「フローリア! あなた、ここを辞めるって……本当なの?」
研究室の片づけを始めて、どれくらい経っただろう。
背後で扉が勢いよく開き、振り返ると、ソフィアとウィリアムが立っていた。ふたりとも、息を切らし、表情には隠しきれない動揺が浮かんでいる。心配と驚きが混じったその顔を見た瞬間、胸の奥に、言葉にしづらい感情が込み上げた。
来てくれたことは、嬉しい。でも、どうしても素直に喜べない。
「……自分から辞めるわけじゃないの」
私は、できるだけ平静を装って答えた。
「首、なんだって」
その一言で、空気が変わった。部屋の中が、急に重く沈み込む。
「そ、そんな……」
ソフィアが、言葉を失ったように目を見開く。
「同期は三人しかいないのに……。それに、フローリアがいなくなったら、寂しいわ」
「ああ……」
ウィリアムも、困ったように眉を寄せた。
「今まで、三人で一緒に頑張ってきたのに……」
その言葉は、きっと本心なのだろう。嘘ではないし、優しさもある。
でも。「一緒に頑張ってきた」という言葉が、胸に引っかかった。
本当に、同じだけの重さを背負っていたのだろうか。
同じ立場で、同じ評価を受けてきたのだろうか。
そう思ってしまう自分を、責めながらも、言葉にはできない。
再び、沈黙が降りた。
私は、机の上に残った最後の器具にそっと触れ、視線を落としたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。
「……これから、どうするんだ?」
ウィリアムが、慎重に言葉を選ぶように問いかけてきた。
「とりあえず、寮は、明日には出なきゃいけないから」
私は、机の端を見つめたまま答える。
「実家に帰ろうと思ってる。でも……帰ったら、きっと縁談の話が進んで、結婚して……もう、薬学に関わることはできなくなると思う」
言葉にしてしまった途端、喉の奥が痛くなった。
「どうしよう」
小さく漏れたその声に、ふたりは顔を見合わせた。そして、辛そうな表情を浮かべる。
「わかるわ」
ソフィアが、静かに頷いた。
「私も、薬学が大好きだもの。せっかく宮廷薬師になれたのに……それを失うなんて、つらいわよね」
優しい声だった。本当に、寄り添おうとしてくれているのも分かる。
「……フローリア、実はね」
ソフィアは、一瞬だけ言いづらそうに視線を逸らしてから、続けた。
「私、美容部門の主任に任命されたの。これから、あなたと一緒に、たくさん開発ができるって……楽しみにしていたの。だから……私も、正直、つらいわ」
そんなこと言われても。
「誰だって、生きていれば辛いことはあるのよね。でも、辛いことがあっても、何とか乗り越えていかなくちゃいけないわ」
ソフィアは、まっすぐこちらを見て言った。
「違う道を歩むことになっても……私たちは、いつまでも同期よ。お互い、頑張りましょう」
その言葉は、正しくて、綺麗で、前向きだった。
――でも、その美容部門のために、私は職を失ったのだ。そう思ってしまう自分を、止められない。
これまで私が関わってきた実験も、調合も、計算も。成果として残るものは、すべてソフィアの名前で報告されている。
それを今さら話したところで、何が変わるのだろう。室長は「決定事項だ」と言った。もう、何をしても無駄なのだ。
私は、なんとか口元を持ち上げ、笑顔の形を作った。
「……ありがとう、ソフィア」
そう言いながら、心には、やるせなさが静かに溢れ続けていた。
「そうだぞ、フローリア。辛いときは、いつでも俺たちを頼ってくれ」
その言葉を聞きながら、私は曖昧に頷いた。
今が、その“辛いとき”なのに。
胸の奥で、言葉にならない思いが渦を巻く。彼らは、本当に分かっているのだろうか。それとも、私の話を、どこか遠くの出来事として聞いていたのだろうか。
「本当はね、フローリアを見送りたいんだけど……」
