手芸部糸島の推理

 校庭の桜は満開をすこし過ぎ、薄い花びらが風に乗って制服の肩にひらりと落ちてくる。
 糸島はそのたびに手で払って、それから少し笑った。
 胸の奥がずっとざわついている。入学式が終わったばかりで、世界が少し新しい音を立てて動き出したようだった。
 あおいとは、クラスが別になった。
「見学、行こっか」
 昼の光のなかで、あおいが言った。
「もちろん」
 それだけで、糸島はうれしかった。
 二人は並んで、渡り廊下の先にある特別棟へと歩いた。
 手芸部の部室は二階にあり、細い階段を上ると、木の匂いと糸の匂いが混ざったような空気が流れてくる。
 ドアの向こうから、かすかなミシンの音が聞こえていた。
 一定のリズムで針が上下する。その音だけで、糸島は少し安心した。ノックをして扉を開けると、午後の光がすっと差し込んだ。部屋の奥で、ひとりの男子生徒がミシンに向かっていた。短い黒髪、無表情。肩越しにこちらをちらりと見ただけで、また作業に戻る。
「こんにちは。見学、いいですか」
 糸島が声をかけると、彼は一拍置いて言った。
「俺も一年だから」
 それきりだった。
 糸島とあおいはそっと部屋に入り、周囲を見渡した。実習台の上には、裁ちばさみやチャコペン、糸巻き。
 そして窓際には、トルソーが立っていた。ナガミヒナゲシのような可憐なオレンジ色のウエディングドレス。胸もとから裾へと続くグラデーションが、まるで夕暮れを抱いているようだった。
 糸島は息をのんだ。
 何度も写真で見たはずなのに、実物は想像よりもずっと、生きているみたいだった。
「すごい……」
 あおいが小さく呟く。
「去年のグランプリ作品だって。大野先輩の」
 無愛想な男子生徒が、針を止めずに言った。その声は淡々としていたけれど、どこか誇らしげでもあった。
 ドレスの裾が、ほんの少し揺れたように見えた。光が透けて、糸の一筋一筋までがきらめいている。糸島は手を伸ばしたくなる衝動を、なんとか抑えた。
「綾、これ、ほんとに布なの?」
「うん。すごいよね」
 そのとき、奥の机から明るい声が響いた。
「おーい、針、どこ置いたっけー」
 ミシン台の向こうから、二年生らしき男子が顔を出した。
 癖のある茶髪で、笑うと歯がまぶしいほど白い。
「見学? いらっしゃーい! 俺、二年の吉岡」
 テンションがやけに高い。
「いま、シャツ縫ってるんだ。あっち見てていいよ」
 机の上には、途中まで縫われた女性用のシャツがあった。
 糸島は近づいて、ふと目を細めた。そして、控えめな声で言った。「あの、先輩。言いにくいんですけど……ボタンとボタンホールの位置、あべこべです。男女逆なんで」
「え?」
 吉岡が手を止めて、シャツを裏返した。
「うおっ、しまった! またやった!」
 その声が、部屋いっぱいに響いた。
 あおいが笑いをこらえて肩を揺らす。糸島は思わず口元に手をあてた。
 そのとき、部屋の奥からひとりの女子生徒が現れた。
 手には春色のコートを抱えている。三年生のバッジ。髪をゆるくまとめ、どこか凛とした雰囲気のある人だった。
「新入生?」
「はい。見学に来ました」
「そ。歓迎するわ。——あ、吉岡くん、またボタン逆?」
「ははっ、バレてた」
 彼女はため息をついて、けれど少し笑った。
「部長の岸本桜です」
 そう名乗ったとき、彼女の腕のなかのコートの袖がふわりと揺れた。
 淡いグレージュの生地が光を受けて、微かに艶めく。
 糸島はその一瞬を見逃さなかった。
「先輩の持っているそのコート、手作りですか?」
 桜は少し驚いたように目を丸くした。
「えっ。そうだけど、よくわかったわね」
「はい。単純な推理です」
