悪気がないかどうか、それを決めるのは私です

「ええと……今日は、手つかずの書類整理に……頼まれていたポーションづくり。それから――あっ、薬草も底をついていたんだった……」

 指折り数えながら、ため息をついた。



「はぁ……一日が四十八時間あればいいのに……」


 机の上に積み上がった書類の山を見て、またため息をつく。紙の束は威圧的にそびえ立っている。ちょっと押したら崩れそう……。

 終わらない仕事なんてない――何度も自分に言い聞かせてきたが、仕事は、次から次へと現れるのだ。


「……今日は、絶対にソフィアに見つかりませんように……」

 小さく祈り、私は意を決して椅子を押しのけた。


  栄えある宮廷薬師――それが、今の私の職業だ。

 国の宮廷薬師試験は、身分を問わない完全な実力主義で行われ、貴族か平民かはもちろん、学歴や男女の別も関係ない。この制度は、他国から見てもかなり珍しいらしい。

 もっとも、実際に採用されるのは、薬師学院を優秀な成績で修めた者が大半だ。


 子爵家の三女として生まれた私は、幼い頃から植物が好きだった。

 暇さえあれば本を読み、庭や郊外で薬草を探す。曾祖母が名の知られた薬師だったこともあり、家には薬学に関する書物や古い実験器具が数多く残されていた。

 それらに興味を持ち、独学で学び始めたのは、自然な流れだったと思う。

 幸い、末っ子ということもあって、家族は私の好きなことを咎めなかった。しかし、人と関わることなく研究に没頭しすぎた結果、強い人見知りになってしまったのは、誤算だったようだ。

 子爵家としては比較的余裕があり、三女の私にも学院進学の話はあった。

 けれど、見知らぬ人々の中で生活する自分を想像しただけで涙が出てしまい、その道は諦めた。

 代わりに両親は家庭教師を雇ってくれた。おかげで、一般教養や礼儀作法に不自由はない。それでも、本格的に薬学を学ぶ機会を自ら手放してしまったことへの後悔だけは、今も心のどこかに残っている。


 世の令息令嬢が次々と学院を卒業する年齢になった、ある日のことだった。

 お母様が、話を切り出した。


「ねえ、フローリア。あなたに、たくさん縁談が届いているのだけれど……どうしたい?」

 ――ついに、来てしまった。三女の私が、いつまでも実家にいられるはずがない。それは、ずっと分かっていたことだ。


「……もし、希望が叶うのでしたら。薬学を続けても構わないお家が、よろしいのですが……」

 恐る恐る口にすると、お母様は少し間を置いてから、あっさりと言った。


「……聞いてはいないけれど、無理でしょうね」

 やっぱり、そうよね……。

 肩を落とした私に、お母様は続ける。


「うちはね、フローリア。無理に縁を結ばなきゃいけない家があるわけでもないの。お金持ちの高位貴族と親戚になるのも、正直気を遣うでしょう? だから薬学を続けたいのなら、宮廷薬師を目指してみたらどうかしら?」

