シャーロック・ホームズは言っていた。
「人生という無色の糸の束には、殺人という緋色の糸が一本混じっている。ぼくらの仕事はその糸の束を解きほぐし、緋色の糸を引き抜いて、明るみに出すことなんだ」と。
違う。
私はほぐすのではなく、紡ぎたいのだ。
糸を解くのは、どこか悲しい。
誰かの痛みや嘘を暴くことに似ている。けれど、紡ぐことには希望がある。見えない心を形にし、想いを布に織り込んでいく。
それが私――糸島綾の、やりたいことだった。
中学生のときに起きた「シャネルドレス事件」。偶然その場にいた私は、たまたま真犯人を突き止め、人々から称賛された。
でも私にとっては、ただの観察の延長にすぎなかった。
高校では、手芸に没頭したいと思った。
事件を追うより、糸を追いたい。嘘の裏を読むより、針目を整えたい。
長野の空は高く、山の端にはうすい雪が残っていた。
制服のスカートがまだ身体に馴染まないまま、私はまっさらな校舎の階段を、一段ずつ確かめるようにのぼっていった。
シャーロック・ホームズには、二つ、言いたいことがある。
一つは、人生は決して「無色の糸の束」などではないということ。
もう一つは、様々な色の糸を少しずつ紡いでいって、できた布こそが、人生なのだということ――。
糸島が、桐ノ宮高校の門をくぐったのは、まだ中学三年の十一月のことだった。
来春から通うかもしれない高校を、少し緊張しながら訪れる。胸の奥がくすぐったいような、不安と期待の入り混じった感覚。
門を入ると、見学の案内板が立てられていて、「ようこそ桐ノ宮高校へ」と書かれた文字が風に揺れていた。その日は、冬の匂いがほんの少しだけ混じった風が吹いていて、校舎の白壁が、どこか遠い場所の光に照らされているように見えた。
校内では、三年生の手芸部の生徒たちが卒業制作の仕上げに追われていた。そのため家庭科棟の二階にある実習室は、午前中からミシンの音が絶えなかった。その音はとても静かで、それでいて確かな律動を持っていた。
針が布を貫き、糸が通り抜けるたび、部屋の空気が少しだけ引き締まるような気がした。
糸島は、部屋の入り口で立ちすくんでいた。そこに並んでいる作品の数々に、息を呑んだのだ。
既製品と見まがうほどの完成度。スペインの祭りを思わせる真紅のドレス、薄桃色のチュールを何層にも重ねた妖精のような衣装、そして静かな白の和服。和裁のほうが簡単だと聞いていたけれど、実際に目にすると、その一針ごとに宿る慎ましい美しさに、思わず見入ってしまう。
けれども、糸島の目を本当に捉えたのは、そのどれでもなかった。
部屋の中央のトルソーに掛けられていた、一着のウエディングドレスだった。ナガミヒナゲシの花びらを思わせる、やわらかな橙色。白ではない、オレンジのウエディングドレス。奇抜なようでいて、不思議と品があり、ドレスそのものが呼吸をしているようだった。そのトルソーだけが、まるで生きて動いているように見えた。
制作者の名は、大野真。桐ノ宮高校の三年生の男子で、入試のパンフレットにも彼の写真が小さく載っていた。
糸島は、そのドレスを一目見ただけで恋に落ちた。
恋という言葉を使うのは少し大げさかもしれない。けれど、あのとき彼女の胸を掴んだものは、憧れとか感動とか、そんな単純な言葉ではとても追いつかなかった。
布の端を指でなぞれば、そのまま心がほどけてしまいそうだった。それほどに美しかった。
展示会の説明によると、卒業制作は完成後にファッションショーという形式で発表されるらしい。
一般の人も入場できるとのことで、糸島はすぐに日付を手帳に書きつけた。そして、入学するならこの学校しかない、と思った。
あのドレスのそばにいたい。それが最初の動機だった。
──実際のショーの日。
会場は講堂で、春休みの柔らかな光が舞台の幕を透かしていた。
手芸部の生徒たちが順に作品を披露し、拍手が静かに積み重なっていく。そして最後に、例の橙色のドレスが登場した。
ランウェイの上を歩いたのは、誰だかわからない女性だった。
モデルのように背が高く、頬の骨がすっと高く、目鼻立ちがくっきりしていて、口元に少しだけ影があった。
その陰りが、ドレスの明るさをいっそう際立たせていた。
彼女が歩くたび、布が揺れ、会場全体が息をのんだ。糸島はその瞬間を、たぶん一生忘れないだろう。
あのドレスは、人の手で作られたものとは思えなかった。――いや、きっと人の手でしか作れない何かがあった。
ショーのあと、結果発表があった。
大野真の作品は、当然のようにグランプリを受賞した。
審査員の講評では、「近年まれにみる完成度」「布と人間の幸福な関係」と評され、学院の歴史の中でも特別な作品として語り継がれることになった。
後日、そのドレスは、学院の家庭科棟の実習室に常設されることが決まった。手芸部の作業部室でもあるその場所は、新入生でも自由に立ち寄ることができる。
糸島は、入学を待たずして心を決めていた。
――手芸部に入ろう。あのドレスのそばで、針を持とう。
他の部活の選択肢はなかった。糸島は、自分が手芸しかできないということに、誇りを持っていた。
手で布を触れ、糸を通し、形を生む――それだけが、自分の世界のすべてであり、他の何よりも確かな現実だった。
