桜色の土俵

大正八年、初夏の朝。
隅田川沿いの小さな料亭「花筏」の二階から、琴の音が流れていた。窓辺に座る娘の指先が、繊細に弦を弾く。朝日が障子越しに差し込み、彼女の横顔を淡く照らしていた。
「千鶴、もうそろそろ支度をしておくれ」
階下から母の声が聞こえる。
「はい、母様」
返事をしながら、楠木千鶴は琴から手を離した。十九歳になったばかりの彼女は、この料亭の一人娘として育てられた。亡き父が残した店を、母と二人で切り盛りしている。
千鶴は立ち上がり、鏡台の前に座った。長い黒髪を丁寧に梳き、結い上げる。白い肌、切れ長の瞳。周囲からは美しいと言われるが、本人は至って無頓着だった。
支度を終えて階下に降りると、母が玄関先で誰かと話していた。
「いつもありがとうございます。今日も新鮮な魚が入りましたよ」
「そうかい、それは良かった」
見慣れた魚屋の主人だった。千鶴は軽く会釈をして、厨房へと向かう。
花筏は小さいながらも、味には定評があった。特に母の作る料理は繊細で、常連客たちに愛されている。千鶴も幼い頃から手伝い、今では一人前に料理ができるようになっていた。
「千鶴、今日の夕方、大事なお客様が来られるのよ」
母が厨房に入ってきて言った。
「どなたですか?」
「両国の相撲部屋の方々よ。親方と、それから何人か力士さんたちも」
千鶴の手が一瞬止まった。
「相撲部屋の...」
「ええ。今度の本場所で活躍された力士さんたちのお祝いですって。しっかり準備しておかないとね」
母は嬉しそうに話す。花筏のような小さな店に、相撲部屋から注文が入るのは名誉なことだった。
千鶴は複雑な気持ちで頷いた。
実は彼女は、相撲が少し苦手だった。幼い頃、祭りの余興で見た相撲取りたちの荒々しい姿に怖い印象を持ってしまったのだ。大きな体で激しくぶつかり合う様子が、優雅さとは程遠く思えた。
それでも、仕事は仕事である。千鶴は気持ちを切り替えて、夕方の準備に取りかかった。

夕刻、約束の時間が近づくと、千鶴は母と共に座敷の準備を整えた。
「いらっしゃいませ」
玄関の戸が開き、母が客を迎える声が聞こえた。千鶴は厨房で最後の仕上げをしながら、耳を澄ませた。
重厚な足音。複数の男性の声。そして──
「おお、いい店構えじゃないか」
「静かで落ち着きますね」
予想していたよりも穏やかな声だった。
千鶴は料理を盆に載せ、座敷へと向かった。襖を開けると、そこには五人の男性が座っていた。
一人は五十代ほどの恰幅の良い男性──おそらく親方だろう。残りの四人は、いずれも体格の良い若い男たちだった。
「おお、これはこれは」
親方が千鶴を見て、にこやかに笑った。
「綺麗なお嬢さんだ。娘さんですか?」
「はい、千鶴と申します」
千鶴は丁寧に挨拶をして、料理を置いていった。視線を感じるが、なるべく顔を上げないようにした。
力士たちは想像していたよりも、落ち着いた様子だった。がさつな言葉遣いもなく、むしろ礼儀正しい。
「これは見事な盛り付けですな」
一人の力士が感心したように言った。
「ありがとうございます」
千鶴は短く答えて、厨房に戻ろうとした。その時、一番奥に座っている男性と目が合った。
彼は他の力士たちよりも若く見えた。二十代半ばだろうか。大柄な体つきは力士そのものだが、顔立ちは驚くほど整っていた。切れ長の目、高い鼻梁。そして何より、その瞳には静かな知性が宿っていた。
千鶴は思わず目を逸らした。なぜか心臓が早く打つ。
厨房に戻ると、母が微笑んでいた。
「どう? 怖くなかったでしょう?」
「...はい」
千鶴は素直に頷いた。確かに、想像していたような荒々しさはなかった。
その後も、千鶴は何度か座敷に料理を運んだ。その度に、あの若い力士の視線を感じた。彼は料理に箸をつけながら、時折千鶴の方を見ているようだった。
「お嬢さん」
三度目に料理を運んだ時、親方が声をかけてきた。
「はい」
「この料理、本当に美味い。君も作ったのかい?」
「母と二人で...」
「そうか。いい腕だ」
親方は満足そうに頷いた。そして、あの若い力士の方を見た。
「なあ、巌太郎。お前も何か言ってやれ」
巌太郎──そう呼ばれた力士が、少し困ったような表情を浮かべた。
「その...」
彼は千鶴を見た。
「とても美味しいです。特にこの煮物の味付けが絶妙で」
低く落ち着いた声だった。千鶴は意外に思った。力士にしては、随分と穏やかな話し方をする。
「ありがとうございます」
千鶴は軽く頭を下げて、座敷を出た。

