最初の味見は、いつも君に

 その週、私は喫茶店に三回通った。

 理由を探せばいくらでも見つかるけれど、本当の理由は一つだった。
 秋穂に会いたかった。

 でも、"会いたい"と言葉にするのは恥ずかしくて、私はいつも「決める練習」とか「コーヒーが飲みたくて」とか、そういう別の名前を付けてしまう。

 秋穂は、私が来ると必ず少しだけ驚いた顔をする。
 それから、小さく頷いて、注文を取りに来る。

「……今日は?」
「紅茶と、シフォンケーキ」

 私は前より少しだけ早く決められるようになった。
 決める回数が増えたから。秋穂の顔を見る回数が増えたから。

 秋穂が「……了解」と言って厨房へ消える背中を、私はいつも目で追ってしまう。
 白いシャツ、エプロンの紐、首筋にまとめられた髪。
 あの背中が、少しずつ私の中で「安心」という名前に変わっていく。

 学校では、秋穂は相変わらず誰とも話さない。
 教室の後ろの席で、本を読むか、ノートに何かを書き留めている。
 私が視線を向けても、気づかないふりをされる。

 でも、たまに――廊下ですれ違う時、秋穂の目が一瞬だけ私を捉える。
 その一瞬が、妙に温かい。

 秘密を共有しているからだ。
「喫茶店」という、二人だけの場所があるから。

 でも、その秘密は――私を少しずつ、変えていく。

     ◇

 ゴールデンウィーク明けの教室は、休みの余韻を机の角にこすりつけたまま、何事もなかったふりをしていた。窓から差す光だけが少し強くて、制服の袖口に春より早い汗を滲ませる。

「美春、連休どこ行ったのー?」

 振られた問いに、私は反射で口角を上げた。

「うーん、ちょっとね。出かけたりは」

 嘘じゃない。あの喫茶店に行った。地図をたよりに細い道を曲がって、鈴の音を鳴らして、タルトを食べた。
 ――けれど、"周防秋穂と会った"は、なぜか喉の奥に引っかかったまま言葉にならない。

「どこどこ?」
「近く、かな」

 曖昧に笑って、話題が次の子へ渡るのを待つ。
 空気が丸く保たれている限り、私はその中心でほどほどに息ができる。そういうやり方を、私はいつのまにか覚えていた。

 その日から、私の「ほどほど」が増える。いや、増えるというより――積み上がる。

「結城、委員会の配布物、まとめお願いできる?」
「うん、任せて」

「購買当番、代わってくれない? 今日どうしても」
「いいよ。大丈夫」

「文化祭の係、まだ埋まってなくてさ。結城、入ってくれる?」
「うん、やる」

「クラス委員、あと一人足りないんだよね」
「……うん、いける」

 返事は軽いのに、胸の奥に小さな重りが落ちていく感覚だけが残った。
 役に立つと、居場所ができる。だから私はそれを断ち切れない。

 昼休み、れいなが私の机の上を見て箸を止めた。プリントが山になっていて、角が揃っていない。

「……美春、それ、どういう状態?」
「配るのと、回収のと、委員会のと……運動会のやつも」
「いや、分類の話じゃなくて。量の話」
「平気、だよ」

 れいなは私の顔をじっと見た。言葉じゃなくて、目の下の影とか、瞬きの回数とか、そういう"隠しきれないところ"を数えるみたいに。

「美春さ、やりすぎじゃない?」
「みんな忙しそうだったし」
「忙しいのは美春もだよ」
「慣れてるから」

 "慣れてる"は、便利な蓋だ。これを置けば、誰もそれ以上踏み込まない。
 れいなは納得していない顔をしたけれど、結局、話はそこで止まった。

 秋穂は、ノートに視線を落としたまま、相変わらず静かだった。
 でも、時々、視線の端で気配がする。こちらを見ないふりをしながら、何かを測っているみたいな気配。

 それが妙に落ち着かないのに、なぜか――少しだけ、心細さが薄くなる。

     ◇

 最初に崩れたのは、睡眠だった。

 ベッドに入っても、頭の中で紙の枚数が増殖する。締め切り、シフト、提出、集計。誰かの「お願い」が、寝返りを打つたびに浮かび上がる。
 目を閉じたのに、脳だけが起きたまま。気づけば、朝。

