「あ、あの……先輩。頼まれていたポーションですが、その……」
言葉を探す間にも、心臓の音がやけに大きく響く。
森へ向かう前。ほんの少しの時間も無駄にできないはずなのに、足が床に縫い止められたように動かない。
「期日を……少しだけ延ばしていただくか、あるいは……他の方に代わっていただけたら、ありがたいのですが……」
最後まで言い切るのに、思った以上の勇気が要った。
視線はどうしても上げられず、机の端を見つめたまま、小さな声で言葉を紡ぐ。指先が冷たくなり、手が震えているのが、自分でもはっきり分かった。
「え? 困るわ!! 理由は何なの?」
即座に返ってきた声に、肩がびくりと跳ねる。アリシア先輩は眉をひそめ、その表情には驚きと、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
……やっぱり、こうなるわよね。
先輩に話しかけるだけでも、毎回こんなに緊張する。ましてや、期日の延長や担当の変更を願うなんて自分でも無謀だと思っていた。
ポーションは常に不足している。
依頼は期限厳守。それが、この職場で働くようになってから、何度も何度も叩き込まれてきた絶対のルールだ。
「実は……王妃様から、早急な開発依頼に関わることになりまして……」
できるだけ落ち着いた声を意識しながら、事情を説明する。何とか言えたことで、ほんのわずかに肩の力が抜けた気がした。けれど、それも束の間だ。次に返ってくる言葉が怖くて、私は最後まで顔を上げることができなかった。
「……そう」
一拍、沈黙が落ちたあとで、先輩は口を開いた。
「まあ、私のお願いより、王妃様のご要望の方が優先よね」
理解してくれている。そう頭では分かるのに、声にはわずかな棘が残り、続く小さなため息が、それをはっきりと示していた。
「……すみません」
反射的に謝ってしまう。本当は、私が悪いわけでもないと分かっているのに、こういう時、謝る以外の言葉を私は知らない。
「でもね。頼んだのは先週でしょう? ポーションの調合は、もっと手早くできるようにならないといけないわ」
一つ一つ、淡々と告げられる言葉。
「本来なら、そういうことは学院で身につけてくるものだけど……」
一瞬、間が空く。
「まあ、あなたの場合は、仕方ないわね」
責められているわけではない。 でも、擁護されているわけでもなかった。
学院に通っていないこと。
だから時間がかかること。
分かりきった事実を、改めて突きつけられた気がして悲しくなった。
「フローリアの作るポーションの質が高いのは、ちゃんと認めているわ。でも、王宮の薬師に求められるのは質だけじゃない。迅速さも、同じくらい重要よ」
「……はい」
短く返事をしながら、私は唇を噛みしめた。それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
ポーション作りを頼んでくるのは、アリシア先輩だけではない。
そもそも薬師には、それぞれ担当とノルマがあり、特定の誰かに作成を押しつけるのは、決して普通のことではないはずだ。
『新人だし、特に学院を出ていないフローリアは、安定したポーションを作れるよう、数をこなした方がいいわ』
それでも、そう言われると、どうしても断れなくなる。
自分でも、以前よりはずっと手早く調合できるようになったと思っていた。それなりに努力もしてきたつもりだ。
けれど、それでも足りない。まだまだだと、暗に言われているようで気づかないうちに、心がすり減っていく。
そんな私の反応を見てか、アリシア先輩は一瞬だけ、口元を緩めた。
「……まあ、いいわ。ポーションの件は、何とかするから。その代わり――」
嫌な予感が、胸をよぎる。
「今日の夜の当直、代わってくれない? 実は、急に婚約者と出かけることになって困っていたの」
それは、お願いというよりも、条件提示に近かった。しかし、このくらいなら。
「それは……大丈夫です」
夜の当直は、いつも誰かの代わりに入っている。それに今日は、どうせ早く帰れそうにない。引き受けることに、特別な問題はなかった。
「本当? よかったわ」
アリシア先輩は、ほっとしたように声を弾ませた。