その夜、客たちが帰った後、母が嬉しそうに話しかけてきた。
「良かったわね。親方さんがとても喜んでくださって」
「そうですね」
千鶴は食器を洗いながら答えた。
「それにしても、最後に座っていた若い力士さん、とても礼儀正しかったわね」
「...巌太郎さん、ですか」
「ええ。親方さんの話では、かなり有望な力士らしいわよ。まだ二十五歳なのに、もう関脇まで上がっているんですって」
関脇──それは、大相撲の番付では上位の地位だ。千鶴は相撲のことはよく知らなかったが、それが凄いことだとはわかった。
「へえ...」
「でも、土俵の上では獰猛だけど、普段はとても物静かな方らしいわ」
母の言葉に、千鶴は先ほどの巌太郎の表情を思い出した。確かに、穏やかな雰囲気があった。あの大きな体からは想像もつかないほど。
「千鶴?」
「はい?」
「ぼんやりしてどうしたの?」
「いえ、何でも」
千鶴は慌てて首を振った。
その夜、床に就いても、なかなか眠れなかった。頭の中に、巌太郎の顔が浮かんでは消える。
どうして、あの人のことが気になるのだろう。
千鶴は自分の気持ちが理解できなかった。

それから一週間後。
千鶴が買い物から帰ってくると、玄関先に大きな影があった。
「あ...」
振り向いたのは、巌太郎だった。
「こんにちは」
彼は丁寧に頭を下げた。着物姿の彼は、力士としての体格の良さは隠せないものの、どこか学生のような初々しさがあった。
「こ、こんにちは」
千鶴は戸惑いながら挨拶を返した。
「先日は美味しい料理をありがとうございました。それで、親方に許可をいただいて、お礼を...」
そう言って、彼は風呂敷包みを差し出した。
「これは?」
「菓子です。つまらないものですが」
千鶴は包みを受け取った。ずっしりとした重さがある。
「わざわざありがとうございます。でも、そんな...」
「いえ、是非」
巌太郎は真剣な表情で言った。
「あの料理は、本当に素晴らしかった。久しぶりに、心から美味しいと思えました」
その言葉には、嘘がなかった。千鶴は少し胸が温かくなるのを感じた。
「ありがとうございます」
「それと...」
巌太郎は少し躊躇ってから、続けた。
「もし良ければ、またこの店に来てもいいでしょうか。個人的に」
千鶴は驚いた。
「え?」
「料理を食べに、です。もちろん、迷惑でなければ」
彼の表情は真剣そのものだった。千鶴は少し考えてから、頷いた。
「もちろんです。いつでもいらしてください」
巌太郎の顔が、ほんの少し緩んだ。
「ありがとうございます」
彼は深く頭を下げて、去っていった。その後ろ姿を見送りながら、千鶴は不思議な気持ちになった。
力士という職業柄、荒々しいイメージがあったが、巌太郎は全く違った。むしろ、繊細で礼儀正しい。
そして、なぜか彼に対して、警戒心が湧かなかった。