 鏡の中の私は、笑えば隠せそうな影を目の下に作っていた。
 笑えば、今日も何とかなる。そう思って、笑う。

 けれど、体は正直だった。

 廊下でプリントを落とした。紙がふわっと舞って床に散らばる音が、やけに大きい。拾い集める指先がもつれて、紙が指に貼りつく。

「大丈夫?」
「うん、ありがと。ごめんね」

 謝りながら笑う。いつもの手順。
 でも、笑顔の裏側で、息が浅い。

 提出物を忘れた。先生に名を呼ばれて、胸がきゅっと縮む。

「結城、今日までだったよな」
「……すみません、明日持ってきます」

 教室のざわめきが一瞬だけ薄くなる。視線が刺さる気がして、私はまた笑ってしまう。
 謝るより、笑った方が早い。輪郭を作らない方が、壊れないと思っているから。

 午後、運動会のアンケート用紙を束ねながら、指先が震えていることに気づいた。
 角が揃わない。線がずれる。何度やり直しても、紙の山だけが増えていく。

 ふと前を見ると、秋穂の背中がある。まっすぐで、揺れない。
 揺れない背中は、私のぐらつきをくっきり映す鏡みたいだ。

 秋穂がほんの少しだけ顔を横に向ける。視線が私の方へ来て、すぐ逸れる。
 ――見られた。
 その事実が、恥ずかしいのに、なぜか嬉しい。

 放課後、教室に一人残ってプリントを整理していると、夕方の光が黒板の端で折れた。
 消しゴムの粉っぽい匂い。遠くの部活の掛け声。窓の隙間から入る風の音。

 そこに、自分の呼吸だけが混ざる。浅く、速い。

 胸が苦しい。
 文字が滲む。

 ――私、何やってるんだろう。

 言葉にした瞬間、底が抜けた。

     ◇

 喫茶店の扉の鈴が鳴った。

 カラン。

 その音だけで、肩の力が少し落ちる。
 あの黄色い光。コーヒーと焼き菓子の匂い。木の椅子のきしみ。
 ここは、急がなくても許される場所だ。

「いらっしゃい。……あれ、今日は顔が硬いねえ」

 マスターが、カウンターの奥から目を細める。
 私は「ちょっとだけ」と言おうとして、うまく声が出ない。

「秋穂ちゃん、今、裏だよ」
 マスターは軽い調子で言った。けれど、その目は軽くない。全部お見通しみたいな目。

「……呼ばなくていいです」
 そう言ったのに、私の声は震えていた。

 厨房の方から足音がして、秋穂が出てきた。エプロン姿。手首にうっすら粉。髪はまとめられていて、いつもより少しだけ大人びて見える。

 私の顔を見た瞬間、秋穂の眉がわずかに動いた。
 "気づいた"という合図。

「……結城」
「……うん」

 それだけで、喉の奥が熱くなった。
 私は水を飲もうとして、コップを持つ手が小刻みに揺れる。水面が波打つ。

「大丈夫?」
 秋穂の声が、学校より低い。近い。

 私はいつもの言葉を取り出そうとした。
「大丈夫」
 その一語で、全部を丸めてしまえばいい。

 でも、その丸め方が、今日は口の中で崩れた。

「……私……」

 声が出た途端、涙が落ちた。
 ぽた、とテーブルに落ちる音が、静かな店内でやけに目立つ。

「ごめ……っ」

 拭こうとするほど涙が増える。恥ずかしい。みっともない。
 けれど止まらない。止め方が分からない。

「私、何やってるんだろう……」

 やっと出てきた本音は、情けないくらい素直だった。

 秋穂は慌てて励ましたりしなかった。
 黙って向かいに座り、椅子が小さくきしむ音だけが返事になる。

 紙ナプキンが、そっと差し出される。
 私は受け取って顔を押さえた。紙のざらつきが、現実の感触として沁みる。