ソフィアが、申し訳なさそうに続ける。
「これから、新しい部門の打ち合わせ会議があるの。名残惜しいけど……仕方ないわよね」
新しい部門。その言葉が、耳の奥に残る。
「落ち着いたら、手紙をちょうだい。絶対よ?」
「……元気でな」
ウィリアムが、短く言った。
ソフィアは、ぎゅっと私の手を握った。けれど、その温もりが、心の奥の空白を埋めることはなかった。
「……うん」
私は、小さく返事をした。
ふたりは、最後にもう一度だけこちらを振り返り、それから、激励の言葉を背中に残して部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
私は、その扉を、しばらくの間じっと見つめていた。
悔しさも、悲しさも、怒りも――渦巻いていた感情は、少しずつ、薄れていく。
ここを去る。
その事実だけが、静かに、確かに、私を現実へと引き戻していた。
「……片づけを、しないと」
誰に向けるでもなく、ただ自分に言い聞かせるように呟いた。けれど、体は思うように動かない立ち上がるだけで精一杯だった。
引き継ぎ書を作らなければ。
今まで進めていた研究の経過、注意点、保管している薬草の一覧。
先輩たちにも、きちんと挨拶をして――
頭では分かっている。宮廷薬師として、最後まで責任を果たすべきだということも。
「……でも」
小さく、息が漏れた。
「……もう、どうでもいいか……」
言葉にした途端、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
ここに残る人たちは、私がいなくても困らない。
研究も、開発も、きっと誰かが引き継ぐ。
そう考えると、急に力が抜けてしまった。
私は黙ったまま、机の引き出しを一つずつ開け、私物だけを選び取るようにして荷物をまとめ始めた。
研究ノート。
書きかけのメモ。
使い慣れたペンと、すり減った手袋。
どれも、この場所で過ごした時間の証だった。
それらを箱に収め、私は静かに部屋を後にした。感情に向き合う余裕は、もう残っていなかった。
研究室の片づけを始めて、どれくらい経っただろう。
背後で扉が勢いよく開き、振り返ると、ソフィアとウィリアムが立っていた。ふたりとも、息を切らし、表情には隠しきれない動揺が浮かんでいる。心配と驚きが混じったその顔を見た瞬間、胸の奥に、言葉にしづらい感情が込み上げた。
来てくれたことは、嬉しい。でも、どうしても素直に喜べない。
「……自分から辞めるわけじゃないの」
私は、できるだけ平静を装って答えた。
「首、なんだって」
その一言で、空気が変わった。部屋の中が、急に重く沈み込む。
「そ、そんな……」
ソフィアが、言葉を失ったように目を見開く。
「同期は三人しかいないのに……。それに、フローリアがいなくなったら、寂しいわ」
「ああ……」
ウィリアムも、困ったように眉を寄せた。
「今まで、三人で一緒に頑張ってきたのに……」
その言葉は、きっと本心なのだろう。嘘ではないし、優しさもある。
でも。「一緒に頑張ってきた」という言葉が、胸に引っかかった。
本当に、同じだけの重さを背負っていたのだろうか。
同じ立場で、同じ評価を受けてきたのだろうか。
そう思ってしまう自分を、責めながらも、言葉にはできない。
再び、沈黙が降りた。
私は、机の上に残った最後の器具にそっと触れ、視線を落としたまま、何も言えずに立ち尽くしていた。
「……これから、どうするんだ?」
ウィリアムが、慎重に言葉を選ぶように問いかけてきた。
「とりあえず、寮は、明日には出なきゃいけないから」
私は、机の端を見つめたまま答える。
「実家に帰ろうと思ってる。でも……帰ったら、きっと縁談の話が進んで、結婚して……もう、薬学に関わることはできなくなると思う」
言葉にしてしまった途端、喉の奥が痛くなった。
「どうしよう」