翌週、巌太郎は約束通り店に現れた。
昼下がりの静かな時間帯、客は他にいなかった。
「いらっしゃいませ」
千鶴が迎えると、巌太郎は少し緊張した様子で席に着いた。
「今日のお勧めは何ですか?」
「鯛の塩焼きと、筍の煮物があります」
「では、それをお願いします」
千鶴は厨房に戻り、料理の準備を始めた。母は用事で外出しており、店には千鶴一人だった。
料理を運ぶと、巌太郎は丁寧に箸を取った。
「いただきます」
一口食べて、彼は目を細めた。
「美味しい...」
その言葉に、千鶴は思わず微笑んだ。
「ありがとうございます」
「楠木さんは、いつから料理を?」
「幼い頃からです。母に教わって」
「そうですか」
巌太郎は静かに食事を続けた。彼の食べ方は、とても丁寧だった。一つ一つの料理を、じっくりと味わっている。
千鶴は少し離れた場所で、彼の様子を見ていた。
「...あの」
食事が終わった頃、巌太郎が口を開いた。
「はい?」
「楠木さんは、相撲は好きですか?」
突然の質問に、千鶴は言葉に詰まった。
「その...あまり詳しくはないです」
「そうですか」
巌太郎は少し残念そうな表情を浮かべた。
「実は、僕も相撲が好きで力士になったわけではないんです」
千鶴は驚いた。
「え?」
「生まれた時から体が大きくて、周りから相撲取りになれと言われ続けて。気づいたら、この道に入っていました」
彼は自嘲的に笑った。
「でも、今は...この仕事に誇りを持っています。土俵の上で戦うことで、自分の存在を証明できる。それが、僕にとっての生き甲斐になりました」
その言葉には、深い想いが込められていた。千鶴は初めて、力士という職業の重みを感じた。
「巌太郎さんは...強いんですか?」
「どうでしょうね」
彼は少し考えてから答えた。
「強さとは何か、僕にもまだわかりません。ただ、土俵の上では必死です。負けたくない。自分に、そして応援してくれる人たちに」
千鶴は彼の横顔を見つめた。その瞳には、静かな炎が宿っていた。
「次の本場所は、いつからですか?」
「来月からです」
「...頑張ってください」
千鶴は自然と、そう言っていた。
巌太郎は驚いたような顔をして、それから柔らかく微笑んだ。
「ありがとうございます」

それから、巌太郎は週に一度のペースで店に通うようになった。
いつも同じ時間帯、客の少ない昼下がりに現れた。そして、千鶴の作った料理を静かに味わい、短い会話を交わして帰っていく。
最初は緊張していた千鶴も、次第に彼との会話を楽しむようになっていた。
「楠木さんは、本は読みますか?」
ある日、巌太郎がそう尋ねた。
「はい、少しですが」
「どんな本を?」
「主に、古典文学ですね。源氏物語とか、枕草子とか」
「ああ、いいですね」
巌太郎は嬉しそうに頷いた。
「実は僕も、本を読むのが好きなんです」
「力士の方が、ですか?」
千鶴は驚いた。
「変ですかね」
「いえ、そんなことは...」
「部屋の他の力士たちには、よく変わり者だと言われます」
巌太郎は苦笑した。
「稽古が終わると、みんなは遊びに行ったり、将棋を指したり。でも僕は、一人で本を読んでいる方が好きで」
「どんな本を?」
「いろいろです。夏目漱石、森鴎外、芥川龍之介...。特に漱石の『こころ』は、何度も読み返しました」
千鶴は驚きを隠せなかった。目の前にいるのは、確かに大きな体躯の力士だ。しかし、その内面は、想像していたものとは全く違っていた。
「なぜ、本を読むのが好きなんですか?」
「言葉の力に惹かれるんです」
巌太郎は真剣な表情で答えた。
「土俵の上では、言葉は必要ない。ただ、体と体のぶつかり合いだけ。でも、本を読むと、言葉だけで心が動かされる。それが不思議で、魅力的なんです」
千鶴は彼の言葉に心を打たれた。
「素敵な考え方ですね」
「そうですか?」
「はい。私も、言葉は大切だと思います」
二人は微笑み合った。
その瞬間、千鶴は気づいた。
自分が、巌太郎に惹かれていることに。