 カウンターの方で、ティーポットの蓋が触れ合う音がした。
 湯を注ぐ音。紅茶の香りがふわっと広がる。

「今日は紅茶にしとこう。砂糖、少し入れとくね」

 マスターがそう言ってカップを置き、すっと席を外す。
 "見ないでいてくれる"優しさが、また涙を呼ぶ。

 秋穂は短く言った。

「……何があったの」

 私は紅茶を一口飲んだ。甘い。
 その甘さが喉を通ると、溜めていたものが少しだけ動き出す。

「いっぱい引き受けちゃって……」
「何を」
「委員会とか、当番とか、運動会とか……断れなくて」

 秋穂は少しだけ眉を寄せた。怒っているわけじゃない。計算している顔。

「……断っていい」
「できないよ」
「できる」
「断ったら、嫌われる」

 言い切ると、自分の幼さが痛い。
 秋穂の目が一瞬だけ揺れた。

「……嫌われる理由がない」
「あるよ。私、何もできないし……だから、せめて」

 言葉が途切れて、喉が詰まる。
 役に立てないと、ここにいられない気がする。空っぽに戻るのが怖い。

 秋穂は私のプリントの束をちらっと見て、静かに言った。

「……整理しよう」

 秋穂は一枚ずつ紙を取り上げ、順番を作っていく。
 締め切り、優先度、必要な人、必要な枚数。
 まるで式を解くみたいに、混線した糸を一本ずつほどいていく。

「クラス委員の提出は今日じゃない。明後日」
「え……」
「掲示板、写真ある? れいなが撮ってそう」
「……あると思う」
「なら確認できる」
「購買当番は、代わりを探す。『体調が悪い』でいい」
「嘘になる」
「嘘じゃない。顔色が悪い」

 淡々と言われて、私は反論ができない。
 秋穂の言葉は、冷たいんじゃなくて、曖昧さを削っていく刃だった。

「運動会の集計は三人でやれば一時間。結城が全部やる意味がない」
「でも……」
「でも、じゃない」

 そこで秋穂は少しだけ黙り、紅茶のカップを見た。湯気が弱くなっている。
 それから、視線を戻して言った。

「……私は、嫌わない」

 私は息を止めた。

「結城が断っても、手を抜いても、失敗しても。私は、嫌わない」

 その一文が、胸の奥にまっすぐ落ちる。
 "居場所は努力で作るもの"と信じていた私の、土台の一部がぐらりと揺れた。

 泣くのを堪えるみたいに下を向くと、秋穂がペンを私に差し出した。

「……今日やること、決める」
「……私が?」
「うん。結城が」

 伴走、という言葉が頭をよぎった。
 助けるでも救うでもない。隣で同じ速度に合わせてくれるだけ。
 それが、今の私には一番軽くて、一番強い。

 私はペンを握った。
 紙の上に、小さく丸をつける。今日やること。明日やること。誰に頼るか。

 丸をつけるたび、胸の渇きが少しだけ引いていく。
 "自分で決める"練習が、ほんの少しだけ形になる。

 ただ、その形は――秋穂が隣にいてくれることで、やっと保てている。

 頼ることを覚えるのは、温かい。
 同時に、その温かさに慣れすぎると、自分の足で立つのが怖くなるのかもしれない。

 帰り際、秋穂が小さく言った。

「……明日、れいなに頼める?」
 私は一瞬だけ迷って、でも頷いた。

「……頼む。言う」
「できる?」
「……周防さんが、隣で見ててくれるなら」

 口にしてから、胸が熱くなる。
 恋心じゃない。まだそれは、名前が違う。
 私が秋穂に向けているのは、眩しさへの憧れで、筋の通った言葉への尊敬で、"決められる人"への羨望だ。

