レイスさんが現れてから、
私の心は落ち着かなくなった。
宿での仕事は、これまでと変わらない。
廊下を掃除して、食器を運び、
夜になれば疲れて眠る。
それなのに、心だけが同じ場所を行き来している。
――このままで、いいのだろうか。
あの日。
自分が美桜だと気づかれたこと。
守られて、抱き上げられて、
それでも何も言えなかったこと。
忘れようとしても、
忘れられるはずがなかった。
数日後の夕方。
洗濯物を畳み終えた私は、
宿の裏手で一人、風に当たっていた。
足音が近づく。
「……美桜さま」
その声に、胸が小さく跳ねる。
振り返ると、
そこに立っていたのは、レイスさんだった。
「少し、話せますか」
逃げ場のない言い方だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「はい」
短く答えて、
私は彼の隣に立つ。
しばらく、二人とも何も言わない。
先に口を開いたのは、私だった。
「……やっぱり、このままじゃ、まずいですよね」
自分でも驚くほど、
落ち着いた声だった。
レイスさんは、すぐには答えない。
ただ、黙って私の言葉を待っている。
「逃げてたわけじゃ、ないんです。
ただ……戻る覚悟が、足りなかっただけで」
指先を、ぎゅっと握る。
「でも、考えました。
このまま、王妃様にすら何も言わずにいるのは違うのかなって」
顔を上げて、彼を見る。
「城へ戻ります」
言葉にした瞬間、
胸の奥で、何かが静かに定まった。
「……ただし、一つだけ、お願いがあります」
「何でしょう」
「私は、もう巫女じゃありません。
力も、役目も、ありません」
一度、息を整えてから続ける。
「だから、一般人として戻りたいんです。
特別扱いも、保護も、できるだけいりません」
身勝手なお願いだと、
自分でも分かっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
レイスさんは、しばらく黙っていた。
視線を落とし、
何かを考えるように、静かに呼吸をする。
「……分かりました」
短い返事だった。
「ただし、俺の一存では決められません。
上に、相談します」
それで十分だった。
「ありがとうございます」
そう言ったとき、
胸の奥に重さは残っていたけれど、
後悔はなかった。
――――――――――――
翌日。
特別任務隊の三人は、
先に城へ戻ることになった。
装備の確認を終えたあと、
レイスは一人、部隊長に呼び止められる。
「……昨夜の件だが」
低く、周囲に聞こえない声だった。
レイスは短くうなずく。
「彼女は――間違いないです」
部隊長は、しばらくレイスの顔を見ていた。
「お前がそう言うなら、そうなのだろうな」
それは問いではなく、確認だった。
「はい」
一拍の沈黙。
部隊長は小さく息を吐く。
「……分かった。
この件は、私が上へ報告する」
それ以上、詮索はなかった。
「騎士団長へは私から話す。
王妃陛下へも、段階を踏んで伝える」
「ありがとうございます」
「感謝はいらん」
部隊長は視線を逸らし、
すでに馬に乗った他の隊員たちを見やる。
「他の二人には、
お前は後処理で遅れると伝えてある」
「了解しました」
「……いいか、レイス」
呼び止める声は、
上官としてではなく、
長く部下を見てきた者のものだった。
「今回は、私情と任務の境目が曖昧だ。
だが――越えていない」
レイスは、何も言わずに頭を下げる。
「行け。
城まで、無事に連れて帰れ」
命令だった。
同時に、託す言葉でもあった。
部隊長が合図を出すと、
三人の騎士はそのまま城へ向かっていった。
その背を見送り、
レイスは一度だけ、深く息を吐く。
これで、すべてが動き出した。
城へ戻る。
彼女を連れて。
私の心は落ち着かなくなった。
宿での仕事は、これまでと変わらない。
廊下を掃除して、食器を運び、
夜になれば疲れて眠る。
それなのに、心だけが同じ場所を行き来している。
――このままで、いいのだろうか。
あの日。
自分が美桜だと気づかれたこと。
守られて、抱き上げられて、
それでも何も言えなかったこと。
忘れようとしても、
忘れられるはずがなかった。
数日後の夕方。
洗濯物を畳み終えた私は、
宿の裏手で一人、風に当たっていた。
足音が近づく。
「……美桜さま」
その声に、胸が小さく跳ねる。
振り返ると、
そこに立っていたのは、レイスさんだった。
「少し、話せますか」
逃げ場のない言い方だった。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「はい」
短く答えて、
私は彼の隣に立つ。
しばらく、二人とも何も言わない。
先に口を開いたのは、私だった。
「……やっぱり、このままじゃ、まずいですよね」
自分でも驚くほど、
落ち着いた声だった。
レイスさんは、すぐには答えない。
ただ、黙って私の言葉を待っている。
「逃げてたわけじゃ、ないんです。
ただ……戻る覚悟が、足りなかっただけで」
指先を、ぎゅっと握る。
「でも、考えました。
このまま、王妃様にすら何も言わずにいるのは違うのかなって」
顔を上げて、彼を見る。
「城へ戻ります」
言葉にした瞬間、
胸の奥で、何かが静かに定まった。
「……ただし、一つだけ、お願いがあります」
「何でしょう」
「私は、もう巫女じゃありません。
力も、役目も、ありません」
一度、息を整えてから続ける。
「だから、一般人として戻りたいんです。
特別扱いも、保護も、できるだけいりません」
身勝手なお願いだと、
自分でも分かっていた。
それでも、言わずにはいられなかった。
レイスさんは、しばらく黙っていた。
視線を落とし、
何かを考えるように、静かに呼吸をする。
「……分かりました」
短い返事だった。
「ただし、俺の一存では決められません。
上に、相談します」
それで十分だった。
「ありがとうございます」
そう言ったとき、
胸の奥に重さは残っていたけれど、
後悔はなかった。
――――――――――――
翌日。
特別任務隊の三人は、
先に城へ戻ることになった。
装備の確認を終えたあと、
レイスは一人、部隊長に呼び止められる。
「……昨夜の件だが」
低く、周囲に聞こえない声だった。
レイスは短くうなずく。
「彼女は――間違いないです」
部隊長は、しばらくレイスの顔を見ていた。
「お前がそう言うなら、そうなのだろうな」
それは問いではなく、確認だった。
「はい」
一拍の沈黙。
部隊長は小さく息を吐く。
「……分かった。
この件は、私が上へ報告する」
それ以上、詮索はなかった。
「騎士団長へは私から話す。
王妃陛下へも、段階を踏んで伝える」
「ありがとうございます」
「感謝はいらん」
部隊長は視線を逸らし、
すでに馬に乗った他の隊員たちを見やる。
「他の二人には、
お前は後処理で遅れると伝えてある」
「了解しました」
「……いいか、レイス」
呼び止める声は、
上官としてではなく、
長く部下を見てきた者のものだった。
「今回は、私情と任務の境目が曖昧だ。
だが――越えていない」
レイスは、何も言わずに頭を下げる。
「行け。
城まで、無事に連れて帰れ」
命令だった。
同時に、託す言葉でもあった。
部隊長が合図を出すと、
三人の騎士はそのまま城へ向かっていった。
その背を見送り、
レイスは一度だけ、深く息を吐く。
これで、すべてが動き出した。
城へ戻る。
彼女を連れて。