本場所が始まった。
千鶴は母に頼んで、一日だけ両国国技館に行くことにした。
「千鶴が相撲を見たいなんて、珍しいわね」
母は驚きながらも、喜んで許可してくれた。
初めて訪れた国技館は、想像以上に大きく、そして活気に満ちていた。千鶴は二階席に座り、土俵を見下ろした。
次々と取組が行われていく。力士たちの激しいぶつかり合いに、観客たちは歓声を上げる。
そして、巌太郎の番が来た。
「東、関脇、巌太郎!」
呼び出しの声が響く。
巌太郎が土俵に上がった。その姿を見て、千鶴は息を呑んだ。
まわし一つの姿は、圧倒的な存在感を放っていた。普段の穏やかな雰囲気とは全く違う。まるで、別人のようだった。
相手の力士と向かい合い、巌太郎は蹲踞の姿勢を取った。その目は、鋭く、そして静かに燃えていた。
立ち合いの瞬間。
二つの巨体がぶつかり合った。轟音が響く。
巌太郎は相手の廻しを掴み、一気に前に出た。相手は必死で堪えるが、巌太郎の圧力は凄まじかった。
そして──
最後の一押しで、相手は土俵を割った。
「巌太郎、勝ち!」
行司の軍配が上がる。
観客たちの歓声が国技館を包んだ。千鶴も、思わず拍手をしていた。
巌太郎は土俵を降り、支度部屋へと向かった。その後ろ姿を見送りながら、千鶴は複雑な気持ちになった。
土俵の上の巌太郎は、確かに強く、そして美しかった。
でも同時に、普段の彼とのギャップに戸惑いもあった。

本場所が終わって数日後、巌太郎が店に現れた。
「お疲れ様でした」
千鶴が声をかけると、巌太郎は少し照れたように笑った。
「ありがとうございます。来てくださったんですね」
「はい。あの、とても強かったです」
「見られてたんですね...」
巌太郎は顔を赤らめた。
「恥ずかしいです」
「どうしてですか? とても格好良かったですよ」
千鶴は素直に言った。
「土俵の上の巌太郎さんは、普段とは全然違って...まるで別人みたいでした」
「そうですか」
巌太郎は複雑な表情を浮かべた。
「実は、それが僕の悩みでもあるんです」
「悩み?」
「土俵の上では、獣のように戦わなければならない。でも、普段の自分は、そんな荒々しい人間じゃない。その落差に、時々疲れてしまうんです」
千鶴は彼の言葉に、深い孤独を感じた。
「でも、だからこそ、楠木さんと話すのが楽しいんです」
巌太郎は千鶴を見つめた。
「貴女の前では、素の自分でいられる。それが、とても救いになっています」
千鶴の胸が高鳴った。
「私も...巌太郎さんとお話しするのが、楽しいです」
二人は見つめ合った。
その時、玄関の戸が開いた。
「ただいま」
母が帰ってきたのだ。
千鶴と巌太郎は、慌てて目を逸らした。