――「シャネルドレス窃盗事件」を解決した「中佐都中の糸島」は、もう卒業するのだ。
四月のはじめ、桜が散りはじめていた。花びらが風にまざって、どこへ行くともなく漂っている。
糸島は、白いシャツの袖口を指で押さえながら、その風の匂いを吸いこんだ。あたたかくて、少し湿っていて、どこか新しいものの匂いがした。
入学式まで、あと三日。
そのわくわくした空気は、糸島だけのものではなかった。
隣を歩く水橋あおいも、同じように顔をほころばせていた。
小学校のころからの友人で、中学も一緒。しかも同じ手芸部。そして四月からは、ふたりそろって桐ノ宮高校の制服を着るのだ。
あおいは、淡いミントグリーンのカーディガンに白いブラウス、デニムのスカートという春らしい装いだった。明るい色がよく似合う。風が少し強く、カーディガンの袖口がふわりと揺れる。
「ねえ、ちょっと待って。糸が出てる」
糸島が立ち止まって指さした。
あおいは腕を見て、「ほんとだ」と笑った。袖の縫い合わせの端から、白い糸がぴょんと飛び出している。
あおいはバッグの中をごそごそ探りはじめた。
「何してるの?」
「えっとね。あ、あった」
取り出したのは、小さな布のポーチ。中から、手のひらサイズの糸切りばさみが出てきた。
「それ、いつも持ち歩いてるの?」と糸島。
「うん、いざって時に役立つでしょ」
あおいは、ほつれた糸をそっと引き寄せ、糸切りばさみで小さくチョキンと切る。その動作が思いのほか慎重で、糸島はなんとなく見入ってしまった。
風が通り抜け、切ったばかりの白い糸がふわりと宙を舞った。
「ねえ、あの高校、やっぱり厳しいのかな」
あおいが、春の陽射しの中で言った。
「厳しいと思う。でも、それがいいんだよ」
糸島はそう言いながら、角を曲がって商店街へ入った。古いアーケードの端に、昔からある手芸屋がある。看板には少し剥げた金の文字で「みどりや」と書かれていた。ガラス戸を開けると、鈴の音が軽やかに鳴った。
中には、布の匂いが満ちている。その中で、あおいが「わあ」と小さな声をあげた。
店の中央の台に、春物の新しい布地が並んでいた。
サテンの光沢がやわらかく、ライトを受けて細い波のように揺れている。滑るような質感が、まるで空気そのものを布にしたみたいだった。
「このサテン、やっぱりいいな。光を閉じ込めてる感じ。滑らかすぎて縫うのがちょっと怖いけど」
糸島が言うと、あおいは笑いながら頷いた。
「ねえ綾、私ね、サテンで春用のパジャマを作ろうと思ってるの」
「へえ、綿にしないんだ?」
「うん。経験が少ないから、あえてサテン生地でやってみようと思って」
「綿サテン? それともシルク?」
「シルクサテン」
あおいは少し照れたように笑った。
「うわ、大変だね。縫い目が残るから」
「うん、そこが怖い。でも、きれいにできたらすごく気持ちよさそうでしょ。なんかね、春になると新しい挑戦をしたくなるんだ」
糸島はその言葉を聞いて、静かにうなずいた。棚の上のサテンに触れる。指先がひんやりとして、すべらかだった。
二人の間に、しばらく言葉のない時間が流れた。
その沈黙は、居心地の悪いものではなく、まるで縫い目と縫い目の間にできる小さな余白のようだった。
「型紙はもう作ったの?」
「ううん、まだ途中。襟ぐりのラインをどうするか迷ってる」
「サテンならバイアス仕立てがいいかも。見返しだと厚くなるし」
「あ、たしかに。綾ってそういうの、すぐ思いつくよね」
店の外では、午後の光がゆっくり傾きはじめていた。街を流れる空気はやわらかく、花びらがいくつも舞っていた。
糸島は、あおいの横顔を見た。
春の光が頬に反射して、かすかにサテンのような艶を帯びている。彼女の中には、きっと何かを作りたいという衝動がいつもある。それは布を選ぶときの真剣なまなざしにも、針を持つときの小さなため息にも、ちゃんと表れている。
「ねえ、入学しても、やっぱり手芸部に入る?」
「どうかなあ。……見に行くだけ」
その言葉を聞いて、糸島は笑った。
「見に行くだけって、あおいが一番危ないやつだよ」
「ふふ、バレた?」
会計を済ませ、紙袋を手にして店を出ようとしたときだった。
糸島はふと、レジ横の試作品コーナーに飾られている一着のブラウスに目をとめた。淡いグレーの布地。リネンとコットンの中間のような、柔らかくて少しざらつきのある質感。光を吸いこむような落ち着いた色味だった。
「これ、すごく丁寧に縫われてる」
思わず呟いた糸島に、隣で紙袋を持ち替えていたあおいが顔を向ける。
「え、どれ?」
「このブラウス」
糸島は、試作品コーナーのマネキンを指さした。
肩のラインが自然で、ダーツの入れ方が見事だった。衿ぐりもすっきりしていて、糸の運びが均一。糸の撚りがほとんど解けていないことから、かなりの経験者の手によるものだと分かる。
ステッチのひと針ひと針が、呼吸のように落ち着いていた。
「この店の人が作ったのかな」
あおいがつぶやく。
糸島はうなずきながらも、すぐに首をかしげた。
「でも、なんか……変」
「変?」
「うん。ボタン、ひとつだけ違う」
マネキンの胸元に並ぶ、乳白色のボタンたち。
四つ穴の、小さく控えめな貝ボタン。光を受けて淡い虹色に輝いている。だが、中央の三番目――それだけ、ほかのものとは違っていた。