 秋穂は少しだけ目を見開いて、視線を逸らした。耳が、ほんのり赤い。

「……見てないわけじゃない」
 ぶっきらぼうな返事なのに、どこか優しい。

 私は小さく笑った。ごまかしの笑いじゃない。
 でも、甘えが混じった笑いだ。

 喫茶店を出ると、夕方の風が頬に当たった。
 私は自分の足で歩いているはずなのに、胸の中では秋穂の歩幅に合わせようとしている。

 秋穂が隣を走ってくれた。伴走してくれた。
 それで、私は前に進めた。

 ――けれどそのまま私は、少しずつ「決める」を秋穂の輪郭に預けはじめている。

 それが、やさしい始まりであるほど。
 たぶん、少しだけ危うい。

 翌日、私はれいなに頼み事を断った。
 秋穂が、教室の後ろから見ていてくれたから。

「ごめん、今日はちょっと無理」
 れいなは驚いた顔をして、でもすぐに笑った。
「美春が断るの、珍しい。でも、いいよ。無理しないで」

 その言葉が、胸に沁みる。
 断っても、嫌われなかった。
 秋穂の言った通りだった。

 教室の後ろから、秋穂の視線を感じる。
 振り向くと、秋穂が小さく頷いた。

 その頷きが、嬉しくて。
 でも、その嬉しさに依存している自分も、少しだけ怖かった。

 秋穂がいれば、大丈夫。
 秋穂が見ていてくれれば、頑張れる。

 その安心が、もう手放せない。

 ――これは、救済なのか、依存なのか。
 私はまだ、その答えを知らない。

 ただ、秋穂の存在が、私の中で日に日に大きくなっていくことだけは、確かだった。

     ◇

 その翌週、私はまた喫茶店にいた。

 鞄から英語の教科書を取り出す。
 明日の授業の予習。単語テストの範囲。
 本当は昨日のうちにやるべきだったのに、委員会の仕事に追われて手を付けられなかった。

 テーブルの上に広げた教科書のページが、白く光る。
 単語の羅列。意味の欄は空欄ばかり。

 ――やばい。

 焦るほど頭に入らない。
 "incorporate"、"enhance"、"facilitate"……
 どれも見覚えはあるのに、意味が出てこない。

 紅茶を一口飲んで、ページをめくる。
 また空欄。焦りだけが増える。

「……結城」

 顔を上げると、秋穂がエプロン姿で立っていた。
 手にトレイを持って、でも私のテーブルに置くものはもう何もない。

「……英語?」
 秋穂が教科書を覗き込む。

 私は反射的に隠そうとして、でも手が遅れた。
 空欄だらけのノートが、秋穂の視界に入ってしまう。

「……予習、間に合ってない」
 秋穂がぽつりと言う。質問じゃない。事実の確認。

「……うん」

 認めると、急に情けなくなる。
 秋穂は成績優秀だ。教室で、先生が秋穂の名前を呼ぶ時、いつも「模範解答」みたいな扱いをする。
 そんな秋穂に、空欄だらけのノートを見られるのは、恥ずかしい。

