最初の味見は、いつも君に

【美春】

 改札を抜けた瞬間、駅の空気が少しだけ違った。
 春休みの終わりの匂い。冷たさの奥に、もう芽みたいなものが混じっている。

 私はスマホを見て、時間を確認するふりをした。
 本当は確認したかったのは、時間じゃない。――秋穂の姿だ。

 人の波の向こうから、秋穂がこちらに近づいてくる。
 制服じゃない。喫茶店のエプロンでもない。
 少し長めのコートに、淡い色のマフラー。髪はいつもよりふわっとしていて、頬が外の冷気でわずかに赤い。

 可愛い。

 思った瞬間、胸が熱くなって、私は慌てて視線を逸らした。
 "可愛い"って、言葉にすると何かが壊れる気がする。なのに、頭の中では何度も繰り返してしまう。

「……美春」

 名前を呼ばれて、私は顔を上げる。

 秋穂が、私の上から下まで一瞬だけ見て、すぐ目を逸らした。
 その動きが、妙に早い。

 今日の私は、いつもより少しだけ頑張った。
 白っぽいニットに、膝丈のスカート。コートは母のを借りた。
 髪も、寝ぐせを整えて、少しだけ巻いてきた。

 ――秋穂に、見てほしかった。

「おはよ」
 なるべく普通の声を出す。

「……おはよう」
 秋穂の返事は短い。でも、最後の音がほんの少し柔らかい。

 その柔らかさに、私はまた照れそうになる。

「……寒くない?」
 秋穂が聞いてくる。

「平気。秋穂は?」
「……平気」

 嘘だ。
 マフラーの下で、耳が少し赤い。
 それを指摘したら、きっと秋穂は"平気"をもう1回言う。だから私は言わない。

 代わりに、私は手袋をはめた指を軽く握った。
 握り直す動作で、胸の中の浮つきが少しだけ落ち着く。

「行こ」
 私が言う。

 秋穂が頷く。
 その頷きが、今日が"予定"じゃなくて"約束"になった合図みたいに見えた。

     ◇

【秋穂】

 水族館へ向かう電車の中で、私は窓の外を見ていた。
 見ているふりをしていた、が正しい。

 隣の席に座る美春が、今日は少し違う。
 制服じゃないから、形が違う。
 いつも教室で見る"輪郭"が、柔らかい布に包まれている。

 可愛い。

 その言葉が浮かんで、私は心の中で慌てて消そうとした。
 でも消えない。消すほど濃くなる。

 私は喉の奥が熱くなるのを感じて、視線を窓へ逃がす。
 逃がしたのに、窓ガラスに映る自分の顔が赤い。
 最悪だ。見られたら終わる。

 美春は、たぶん気づいていない。
 いや、気づいてないふりをしてくれているのかもしれない。

 "そういうところ"が、優しい。

 私はポケットの中で小さな紙袋を指で触る。
 水族館のあと、もし余裕があったら渡そうと思っている。
 限定のお菓子じゃない。高いものでもない。
 ただ、渡したい。

 でも、渡すって行為は、私たちにとってまだ少しだけ危険だ。
 "恋人みたい"って見られるのが怖い。

 怖いのに、やめたくない。
 この矛盾が、胸の奥で小さく軋む。

「……美春」
 私は声を出して、矛盾を外へ逃がす。

「なに?」
 美春がこちらを見る。目が少し丸い。

 その目が、今日はいつもより澄んで見える。
 いや、私が勝手に澄ませて見ているだけだ。

「……混むかもしれない。はぐれないように」
 私は言った。

 言った瞬間、また顔が熱くなる。
 "はぐれないように"って、何だそれ。小学生か。

 でも、美春は笑わなかった。
 真面目に頷いた。

「うん。はぐれない」
 その言い方が、まるで誓いみたいで、私は胸の奥が少し痛くなる。

 痛いのに、嬉しい。

     ◇

【美春】

 水族館の入口は、外より少し暗くて、ひんやりしていた。
 ガラス越しの水が、光を揺らしている。
 暗いのに怖くない。
 喫茶店の落ち着きと、少し似ている。
 でも匂いは違う。コーヒーの香りじゃなくて、水と、塩と、消毒液の薄い匂い。