 糸島は少し恥ずかしそうに、けれど自信をもって言葉を続けた。
「袖山のところに小さな縫い目の歪みがあります。既製品だとプレスでならすのでああはならないんです。それに、裾の表地がちょっとたるんでます、裏地が短すぎて引っ張られたのかと」
「なるほどね」
 桜は、ため息をまじえて笑った。
「まだまだ既製品には見られないか」
 その言葉に、夏樹が小さく「へえ」とつぶやいた。
「君、できるね」
 桜は満面の笑みを浮かべた。その笑顔に、糸島の胸がすこし高鳴る。
「ありがとう。見学、最後まで楽しんでいって」
 あおいが小声で「すごいね、綾」と囁く。
 糸島はただ微笑んで、答えなかった。窓の外では、春の光が少し傾きはじめていた。
 風が部室の中をすり抜け、トルソーのオレンジ色のドレスをほんのわずかに揺らした。
 その揺れは、まるでこれから始まる物語の予感のようだった。

 四月の風は、まだ少し冷たい。
 校庭の花びらが減っていくにつれて、学校の中も少しずつ落ち着きを取り戻していった。
 入学から一週間が過ぎたころ、糸島は正式に手芸部へ入部した。一緒に見学に来ていたあおいも迷わず入部届を出し、無愛想だった橘夏樹も、何の前触れもなく翌日から部室に現れた。
 新入生は三人。
 糸島、あおい、そして夏樹。
 部室の空気が、すこしだけ新しくなった。
 放課後の光が、窓の格子をすり抜けて、机の上の糸巻きをやさしく照らしている。針山の赤い頭が、そこだけ小さく光って見えた。
「ねえ」
 あおいが、隣の席の夏樹をちらりと見ながら言った。
「もしかしてさ、夏樹くんって……あの橘正二の息子さん?」
 夏樹は顔を上げなかった。
 ミシンのコードをまとめながら、淡々とした声で答えた。
「よく知ってるね」
「そりゃあね、有名だもん。だって橘正二って、ソーイング界のレジェンドでしょ?」
 あおいの声が、少し弾む。
 糸島は、静かに針を通しながらその会話を聞いていた。
 橘正二。国内外のファッションコンテストで数々の賞を受け、アトリエ〈Tachibana stitch works〉を主宰。「縫い目に魂を込める」という信条で知られ、彼の作品はステッチひとつにも微細な美が宿ると評される。美術館にも展示されるほどの、まさに縫製の芸術家だ。彼の名を知らぬ者は、裁縫を学ぶ者の中にはほとんどいない。
「小学生のとき、テレビで見たよ。針一本でドレスを作る人だって紹介されてた」
 あおいは目を輝かせて言った。
「ねえ、やっぱりすごいんだね、家でもそういう話とか——」
「親は関係ない」
 夏樹は、ぽつりと言った。
 その声音は驚くほど静かで、淡い拒絶のようなものを含んでいた。
 あおいはそれ以上何も言わず、指先で布をいじった。
 糸島はその空気を察して、そっと視線を手元に戻した。
 部長の岸本桜が拍手を一度鳴らして言った。
「さて。今週からは全員同じものを作るわよ。——一年生は、パフスリーブのブラウス。型紙を起こすところから」
 紙を広げる音が重なった。
 型紙用の方眼紙が光を受けて、やわらかく透けている。
 糸島は鉛筆を握り、肩の丸みに合わせてラインを描いていく。手が自然に動く。その横で、あおいは楽しげに首を傾げながら、袖山のカーブを慎重に引いていた。夏樹は定規も使わず、まるで感覚だけで正確な線を描いていく。
「今年の一年はレベル高いな……」
 二年の吉岡が、嘆くように言った。
 派手な口調のわりに、指先は器用で、ミシンの扱いは一番うまい。
 そんな彼の隣で、二人の女子が笑った。
 一人は牛針恵美。
 健康的な小麦色の肌で、いつもポニーテール。手芸部には珍しい、スポーツ部のような明るさを持っている。声が大きく、裏表のない性格。作るものも大胆で、色合わせのセンスが抜群だった。
