私は、自分の耳につけているカフスにそっと触れながら、宿の窓から外を眺めていた。
ここは、本来、私がいるはずの場所ではない。
あれから二年と一ヶ月。
この世界に来てからは、二年と二ヶ月になる。
本来なら、私はもうこの世界にはいない。
予知の巫女としての役目を終えたとき、美桜という存在は、この世界から消える運命だった。
もともと私は、元の世界で死んでいる。
交通事故で、家族全員が即死した、その瞬間に――
私だけが、この世界と相性がよかった。
女神に、はっきり呼ばれたわけではない。
ただ、無意識の底で、声のようなものを聞いただけだ。
役目は、予知。
私は「予知の巫女」として、この世界に存在した。
それは役職であって、名前ではない。
それでも、美桜という名で呼ばれる場面は、確かにあった。
役目が終われば、終わり。
それが、本来の流れだった。
けれど、ほんの情けのような形で、
私は「生き続ける」という選択肢だけを与えられた。
予知の力は失われ、
姿は元に戻り、
私は、ただの一般人になった。
だから今、ここにいる。
お父さん、お母さん。
おじいちゃん、おばあちゃんは、
もう別の人生へと転生しているのだろうか。
そう思うと、胸の奥が、静かに痛んだ。
少し、後悔している自分もいる。
あの人の傍にはいられなかったけれど、
せめて同じ世界にいたくて、
私はここに残る決断をした。
それでも、実際には姿を見ることすらなく、
時間だけが過ぎていった。
考えなかったわけじゃない。
全くの別人として、城で働くことも。
けれど、気づかれる危険性を考えれば無理だったし、
そもそも城で働くには、身元がはっきりしていなければならない。
それ以上に――
あの場所で、もしレイスさんとすれ違っても、
気づかれない。
その現実を、私は受け入れられなかった。
あの人が好意を持ってくれたのは、
私であって、私ではない。
別の姿をした、別人だった。
百パーセント、後悔される。
あの人は優しすぎるから、
私が望めば、傍にいることを許してくれたかもしれない。
でも、嘘で固められた生活を続けられるほど、
私は強くなれなかった。
予知の巫女として与えられた姿は、
完璧すぎるものだった。
アジア系の顔立ちに、黒髪、黒い瞳。
人の髪にも瞳にも、黒という色が現れることのない世界で、
その顔立ちだけは、完璧に「この世界の美」だった。
ありえない色と、
ありえないほど整った顔立ち。
その組み合わせが、
比べる対象の存在しない姿を、生み出していた。
けれど今は、それを軽い気持ちで選んだ自分を、
激しく恨みたかった。
そうでなければ、
ただの片思いで、この想いを終わらせることができたはずだから。
レイスさんが、
まだ予知の巫女のことを思い続けていなければいい。
そう願うことしか、
今の私にはできなかった。
私は予知能力を使い、
結果的に、この世界は侵略されずに済んだ。
それは、確かに事実だ。
けれど、本当に世界を守ったのは、
王妃様であり、騎士たちであり、
あの人たち自身だった。
今の私には、
女神が与えてくれた予知の力も、
優れた容姿もない。
あるのは、元の自分の姿だけだ。
髪と目の色だけは、
黒から茶色に変えている。
この世界では、
人の髪にも瞳にも、黒という色は存在しない。
だからこそ、顔立ちが平凡な分、
珍獣のように扱われかねなかった。
だから、最後のお願いとして、
この変身用のカフスだけを持つことを許してもらった。
このカフスは、
私にとって、
あの人との唯一の思い出でもあった。
女神にここへ飛ばされてから、
もう一ヶ月ほどになる。
私は今、
リニア国の大きな宿屋で、
住み込みとして働いている。
仕事は、掃除や洗濯、配膳の手伝い。
人の生活を整える仕事だ。
それは、どこか懐かしい感覚でもあった。
女一人でこの世界を生きていくには、
中肉中背で、さえない顔立ちというのは、
十分すぎるほどの防御になる。
もっとも、元の世界でも、
私の顔立ちは可愛いとは程遠かった。
もちろん、この世界基準でも、
完全に残念な部類に入る。
――ただ、不思議に思うことがある。
この世界では、
彫りの浅い顔立ちの人々がほとんどだ。
彫りの深い顔立ちは、
突然変異でしか生まれない。
突然変異体――そう呼ばれていた。
本来、この世界には存在しないはずの顔立ちだからなのか、
彼らは、どこか距離を置かれる。
表向きに何かを言われることはない。
それでも、不細工だとか、怖いとか、
そういう感情が、空気のように漂っている。
突然変異で生まれる人々がいること自体は、
巫女時代の記憶で知っていた。
けれど、なぜ、そこまで忌避されるのかは、
今でもどうしても理解できない。
あの人も、そうだった。
レイスさんは、
突然変異として生まれた人だった。
彫りの深い顔立ちに、金髪。
そして、この世界ではほとんど見かけない、金色の瞳。
彫りの浅い人々がほとんどを占めるこの世界では、
同じ突然変異の中でも、
ずば抜けて整っているとしか言いようがなかった。
私には――
綺麗すぎて、
正直、顔をまともに見られないほどだった。
「ミユ、仕事終わりそう?」
後ろから声をかけられて、
私は振り返る。
「アイシャさん、もうそんな時間?」
「後、少しで終わります」
ここでは、私はミユだ。
本当の名前は、美桜。
けれど、その名前も、
「予知の巫女」という役目も、
今はもう存在しない。