小さく漏れたその声に、ふたりは顔を見合わせた。そして、辛そうな表情を浮かべる。
「わかるわ」
ソフィアが、静かに頷いた。
「私も、薬学が大好きだもの。せっかく宮廷薬師になれたのに……それを失うなんて、つらいわよね」
優しい声だった。本当に、寄り添おうとしてくれているのも分かる。
「……フローリア、実はね」
ソフィアは、一瞬だけ言いづらそうに視線を逸らしてから、続けた。
「私、美容部門の主任に任命されたの。これから、あなたと一緒に、たくさん開発ができるって……楽しみにしていたの。だから……私も、正直、つらいわ」
そんなこと言われても。
「誰だって、生きていれば辛いことはあるのよね。でも、辛いことがあっても、何とか乗り越えていかなくちゃいけないわ」
ソフィアは、まっすぐこちらを見て言った。
「違う道を歩むことになっても……私たちは、いつまでも同期よ。お互い、頑張りましょう」
その言葉は、正しくて、綺麗で、前向きだった。
――でも、その美容部門のために、私は職を失ったのだ。そう思ってしまう自分を、止められない。
これまで私が関わってきた実験も、調合も、計算も。成果として残るものは、すべてソフィアの名前で報告されている。
それを今さら話したところで、何が変わるのだろう。室長は「決定事項だ」と言った。もう、何をしても無駄なのだ。
私は、なんとか口元を持ち上げ、笑顔の形を作った。
「……ありがとう、ソフィア」
そう言いながら、心には、やるせなさが静かに溢れ続けていた。
「そうだぞ、フローリア。辛いときは、いつでも俺たちを頼ってくれ」
その言葉を聞きながら、私は曖昧に頷いた。
今が、その“辛いとき”なのに。
胸の奥で、言葉にならない思いが渦を巻く。彼らは、本当に分かっているのだろうか。それとも、私の話を、どこか遠くの出来事として聞いていたのだろうか。
「本当はね、フローリアを見送りたいんだけど……」
ソフィアが、申し訳なさそうに続ける。
「これから、新しい部門の打ち合わせ会議があるの。名残惜しいけど……仕方ないわよね」
新しい部門。その言葉が、耳の奥に残る。
「落ち着いたら、手紙をちょうだい。絶対よ?」
「……元気でな」
ウィリアムが、短く言った。
ソフィアは、ぎゅっと私の手を握った。けれど、その温もりが、心の奥の空白を埋めることはなかった。
「……うん」
私は、小さく返事をした。
ふたりは、最後にもう一度だけこちらを振り返り、それから、激励の言葉を背中に残して部屋を出て行った。
扉が閉まる音が、やけに大きく響く。
私は、その扉を、しばらくの間じっと見つめていた。
悔しさも、悲しさも、怒りも――渦巻いていた感情は、少しずつ、薄れていく。
ここを去る。
その事実だけが、静かに、確かに、私を現実へと引き戻していた。
「……片づけを、しないと」
誰に向けるでもなく、ただ自分に言い聞かせるように呟いた。けれど、体は思うように動かない立ち上がるだけで精一杯だった。
引き継ぎ書を作らなければ。
今まで進めていた研究の経過、注意点、保管している薬草の一覧。
先輩たちにも、きちんと挨拶をして――
頭では分かっている。宮廷薬師として、最後まで責任を果たすべきだということも。
「……でも」
小さく、息が漏れた。
「……もう、どうでもいいか……」
言葉にした途端、張り詰めていた何かが、ぷつりと切れた。
ここに残る人たちは、私がいなくても困らない。
研究も、開発も、きっと誰かが引き継ぐ。
そう考えると、急に力が抜けてしまった。
私は黙ったまま、机の引き出しを一つずつ開け、私物だけを選び取るようにして荷物をまとめ始めた。
研究ノート。
書きかけのメモ。
使い慣れたペンと、すり減った手袋。
どれも、この場所で過ごした時間の証だった。
それらを箱に収め、私は静かに部屋を後にした。感情に向き合う余裕は、もう残っていなかった。