季節は移り変わり、秋になった。
巌太郎の店通いは続いていた。そして、千鶴との関係も、少しずつ深まっていった。
ある日、巌太郎が一冊の本を持ってきた。
「これ、楠木さんに」
「本、ですか?」
千鶴が受け取ると、それは夏目漱石の『三四郎』だった。
「僕の好きな本です。良かったら、読んでみてください」
「ありがとうございます」
千鶴はその夜、早速本を読み始めた。
主人公の三四郎が、東京で様々な人と出会い、成長していく物語。その中に出てくる美禰子という女性に、千鶴は不思議と自分を重ねた。
数日後、千鶴は巌太郎に感想を伝えた。
「とても面白かったです。特に、美禰子の台詞が印象的でした」
「『stray sheep』ですね」
巌太郎は微笑んだ。
「迷える羊。三四郎も美禰子も、そして僕たちも、みんな迷える羊なのかもしれません」
「巌太郎さんも、迷っているんですか?」
「ええ」
彼は素直に頷いた。
「相撲の道を進むべきなのか。本当にこれが、自分の生きる道なのか。時々、わからなくなります」
「でも、巌太郎さんは強いじゃないですか」
「強さと、幸せは別です」
巌太郎は静かに言った。
「僕は、ただ強くなりたいわけじゃない。自分らしく生きたい。そして...」
彼は千鶴を見つめた。
「大切な人と、共に生きたい」
千鶴の心臓が、激しく鼓動した。
「巌太郎さん...」
「楠木さん」
彼は真剣な表情で言った。
「僕は、貴女のことが好きです」
時が止まったようだった。
千鶴は言葉を失った。頭の中が真っ白になる。
「返事は、急がなくていいです」
巌太郎は優しく微笑んだ。
「ただ、僕の気持ちを知っていてほしかった」

その夜、千鶴は眠れなかった。
巌太郎の告白が、何度も頭の中で繰り返される。
自分の気持ちは、どうなのだろう。
千鶴は自問した。
巌太郎のことが好きなのか。
答えは、すぐに出た。
好きだった。
いつからか、彼のことを考えない日はなくなっていた。彼の笑顔を見ると、胸が温かくなった。彼の悲しげな表情を見ると、自分まで切なくなった。
でも──
千鶴は躊躇した。
巌太郎は力士だ。華やかな世界に生きる人。それに比べて、自分はただの料亭の娘。
釣り合わないのではないか。
それに、年齢も違う。彼は二十五歳、自分は十九歳。六歳も離れている。
様々な不安が、千鶴の心を掻き乱した。
翌日、千鶴は母に相談することにした。
「母様、少しお話があります」
「どうしたの?」
「実は...巌太郎さんから、告白されました」
母は驚いた顔をして、それから柔らかく微笑んだ。
「そう...。千鶴はどう思ってるの?」
「私も、彼のことが好きです。でも...」
「でも?」
「私たちは、釣り合わないのではないかと」
母は首を横に振った。
「千鶴。人の価値は、職業や身分で決まるものじゃないわ」
「でも...」
「巌太郎さんは、とても誠実な方よ。それに、千鶴のことを本当に大切に思ってくださっている。それが一番大事なことじゃないかしら」
母の言葉に、千鶴は涙が溢れそうになった。
「母様...」
「お父様も、きっと喜んでくださるわ」
母は千鶴の手を握った。
「自分の気持ちに、素直になりなさい」

次に巌太郎が店に来た時、千鶴は決心を固めていた。
「巌太郎さん」
「はい」
「この前の話ですが...」
千鶴は深呼吸をして、続けた。
「私も、巌太郎さんのことが好きです」
巌太郎の表情が、パッと明るくなった。
「本当ですか?」
「はい」
千鶴は頷いた。
「でも、私は力士の妻になるということが、どういうことなのかよくわかりません。不安もあります」
「当然です」
巌太郎は真剣な顔で言った。
「力士の妻は、大変なことも多いでしょう。でも、僕は貴女を幸せにしたい。必ず、守ります」
その言葉には、強い決意が込められていた。
「時間をかけて、お互いを知っていきましょう」
千鶴は微笑んだ。
「はい」
二人は手を取り合った。
その日から、千鶴と巌太郎の関係は、新しい段階に入った。

しかし、順風満帆とはいかなかった。
巌太郎が所属する相撲部屋の親方に、二人の関係が知られたのだ。
「巌太郎、お前、本気か?」
親方は厳しい顔で尋ねた。
「はい」
「相手は料亭の娘だろう。力士の妻は、そんな生半可な覚悟でできるもんじゃないぞ」
「わかっています」
「本当にわかってるのか?」
親方は声を荒げた。
「お前は今、関脇だ。来場所では大関を狙える位置にいる。そんな大事な時期に、女に現を抜かして...」
「現を抜かしているわけではありません!」
巌太郎も声を上げた。
「彼女のおかげで、僕は相撲に集中できるんです。彼女がいるから、頑張れるんです」
親方は黙り込んだ。
しばらくの沈黙の後、親方は深くため息をついた。
「...わかった。ならば、結果で示せ」
「結果?」
「次の本場所で、十勝挙げろ。それができたら、お前の気持ちを認めてやる」
巌太郎は真剣な表情で頷いた。

