昼の仕込みが一段落したころ、
私は裏口近くで洗い終えた布巾を絞っていた。
水を含んだ布が、
指の間で重たくなる。
「ミユ、お昼いかない?」
後ろから声をかけられて、
私は振り返った。
「アイシャさん、もうそんな時間?」
「うん。今日は少し早めに上がっていいって」
そう言って、
アイシャさんはにこっと笑う。
この宿で、
私が一番よく話す人だ。
食堂の隅に置かれた簡素なテーブルに腰を下ろすと、
運ばれてきたまかないのスープから、湯気が立ち上った。
「ねえ、ミユ。もうすぐ穂月祭だって知ってる?」
不意に出てきた言葉に、
私はスプーンを持つ手を止めた。
「……穂月祭?」
聞き返すと、
アイシャさんは少し驚いた顔をしてから、
すぐに納得したようにうなずく。
「そっか。ミユ、こっちの出身じゃないんだもんね」
「はい、まだよく知らなくて」
「穂月祭はね、城で開かれるお祭りなの。
年に一度だけ、城の庭が一般にも開放されるのよ」
――城。
その単語を聞いただけで、
胸の奥が小さく鳴った。
「今年は特に盛大になるって噂よ。
ほら、去年は色々あったでしょう?」
去年。
結界が一時的に弱まり、
魔物が城下町に入り込んだ。
城の中にまで侵入した例もあったと聞いている。
それでも、大きな被害は出なかった。
それが、余計に異様だった。
「被害が少なかったから、忘れがちだけどね」
と、アイシャさんは続ける。
「皆、運が良かったって言ってるわ」
運、か。
私は黙って、
スープに視線を落とした。
魔物が現れる地点を、
事前に把握することができた。
それが、女神に与えられた力だった。
――魔物も、この世界にとっては異端。
だから、同じく異端である存在には、
その気配がわかりやすい。
女神は、そう言った。
そしてもう一つ。
私はこの世界と、相性が良かったらしい。
女神が必要とした瞬間、
異世界には、ちょうど命を終えた人間が何人もいた。
その中で、
異端であり、
この世界に無理なく定着できて、
力を与えやすかったのが――私だった。
それだけの理由だった。
その先は、
レイスさんたち騎士が、
この国を守るために戦った結果だ。
「ミユ?」
顔を上げると、
アイシャさんがこちらを見ていた。
「あ、すみません。少し考え事を」
「大丈夫? 無理なら無理しなくていいのよ」
そう言いながらも、
アイシャさんはすぐに、
少し楽しそうな顔になる。
「でもさ、せっかくだし。
穂月祭なんて、滅多に城に行けないんだから」
「……そうですね」
「それにね」
アイシャさんは、
当然のように言った。
「おしゃれしていくのよ」
「おしゃれ、ですか?」
「そう。お祭りなんだから。
普段着のままなんて、もったいないわ」
私はスプーンを置いて、
少し考える。
「でも……そもそも、洋服をあまり持っていなくて」
「大丈夫、大丈夫。
借りられるお店もあるし、
そんな高いものじゃないもの」
城の灯りのこと。
音楽のこと。
人の多さのこと。
アイシャさんは、
楽しそうに話し続ける。
私は相槌を打ちながら、
そのどれにも、
どこか現実感を持てずにいた。
城に行くということは、
過去に、ほんの少し近づくということだ。
見かけるだけでいい。
遠くから、姿を見るだけで。
そんな考えが浮かんでは、
すぐに打ち消す。
近づくということは、
気づかれる可能性が、
ゼロではなくなるということだから。
食事を終え、
仕事に戻るため立ち上がる。
いつもと変わらない昼下がり。
それでも、
穂月祭という言葉が、
私の日常に小さな波紋を残していた。
城に近づくということ。
それが何を意味するのか。
まだ、その答えは出ていなかった。
私は裏口近くで洗い終えた布巾を絞っていた。
水を含んだ布が、
指の間で重たくなる。
「ミユ、お昼いかない?」
後ろから声をかけられて、
私は振り返った。
「アイシャさん、もうそんな時間?」
「うん。今日は少し早めに上がっていいって」
そう言って、
アイシャさんはにこっと笑う。
この宿で、
私が一番よく話す人だ。
食堂の隅に置かれた簡素なテーブルに腰を下ろすと、
運ばれてきたまかないのスープから、湯気が立ち上った。
「ねえ、ミユ。もうすぐ穂月祭だって知ってる?」
不意に出てきた言葉に、
私はスプーンを持つ手を止めた。
「……穂月祭?」
聞き返すと、
アイシャさんは少し驚いた顔をしてから、
すぐに納得したようにうなずく。
「そっか。ミユ、こっちの出身じゃないんだもんね」
「はい、まだよく知らなくて」
「穂月祭はね、城で開かれるお祭りなの。
年に一度だけ、城の庭が一般にも開放されるのよ」
――城。
その単語を聞いただけで、
胸の奥が小さく鳴った。
「今年は特に盛大になるって噂よ。
ほら、去年は色々あったでしょう?」
去年。
結界が一時的に弱まり、
魔物が城下町に入り込んだ。
城の中にまで侵入した例もあったと聞いている。
それでも、大きな被害は出なかった。
それが、余計に異様だった。
「被害が少なかったから、忘れがちだけどね」
と、アイシャさんは続ける。
「皆、運が良かったって言ってるわ」
運、か。
私は黙って、
スープに視線を落とした。
魔物が現れる地点を、
事前に把握することができた。
それが、女神に与えられた力だった。
――魔物も、この世界にとっては異端。
だから、同じく異端である存在には、
その気配がわかりやすい。
女神は、そう言った。
そしてもう一つ。
私はこの世界と、相性が良かったらしい。
女神が必要とした瞬間、
異世界には、ちょうど命を終えた人間が何人もいた。
その中で、
異端であり、
この世界に無理なく定着できて、
力を与えやすかったのが――私だった。
それだけの理由だった。
その先は、
レイスさんたち騎士が、
この国を守るために戦った結果だ。
「ミユ?」
顔を上げると、
アイシャさんがこちらを見ていた。
「あ、すみません。少し考え事を」
「大丈夫? 無理なら無理しなくていいのよ」
そう言いながらも、
アイシャさんはすぐに、
少し楽しそうな顔になる。
「でもさ、せっかくだし。
穂月祭なんて、滅多に城に行けないんだから」
「……そうですね」
「それにね」
アイシャさんは、
当然のように言った。
「おしゃれしていくのよ」
「おしゃれ、ですか?」
「そう。お祭りなんだから。
普段着のままなんて、もったいないわ」
私はスプーンを置いて、
少し考える。
「でも……そもそも、洋服をあまり持っていなくて」
「大丈夫、大丈夫。
借りられるお店もあるし、
そんな高いものじゃないもの」
城の灯りのこと。
音楽のこと。
人の多さのこと。
アイシャさんは、
楽しそうに話し続ける。
私は相槌を打ちながら、
そのどれにも、
どこか現実感を持てずにいた。
城に行くということは、
過去に、ほんの少し近づくということだ。
見かけるだけでいい。
遠くから、姿を見るだけで。
そんな考えが浮かんでは、
すぐに打ち消す。
近づくということは、
気づかれる可能性が、
ゼロではなくなるということだから。
食事を終え、
仕事に戻るため立ち上がる。
いつもと変わらない昼下がり。
それでも、
穂月祭という言葉が、
私の日常に小さな波紋を残していた。
城に近づくということ。
それが何を意味するのか。
まだ、その答えは出ていなかった。