だから今日も、
私はミユとして生きていく。
ここは、本来、私がいるはずの場所ではない。
あれから二年と一ヶ月。
この世界に来てからは、二年と二ヶ月になる。
本来なら、私はもうこの世界にはいない。
予知の巫女としての役目を終えたとき、美桜という存在は、この世界から消える運命だった。
もともと私は、元の世界で死んでいる。
交通事故で、家族全員が即死した、その瞬間に――
私だけが、この世界と相性がよかった。
女神に、はっきり呼ばれたわけではない。
ただ、無意識の底で、声のようなものを聞いただけだ。
役目は、予知。
私は「予知の巫女」として、この世界に存在した。
それは役職であって、名前ではない。
それでも、美桜という名で呼ばれる場面は、確かにあった。
役目が終われば、終わり。
それが、本来の流れだった。
けれど、ほんの情けのような形で、
私は「生き続ける」という選択肢だけを与えられた。
予知の力は失われ、
姿は元に戻り、
私は、ただの一般人になった。
だから今、ここにいる。
お父さん、お母さん。
おじいちゃん、おばあちゃんは、
もう別の人生へと転生しているのだろうか。
そう思うと、胸の奥が、静かに痛んだ。
少し、後悔している自分もいる。
あの人の傍にはいられなかったけれど、
せめて同じ世界にいたくて、
私はここに残る決断をした。
それでも、実際には姿を見ることすらなく、
時間だけが過ぎていった。
考えなかったわけじゃない。
全くの別人として、城で働くことも。
けれど、気づかれる危険性を考えれば無理だったし、
そもそも城で働くには、身元がはっきりしていなければならない。
それ以上に――
あの場所で、もしレイスさんとすれ違っても、
気づかれない。
その現実を、私は受け入れられなかった。
あの人が好意を持ってくれたのは、
私であって、私ではない。
別の姿をした、別人だった。
百パーセント、後悔される。
あの人は優しすぎるから、
私が望めば、傍にいることを許してくれたかもしれない。
でも、嘘で固められた生活を続けられるほど、
私は強くなれなかった。
予知の巫女として与えられた姿は、
完璧すぎるものだった。
アジア系の顔立ちに、黒髪、黒い瞳。
人の髪にも瞳にも、黒という色が現れることのない世界で、
その顔立ちだけは、完璧に「この世界の美」だった。
ありえない色と、
ありえないほど整った顔立ち。
その組み合わせが、
比べる対象の存在しない姿を、生み出していた。
けれど今は、それを軽い気持ちで選んだ自分を、
激しく恨みたかった。
そうでなければ、
ただの片思いで、この想いを終わらせることができたはずだから。
レイスさんが、
まだ予知の巫女のことを思い続けていなければいい。
そう願うことしか、
今の私にはできなかった。
私は予知能力を使い、
結果的に、この世界は侵略されずに済んだ。
それは、確かに事実だ。
けれど、本当に世界を守ったのは、
王妃様であり、騎士たちであり、
あの人たち自身だった。
今の私には、
女神が与えてくれた予知の力も、
優れた容姿もない。
あるのは、元の自分の姿だけだ。
髪と目の色だけは、
黒から茶色に変えている。
この世界では、
人の髪にも瞳にも、黒という色は存在しない。
だからこそ、顔立ちが平凡な分、
珍獣のように扱われかねなかった。
だから、最後のお願いとして、
この変身用のカフスだけを持つことを許してもらった。
このカフスは、
私にとって、
あの人との唯一の思い出でもあった。
女神にここへ飛ばされてから、
もう一ヶ月ほどになる。
私は今、
リニア国の大きな宿屋で、
住み込みとして働いている。
仕事は、掃除や洗濯、配膳の手伝い。
人の生活を整える仕事だ。
それは、どこか懐かしい感覚でもあった。
女一人でこの世界を生きていくには、
中肉中背で、さえない顔立ちというのは、
十分すぎるほどの防御になる。
もっとも、元の世界でも、
私の顔立ちは可愛いとは程遠かった。
もちろん、この世界基準でも、
完全に残念な部類に入る。
――ただ、不思議に思うことがある。
この世界では、
彫りの浅い顔立ちの人々がほとんどだ。
彫りの深い顔立ちは、
突然変異でしか生まれない。
突然変異体――そう呼ばれていた。
本来、この世界には存在しないはずの顔立ちだからなのか、
彼らは、どこか距離を置かれる。
表向きに何かを言われることはない。
それでも、不細工だとか、怖いとか、
そういう感情が、空気のように漂っている。
突然変異で生まれる人々がいること自体は、
巫女時代の記憶で知っていた。
けれど、なぜ、そこまで忌避されるのかは、
今でもどうしても理解できない。
あの人も、そうだった。
レイスさんは、
突然変異として生まれた人だった。
彫りの深い顔立ちに、金髪。
そして、この世界ではほとんど見かけない、金色の瞳。
彫りの浅い人々がほとんどを占めるこの世界では、
同じ突然変異の中でも、
ずば抜けて整っているとしか言いようがなかった。
私には――
綺麗すぎて、
正直、顔をまともに見られないほどだった。
「ミユ、仕事終わりそう?」
後ろから声をかけられて、
私は振り返る。
「アイシャさん、もうそんな時間?」
「後、少しで終わります」
ここでは、私はミユだ。
本当の名前は、美桜。
けれど、その名前も、
「予知の巫女」という役目も、
今はもう存在しない。
だから今日も、
私はミユとして生きていく。
