悪気がないかどうか、それを決めるのは私です

  いつものように、気配を殺して作業室に足を踏み入れると、ちょうど中心に立っていたソフィアが、周囲からの視線を一身に集めていた。

 賛辞の言葉を浴びながら、彼女は頬をほんのり赤らめ、困ったように、それでも嬉しそうに微笑んでいる。

 ……毎度のことだけれど、あの視線の中に立てるのは、本当にすごいと思う。

 私だったら、きっと数秒で逃げ出してしまう。



「ソフィア、すごいわ! あなた、また王妃様に直々にお褒めの言葉をいただいたんですって?」
「美容分野で、あなたの隣に立てる人なんていないじゃない」

 先輩の一人が、興奮を隠しきれない様子で声をかける。


「そんな……」

 ソフィアは軽く首を振り、控えめに言った。


「いつも申し上げていますけれど、私ひとりの手柄ではありませんの。ウィリアムも協力してくれていますし、今回も特に、フローリアが頑張ってくれました」

 その名が出た瞬間、何人かの視線が、ちらりと私の方に流れてくる。

「またまた、謙遜しちゃって」
 先輩は小さく笑い、肩をすくめた。

「フローリアが美容に興味あるわけないじゃない。だって――」

 言葉は、止まらない。

「いつも髪はぼさぼさだし、肌艶っていうより……顔色も悪いでしょう?」
「分厚い眼鏡をかけてるだけで、アクセサリーの一つも付けないし」

 ……その通りですけど。

 心の中でそう返しながら、私は何も言わない。

 本人がすぐそこにいるのだから、せめて聞こえないように言ってほしい。そんな小さな願いすら、口に出す気にはなれなかった。

 そして、何事もなかったかのように作業台へ向かい、薬草をすりこ木で静かにつぶし始めた。

 一定のリズムで響く、こつ、こつ、という音。それだけが、今の私をここにつなぎとめている気がした。


「先輩! フローリアを悪く言うのはやめてください!」

 はっきりとした声が、作業室に響いた。驚いて顔を上げると、ソフィアが珍しく眉を寄せ、真っ直ぐ先輩を見ていた。


「確かに、フローリアは、美容に興味はないと思いますけれど」

 一瞬、言葉を選ぶように間を置いてから、続ける。


「でも、薬草の知識や実験では、いつも助けてもらっていますし……。薬師は、見た目で評価されるものじゃないと思います!」

 助けてくれる?
 見た目じゃない?

 庇ってくれているのだ、と頭では理解できた。けれど、その言葉は、すとんとは落ちてこない。

 
 私は何も言わず、視線も上げず、すりこ木を動かし続ける。ごり、と薬草が潰れる音だけが、やけに大きく響いた。


「そ、そうね……言い過ぎたわ」

 先輩は少し気まずそうに笑い、話題を変えるように言った。


「とにかく王妃様のご要望もあって、室長が“美容専門の部門”を作るらしいわよ。もしかしたら……ソフィアが主任、なんてこともあるかもしれないわね」

 一瞬、空気が変わる。


「そ、そんな……私なんか」

 ソフィアは慌てて手を振った。けれど、その声には、完全には隠しきれない高揚が混じっている。否定しながらも、心のどこかで、その未来を思い描いている。そんな気配。


 ……ええ。彼女なら、きっと適任だろう。

 美容に関する知識、王妃様からの信頼、周囲の期待。どれを取っても、申し分ない。


 美容部門、か……。

 仕事が増えないことを、ただ祈るしかない。




      ◇



「……え?」

 一瞬、言葉の意味が理解できなかった。



「え? 首、ですか?」

 聞き返した声は、自分でも驚くほど間が抜けていた。



「首、という言い方は少しきついな」

 室長は椅子にもたれ、事務的な口調で続ける。



「だが結果としてはそうだ。フローリアには悪いが、君にはここを辞めてもらうことになった」

 淡々とした声。そこに、迷いや躊躇は感じられない。

 ……辞める? 私が?