 もう一人は岡部美咲。
 前髪が長く、少し猫背で、話すときに必ず袖をつまむ。そばかすが鼻にいくつか散っていて、それが彼女の表情をやわらかくしていた。おとなしいけれど、観察力が鋭く、縫い目のずれを誰よりも早く見つける。
 糸島はその二人を見ながら、いい雰囲気だな、と思った。声が飛び交っても、不思議と部室はうるさくならない。糸や布の音が、そのすべてを吸い込んでしまうから。
 そして三年生は二人だけ。
 部長の桜と、もう一人——湯川茂。
 湯川は、長身で姿勢がよく、どこか儚げな印象を持っていた。
 いつも静かに笑い、読み聞かせのような柔らかな言葉で話す。下級生にも「〜さん」と呼びかけるその口調には、不思議な品がある。淡い灰色の瞳が特徴的で、少し見つめられるだけで、糸島は胸がざわめいた。手先が驚くほど繊細で、縫うときは一切無駄な動きをしない。まるで祈るように針を運ぶ。
「三年になったから、本格的にドレスラインを研究する予定なんです」
 以前そう言ったときの声を、糸島は覚えていた。桜が柔らかく笑って「頼もしいわね」と返していたのも。
 そして顧問の羽毛田先生。家庭科の担当で、四十代半ば。
 いつも淡い色のカーディガンを羽織り、話すときには穏やかな笑みを絶やさない。けれど、生徒たちの針の運びを見つめるその目だけは、まるで糸の一本まで見通すように鋭かった。裁縫の腕は、もはや教師というより職人の域にある。手縫いでもミシンでも、縫い目の幅や糸の張りがすべて均一で、仕上がりは市販品よりも美しい。「縫い目には、その人の性格が出るのよ」と、よく言う。その言葉が決して冗談ではないことを、糸島はもう知っていた。
 糸と布のこすれる音。チャコペンのかすかな線。窓から差す陽の匂い。
 ——この部屋が、これから自分の居場所になる。
 そんな予感が、糸島の胸の奥に、ゆっくりと灯っていた。

 ある日の放課後、ミシンの列の向こうに、五体のマネキンが並んでいた。どれも少しずつ姿勢が違い、まるで人間のようにそこに立っている。
 糸島がドアを開けると、部屋の中では三人の二年生が深刻な顔をしてマネキンを見つめていた。
 牛針が、真ん中で腕を組み、眉間にしわを寄せている。その横では吉岡が椅子の背に腰を掛け、ため息をついていた。岡部は無言でノートをめくっていたが、どうも思考の糸口が見つからないようだった。
「あの、どうしたんですか?」
 糸島が声をかけると、牛針が顔を上げた。
「糸島、ちょうどいいところに来た。ちょっと見てほしいんだ」
「え?」
「謎だよ。これはまさしくね」
 牛針は少し芝居がかった調子で言い、マネキンの列の前に立った。
「ここに並んだ五体のマネキンを見て。どれも、手芸部の過去の先輩たちが作った作品なんだけど」
 糸島はマネキンたちを順に見ていった。
 一体目は淡いピンクのシフォンのブラウス。二体目はベージュのワンピース。三体目は紫のジャケットと青いパンツ。四体目は赤いイブニングドレス。五体目は紺のワークジャケット。
 どれもそれぞれの時代の息づかいを残していた。縫い目の深さや、糸の張り方が少しずつ違う。それが部の歴史を物語っているようだった。
「それでね」
 牛針はスマートフォンを取り出した。
「このメッセージを見てほしい」
 画面には、ラインのやり取りが映っていた。
【作業終わったよー】
【ありがとう。ちなみに、どれが印象に残った?】
【うーん。緑のやつ。売り物みたいだった】
 糸島は首をかしげた。
「緑のやつ……?」
「そう。緑のやつ」
 牛針は腕を組んだまま、静かに言った。