他のボタンは丸く端が滑らかに磨かれているのに、三番目のボタンだけわずかに厚く、光の反射が鈍い。素材も違う。そして、ボタンを留めている糸の縫い目の方向が、周りと一致していなかった。
「言われてみれば、ほんとだ」
あおいが顔を近づけてまじまじと見る。
「一個だけ、なんか浮いてるね」
糸島はしゃがみこみ、裾のあたりの縫い目を覗き込んだ。
その様子を見て、あおいは思わず笑う。
「相変わらずだね、そうやって観察モードに入ると止まらなくなる」
糸島は聞こえていない。小さく唇を動かしながら、指先で布の流れをなぞっていた。
「なぜ、こんなふうに一つだけボタンが違うと思う?」
あおいはすぐには答えられず、少しだけ首をかしげてから、「え? そりゃあ、最初は同じボタンだったけど、一つが取れちゃって、別のボタンをつけたからでしょ?」と、あっけらかんとした声で言った。
「うん、たしかにそう。でも、なんで同じボタンをつけ直さなかったのかな」
糸島はそう言うと、手芸屋の奥のボタンコーナーへと歩き出した。あおいは慌ててその後を追う。
壁一面に並ぶボタンは、まるで宝石みたいに光を反射していた。透明、木製、貝殻、陶器。形も素材も色も違っていて、見ているだけで時間を忘れそうになる。
糸島は迷うことなく、一列目の中央付近で立ち止まった。
「ほら」と指をさした先にあったのは、淡いグレーの光沢を持つ、丸いボタン。ブラウスについていたものと同じだった。
「ね、あのブラウスに使われていたボタンはこれ。こんなにたくさんあるんだから、同じボタンをつけ直せばいいのに」
棚には、同じボタンがきっちりと並び、在庫も豊富に見えた。
「うーん、そうだねぇ。でもさ、同じボタンをつけ直そうとしたけど、たまたまその時このボタンの在庫が切れていて、仕方なく他のボタンをつけたんじゃない?」
あおいはそう言って、肩をすくめた。
糸島は静かに首を横に振る。
「それは考えにくいと思う」
「なんで?」
あおいの眉が上がる。
「だって、あの試作品コーナーのブラウスは、最近作られたものだから」
「え、どうしてそれがわかるの?」
糸島はあおいの方を見て、少しだけ微笑んだ。
「だって、あのブラウスには春物の新しい布地が使われていたもの。ほら、レジの横にあった新作布地コーナー。あそこで見たでしょ? 同じ淡いグレーの布が並んでた。そのポップに、『一週間前に入荷しました』って書いてあった」
「見てたの? そんなとこまで」
あおいは呆れたように笑う。
「見てたよ。つまり、あのブラウスは最近この店で作られたばかり。だから、『そのときボタンが在庫切れだった』っていうのは考えにくい」
「でもこの一週間の間に、このボタンが入荷されたって可能性もあるんじゃない? 今はこんなにあるけど、前は在庫ゼロだったとか」
あおいはそう言って、棚から数粒のボタンを手に取り、掌の上でじゃらじゃらと転がしてみせた。
「だとしたら、入荷前はこのボタンがほとんど残っていなかったってことになるよね」
糸島は静かな声で続ける。
「でも、わざわざ在庫が切れそうなボタンを試作品に使うかな? この店の試作品って、お客さんが『この布とボタンを買えば、こんな服が作れますよ』って見本にするためのものだよ。つまり、ちゃんと在庫があるボタンを使うはず。似ているボタンならたくさんあるんだし」
「つまり、ボタンはあのブラウスが作られた時にもたくさんあった。だから、試作品のボタンとして選ばれた」
あおいは、掌のボタンを見つめながら、ゆっくりと繰り返した。
糸島はうなずいた。
「そう。だから、在庫が切れてて別のボタンを使った、って線は薄いと思う」
あおいは少し唸ってから、また棚のボタンを見つめた。
「うーん、でもじゃあ、なんで一つだけ違うの? ミス?」
「それも考えたけど……あのブラウスを作った人は、とても丁寧だった。縫い目のピッチも均一で、端の始末もきれい。ああいう人が、ボタン一つくらい間違えるかな?」
「確かに。全部きれいだったね」
「それと、玉止めの位置も違ってた。あのブラウスを縫った人は、裏側の縫い代の内側に玉止めを隠すタイプ。でも他と異なるあのボタンは、布の裏に直接玉止めが見えてた。たぶん、ボタンを付け直した人は、焦ってたんじゃないかな」
「へえ……そんな細かいとこ、よく見てるね」
あおいは感心したように笑い、糸島の顔を覗き込んだ。
「つまりあのボタンは、作った人じゃなくて、別の人が後からつけ直した。――でもその人は、店員じゃない」
「なんで?」
「店員なら、ちゃんと同じボタンを使うでしょ? ボタンコーナーに在庫があるんだから」
「じゃあ、お客さん?」
「どうかな」
糸島は、静かに視線を試着室の方へ向けた。
奥まった場所に、カーテンの影がゆらめいている。店員の会話が背後で遠くに聞こえる中、彼女はそっと足を向けた。
中は、思いのほか明るかった。淡い照明が鏡面に反射し、白い壁にやわらかな光の筋を描いている。
糸島はしゃがみ込み、床の隅に目を凝らした。木目の隙間から、何かがきらりと光を返した。
それは、小さなボタンだった。
埃にまみれてはいたが、形も質感も、さっきブラウスについていたボタンとよく似ている。試着室の中でボタンを落とし、それを拾えなかった誰かがいたのだ。