 室長が「大事な話がある」と言ったから、緊張しながらここへ来た。人員配置の話か、開発の件で何か指摘があるのだろうと――せいぜい、その程度だと思っていた。

 まさか、職を失う話だなんて。

 頭の中が一気に真っ白になる。理由を探そうとして、思考が空回りする。少なくとも、「解雇」に直結するほどのことはしていないはずだ。


「……なぜ、ですか?」

 ようやく絞り出した声は、かすれて震えていた。


「私、何か……何か、してしまいましたか?」

 自分でも驚くほど必死だった。これまで、言われた仕事は断らずにやってきた。夜の当直も、急な依頼も、不満を飲み込んで引き受けてきた。

 足りないと言われれば努力した。

 学院を出ていない分、経験で埋めるしかないと、自分に言い聞かせて。自分から辞めると言わない限り、ここで働き続けられるのだと。永年雇用――そんな暗黙の安心感があったからこそ、辛い日々も踏ん張ってこられた。

 
 室長は一瞬、視線を机に落とした。そして、短く息を吐く。


「何かした、というより……何もしなかった、と言うべきなのだろうな」

 室長はそう前置きしてから、言葉を選ぶように続けた。

 何もしなかった?


「実はな、君も耳にしているだろうが……王妃様のご要望で、本格的に美容部門を立ち上げることになった。君たちを採用してから、間もなく一年だ。その間に、宮廷薬師全体の技術水準は確実に向上した。ポーションを含む治療薬の質も安定し、量も十分に確保できている」


 淡々とした言葉を、必死に理解しようとする。けれど、その意味は、次第に冷たい現実となって胸にのしかかってきた。


「つまり……」

「一人、人員を削減しても業務は回る、という判断だ」

 室長はきっぱりと言った。


「削減した分の人件費を、新部門の予算に回したい」

 ……そういう、ことか。


「っ……なぜ、その一人が私なのか……理由を、お聞きしても……?」

 声が、わずかに震えた。


「……正直に言おう。君は、ノルマのポーション納品が遅れがちだ。それに、他の薬師とのコミュニケーションも、十分とは言えないだろう? さらに、高価な薬剤の使用履歴もある。だが、それに見合う成果物が、記録上は確認できない」

「それは……!」

 思わず声が出かけて、止まる。

 言いたかった。ポーションが遅れるのは、先輩たちから頼まれる分を優先しているからだと。

 高価な薬剤も、美容関係の実験に使っているだけで、成果はすべてソフィア名義で報告されているのだと。


「薬品開発に使うこと自体は、認められている。使うなとは言わない。ただ……結果が伴わない以上、評価はできない」

 冷静な言葉が、反論を許さなかった。

 コミュニケーションが不足している。それについては、否定できなかった。喉が詰まり、声が出ない。視界が滲み、涙がぽろりと零れ落ちる。


「とにかく、これは決定事項だ」

 室長は、話を締めくくるように言った。


「急で悪いが、荷物をまとめ次第、退出してほしい。勤続期間が短いから、退職金も多くはないだろうが……財務に寄って手続きをするといい」

 それ以上の言葉はなく、退出を促される。

 室長室を出たあと、私はしばらく廊下に立ち尽くしていた。長い廊下が、やけに現実味を失って見える。

 考えられない。
 感じられない。

 それでも足だけが、勝手に研究室へ向かっていた。

 辿り着いても、しばらくは動けなかった。ここが、もう自分の居場所ではないという実感が、どうしても湧かなかった。



「ああ……私、出て行くんだった……」

 夕暮れの光が差し込み始めた頃、ようやく呟く。



「……荷物、まとめないと」

 机の上には、手つかずの研究。新種の薬草の効用調査。いつか時間ができたら試そうと思っていた実験。

 やりたかったことが、こんなにも残っているのに。

 一つ、また一つと片づけていくたびに、悔しさと無力感が積もっていく。



「……一生懸命、頑張ったのに……」

 どうして。

 努力が、何一つ評価されなかった現実が、今になって押し寄せる。涙が止まらず、視界は滲んでいた。

 それでも、手は止めなかった。

 最後くらいは、きちんと片づけていこう。そう思わなければ、立っていられなかった。