「でも、ここにある五着の中に、緑の服なんて一枚もないんだ。だから私は今、ものすごく混乱してる」
 吉岡が机に肘をつきながら言った。
「そのメッセージを送ってきたのは?」
「瑠璃」
「瑠璃さん?」
「うん、同じクラスの子。最近仲良くなって、手芸部の展示準備を手伝ってもらったんだ」
 牛針はマネキンのほうを見た。
「展示の準備中、私は職員室に書類を取りに行ったの。その間に、瑠璃が一人で全部着せ替えを終わらせてくれててね、戻ってきたらもういなかった。あとでこのメッセージが届いたの」
「作業終わったよー、って?」
「そう。そして『どれが印象に残った?』って聞いたら、『緑のやつ。売り物みたいだった』」
 糸島は並ぶマネキンをもう一度見渡した。どの服にも緑の要素はない。糸も、飾りも、リボンも。
 カーテンの色だって薄いクリーム色だ。
 蛍光灯の光が、春の午後のやわらかい日差しと混ざって、淡く部屋を照らしている。
「緑って……もしかして、布の裏地とかじゃないですか?」と糸島。
「それも考えた。でもどの作品にも、緑の裏地は使われてない」
 牛針の口調は穏やかだが、目の奥はどこか困惑していた。
「瑠璃にだけは見えているのか? 緑の服が」
 牛針が呟くと、吉岡が背中を伸ばして笑った。
「なんだよそれ、ホラーか? 幽霊服?」
「やめてよ」
 岡部が小さく笑う。その笑い声も、どこか曖昧で、春の風に溶けた。
 糸島は、マネキンの前にしゃがみこんだ。
 台座には、かすかに古い糸くずが絡みついている。埃が薄く積もり、誰も触れていなかった時間の気配がそこにあった。手で払うと、木の香りとワックスの匂いがふっと立ちのぼった。
「マネキンに着せた作品って、この部の卒業生たちが残したものですよね?」
「そうそう」
「どうやって選んだんですか?」
 糸島が訊くと、岡部が顔を上げた。
「ああ、それはね。桜部長から『今年の展示は二年生に任せる』って言われたの。だから、あの倉庫からよさそうな作品をピックアップしたんだ」
「倉庫から……」
 糸島は視線をマネキンから離し、実習室の奥の扉へ向かった。
 小さなガラス窓のついたその扉の向こうが、作品倉庫だ。ドアノブを回すと、金属のこすれる音がして、ひんやりとした空気が流れ出た。中は少し埃っぽく、布と木材の混じった匂いがする。薄暗い棚の上には、布のかたまりやドレスカバーが整然と並べられていた。手芸部の歴史が、静かに眠っているようだった。
 糸島はひとつひとつカバーをめくっていった。
 白、生成り、ピンク、紺。その中に、いくつか「緑」の服もあった。
 明るいミントグリーンのブラウス。モスグリーンのロングスカート。それから、少しくすんだオリーブ色のワンピース。
 しかしどれも――縫い目は甘く、仕上げも粗い。襟の形は歪んでいるし、裾の長さもばらばらだった。お世辞にも「売り物みたいだった」とは言いがたい。
 糸島はそのうちの一着を手に取ってみた。ミシン目が揃わず、糸の張りが不均一で、ところどころほつれかけている。生地も安価なコットンブロードで、手触りは悪くないが光沢がない。
 ふと、背後から牛針の声がした。
「何かあった?」
「いえ……緑の服はありました。でもどれも出来が悪くて」
「そうでしょ。あのあたりの代は、ちょっと手縫いが多かったからね」
「瑠璃先輩って、この倉庫の中に入ったんでしょうか?」
 糸島の問いに、牛針は少し考えてから首を振った。
「いや、入ってないはず。そもそもマネキンに着せる服は、最初にそれぞれの前に置いておいたんだ。瑠璃はそれを順番に着せていっただけ。倉庫に入る理由はないよ」
「となると、やっぱり」
 糸島は口の中で言葉を転がした。