「あ、それと王妃様の開発って、美容関係よね。完成したら、私にも少し分けてちょうだい」
「……はい」
微笑みを返し、そのまま研究室を後にする。扉が閉まった瞬間、ようやく肩の力が抜けた。
『学院で習ってくるもの』
『質だけでなく、迅速さ』
先輩の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
学院を出ていないのだから、経験を積む必要がある。そう言われると、反論はできない。
同じ新人でも、学院に通っていたソフィアやウィリアムには回ってこない仕事が、なぜか私には集まってくる。
何とかこなしてはいる。けれど、正直、きつい。
もし学院に行っていたら、もう少し楽にやれていたのだろうか。もっと要領よく、評価もされて。
仕事なのだから、やりたいことだけを選べるはずがない。それは分かっている。
でも、いつか、これにも慣れる日が来るのだろうか。
それとも、ただ我慢が上手くなるだけなのだろうか。
心の中で何度も自問自答を繰り返したが、結局、答えは見つからなかった。
◇
ラックウッドの森での採取は、幸い大きな問題もなく終わった。けれど、森を抜ける頃にはすっかり夜になっており、周囲は闇に包まれていた。
冷たい風が吹きつけ、露出した頬を刺すように通り過ぎていく。長時間の採取で足は重く、肩や腰には鈍い痛みが残っていた。頭も冴えず、考えがまとまらない。
それでも、休むわけにはいかない。
王妃様からの依頼は「早急に」。今夜のうちに、少しでも調合を進めておかなければならなかった。
終わりの見えない仕事への重圧。
このまま続けていけるのかという、拭いきれない不安。
それらを抱えたまま、私は足取り重く王宮へ戻り、実験室へ向かう。
灯りの落ちた室内を見渡して、分かってはいたことを改めて確認した。
やはり、二人はいない。
今日も、残るのは私だけだ。
……今は、余計なことを考えている場合じゃないわ。
そう自分に言い聞かせ、外套を脱ぐ。器具を並べ、採取してきたカゼカゲソウの状態を確認する。
静まり返った実験室に、いつもの薬草とポーションの香りが広がる。
私は深く息を吸い、気持ちを切り替えて、開発に取りかかる準備を整えた。
言葉を探す間にも、心臓の音がやけに大きく響く。
森へ向かう前。ほんの少しの時間も無駄にできないはずなのに、足が床に縫い止められたように動かない。
「期日を……少しだけ延ばしていただくか、あるいは……他の方に代わっていただけたら、ありがたいのですが……」
最後まで言い切るのに、思った以上の勇気が要った。
視線はどうしても上げられず、机の端を見つめたまま、小さな声で言葉を紡ぐ。指先が冷たくなり、手が震えているのが、自分でもはっきり分かった。
「え? 困るわ!! 理由は何なの?」
即座に返ってきた声に、肩がびくりと跳ねる。アリシア先輩は眉をひそめ、その表情には驚きと、抑えきれない苛立ちが滲んでいた。
……やっぱり、こうなるわよね。
先輩に話しかけるだけでも、毎回こんなに緊張する。ましてや、期日の延長や担当の変更を願うなんて自分でも無謀だと思っていた。
ポーションは常に不足している。
依頼は期限厳守。それが、この職場で働くようになってから、何度も何度も叩き込まれてきた絶対のルールだ。
「実は……王妃様から、早急な開発依頼に関わることになりまして……」
できるだけ落ち着いた声を意識しながら、事情を説明する。何とか言えたことで、ほんのわずかに肩の力が抜けた気がした。けれど、それも束の間だ。次に返ってくる言葉が怖くて、私は最後まで顔を上げることができなかった。
「……そう」
一拍、沈黙が落ちたあとで、先輩は口を開いた。
「まあ、私のお願いより、王妃様のご要望の方が優先よね」
理解してくれている。そう頭では分かるのに、声にはわずかな棘が残り、続く小さなため息が、それをはっきりと示していた。
「……すみません」
反射的に謝ってしまう。本当は、私が悪いわけでもないと分かっているのに、こういう時、謝る以外の言葉を私は知らない。
「でもね。頼んだのは先週でしょう? ポーションの調合は、もっと手早くできるようにならないといけないわ」
一つ一つ、淡々と告げられる言葉。