「……わ」
 思わず声が出る。

「……すごい」
 秋穂が、いつもより小さい声で言った。

 その"すごい"が、感動なのか、緊張なのか分からない。
 分からないから、私は勝手に嬉しくなる。

 最初に入ったクラゲの部屋は、まるで別の星みたいだった。
 青い光。ゆっくり揺れる透明。
 一匹一匹が、息をしているみたいに脈打つ。

「……綺麗」
 秋穂が呟く。

 私は、その横顔を見てしまう。
 秋穂の睫毛が、青い光で少しだけ銀色になる。
 唇が、ほんの少し開いている。
 美味しいものを見つけたときの顔に似ている。

「秋穂も……」
 言いかけて、私は飲み込んだ。
 ここで言ったら、たぶん私は燃える。

 秋穂が少し首を傾げた。
「……なに?」って目。

「なんでもない」
 私は笑って誤魔化す。
 誤魔化すのが上手になったのが、嬉しくない。

 クラゲが、光の中でゆっくりほどける。
 そのほどけ方が、私たちの距離にも似ている気がした。
 ほどけたい。ほどけるのが怖い。
 でも、ほどけないと苦しい。

 私は、秋穂の袖の端をほんの少しだけ引っ張った。
 指先で触れるだけ。
 "手を繋ぐ"まではいかない、でもゼロでもない距離。

 秋穂が一瞬だけこちらを見て、目を逸らした。
 その耳が、また赤い。

 可愛い。

 私の心の中で、その言葉がまた増える。

     ◇

【秋穂】

 クラゲの部屋は、暗さが優しい。
 誰も大声を出さない。
 水槽の前では、みんなが勝手に静かになる。

 美春が袖を引っ張った。
 たったそれだけなのに、胸の奥が跳ねる。

 私は手を伸ばして、その袖の端を軽く摘んだ。
 同じことを返すみたいに。
 握るわけじゃない。繋ぐわけじゃない。
 でも、同じ方向へ進んでいる合図。

 "これでいい"と思う。
 "これじゃ足りない"とも思う。

 どっちも本当で、どっちも言えない。

 次の通路に進むと、人が増えた。
 休日の終わりの水族館は、春休みの最後の焦りみたいに混んでいる。

 トンネル水槽の入口で、背中を押される。
 美春がよろけた。

 私は反射で腕を伸ばして、美春の肩を支えた。
 支えた瞬間、体温が伝わる。
 外の冷たさの中で、その温度は強すぎる。

「大丈夫?」
 私は言う。

「うん……ありがとう」
 美春の声が、少しだけ震えている。

 押し流されるように進む人の波。
 私たちの距離が、勝手に近づく。
 肩が触れる。息が近い。
 危ない。――でも、離れたくない。

 私は、美春の手がどこにあるかを確認するみたいに視線を落とし、そのまま指先が触れた。

 触れたまま、一拍止まる。

 美春が、ぎゅっと息を吸ったのが分かった。

 そのとき、少し後ろから、聞き覚えのある声がした気がした。
 はっきり名前を呼ばれたわけじゃない。
 でも、学校の廊下で聞く笑い声に似ている。

 次の瞬間、美春が反射で手を離した。

 離した。

 私は胸の奥が、ほんの少しだけ冷える。
 理屈では分かる。
 怖い。見られたくない。
 私たちのことを、勝手に嘲られたくない。

 でも――離されるのも、怖い。

「……今、離した?」
 言ってから気づく。
 私、責めたみたいな言い方をした。

 美春が慌ててこちらを見る。
 目の奥が、痛そうだ。

「ごめん……見られたら、って」
 その言葉で、胸の冷えが、別の形に変わる。
 怒りじゃない。
 悲しさでもない。
 "現実"だ。

「……うん」
 私は頷いた。
 頷くしかない。
 頷かないと、美春が自分を責めるのが分かる。

 私は、小さく息を吐く。
 そして、わざと話題を変える。

「……魚、でかい」
 自分でも下手だと思う。
 でも、美春が小さく笑った。

「現実逃避?」
「……そうかも」
「じゃあ、一緒に逃避しよ」