「瑠璃先輩は、マネキンが着ている服のどれかを見て『緑のやつ。売り物みたいだった』って言ったことになりますね」
「そういうことになるね」
 牛針は小さく息をついた。
 実習室の奥の窓から、午後の光が差し込み、埃の粒がきらきらと浮かんでいる。静かな春の空気の中で、その言葉だけが残響のように響いた。
 糸島は再び部屋の中央に立ち、五体のマネキンを見渡した。
「光の反射、かな」
 誰にともなくつぶやく。光の加減によっては、ほんの一瞬、白いドレスの裾が淡い緑に見えた気がした。
 牛針が笑った。
「なるほど。そういう線もあるか。でもね、私が見てた時は、曇りだったんだ」
「曇り?」
「うん。展示の準備をしてたのは夕方。外はもう灰色で、光なんてほとんどなかった」
 糸島は、少し考え込むようにして腕を組んだ。マネキンの前で立ち止まりながら、静かに口を開いた。
「牛針先輩、瑠璃先輩が服を着せているとき、何か変わったことはありませんでしたか? どんな些細なことでも構いません」
 牛針は腕を組み直し、記憶をたぐるように目を細めた。
「そうだなあ。変わったことって言われると、難しいけど」
 少し間を置いて、思い出したように言った。
「マネキンに服を着せるのにけっこう苦労してたよ。やったことある人なら分かると思うけど、あれ、意外と難しいのよ。関節が動かないし、布地を傷めないようにしなきゃいけないし」
「はい」
「瑠璃って器用な方なんだけど、あの日はやたら時間がかかってて。そういえば、たぶんあの三体目のマネキンだったかな。紫のジャケットと青いパンツのコーディネートのやつ」
 牛針は顎に指を当てて、天井を見上げる。
「そのときに『これ、セットアップだよね?』って言われたの」
「セットアップ?」
「うん。紫のジャケットと青いパンツ。色が違うし、普通に見ればセットアップじゃないのに、そう言い切るもんだからさ。まあ、見えなくもないのかなと思って、軽く流しちゃったんだけどね」
 牛針は少し笑ったが、その笑みはすぐに消えた。
「それくらいかな。あとは特に……」
 糸島は静かにうなずいた。
「なるほど」
 視線をマネキンたちに移す。
 紫のジャケット。青いパンツ。並べられた五体のマネキンの中で、その組み合わせだけが少し異質に見えた。
 思考が静かに回りはじめる。
 そんな糸島の背中を見ながら、少し離れた場所で吉岡が岡部にひそひそと囁いた。
「ねえ、糸島ってさ……もしかして探偵か何かなの?」
 岡部は目を瞬かせる。
「え?」
「だってさ、様子がさ。なんか現場検証してる人みたいじゃない?」
 岡部は小さく笑い、首を傾げた。
「ううん、違うと思うけど……。でも、ちょっと聞いたことあるかも」
「聞いたこと?」
「ほら、『中佐都中の糸島』って、知らない?」
 吉岡の目が少し大きくなる。
「え、もしかして――あの?」
「そう、『シャネルドレス窃盗事件』」
 その言葉を聞いて、糸島の手がわずかに止まった。しかし振り向かず、マネキンの裾をそっと持ち上げる仕草を続けた。
「たしか、博物館の服飾展で、展示されてたシャネルのドレスが盗まれた事件。ニュースになってたでしょ?」と岡部が言った。
「うん、覚えてる! あれ、博物館に偶然見学に来てた中学生が解決したって」
「そう。解決した中学生の名字が糸島」
 吉岡は思わず糸島の背中を見た。
 無言でしゃがみこみ、マネキンの台座のネジを外している。
 その仕草には、確信と静けさがあった。彼女の視線の先に何が見えているのか、誰にもわからなかった。
「どう? 糸島」
 牛針の声が、春の午後のやわらかな光を裂くように響いた。