糸島は近くにいた店員に声をかけた。
「すみません。この試作品のブラウスって、試着とかできるんですか?」
店員はにこやかにうなずいた。
「はい、できますよ」
「そうなんですね。実際に試着する人って、結構いるんですか?」
「そうねえ。たまにいらっしゃいますね。生地の肌触りや着心地を確認したい方とか、同じ型紙で作ってみようと思ってる方とか」
糸島は小さくうなずいた。視線は依然としてブラウスに注がれている。
「じゃあ――実際に、最近このブラウスを試着した人っていますか?」
その質問に、店員は一瞬、言葉を探すように口をつぐんだ。
「……ええ、まあ」
そして、少しとまどったように笑いながら、あおいのほうを指さした。
「昨日、そちらのお嬢さんが」
あおいは、店の入口で深く頭を下げた。
「ほんとに、ごめんなさい」
「いいのよ、いいのよ」
「みどりや」の店主であるおばあさんは、ゆるやかに首を振りながら笑った。皺の間に春の日差しがやわらかく落ち、まるで長い時間その笑顔がそこにあったかのようだった。
「ボタンのひとつやふたつ、落ちることだってあるわ。ちゃんとつけなおしてくれたんだし」
あおいは何か言いかけて、結局何も言わず、もう一度「すみません」とだけつぶやいた。
外に出ると、午後の光が街路を満たしていた。
ふたりは並んで歩き出した。店の前の坂道は桜並木になっていて、風が吹くたびに花びらがふわりと舞った。
「ごめんね」
しばらく沈黙が続いたあと、あおいがぽつりとつぶやいた。
「謝らなくていいよ」糸島はそう言った。
でもあおいは、少し首を振った。
「私、最初に言おうと思ったの。でも、その場でボタンをつけちゃえば気付かれないと思って」
坂の途中にあるベンチに腰を下ろした。
遠くで子どもたちの笑い声がして、鳥の影が枝の間をすり抜けていった。
「どうしてわかったの? 私が犯人だって」
あおいの声は、静かだった。
「綾、分かってたんでしょ? 店員さんに訊く前から、私がやったって」
糸島は少し間を置いてから、「怪しいとは思ってたよ」と答えた。
「最初に、あれ?って思ったのはね……」
糸島は、膝の上で指を組んで、ゆっくり言葉を選ぶように話しはじめた。
「あのブラウスを見つけた時だった」
「え?」
「あの淡いグレーの試作品。いかにも、あおいが好きそうなデザインだったのに、見向きもしなかったから」
あおいは視線を落とした。
「ボタンをつけた人は店員さんじゃない。じゃあ誰がつけたのか。あのブラウスは試作品だから、触る人は限られてる。つまり、試着したお客さんが一番自然。それにね、ボタンをつけた人は、試着室の中で作業したはず。つまり、その人は裁縫セットを持ち歩いている。今日のあおいのように」
あおいの肩が、わずかに動いた。
「試着したときにボタンが外れて、試着室の木目の隙間に入り取れなくなった。それで焦って、自分の服からボタンを外してつけ直した。――違う?」
「そう。自分のしていたボタンの色がたまたま同じだったから」
あおいの声は、風の音にかき消されそうだった。
糸島は静かにうなずいた。
「手作りの服って、既製品よりボタンが取れやすいんだよね。ほら、糸の締め方がちょっと違うから」
「試着して鏡の前で動いた瞬間に、ボタンがぽろって落ちちゃって」
「それで、試着室でこっそりつけ直したんだ」
「そう……」
糸島はそう言って、少しだけ笑った。
「あとは、あおいが最近このお店に来ていたのに、それを隠してたこと」
「なんで、わかったの?」
あおいの声は、少しかすれていた。
「春物の新しい布地のコーナーは一週間前に入荷したばかり。なのに、あおいがサテンの布を見たときに『このサテン、やっぱりいいな』って言ったでしょ? 『やっぱり』って言葉は、前に一度目にした証拠。だから少なくとも一週間以内にあおいはこの店に来ていたってことが分かる」
二人のあいだに、また静寂が落ちた。風がベンチの下の影をゆらした。
桜の花びらが一枚、袋の上に舞い落ちる。
「やっぱり悪いことはできないようになってるんだね」
やわらかな春風の中で、糸島は肩をすくめた。
「そんな。大げさだと思うけど」
あおいは、ふっと笑って首を横に振った。
「ありがとう。大げさだとしても、一生十字架を背負って生きていくところだった。綾のおかげで、素直に謝ることができた」
「そう」
糸島は短く答えたが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
ふたりはそのまま、しばらく無言で歩いた。
並んだ影が、夕陽の坂道に長く伸びる。どこまでも穏やかで、どこか懐かしい時間だった。
「ねえ、帰りにパンケーキでも食べて帰ろっか」
「パンケーキ?」
「うん。もちろん私のおごりね」
あおいの明るい声に、糸島は目を細めた。
風に混じって、どこかの家の庭から甘い花の匂いが漂ってくる。
「じゃあ、遠慮なく」
「え、ほんとに遠慮しないの?」
笑い声が、坂道に淡くこだました。
振り返れば、さっきまでいた手芸屋の看板が、光の中に小さく滲んで見えた。
糸島は思った。
きっと、こんなふうに、日常のひとつひとつを紡いでいくことが、人生という布を織ることなのだと。
二人は並んで坂を下りていった。