 そう言って微笑んだ。

 正直気を遣う……って言っているけど、一番上のお姉様は侯爵家の次男を婿に迎え、二番目のお姉様は伯爵家へ嫁ぐことになった。

 我が家は子爵家だが、義兄となるお二人は身分など気にしないほど、お姉様たちに惚れ込んでいるらしい。


「必ず守るから、ぜひ結婚を」と熱心に申し入れがあり、話は滞りなくまとまったそうだ。

 侯爵家に伯爵家……だいぶ、お金持ちの高位貴族なのだが……。

 それなのに、お母様は「無理に縁を結ばなくてもいい」なんて。……いいえ。きっと、私のことを思って言ってくれているのね。


「お父様に話したらね、人見知りのフローリアが外で働くなんて無理だって、青ざめていたわ」

 苦笑しながらそう言って、お母様は続ける。


「でも私は、外の世界を見るのはフローリアにとって良い経験になると思うの。学院にも行かせてあげられなかったでしょう?」

「……お母様、ありがとうございます。ぜひ、挑戦させてください。もし駄目でしたら……その時は、お母様たちが選んだ方と結婚いたしますわ」

 独学の私が、どこまで通用するのかは分からなかった。

 それでも必死に学び、努力を重ねた結果――私は王宮の薬師試験に合格した。


 一生、薬学に関わって生きていける。自分の手で掴み取った。だからこそ、どれほど忙しくても、私は宮廷薬師を手放すわけにはいかないのだ。




 ソフィア・マイヤー伯爵令嬢と平民出身のウィリアム。二人は、私と同じ年に宮廷薬師として採用された同期だった。

 ソフィアは裕福な伯爵家の一人娘でありながら、「大好きな薬学で、自分の力を試したい」と宮廷薬師の道を選んだ人だ。

 ウィリアムは、平民向けの特待生制度を利用して、ソフィアと同じ学院に通っていたという。卒業の際、仲の良かったソフィアに誘われ、一緒に薬師を志したそうだ。


 王宮では、特別に管理・栽培された薬草を用い、治療薬を調合する。王族の健康管理も、私たちの重要な役目だ。毎日が学びと挑戦の連続で、失敗は決して許されない。

 薬師になったばかりの頃は、三人で助け合い、励まし合いながら業務を覚えていった。

 研究の進め方や新しい治療法について意見を交わすことも多く、そのたびに新たな知識が積み重なっていくのを感じていた。

 特に、ソフィアの発想は柔軟で、時に私の常識をあっさりと覆す。

 それが悔しくもあり、同時に刺激でもあって、私自身の成長につながっていたのは、間違いない。

 ……ああ。そんなふうに、充実感と喜びに満ちていた日々も、確かにあったのだが。



『せっかく同じ年に採用されたのだから、仲良くしましょう! そうだわ。共同で薬の開発なんて、素敵じゃない?』

 そう言われてしまえば、断れるはずがなかった。身分は関係ないとはいえ、相手は伯爵令嬢だもの。

 こうして始まった共同開発。

 それが、後に私を苦しめることになる。


     ◇



「すごいわ、ソフィア! あなたの作った化粧水、王妃様のお気に入りなんですって?」

 採取道具を取りに来ただけだった私は、研究室の入り口で足を止めた。数人の王宮薬師に囲まれ、ソフィアは輪の中心にいた。

 少し頬を赤らめ、控えめに微笑むその姿は、誰の目にも好ましく映るだろう。


「そんな……私一人の力じゃないわ」

 ソフィアはそう言って、はっきりと言った。


「フローリアとウィリアム、それに私。同期三人での共同開発よ」

 その言葉を、私は机の陰から聞いていた。彼女の言葉に、彼女の隣で実験器具を整理していたウィリアムも微笑む。


「そんな、謙遜しないで。あなたがアイディアを出しているんでしょ? 画期的なアイディアを出せる人が一番すごいのよ!! ああ、羨ましいわ、その才能」


 先輩たちの言葉に、ソフィアは思わず笑顔をこぼした。


「そんな……私の思い付きを形にしてくれる2人がすごいのよ。特にフローリアは、私のこうなったらいいなを絶対に形にしてくれるの。あ! そうだフローリア。この前言っていた美容液で、いいアイディアが浮かんだの。3人でこれから打ち合わせをしましょう!!」



 え? ああ、こっそり部屋から出ようとしていたのに、いつの間か見つかっていた……。聞き耳なんか立てずに、さっさと出ていればよかったわ……



『この薬草の効能いいわね! サマティヌ地方か……ねえフローリア、薬草採取お願いできるかな ?』
『もう少し香りにこだわってほしいんだけど、あと5パターン考えてくれる?』
『なんか、思っていたのと違う。もう1パターンいいかしら?』
『もっと、肌に張りが出るといいわよね』
『シミも薄くできるとよくない?』
『大丈夫、諦めなければきっと成功するわ!』





 通常の業務がある中、ソフィアのアイディアを形にするため徹夜で作業を行ったのは一度や二度ではない。

 甘え上手で、明るくて前向きなソフィア。手柄を独り占めすることもない。優しい言葉だってかけてくれる。それなのに、なぜだろう。いつも心のもやもやが晴れないのは……



 はぁ……ソフィアのアイディア。今回は無茶ぶりでなければいいけど……