 その言葉が、救いだった。

     ◇

【美春】

 トンネルを抜けたところで、私はようやく肩の力が戻った。
 魚の群れが銀色にひらめいて、まるで空みたいに広がっている。

 さっきの"手"のことが、胸に残っている。
 離した瞬間の、自分の反射。
 守りたい。隠したい。
 でも、隠すたびに、秋穂を傷つけている気がする。

「……さっき、ごめん」
 私は小声で言った。

 秋穂は少しだけ目を細める。
 怒ってない。
 でも、どこか考えている顔。

「……分かる」
 秋穂が言った。
 "分かる"の言い方が、優しいのに少しだけ寂しい。

 私は、その寂しさが怖くて、次の展示へ引っ張るみたいに歩いた。

 ペンギンのエリアに入ると、空気が少し明るくなる。
 水の匂いが強くなって、子どもの歓声が混じる。

 ペンギンが列になって歩いている。
 よちよちじゃない。
 意外と速い。
 しかも、乱れない。
 ちゃんと前の子に合わせて、一定のテンポで進む。

「……真面目」
 私が呟くと、秋穂が横で頷いた。

「動きが、真面目で好き」
 秋穂が言う。
 いつもより感情が出ている声。

 私は思わず秋穂を見る。
 秋穂の目が、ペンギンを追っている。
 その目が、厨房で計量してるときの目に似ている。

「分かる……なんか、仕事してるみたい」
 私が言うと、秋穂が小さく笑った。

「……ちゃんと、やる。って感じ」
「うん。サボらない感じ」
「……でも、焦ってない」
 秋穂が言う。
 その一言が、胸に刺さる。

 焦ってない。
 焦ってないのに、ちゃんと進む。
 それって、秋穂がいま欲しいものじゃない?
 香織さんに成果を示すときも、受験のときも、恋のときも。

 私はペンギンの背中を見ながら、"私も、焦ってる"と自覚する。
 焦って、手を離して。焦って、嘘をついて。焦って、言えない。

 ペンギンは、言えないとか関係なく、ただ進む。
 それが、羨ましい。

「……私も、ペンギンみたいに進めたらいいのに」
 つい口に出してしまった。

 秋穂がこちらを見る。
 目が、真っすぐ。

「美春は……美春の速さでいい」
 秋穂が言う。
「でも、止まらないで」

 その言葉で、胸の奥が少しだけ暖かくなる。
 喫茶店の紅茶みたいに。

「止まらない」
 私は頷く。
 小さく、でも確かに。

     ◇

【秋穂】

 ペンギンの前で美春が見せた顔が、少しだけ大人びて見えた。
 笑っているのに、泣きそうな目。
 それを隠さずに言葉にする勇気。

 私は、"止まらないで"と言った。
 言ったあとで思う。
 それは美春にだけじゃなく、自分にも言った。

 止まったら、怖さに飲まれる。
 怖さに飲まれたら、また全部を"友達"に戻してしまう。
 戻したくない。

 イルカショーの会場に入ると、歓声が広がって、空気が少し軽くなる。
 水しぶきが飛んできて、美春が「わっ」と小さく声を上げた。

 私は反射で笑ってしまう。
 美春も笑う。
 同時に笑う。
 それだけで、世界が少しだけ平和になる。

 "秘密"とか"視線"とか、重たい単語が一瞬だけ遠のく。

 ショーが終わって席を立つと、出口の近くにお土産コーナーがあった。
 ぬいぐるみ、キーホルダー、ガラス細工。
 光る飴。青いラムネ。クラゲの形のグミ。

 美春が、ペンギンのキーホルダーの前で立ち止まる。
 手に取って、戻して、また取って。
 迷っている。

 私は、胸の奥がくすぐったくなる。
 "贈りたい"って気持ちは、隠しきれないんだな、と。

 私も同じだった。
 だから私は、わざと別の棚へ行って、クラゲのキーホルダーを取った。
 水色の透明が、光を拾う。
 美春に似合う気がする。
 似合う理由を言語化したら、たぶん私はまた赤くなる。