「人生という無色の糸の束には、殺人という緋色の糸が一本混じっている。ぼくらの仕事はその糸の束を解きほぐし、緋色の糸を引き抜いて、明るみに出すことなんだ」と。
違う。
私はほぐすのではなく、紡ぎたいのだ。
糸を解くのは、どこか悲しい。
誰かの痛みや嘘を暴くことに似ている。けれど、紡ぐことには希望がある。見えない心を形にし、想いを布に織り込んでいく。
それが私――糸島綾の、やりたいことだった。
中学生のときに起きた「シャネルドレス事件」。偶然その場にいた私は、たまたま真犯人を突き止め、人々から称賛された。
でも私にとっては、ただの観察の延長にすぎなかった。
高校では、手芸に没頭したいと思った。
事件を追うより、糸を追いたい。嘘の裏を読むより、針目を整えたい。
長野の空は高く、山の端にはうすい雪が残っていた。
制服のスカートがまだ身体に馴染まないまま、私はまっさらな校舎の階段を、一段ずつ確かめるようにのぼっていった。
シャーロック・ホームズには、二つ、言いたいことがある。
一つは、人生は決して「無色の糸の束」などではないということ。
もう一つは、様々な色の糸を少しずつ紡いでいって、できた布こそが、人生なのだということ――。
糸島が、桐ノ宮高校の門をくぐったのは、まだ中学三年の十一月のことだった。
来春から通うかもしれない高校を、少し緊張しながら訪れる。胸の奥がくすぐったいような、不安と期待の入り混じった感覚。
門を入ると、見学の案内板が立てられていて、「ようこそ桐ノ宮高校へ」と書かれた文字が風に揺れていた。その日は、冬の匂いがほんの少しだけ混じった風が吹いていて、校舎の白壁が、どこか遠い場所の光に照らされているように見えた。
校内では、三年生の手芸部の生徒たちが卒業制作の仕上げに追われていた。そのため家庭科棟の二階にある実習室は、午前中からミシンの音が絶えなかった。その音はとても静かで、それでいて確かな律動を持っていた。
針が布を貫き、糸が通り抜けるたび、部屋の空気が少しだけ引き締まるような気がした。
糸島は、部屋の入り口で立ちすくんでいた。そこに並んでいる作品の数々に、息を呑んだのだ。
既製品と見まがうほどの完成度。スペインの祭りを思わせる真紅のドレス、薄桃色のチュールを何層にも重ねた妖精のような衣装、そして静かな白の和服。和裁のほうが簡単だと聞いていたけれど、実際に目にすると、その一針ごとに宿る慎ましい美しさに、思わず見入ってしまう。
けれども、糸島の目を本当に捉えたのは、そのどれでもなかった。
部屋の中央のトルソーに掛けられていた、一着のウエディングドレスだった。ナガミヒナゲシの花びらを思わせる、やわらかな橙色。白ではない、オレンジのウエディングドレス。奇抜なようでいて、不思議と品があり、ドレスそのものが呼吸をしているようだった。そのトルソーだけが、まるで生きて動いているように見えた。
制作者の名は、大野真。桐ノ宮高校の三年生の男子で、入試のパンフレットにも彼の写真が小さく載っていた。
糸島は、そのドレスを一目見ただけで恋に落ちた。
恋という言葉を使うのは少し大げさかもしれない。けれど、あのとき彼女の胸を掴んだものは、憧れとか感動とか、そんな単純な言葉ではとても追いつかなかった。
布の端を指でなぞれば、そのまま心がほどけてしまいそうだった。それほどに美しかった。
展示会の説明によると、卒業制作は完成後にファッションショーという形式で発表されるらしい。
一般の人も入場できるとのことで、糸島はすぐに日付を手帳に書きつけた。そして、入学するならこの学校しかない、と思った。
あのドレスのそばにいたい。それが最初の動機だった。
──実際のショーの日。
会場は講堂で、春休みの柔らかな光が舞台の幕を透かしていた。
手芸部の生徒たちが順に作品を披露し、拍手が静かに積み重なっていく。そして最後に、例の橙色のドレスが登場した。
ランウェイの上を歩いたのは、誰だかわからない女性だった。
モデルのように背が高く、頬の骨がすっと高く、目鼻立ちがくっきりしていて、口元に少しだけ影があった。
その陰りが、ドレスの明るさをいっそう際立たせていた。
彼女が歩くたび、布が揺れ、会場全体が息をのんだ。糸島はその瞬間を、たぶん一生忘れないだろう。
あのドレスは、人の手で作られたものとは思えなかった。――いや、きっと人の手でしか作れない何かがあった。
ショーのあと、結果発表があった。
大野真の作品は、当然のようにグランプリを受賞した。
審査員の講評では、「近年まれにみる完成度」「布と人間の幸福な関係」と評され、学院の歴史の中でも特別な作品として語り継がれることになった。
後日、そのドレスは、学院の家庭科棟の実習室に常設されることが決まった。手芸部の作業部室でもあるその場所は、新入生でも自由に立ち寄ることができる。
糸島は、入学を待たずして心を決めていた。
――手芸部に入ろう。あのドレスのそばで、針を持とう。
他の部活の選択肢はなかった。糸島は、自分が手芸しかできないということに、誇りを持っていた。
手で布を触れ、糸を通し、形を生む――それだけが、自分の世界のすべてであり、他の何よりも確かな現実だった。