「本来なら、そういうことは学院で身につけてくるものだけど……」
一瞬、間が空く。
「まあ、あなたの場合は、仕方ないわね」
責められているわけではない。 でも、擁護されているわけでもなかった。
学院に通っていないこと。
だから時間がかかること。
分かりきった事実を、改めて突きつけられた気がして悲しくなった。
「フローリアの作るポーションの質が高いのは、ちゃんと認めているわ。でも、王宮の薬師に求められるのは質だけじゃない。迅速さも、同じくらい重要よ」
「……はい」
短く返事をしながら、私は唇を噛みしめた。それ以上、何を言えばいいのか分からなかった。
ポーション作りを頼んでくるのは、アリシア先輩だけではない。
そもそも薬師には、それぞれ担当とノルマがあり、特定の誰かに作成を押しつけるのは、決して普通のことではないはずだ。
『新人だし、特に学院を出ていないフローリアは、安定したポーションを作れるよう、数をこなした方がいいわ』
それでも、そう言われると、どうしても断れなくなる。
自分でも、以前よりはずっと手早く調合できるようになったと思っていた。それなりに努力もしてきたつもりだ。
けれど、それでも足りない。まだまだだと、暗に言われているようで気づかないうちに、心がすり減っていく。
そんな私の反応を見てか、アリシア先輩は一瞬だけ、口元を緩めた。
「……まあ、いいわ。ポーションの件は、何とかするから。その代わり――」
嫌な予感が、胸をよぎる。
「今日の夜の当直、代わってくれない? 実は、急に婚約者と出かけることになって困っていたの」
それは、お願いというよりも、条件提示に近かった。しかし、このくらいなら。
「それは……大丈夫です」
夜の当直は、いつも誰かの代わりに入っている。それに今日は、どうせ早く帰れそうにない。引き受けることに、特別な問題はなかった。
「本当? よかったわ」
アリシア先輩は、ほっとしたように声を弾ませた。
「あ、それと王妃様の開発って、美容関係よね。完成したら、私にも少し分けてちょうだい」
「……はい」
微笑みを返し、そのまま研究室を後にする。扉が閉まった瞬間、ようやく肩の力が抜けた。
『学院で習ってくるもの』
『質だけでなく、迅速さ』
先輩の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。
学院を出ていないのだから、経験を積む必要がある。そう言われると、反論はできない。
同じ新人でも、学院に通っていたソフィアやウィリアムには回ってこない仕事が、なぜか私には集まってくる。
何とかこなしてはいる。けれど、正直、きつい。
もし学院に行っていたら、もう少し楽にやれていたのだろうか。もっと要領よく、評価もされて。
仕事なのだから、やりたいことだけを選べるはずがない。それは分かっている。
でも、いつか、これにも慣れる日が来るのだろうか。
それとも、ただ我慢が上手くなるだけなのだろうか。
心の中で何度も自問自答を繰り返したが、結局、答えは見つからなかった。
◇
ラックウッドの森での採取は、幸い大きな問題もなく終わった。けれど、森を抜ける頃にはすっかり夜になっており、周囲は闇に包まれていた。
冷たい風が吹きつけ、露出した頬を刺すように通り過ぎていく。長時間の採取で足は重く、肩や腰には鈍い痛みが残っていた。頭も冴えず、考えがまとまらない。
それでも、休むわけにはいかない。
王妃様からの依頼は「早急に」。今夜のうちに、少しでも調合を進めておかなければならなかった。
終わりの見えない仕事への重圧。
このまま続けていけるのかという、拭いきれない不安。
それらを抱えたまま、私は足取り重く王宮へ戻り、実験室へ向かう。
灯りの落ちた室内を見渡して、分かってはいたことを改めて確認した。
やはり、二人はいない。
今日も、残るのは私だけだ。
……今は、余計なことを考えている場合じゃないわ。
そう自分に言い聞かせ、外套を脱ぐ。器具を並べ、採取してきたカゼカゲソウの状態を確認する。
静まり返った実験室に、いつもの薬草とポーションの香りが広がる。
私は深く息を吸い、気持ちを切り替えて、開発に取りかかる準備を整えた。


