやり取りを見て、湯川が笑って肩をすくめた。
「あの二人、仲悪いようで仲いいよね」
「たぶん、似てるんだと思います」と糸島が言う。
 季節はゆっくりと流れていった。放課後の実習室にはいつも誰かの笑い声があった。糸くずが散らばった机、湯気の立つアイロン、窓の外のやわらかな陽射し。それらすべてが、この部の空気を形づくっていた。
 あおいと夏樹は相変わらず意見が合わず、色合わせでも縫い方でも、何かと小さな口論をしていた。けれどその口調の奥には、どこか楽しげな響きがあった。
 湯川はそんな二人を眺めては、やれやれと肩をすくめ、糸島は笑いながら、針山の整理をしていた。
 休日には手芸屋を巡り、リボンの色で長い時間悩み、それでも最後は「おそろいにしよう」と笑い合う。
 テスト前には、図案帳のすみっこに予想問題を走り書きしながら、教室の隅で小さな輪ができた。
 誰もがそれぞれの悩みを抱えていた。
 けれど、針と糸のあいだにいる時間だけは、すべてがやさしく整えられていくようだった。
 ボウリング場での笑い声も、実習室の静けさも、すべてがこの部の「日常」だった。
 特別なことなど、何ひとつ起こらない。けれど、その穏やかな時間こそが、彼女たちにとっていちばんの宝物だった。
 しかし、その平穏を引き裂くように、事件は翌日の放課後に起こった。