――「シャネルドレス窃盗事件」を解決した「中佐都中の糸島」は、もう卒業するのだ。
四月のはじめ、桜が散りはじめていた。花びらが風にまざって、どこへ行くともなく漂っている。
糸島は、白いシャツの袖口を指で押さえながら、その風の匂いを吸いこんだ。あたたかくて、少し湿っていて、どこか新しいものの匂いがした。
入学式まで、あと三日。
そのわくわくした空気は、糸島だけのものではなかった。
隣を歩く水橋あおいも、同じように顔をほころばせていた。
小学校のころからの友人で、中学も一緒。しかも同じ手芸部。そして四月からは、ふたりそろって桐ノ宮高校の制服を着るのだ。
あおいは、淡いミントグリーンのカーディガンに白いブラウス、デニムのスカートという春らしい装いだった。明るい色がよく似合う。風が少し強く、カーディガンの袖口がふわりと揺れる。
「ねえ、ちょっと待って。糸が出てる」
糸島が立ち止まって指さした。
あおいは腕を見て、「ほんとだ」と笑った。袖の縫い合わせの端から、白い糸がぴょんと飛び出している。
あおいはバッグの中をごそごそ探りはじめた。
「何してるの?」
「えっとね。あ、あった」
取り出したのは、小さな布のポーチ。中から、手のひらサイズの糸切りばさみが出てきた。
「それ、いつも持ち歩いてるの?」と糸島。
「うん、いざって時に役立つでしょ」
あおいは、ほつれた糸をそっと引き寄せ、糸切りばさみで小さくチョキンと切る。その動作が思いのほか慎重で、糸島はなんとなく見入ってしまった。
風が通り抜け、切ったばかりの白い糸がふわりと宙を舞った。
「ねえ、あの高校、やっぱり厳しいのかな」
あおいが、春の陽射しの中で言った。
「厳しいと思う。でも、それがいいんだよ」
糸島はそう言いながら、角を曲がって商店街へ入った。古いアーケードの端に、昔からある手芸屋がある。看板には少し剥げた金の文字で「みどりや」と書かれていた。ガラス戸を開けると、鈴の音が軽やかに鳴った。
中には、布の匂いが満ちている。その中で、あおいが「わあ」と小さな声をあげた。
店の中央の台に、春物の新しい布地が並んでいた。
サテンの光沢がやわらかく、ライトを受けて細い波のように揺れている。滑るような質感が、まるで空気そのものを布にしたみたいだった。
「このサテン、やっぱりいいな。光を閉じ込めてる感じ。滑らかすぎて縫うのがちょっと怖いけど」
糸島が言うと、あおいは笑いながら頷いた。
「ねえ綾、私ね、サテンで春用のパジャマを作ろうと思ってるの」
「へえ、綿にしないんだ?」
「うん。経験が少ないから、あえてサテン生地でやってみようと思って」
「綿サテン? それともシルク?」
「シルクサテン」
あおいは少し照れたように笑った。
「うわ、大変だね。縫い目が残るから」
「うん、そこが怖い。でも、きれいにできたらすごく気持ちよさそうでしょ。なんかね、春になると新しい挑戦をしたくなるんだ」
糸島はその言葉を聞いて、静かにうなずいた。棚の上のサテンに触れる。指先がひんやりとして、すべらかだった。
二人の間に、しばらく言葉のない時間が流れた。
その沈黙は、居心地の悪いものではなく、まるで縫い目と縫い目の間にできる小さな余白のようだった。
「型紙はもう作ったの?」
「ううん、まだ途中。襟ぐりのラインをどうするか迷ってる」
「サテンならバイアス仕立てがいいかも。見返しだと厚くなるし」
「あ、たしかに。綾ってそういうの、すぐ思いつくよね」
店の外では、午後の光がゆっくり傾きはじめていた。街を流れる空気はやわらかく、花びらがいくつも舞っていた。
糸島は、あおいの横顔を見た。
春の光が頬に反射して、かすかにサテンのような艶を帯びている。彼女の中には、きっと何かを作りたいという衝動がいつもある。それは布を選ぶときの真剣なまなざしにも、針を持つときの小さなため息にも、ちゃんと表れている。
「ねえ、入学しても、やっぱり手芸部に入る?」
「どうかなあ。……見に行くだけ」
その言葉を聞いて、糸島は笑った。
「見に行くだけって、あおいが一番危ないやつだよ」
「ふふ、バレた?」
会計を済ませ、紙袋を手にして店を出ようとしたときだった。
糸島はふと、レジ横の試作品コーナーに飾られている一着のブラウスに目をとめた。淡いグレーの布地。リネンとコットンの中間のような、柔らかくて少しざらつきのある質感。光を吸いこむような落ち着いた色味だった。
「これ、すごく丁寧に縫われてる」
思わず呟いた糸島に、隣で紙袋を持ち替えていたあおいが顔を向ける。
「え、どれ?」
「このブラウス」
糸島は、試作品コーナーのマネキンを指さした。
肩のラインが自然で、ダーツの入れ方が見事だった。衿ぐりもすっきりしていて、糸の運びが均一。糸の撚りがほとんど解けていないことから、かなりの経験者の手によるものだと分かる。
ステッチのひと針ひと針が、呼吸のように落ち着いていた。
「この店の人が作ったのかな」
あおいがつぶやく。
糸島はうなずきながらも、すぐに首をかしげた。
「でも、なんか……変」
「変?」
「うん。ボタン、ひとつだけ違う」
マネキンの胸元に並ぶ、乳白色のボタンたち。
四つ穴の、小さく控えめな貝ボタン。光を受けて淡い虹色に輝いている。だが、中央の三番目――それだけ、ほかのものとは違っていた。