当時、大相撲は今のような十五日制ではなく、十日だけだった。
全勝しなければ達成出来ないのだ。
一度たりとも負けられない状況。
それでも、
「必ず、やり遂げます」
巌太郎は千鶴に、親方との約束を伝えた。
「十勝...」
千鶴は不安そうに呟いた。
「大丈夫です」
巌太郎は力強く言った。
「必ず、勝ちます。貴女のために」
「でも、無理はしないでください」
千鶴は彼の手を握った。
「怪我をしたら...」
「大丈夫」
巌太郎は優しく微笑んだ。
「僕は、貴女と共に歩む未来を手に入れるために、全力を尽くします」
その言葉に、千鶴は涙が溢れた。
「巌太郎さん...」
「泣かないでください」
巌太郎は千鶴の涙を拭った。
「必ず、約束を果たします」
本場所が始まる前日、千鶴は巌太郎にお守りを渡した。
「これ...」
「母が作ってくれたんです。どうか、お守りください」
巌太郎は大切そうにお守りを受け取った。
「ありがとうございます。必ず、身につけています」
二人は抱き合った。
千鶴は彼の大きな背中に顔を埋めた。その温もりが、何よりも心強かった。

本場所が始まった。
千鶴は毎日、国技館に通った。母も一緒だった。
初日、巌太郎は快勝した。
二日目も、三日目も勝ち続けた。
しかし、五日目。
巌太郎は強敵と対戦することになった。東の横綱、鬼嵐という力士だった。
立ち合いから、激しい攻防が続いた。巌太郎は必死で堪える。しかし、鬼嵐の圧力は凄まじかった。
土俵際まで追い詰められた巌太郎。観客たちは息を呑んだ。
その時──
巌太郎の目が、観客席の千鶴を捉えた。
千鶴は必死で手を合わせていた。
巌太郎の中で、何かが弾けた。
最後の力を振り絞り、巌太郎は鬼嵐を押し返した。そして、逆転の突き落とし。
鬼嵐が土俵に倒れた。
「巌太郎、勝ち!」
国技館が歓声に包まれた。
千鶴は涙を流しながら、拍手をしていた。

その後も、巌太郎は勝ち続けた。
七日目、八日目、九日目。
そして、十日目。
この日勝てば、約束の十勝達成となる。
相手は格下の力士だったが、巌太郎は油断しなかった。
立ち合いから、完璧な相撲を取った。相手に何もさせず、一方的に押し出した。
「巌太郎、勝ち!」
十勝目を挙げた瞬間、巌太郎は天を仰いだ。
千鶴は観客席で、母と抱き合って泣いていた。
「やったわね、千鶴」
「はい、母様...」
本場所が終わった後、親方は約束通り、二人の交際を認めた。
「よくやった、巌太郎」
親方は満足そうに頷いた。
「お前の覚悟は、本物だった」
「ありがとうございます」
巌太郎は深く頭を下げた。
その夜、巌太郎は千鶴を隅田川の河川敷に誘った。
「綺麗ですね」
千鶴は川面に映る月を見つめた。
「ええ」
巌太郎は千鶴の手を取った。
「楠木さん、いえ、千鶴さん」
「はい」
「僕と、結婚してください」
千鶴は驚いて、巌太郎を見つめた。
「でも、まだ...」
「時間をかけてもいいんです」
巌太郎は真剣な表情で言った。
「ただ、僕の気持ちを、形にしたかった」
千鶴は微笑んだ。
「はい。喜んで」
二人は抱き合った。
川沿いの桜の木が、まるで祝福するかのように、静かに揺れていた。