「……時間ある?」
 秋穂が聞く。

「え?」
「……教える」

 一瞬、意味が分からなかった。
 教える。秋穂が、私に。

「……いいの?」
「うん」

 秋穂は短く答えて、カウンターに向かってマスターに何か言った。
 マスターが笑って頷く。

 秋穂が戻ってきて、私の向かいに座った。
 エプロンを外して、シャツの袖を少しまくる。
 その仕草が、妙に真剣で、私は背筋が伸びる。

「……どこから?」
「この単語……"incorporate"」

 秋穂は教科書を手元に引き寄せて、ペンを取り出した。
 ノートに、きれいな字で単語を書く。

「incorporate。組み込む、統合する」

 私は頷く。意味は分かった。でも――

「覚えられない……意味は分かるんだけど、すぐ忘れる」

 秋穂は少しだけ考えて、それから言った。

「……お菓子に例える?」
「え?」
「私、英単語を覚える時、お菓子作りに結びつける」

 私は目を丸くした。
 秋穂が、ノートにさらさらと書き足す。

「incorporate。生地にバターを"組み込む"。混ぜ合わせて、一体にする」

 その説明の瞬間、単語の意味がぱっと立体になった。

「……!」
「バターと小麦粉は別々だけど、incorporateすると生地になる。組み込む、って、そういうこと」

 秋穂の目が、少しだけ輝いている。
 お菓子の話をする時、秋穂は少しだけ饒舌になる。

「次。"enhance"」
 秋穂がページをめくる。

「enhance。高める、強化する」
 私が言うと、秋穂は頷いた。

「……レモンの香り、引き立てる時みたい」
「え?」
「タルトにレモンの皮を少し削って入れる。そうすると、全体の風味がenhanceされる。高まる」

 またしても、映像が浮かぶ。
 レモンの黄色い皮。削る音。香りが広がる瞬間。

「enhanceは、"もともとあるものを引き立てる"。ゼロから作るんじゃなくて、良さを高める」

 秋穂の説明は、教科書にはない温度がある。
 抽象的な言葉が、匂いと色と音を持つ。

「……分かりやすい」

 私が息を漏らすと、秋穂の口角が少しだけ上がった。

「……次」
「"facilitate"」

 秋穂は少し考えて、ペン先を唇に当てた。
 考える時の癖。図書室で見たのと同じ仕草。

「facilitate。促進する、容易にする」

 秋穂がノートに書く。

「……生地を寝かせる」
「え?」
「クッキーの生地、作った後に冷蔵庫で寝かせる。そうすると、バターが固まって、成形しやすくなる」

 秋穂の指が、ノートの上で小さく動く。
 まるで生地を触っているみたいな動き。

「寝かせることで、次の工程がfacilitateされる。楽になる。促進される」

 私は頷きながら、ノートに書き写す。
 facilitate = 生地を寝かせる = 次を楽にする。

 その瞬間、単語が記憶に引っかかる。
 秋穂の言葉と一緒に、イメージと一緒に。

「……すごい。覚えられる」

 私が言うと、秋穂は少しだけ照れたように視線を逸らした。

「……みんなこういうふうに覚えるわけじゃない」
「でも、私には合ってる」

 秋穂の目が、また私を見る。
 今度は逸らさない。

「……結城は、言葉だけだと覚えられない」
「……うん」
「イメージがあると、定着する」

 その分析が、妙に正確で、私は少しだけ驚く。
 秋穂は、私のことをちゃんと見ていた。

「他にも、ある?」

 私は教科書のページをめくる。
 空欄だらけだったページが、少しずつ埋まっていく。

 秋穂の言葉で。
 秋穂の例えで。
 秋穂のお菓子の世界で。

「"blend"」
「混ぜ合わせる。生クリームと砂糖をblendする」

「"whisk"」
「泡立てる。卵白をwhiskすると、メレンゲになる」

「"fold"」
「折り込む。メレンゲを生地にfoldする時、切るように混ぜる。潰さないように」

 秋穂の説明は、どれも具体的で、温度がある。
 私はそのたびに、お菓子の匂いを思い出す。
 喫茶店の甘い空気。秋穂が作ったタルトの味。

 気づけば、30分が過ぎていた。
 ノートは、秋穂の文字と私の文字で埋まっている。

「……これで、明日のテスト、大丈夫」

 秋穂がそう言って、ペンを置く。

「ありがとう……すごく分かりやすかった」

 私が言うと、秋穂は小さく首を傾げた。

「……結城、頭いいのに」
「そんなことない」
「いい。ただ、時間がないだけ」

 その言葉が、胸に沁みる。
 "頭が悪い"んじゃなくて、"時間がない"。
 秋穂の言葉は、いつも私を否定しない。

「……周防さん」
「うん」
「また、教えてくれる?」

 聞いた瞬間、自分でも驚いた。
 "また"を前提にしている。
 秋穂の時間を、当たり前みたいに期待している。

 秋穂は一瞬だけ目を見開いて、それから頷いた。

「……いいよ」

 その返事が、嬉しくて、でも――少しだけ怖い。

 頼ることが、クセになっていく。
 秋穂がいれば大丈夫、という安心が、依存に変わっていく。
 その境界線が、もう曖昧になり始めている。

 秋穂が席を立つ時、エプロンをまた付けた。
 白い粉が、また少しだけ胸元に残っている。

 私はその粉を見て、図書室の秋穂を思い出す。
 遠くから見ていた秋穂。
 今は、こんなに近い。

 近すぎて、もう離れられない気がする。

     ◇

 その後、私は何かあるたびに秋穂に聞くようになった。

 数学の問題が分からない時。
「……周防さん、この因数分解、どうやるの?」

 委員会の仕事の優先順位が分からない時。
「……どっちを先にやればいい?」

 昼ごはんのメニューを決められない時。
「……周防さんなら、どっち選ぶ?」

 秋穂はいつも、少しだけ考えて、答えをくれる。
 その答えは、いつも正確で、無駄がない。
 私が迷っている間に、秋穂はもう道を見つけている。

 だから、頼ってしまう。
 秋穂に聞けば、間違えない。
 秋穂に委ねれば、楽になる。

 教室で、私が秋穂の席に近づく回数が増えた。
 休み時間、秋穂はいつも本を読んでいるけれど、私が声をかけると顔を上げる。

「……周防さん」
「……なに」

 短いやり取り。
 でも、それが私の支えになっている。

 れいなが、ある日ぽつりと言った。

「美春、最近、周防さんとよく話すよね」
「……え? そう?」
「うん。前は、誰とも話してなかったのに」

 れいなの目が、少しだけ探るように私を見る。

「周防さんと、仲良くなったの?」
「……うーん、どうだろ」

 私は曖昧に笑う。
 "仲良い"とは違う気がする。
 秋穂は、私の友達じゃない。
 もっと――依存先に近い。

 でも、それを言葉にするのは怖い。
 自分の甘えを認めることになるから。

「なんか、美春が周防さんに助けてもらってるみたいに見える」

 れいなの言葉が、胸に刺さる。

「……そんなことない」
「ないの?」
「……分かんない」

 私は視線を逸らした。
 分からない。
 助けてもらっているのか、依存しているのか。
 その境界線が、もう見えない。

 秋穂の存在が、私の中で大きくなりすぎている。
 秋穂がいないと、決められない。
 秋穂がいないと、前に進めない。

 それは、救済なのか。
 それとも、依存なのか。

 私はまだ、答えを出せないでいた。