 糸島は少しだけ考え込むようにマネキンを見つめていた。紫のジャケットと青のパンツ。どちらも丁寧に仕立てられ、襟のラインも滑らかだ。だが、それを見ている糸島の表情には、どこか小さな違和感があった。
「思いつくことはあります」
 糸島は静かに言った。
「でも、もう一つくらい欲しいんです。確証のために」
「もう一つ?」と吉岡が首を傾げる。
「はい。瑠璃先輩について、『緑色』に関するエピソードって何かありませんか?」
 牛針は「緑……」と呟き、少し顎に手を当てた。
「緑、ねえ。服の話以外で?」
「なんでもいいんです。好きな色とか、持ち物の色でも」
「うーん……」
 牛針は腕を組みながら視線を天井へ彷徨わせた。岡部と吉岡も顔を見合わせる。少しの沈黙が流れたあと、牛針が「あ」と声をあげた。
「まあ、関係ないかもしれないけど――」
「なんですか?」
「瑠璃とのラインでね、よく緑のハートが送られてくるのよ」
「ハート?」と糸島が聞き返す。
「うん、ほら」
 牛針はスマホを取り出し、ラインのやり取りをスクロールした。画面には、クラスの連絡や世間話が並んでいる。
 緑色のハートが、ところどころに浮かんでいた。まるで文末の息継ぎのように。
 糸島は画面を覗き込み、ほんのわずかに息をのんだ。
「多分、わかりました」
 牛針、岡部、吉岡の三人が同時に顔を上げた。
「え、分かったの? もう?」と吉岡。
 糸島は静かに頷いた。
「はい、たぶん」
 その声は小さいが、どこか確信に満ちていた。
 春の午後の光が、カーテン越しに差し込んでいた。白いマネキンの肩を照らし、糸島の影が長く床に伸びる。
「瑠璃先輩の印象に残ったドレス、それはおそらくこれです」
 糸島は、四体目のマネキンの前に立ち、静かに指を差した。
 赤いイブニングドレス。深い紅のサテン地が光を受け、静かに波のような艶を放っている。肩のラインは繊細で、ウエストの切り替えも完璧。裾に向かって軽やかに広がるシルエットは、まるで炎のようでもあった。
「全然、緑じゃないじゃん」と吉岡が口を開いた。
「うん、どこからどう見ても赤」と岡部も頷く。
 牛針がゆっくりと糸島の方を見つめた。
「瑠璃には、これが緑に見えたってこと?」
 糸島は静かに頷いた。
「はい。たぶん――瑠璃先輩は色覚特性を持っています」
「えっ……」と、三人の二年生がほとんど同時に息をのんだ。
 糸島は少し考えを整えるように、ドレスの裾に視線を落とした。
「色覚特性というのは、色の見え方や区別が一般的な人と異なる状態です。色の違いを見分けにくい。特に赤と緑、紫と青は似て見えることが多いんです」
 岡部が小さな声で、「じゃあ、あの三体目のマネキン、紫のジャケットと青いパンツをセットアップって言ってたのも……」とつぶやく。
 糸島は頷いた。
「はい。瑠璃先輩には、きっと同じ色に見えていたんだと思います」
 沈黙が落ちた。
 四人の間に、春の午後の光がひっそりと満ちていく。
 カーテンの隙間から差し込む陽光が、ドレスの赤を照らし、それがほんの一瞬だけ、緑にも見えるような錯覚を起こす。
「……そんなこと、全然知らなかった」
 牛針はもう一度スマホを取り出し、ラインの画面を開いた。
【作業終わったよー】
【ありがとう。ちなみにどれが印象に残った?】
【うーん。緑のやつ。売り物みたいだった】
 牛針の手が、少しだけ震えていた。
 糸島がそっと言った。
「瑠璃先輩、よく緑のハートの絵文字を使っていましたよね?」
「うん」
「それも、同じ理由だと思います」
 糸島は微笑んだ。
「瑠璃先輩には、緑も赤も、同じ色なんです。だから赤いハートのつもりで緑のハートを使っていたのかもしれません」
「……そうか」
 牛針は、赤いドレスにそっと手を伸ばした。