翌年の春。
千鶴と巌太郎は、小さな神社で結婚式を挙げた。
出席者は、両家の家族と、相撲部屋の関係者だけ。でも、温かい雰囲気に包まれた式だった。
白無垢姿の千鶴を見て、巌太郎は思わず涙ぐんだ。
「綺麗だ...」
「ありがとうございます」
千鶴も、巌太郎の紋付袴姿を見て、心から幸せを感じていた。
式が終わった後、二人は花筏で披露宴を開いた。
親方が祝辞を述べた。
「巌太郎は、土俵の上では獰猛な力士だ。しかし、普段は誰よりも優しく、誠実な男だ。千鶴さん、どうかこの男を、よろしく頼みます」
千鶴は深く頭を下げた。
「はい。巌太郎さんを、一生支えます」
宴は夜遅くまで続いた。
力士たちは、普段の厳しい顔とは違う、柔らかな表情で祝福してくれた。
「巌太郎、幸せにしろよ」
「当たり前だ」
巌太郎は力強く頷いた。

結婚生活が始まった。
千鶴は相撲部屋の近くに小さな家を借り、そこで巌太郎と暮らし始めた。
朝早く、巌太郎は稽古に出かける。千鶴は彼のために朝食を用意し、見送った。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
巌太郎は千鶴にキスをして、出かけていった。
昼間、千鶴は花筏の手伝いに行く。母は相変わらず元気で、客たちを迎えていた。
「千鶴、幸せそうね」
「はい、母様」
千鶴は心から幸せだった。
夕方、巌太郎が稽古から帰ってくる。疲れた体を引きずりながらも、彼は千鶴を見ると笑顔になった。
「ただいま」
「お帰りなさい。お風呂、沸いてますよ」
「ありがとう」
夕食の時間が、二人にとって一番幸せな時間だった。
「今日の稽古はどうでしたか?」
「厳しかったよ。でも、充実していた」
巌太郎は千鶴の作った料理を美味しそうに食べた。
「君の料理を食べると、疲れが吹き飛ぶ」
「そう言ってもらえると、嬉しいです」
二人は笑い合った。
夜、床に就く前、巌太郎は本を読む習慣を続けていた。千鶴もその隣で、琴を弾いた。
静かで、穏やかな時間。
「千鶴」
「はい?」
「僕は、君と結婚できて本当に良かった」
巌太郎は千鶴を抱き寄せた。
「僕も、巌太郎さんと結婚できて幸せです」
二人は唇を重ねた。

しかし、幸せな日々は、そう長くは続かなかった。
ある日、巌太郎が稽古中に怪我をしたのだ。
「膝の靭帯を痛めました」
医者の診断は厳しかった。
「完治には、最低でも三ヶ月。場合によっては、もっとかかるかもしれません」
巌太郎は顔を青ざめた。
「三ヶ月...」
それは、力士にとって致命的な期間だった。その間、土俵に上がれない。番付は下がり、地位を失うかもしれない。
千鶴は巌太郎の手を握った。
「大丈夫。一緒に乗り越えましょう」
「でも...」
「巌太郎さんは強い。必ず、復帰できます」
千鶴の言葉に、巌太郎は少し表情を和らげた。
「ありがとう、千鶴」
リハビリの日々が始まった。
巌太郎は毎日、痛みに耐えながら、膝の治療とトレーニングを続けた。
千鶴はそんな彼を、献身的に支えた。
「今日の調子はどうですか?」
「少し、良くなってきた気がする」
「無理はしないでくださいね」
「わかってる」
巌太郎は千鶴の優しさに、何度も救われた。
しかし、焦りも募っていった。
「このままでは、土俵に戻れないかもしれない」
ある夜、巌太郎は弱音を吐いた。
「そんなこと、ありません」
千鶴は強く言った。
「巌太郎さんは、必ず復帰できます。私が信じています」
その言葉が、巌太郎の支えとなった。