他のボタンは丸く端が滑らかに磨かれているのに、三番目のボタンだけわずかに厚く、光の反射が鈍い。素材も違う。そして、ボタンを留めている糸の縫い目の方向が、周りと一致していなかった。
「言われてみれば、ほんとだ」
あおいが顔を近づけてまじまじと見る。
「一個だけ、なんか浮いてるね」
糸島はしゃがみこみ、裾のあたりの縫い目を覗き込んだ。
その様子を見て、あおいは思わず笑う。
「相変わらずだね、そうやって観察モードに入ると止まらなくなる」
糸島は聞こえていない。小さく唇を動かしながら、指先で布の流れをなぞっていた。
「なぜ、こんなふうに一つだけボタンが違うと思う?」
あおいはすぐには答えられず、少しだけ首をかしげてから、「え? そりゃあ、最初は同じボタンだったけど、一つが取れちゃって、別のボタンをつけたからでしょ?」と、あっけらかんとした声で言った。
「うん、たしかにそう。でも、なんで同じボタンをつけ直さなかったのかな」
糸島はそう言うと、手芸屋の奥のボタンコーナーへと歩き出した。あおいは慌ててその後を追う。
壁一面に並ぶボタンは、まるで宝石みたいに光を反射していた。透明、木製、貝殻、陶器。形も素材も色も違っていて、見ているだけで時間を忘れそうになる。
糸島は迷うことなく、一列目の中央付近で立ち止まった。
「ほら」と指をさした先にあったのは、淡いグレーの光沢を持つ、丸いボタン。ブラウスについていたものと同じだった。
「ね、あのブラウスに使われていたボタンはこれ。こんなにたくさんあるんだから、同じボタンをつけ直せばいいのに」
棚には、同じボタンがきっちりと並び、在庫も豊富に見えた。
「うーん、そうだねぇ。でもさ、同じボタンをつけ直そうとしたけど、たまたまその時このボタンの在庫が切れていて、仕方なく他のボタンをつけたんじゃない?」
あおいはそう言って、肩をすくめた。
糸島は静かに首を横に振る。
「それは考えにくいと思う」
「なんで?」
あおいの眉が上がる。
「だって、あの試作品コーナーのブラウスは、最近作られたものだから」
「え、どうしてそれがわかるの?」
糸島はあおいの方を見て、少しだけ微笑んだ。
「だって、あのブラウスには春物の新しい布地が使われていたもの。ほら、レジの横にあった新作布地コーナー。あそこで見たでしょ? 同じ淡いグレーの布が並んでた。そのポップに、『一週間前に入荷しました』って書いてあった」
「見てたの? そんなとこまで」
あおいは呆れたように笑う。
「見てたよ。つまり、あのブラウスは最近この店で作られたばかり。だから、『そのときボタンが在庫切れだった』っていうのは考えにくい」
「でもこの一週間の間に、このボタンが入荷されたって可能性もあるんじゃない? 今はこんなにあるけど、前は在庫ゼロだったとか」
あおいはそう言って、棚から数粒のボタンを手に取り、掌の上でじゃらじゃらと転がしてみせた。
「だとしたら、入荷前はこのボタンがほとんど残っていなかったってことになるよね」
糸島は静かな声で続ける。
「でも、わざわざ在庫が切れそうなボタンを試作品に使うかな? この店の試作品って、お客さんが『この布とボタンを買えば、こんな服が作れますよ』って見本にするためのものだよ。つまり、ちゃんと在庫があるボタンを使うはず。似ているボタンならたくさんあるんだし」
「つまり、ボタンはあのブラウスが作られた時にもたくさんあった。だから、試作品のボタンとして選ばれた」
あおいは、掌のボタンを見つめながら、ゆっくりと繰り返した。
糸島はうなずいた。
「そう。だから、在庫が切れてて別のボタンを使った、って線は薄いと思う」
あおいは少し唸ってから、また棚のボタンを見つめた。
「うーん、でもじゃあ、なんで一つだけ違うの? ミス?」
「それも考えたけど……あのブラウスを作った人は、とても丁寧だった。縫い目のピッチも均一で、端の始末もきれい。ああいう人が、ボタン一つくらい間違えるかな?」
「確かに。全部きれいだったね」
「それと、玉止めの位置も違ってた。あのブラウスを縫った人は、裏側の縫い代の内側に玉止めを隠すタイプ。でも他と異なるあのボタンは、布の裏に直接玉止めが見えてた。たぶん、ボタンを付け直した人は、焦ってたんじゃないかな」
「へえ……そんな細かいとこ、よく見てるね」
あおいは感心したように笑い、糸島の顔を覗き込んだ。
「つまりあのボタンは、作った人じゃなくて、別の人が後からつけ直した。――でもその人は、店員じゃない」
「なんで?」
「店員なら、ちゃんと同じボタンを使うでしょ? ボタンコーナーに在庫があるんだから」
「じゃあ、お客さん?」
「どうかな」
糸島は、静かに視線を試着室の方へ向けた。
奥まった場所に、カーテンの影がゆらめいている。店員の会話が背後で遠くに聞こえる中、彼女はそっと足を向けた。
中は、思いのほか明るかった。淡い照明が鏡面に反射し、白い壁にやわらかな光の筋を描いている。
糸島はしゃがみ込み、床の隅に目を凝らした。木目の隙間から、何かがきらりと光を返した。
それは、小さなボタンだった。
埃にまみれてはいたが、形も質感も、さっきブラウスについていたボタンとよく似ている。試着室の中でボタンを落とし、それを拾えなかった誰かがいたのだ。
