恋は筆先にて

大正時代の日本。
世間は今日も、忙しなく歩いていく。

そんな中、私こと水野燈は、縁談を破談させまくっていた。

向かいに座る殿方は、背筋を正して言った。
「水野さん。貴方の思う、理想の夫婦とは、どのようなものでしょうか。」

私は弾かれたように顔を上げる。
「はい! 毎晩、恋文を書き合って、愛を確かめ合う夫婦です!」

(――あ、つい……)

それは、私がずっと夢見ている、有名な恋愛小説の一節だった。
私が本気で旦那にしたいと思っている、正一くんが登場する、あの物語。

殿方は少し困ったように視線を逸らす。
「……とても、理想的ですね。ただ……そうですね。
まるで、小説にでも出てきそうなご夫婦です」

(終わった……)

その後のことは、あまり覚えていない。
余計なことを口にして、縁談相手を困惑させるのには、もう慣れてしまっていた。

なぜなら――
私が、正一くんの夢女子だからである。

「燈、どうだった?
今日の殿方は、かなり良い方だと思ったのだけれど」

母の顔なんて、見られるはずがなかった。

「……駄目だったみたい」

「……破談、かしら」

もう何年も、何度も、繰り返している。
恋愛小説に夢を見て、理想だけが高くなっていく。
私自身の価値は、何ひとつ変わっていないのに。

私は母の視線から逃げるように、自室へ戻った。

障子を開けた瞬間、安堵と後悔が、同時に胸の奥から立ち上がる。

(なんで……毎回、縁談の場で言っちゃうんだろう……)

「……はぁ……」

 ため息と一緒に、私は文机の前に座り込んだ。
 畳の上に正座して、学問の書と混じっている引き出しから一冊の本を取り出す。

 ――この紙は、私の、世界でいちばん好きな恋愛小説。
正一くんが出てくる、あの小説。

「……やっぱり、正一くんだよね……」

そっと表紙を撫でる。
発行から近い本特流のインクと紙の匂いが、胸いっぱいに広がった。

私は本を抱きしめるようにして、ゆっくりと開く。

 ぱらり。

紙の擦れる音だけで、心が落ち着いていく。
活字を追う前から、頭の中にはもう彼がいる。

(正一くんは今日も、きっと月明かりの下で――)

「『君を想わぬ夜は、一度もなかった』
……っ!」

だめだ、無理無理無理。

私は勢いよく布団に倒れ込んだ。

「はぁぁぁ……正一くん……正一くん……!」

顔を両手で覆う。
胸がぎゅうっと苦しくなるのに、幸せで仕方ない。
胸を貫かれたように、鼓動が体の中で暴れている。

(なんで現実の殿方は、こう……正一くんじゃないんだろ……)

縁談の席での殿方の顔が一瞬よぎって、すぐに消えた。

違う。
違う違う。

正一くんは、もっとこう……
静かで、誠実で、想いを文にしてくれて――

「……毎晩、恋文……」

ぽつりと呟いて、さっきの縁談を思い出す。

「……あ」

じわじわと恥ずかしさが込み上げた。

(また、言っちゃった……)

ごろりと寝返りを打ち、再び本に視線を戻す。

……と、その時。

「……?」

何か、挟まっている。

頁の間から、白い紙が少し覗いていた。

「……栞……じゃ、ない?」

不思議に思って指でつまみ、そっと引き抜く。

薄い和紙。
印刷された文字。

「……え?」

目を凝らす。

『新刊御礼
 ――同時に、助手募集の御知らせ』

「……助手?」

思わず声が漏れた。

紙面には、作品紹介の隣に、控えめな文字で書かれている。

『筆写・整理等を手伝ってくださる方
 若干名、書物を愛する方、歓迎』

心臓が、どくん、と鳴った。
そんな知らせがあるのか。

「……小説家の……助手……?」

指先が、かすかに震える。

(……え、なにこれ……)

もう一度、最初から読み直す。
何度も。
何度も、擦って消そうともした。

文字は消えない。

「……っ!」

私は勢いよく立ち上がった。若干、足が縺れた。

障子を開け、廊下を走る。
早く、伝えたい、その一心で。

「お母さん!!」

居間で針仕事をしていた母が、驚いて顔を上げた。

「どうしたの、燈。そんなに慌てて…。」

「これ、これ見て!」

先程の紙を差し出す。

母は怪訝そうに受け取り、目を通す。
顔色が怪しくなっていく。

……そして。

「……は?」

ぴしっ、と空気が固まった。
身体中を駆け巡っていた鼓動が止まったように。

「……就職?」

眉をひそめて、機嫌が顔によく出ている。

「……小説家の……助手?」

母は紙をぎゅっと握りしめ、私を睨んだ。

「燈、貴女……何を言い出すの」

「だ、だって! これ、本に挟まってて……!」

「だから何?」

「私、小説が好きだし!筆写くらいならできるし!」

「縁談がうまくいかないからって、仕事?」

その声は酷く冷たかった。
母はただ、目の前の自分とは違う生き物を追い払いたいかのように睨みつける。

「ち、違う!」

胸が苦しくなる。

「……私、恋愛小説が好きなの。ずっと。
 正一くんみたいな人を書ける人の、近くで……」

「現実を見なさい!」

母の声が、鋭く響いた。
肩が重くなる。足も重い。重力が逆らったみたい。

「女が働くなんて、聞いたことがないでしょう!」

「でも!」

「嫁に行く気がないの?」

その言葉に、胸が詰まる。

……ないわけじゃない。

ただ。

「……正一くんみたいな人が、いないだけ……」

ぽつりと零れた本音に、母は言葉を失った。

数十秒の沈黙が辛く、苦しいものに感じる。
何も言えない。言う言葉がない。
それはあっちも同じだ。

それでも。

胸の奥で、小さな火が灯っていた。

――この紙は、偶然じゃない。

そんな気がして、ならなかった。

そして、母がゆっくりと口を開いて、言葉にした。

「……いつまで、そんなくだらない夢を見るつもり?
叶うわけないじゃない。女に夢を見る権利なんか、無いわよ。
黙っていいとこの殿方にでも、嫁に入りなさい。」

「……親孝行、する気はないの?」

空気が凍った。いや、違う。
私の信じていた母が急速に冷えていっている。
鼓動が嫌な方向に走り始めている。

ああ、そんな風にしか思われてなかったんだ。私。そっか……そうだよね。

もう何も言えなかった。
夢を見なきゃ、私は自分を保てないのだから。
私は重い足を引きずって、自室に戻った。

自分への諦めなのか。それとも期待なのか。
少しの母への反抗心だったのかもしれない。

私は、下書きもなしに手紙に申し込みの文面を書いた。
手紙なんて、いつ書いただろうか。この前だろうか。

墨の匂いが部屋中を包んだ。
今は、その匂いも記憶さえ、敵のように思えた。

この手紙が不採用になれば、いつも通り、母と暮らして、結ばれもしない縁談が続くだろう。

……もし、採用されたら、この日々も変わるのかもしれない。

期待とも言えないような、回り続ける思考をよそに、私は筆を置いた。

今だけ、被害者ぶらせて欲しかった。