 布の感触を確かめるように、軽くなぞる。その指先に、何か温かいものが滲んでいくようだった。
「きれいだね」
「ええ。きっと瑠璃先輩も、そう思ったんだと思います」
 糸島の言葉に、誰も続けなかった。
 マネキンの静かな立ち姿の中で、時間だけがゆっくりと流れていた。
「ねえ、糸島」
 牛針が口を開いた。
「これ、本人には言わない方がいいよね」
 糸島は少しだけ考えて、首を横に振った。
「はい、きっと。瑠璃先輩は秘密にしていたわけじゃない。ただ、自分の見ている世界をそのまま大切にしていただけです。だから、私たちもそのまま受け止めるだけでいいと思います」
「そうだね」
 牛針はスマホを胸に押し当て、小さく息を吐いた。
 窓の外、夕方の光が少し傾き、赤いドレスがやわらかく黄金色に染まった。
 
 一年生が手芸部に入部してから二か月ほど経った。
 午後の日差しが部室の机に斜めに落ちて、作業中の布地を淡く照らしていた。パフスリーブのブラウスの型紙を前に、糸島はあおいの肩越しに覗き込む。
 あおいは袖山のギャザーを縫い留めながら、小さくため息をついた。
「どうしたの、あおい」
 糸島は鉛筆を持ったまま、そっと声をかける。
「袖のギャザーが均一に寄らない。なんか、山の高さがバラバラで、ふわっとならないの」
 あおいの指先は、布を握る力に戸惑いがにじんでいる。糸島は布の端を軽く引っ張り、あおいの縫い目を一つひとつ確認した。
「まずしつけ糸で仮縫いするといいよ。縫う前に山を揃えると、ミシンでも安定する」
「なるほど」
 あおいは手元の布をそっとほどき、しつけ糸を通す。
「あと、袖口のゴムも、二の腕に合わせて調整したほうがいい。締めすぎると窮屈になるし、緩すぎると袖がだらんと下がっちゃう」
 夏樹は、隣で布を裁ちつつ、ぼそりと言った。
「素人かよ。そもそも、ギャザーを寄せる位置がずれてるんじゃない?」
 あおいは顔を真っ赤にして、机を叩く。
「ちょっと、何その言い方!」
 夏樹はハサミを置き、肩をすくめたまま視線を布に落とす。二人の間の空気が、ぱりっと張りつめる。
 糸島は咄嗟に手を挟んだ。
「もう、二人とも落ち着いて。夏樹くんは指摘しただけでしょ。あおいは、縫い直すんだよ」
 あおいはため息をつき、針を握り直した。
「わかった」
 あおいは頷き、慎重に布を持ち直した。袖口のゴムを通すときも、腕に当てて長さを確認する。ゆっくり、でも確実に。
 ——ギャザー、袖口のゴム、型紙補正、縫い代処理。
 たった四つの要素でも、パフスリーブのブラウスは複雑で、作業の順序を間違えれば美しい丸みは生まれない。
 縫い目が、少しずつ整い、ギャザーの山が揃ってくる。袖口のゴムも、腕にぴったりと沿い、ふんわりとした丸みを作っていた。あおいは小さく息をつき、糸島に目を向けた。
「ありがとう、綾。やっと、なんとか形になったかも」
「うん、いい感じだよ」
 糸島の声は柔らかく、部室の光に溶けるようだった。
 夏樹は、ふっと肩をすくめ、あおいの袖をちらりと見た。
「まあ、素人にしては悪くない」
 あおいは舌打ちして、目を細める。
「余計なこと言わないでよ!」
 それでも、以前の険悪さは少し薄れて、布と針に集中する時間が二人を静かにつなぎ直す。
 三人の机の上には、布の波と、未完成のパフスリーブブラウス。少しの失敗も、少しの苛立ちも、すべてがこれからの成長のための糧になる。針と糸の音が、部室に静かに、でも確実に流れていた。
 大野真の作ったオレンジ色のドレスは、三人を静かに見下ろすように、実習室の隅でじっと佇んでいた。まるで、この空間のすべてを見守り、これから生まれるブラウスや新しい服作りを、そっと応援しているかのようだった。