 会計の列で、美春の手元を見ると、結局ペンギンのキーホルダーを持っている。

 目が合う。

 美春が一瞬固まり、すぐ視線を逸らした。
 私も逸らす。

 お互い、分かってる。
 "贈り物"の意味を。

 でも、言わない。
 言うのは、まだ早い。
 早いけれど、やめない。

     ◇

【美春】

 外へ出ると、空が少しだけ夕方に傾いていた。
 冷たい風が頬を撫でる。
 さっきの水槽の暗さが、急に恋しくなる。

 駅へ向かう道は、人が少なくて、歩く音がよく聞こえた。
 靴底がアスファルトを擦る音。
 秋穂のマフラーが少し揺れる音。

 私はさっき買ったキーホルダーを、紙袋の中で指で触った。
 渡したい。
 でも、"ここ"で渡したら、恋人っぽい。

 恋人っぽいのに、恋人じゃないわけじゃない。
 この言葉遊びみたいな現実に、私はむずむずする。

「……秋穂」
 私は小さく言った。

「……なに」
 秋穂も小さく返す。
 夜に近づく声。

「さっき、手……離したの、ほんとにごめん」
 もう一度言う。
 一度じゃ足りないと思った。

 秋穂は少しだけ歩く速度を落とした。
 それで私も自然に歩調を合わせる。

「……分かってる」
 秋穂が言う。
「怖いの、分かる」

 一拍。
 それから、秋穂が続ける。

「でも……離されるのも、ちょっと怖い」
 その言葉は小さくて、でもちゃんと刺さった。

 私は胸の奥が痛くなって、同時に"よかった"とも思った。
 秋穂が弱さを言葉にしてくれたことが、よかった。

「……じゃあ」
 私は息を吸う。
「次は、離す前に……目で聞く」
 言うと、少しだけ笑ってしまう。
 変な約束だ。でも、私たちには必要だ。

 秋穂が、目を細めた。
「……うん」

 その"うん"が、柔らかい。
 柔らかいのに、決めてる音。

 駅が近づく。
 明日、始業式。
 クラス替え。

 思い出すだけで、胃のあたりがきゅっとなる。

「同じクラス……がいい」
 私は、つい言った。

 秋穂の足がほんの少しだけ止まりかけて、すぐにまた動く。

「……私も」
 秋穂が言う。
「同じなら、息できる」

 息できる。
 その言葉が、嬉しいのに少し怖い。
 私たちは、まだ"息をする場所"を選ばなきゃいけない。

「もし違っても……」
 私が言いかけると、秋穂が首を振る。

「……今は、先に不安を増やさない」
 秋穂が言う。
「明日、見てから」

 秋穂らしい。
 真面目で、焦らなくて、順番を守る。

 私は頷く。
「うん。明日、見てから」

 改札が見える。
 人の流れがまた増えて、現実が近づく。

 私は紙袋を握りしめる。
 渡したいものがある。
 言いたい言葉もある。

 でも、今日の最後は――言葉じゃなくてもいい気がした。

 改札の前で立ち止まって、私たちは一瞬だけ、お互いを見る。

 秋穂の頬はまだ少し赤い。
 私もたぶん赤い。

「……じゃ」
 秋穂が言う。

「うん……また明日」
 私が言う。

 その"また明日"が、いつもより重い。
 明日が、私たちの一年を決める入口になるから。

 秋穂が改札を通る直前、ほんの少しだけ身を寄せて、声を落とした。

「……今日の服、可愛い」

 私は一瞬、世界が止まったみたいに固まった。
 心臓が跳ねて、言葉が追いつかない。

「……秋穂も……可愛い」
 やっと返すと、秋穂が目を見開いて、すぐに視線を逸らした。

 耳が、真っ赤だ。

「……言わないで」
 秋穂が小さく言う。

「言ったの、秋穂じゃん」
 私は笑ってしまう。
 笑ったら、緊張が少しだけ溶けた。

 秋穂は、困ったみたいな顔をして、でも口元がほんの少しだけ上がっていた。

「……じゃあ、明日」
 秋穂がもう一度言って、改札を抜ける。

 私はその背中を見送って、紙袋の中のクラゲを指でそっと押した。

 明日、同じクラスだったら。
 明日、隣に座れたら。
 そのときに――渡そう。

 "焦らず待て"。
 おみくじの言葉みたいに、心のどこかで反芻してしまう。

 ホームへ向かう人の波の中で、私は小さく息を吸った。

 止まらない。
 ペンギンみたいに。
 真面目に、でも焦らず。

 そして、明日――掲示板の前で、また息をする。

     ◇

【美春】

 春の校舎は、まだ冬の名残みたいに冷たかった。
 掲示板の前だけ、人の熱で空気がぬるくて、息がしづらい。
 廊下の窓から差し込む光が眩しくて、紙の白さがやけに強調される。