糸島は近くにいた店員に声をかけた。
「すみません。この試作品のブラウスって、試着とかできるんですか?」
店員はにこやかにうなずいた。
「はい、できますよ」
「そうなんですね。実際に試着する人って、結構いるんですか?」
「そうねえ。たまにいらっしゃいますね。生地の肌触りや着心地を確認したい方とか、同じ型紙で作ってみようと思ってる方とか」
糸島は小さくうなずいた。視線は依然としてブラウスに注がれている。
「じゃあ――実際に、最近このブラウスを試着した人っていますか?」
その質問に、店員は一瞬、言葉を探すように口をつぐんだ。
「……ええ、まあ」
そして、少しとまどったように笑いながら、あおいのほうを指さした。
「昨日、そちらのお嬢さんが」
あおいは、店の入口で深く頭を下げた。
「ほんとに、ごめんなさい」
「いいのよ、いいのよ」
「みどりや」の店主であるおばあさんは、ゆるやかに首を振りながら笑った。皺の間に春の日差しがやわらかく落ち、まるで長い時間その笑顔がそこにあったかのようだった。
「ボタンのひとつやふたつ、落ちることだってあるわ。ちゃんとつけなおしてくれたんだし」
あおいは何か言いかけて、結局何も言わず、もう一度「すみません」とだけつぶやいた。
外に出ると、午後の光が街路を満たしていた。
ふたりは並んで歩き出した。店の前の坂道は桜並木になっていて、風が吹くたびに花びらがふわりと舞った。
「ごめんね」
しばらく沈黙が続いたあと、あおいがぽつりとつぶやいた。
「謝らなくていいよ」糸島はそう言った。
でもあおいは、少し首を振った。
「私、最初に言おうと思ったの。でも、その場でボタンをつけちゃえば気付かれないと思って」
坂の途中にあるベンチに腰を下ろした。
遠くで子どもたちの笑い声がして、鳥の影が枝の間をすり抜けていった。
「どうしてわかったの? 私が犯人だって」
あおいの声は、静かだった。
「綾、分かってたんでしょ? 店員さんに訊く前から、私がやったって」
糸島は少し間を置いてから、「怪しいとは思ってたよ」と答えた。
「最初に、あれ?って思ったのはね……」
糸島は、膝の上で指を組んで、ゆっくり言葉を選ぶように話しはじめた。
「あのブラウスを見つけた時だった」
「え?」
「あの淡いグレーの試作品。いかにも、あおいが好きそうなデザインだったのに、見向きもしなかったから」
あおいは視線を落とした。
「ボタンをつけた人は店員さんじゃない。じゃあ誰がつけたのか。あのブラウスは試作品だから、触る人は限られてる。つまり、試着したお客さんが一番自然。それにね、ボタンをつけた人は、試着室の中で作業したはず。つまり、その人は裁縫セットを持ち歩いている。今日のあおいのように」
あおいの肩が、わずかに動いた。
「試着したときにボタンが外れて、試着室の木目の隙間に入り取れなくなった。それで焦って、自分の服からボタンを外してつけ直した。――違う?」
「そう。自分のしていたボタンの色がたまたま同じだったから」
あおいの声は、風の音にかき消されそうだった。
糸島は静かにうなずいた。
「手作りの服って、既製品よりボタンが取れやすいんだよね。ほら、糸の締め方がちょっと違うから」
「試着して鏡の前で動いた瞬間に、ボタンがぽろって落ちちゃって」
「それで、試着室でこっそりつけ直したんだ」
「そう……」
糸島はそう言って、少しだけ笑った。
「あとは、あおいが最近このお店に来ていたのに、それを隠してたこと」
「なんで、わかったの?」
あおいの声は、少しかすれていた。
「春物の新しい布地のコーナーは一週間前に入荷したばかり。なのに、あおいがサテンの布を見たときに『このサテン、やっぱりいいな』って言ったでしょ? 『やっぱり』って言葉は、前に一度目にした証拠。だから少なくとも一週間以内にあおいはこの店に来ていたってことが分かる」
二人のあいだに、また静寂が落ちた。風がベンチの下の影をゆらした。
桜の花びらが一枚、袋の上に舞い落ちる。
「やっぱり悪いことはできないようになってるんだね」
やわらかな春風の中で、糸島は肩をすくめた。
「そんな。大げさだと思うけど」
あおいは、ふっと笑って首を横に振った。
「ありがとう。大げさだとしても、一生十字架を背負って生きていくところだった。綾のおかげで、素直に謝ることができた」
「そう」
糸島は短く答えたが、その口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
ふたりはそのまま、しばらく無言で歩いた。
並んだ影が、夕陽の坂道に長く伸びる。どこまでも穏やかで、どこか懐かしい時間だった。
「ねえ、帰りにパンケーキでも食べて帰ろっか」
「パンケーキ?」
「うん。もちろん私のおごりね」
あおいの明るい声に、糸島は目を細めた。
風に混じって、どこかの家の庭から甘い花の匂いが漂ってくる。
「じゃあ、遠慮なく」
「え、ほんとに遠慮しないの?」
笑い声が、坂道に淡くこだました。
振り返れば、さっきまでいた手芸屋の看板が、光の中に小さく滲んで見えた。
糸島は思った。
きっと、こんなふうに、日常のひとつひとつを紡いでいくことが、人生という布を織ることなのだと。
二人は並んで坂を下りていった。