三ヶ月後。
医者の許可が出て、巌太郎は稽古に復帰した。
しかし、体は思うように動かなかった。膝の痛みは残り、以前のような力強い相撲が取れない。
稽古場で、巌太郎は若い力士に負け続けた。
「ちくしょう...」
悔しさで、涙が溢れた。
その夜、家に帰った巌太郎は、千鶴に全てを打ち明けた。
「もう、ダメかもしれない」
「そんなこと...」
「体が、以前のように動かないんだ。このままでは、引退するしかない」
千鶴は巌太郎を抱きしめた。
「諦めないでください」
「でも...」
「巌太郎さんは、誰よりも強い人です。必ず、乗り越えられます」
千鶴の涙が、巌太郎の肩に落ちた。
「千鶴...」
「私は、巌太郎さんの側にいます。どんな時も」
その言葉に、巌太郎は再び立ち上がる勇気をもらった。
「ありがとう。もう一度、頑張ってみる」
翌日から、巌太郎はさらに厳しいトレーニングを自分に課した。
膝の痛みと戦いながら、少しずつ、体を取り戻していった。
そして──
次の本場所。
巌太郎は、土俵に復帰した。

初日の取組。
千鶴は観客席で、息を呑んで見守っていた。
巌太郎が土俵に上がる。その表情は、以前にも増して厳しかった。
立ち合い。
激しいぶつかり合い。
巌太郎は必死で前に出た。膝の痛みを無視して、全力で戦った。
そして──
「巌太郎、勝ち!」
勝利の瞬間、国技館が歓声に包まれた。
千鶴は涙を流しながら、拍手をしていた。
「やった...やったわ...」
巌太郎は土俵を降りながら、観客席の千鶴を見た。そして、小さく頷いた。
その後も、巌太郎は勝ち続けた。
怪我の影響はまだ残っていたが、それを補って余りある気迫があった。
千秋楽、巌太郎は九勝二敗の成績を収めた。
「よくやった」
親方が褒めてくれた。
「お前の根性は、本物だ」
「ありがとうございます」
巌太郎は深く頭を下げた。
「でも、これは千鶴のおかげです」
その夜、二人は久しぶりにゆっくりと過ごした。
「お疲れ様でした」
千鶴が労をねぎらうと、巌太郎は優しく微笑んだ。
「君がいてくれたから、頑張れた」
「私は、何もしていません」
「そんなことない」
巌太郎は千鶴を抱きしめた。
「君の存在が、僕の全てだ」
千鶴は涙を流した。
「巌太郎さん...」
「愛してる、千鶴」
「私も、愛しています」
二人は、深く口づけを交わした。


それから数年後。
巌太郎は大関に昇進し、横綱を目指して日々精進していた。
千鶴は二人の子供を授かり、母となった。
花筏も、相変わらず繁盛していた。
ある日、千鶴は幼い娘を連れて、国技館を訪れた。
「母様、父様は強いの?」
「ええ、とても強いのよ」
土俵に巌太郎が上がった。
娘は目を輝かせて、父の姿を見つめた。
「すごい...」
巌太郎が勝利を収めると、娘は大喜びで拍手をした。
「父様、格好良い!」
千鶴は微笑んだ。
取組が終わった後、巌太郎が家族の元に来た。
「千鶴、来てくれたんだね」
「はい。娘も、父様の勇姿を見たいと言って」
巌太郎は娘を抱き上げた。
「どうだった?」
「すごく強かった! 私も、父様みたいになりたい!」
巌太郎と千鶴は笑い合った。
「君は、お母様みたいに優しい子に育ってほしいな」
「でも、強くもなりたい!」
「じゃあ、優しくて強い子になろう」
三人は手を繋いで、国技館を後にした。
隅田川沿いの道を歩きながら、千鶴は幸せを噛み締めていた。
あの日、巌太郎と出会ってから、人生が変わった。
力士という職業への偏見も消え、彼の内面の美しさを知った。
そして今、こうして家族と共に歩んでいる。
「千鶴」
巌太郎が呼びかけた。
「はい?」
「君と出会えて、本当に良かった」
「私もです」
二人は微笑み合った。
川沿いの桜が、春風に揺れていた。
まるで、二人の門出を祝った、あの日のように。

──完──