 ――クラス替え。

 分かってる。見るだけだ。自分の名前を探して、番号を確認して、それで終わり。
 そう思ったのに。

 私は、いちばん上の段に目を走らせた瞬間、自分の名前より先に――秋穂を探してしまった。

 文字の列の中で、彼女の名前だけが妙に輪郭を持つ。
 黒インクなのに、そこだけ濃いみたいに見える。
 見つけた瞬間、胸の内側がゆるむ。肺の奥に、やっと空気が流れた気がした。

 ……私、いま、何してるんだろ。

 自分のことより先に。未来のことより先に。
 "同じクラスかどうか"で、こんなに息の通り道が変わるなんて。
 気づいた途端、恥ずかしさが遅れて追いかけてくる。頬が熱い。
 誰にも見られたくなくて、私は視線を紙に貼りつけたまま、平静を装った。

 そのとき、背中の方で、誰かが小さく笑った気がした。
 れいなかもしれない。違うかもしれない。どっちでもいい。今は――落ち着け。

 秋穂の名前の横にあるクラスを確認して、私はそこで初めて自分の名前に視線を移した。
 指先で文字をなぞりそうになるのを堪えて、行を追う。自分の名前を見つけて、同じ記号を見つけた瞬間、心臓が1回だけ強く跳ねた。

 同じ、だ。

 言葉にすると軽いのに、身体の方が先に反応する。
 足の裏が床にちゃんとついた感じがして、肩の力がほどける。
 今まで固まっていた鼓動が、ようやく"普通の速さ"に戻っていく。

 顔を上げたら、少し離れたところに秋穂がいた。
 きちんとした横顔。いつもみたいに静かで、でも――こちらを見ている。

 目が合う。
 ほんの一瞬。ほんの一瞬だけ、秋穂の視線が私の顔をなぞった。まるで、私が先に彼女を見つけたことまで、もう分かっているみたいに。

 秋穂の耳が、わずかに赤い。
 それを見た瞬間、私の胸の奥が甘く痛んだ。

 私は口角を上げようとして、うまくできなくて、代わりに小さく頷いた。
 秋穂も、ほとんど分からないくらいの頷きを返す。

 ――同じクラス。

 その事実だけで、世界の色が、少しだけ戻った。

     ◇

【美春】

 教室の扉を開けた瞬間、春休みの終わりが音を立てた気がした。
 ざわざわした声、机を引く音、窓の外の明るさ。全部が「新学期」の匂いをしている。

 私は名簿を握りしめたまま、教室の中を見渡して、すぐに自分の席を探した。
 前から――三列目、窓側。見つけた瞬間、少しだけ肩の力が抜ける。

 椅子を引いて座り、机の天板を指先でなぞる。つるりとした冷たさ。
 この机で、また一年分の時間が増える。

「美春ー」

 背後じゃなく、斜め横から声が飛んできた。
 振り向くと、れいながいた。同じ制服、同じ軽い笑い。なのに目がやけに鋭い。

「いるじゃん。おめでと。同じクラス」
「れいな……!」
「なにその声。いま名簿、見直した?」
 からかう言い方のくせに、どこか嬉しそうだ。

「ほんとに同じだった」
 私がそう言うと、れいなは「へえ」と言って、わざとらしく視線を私の背中の方へ滑らせた。

「で?」
「で、って何」
「うしろ」

 言われて、私は息を止めた。

 背後の席。椅子の脚が鳴る。
 そこに、秋穂がいた。

 机の上にカバンを置く動作が丁寧で、無駄がない。髪も、きっちり。
 なのに、視線が一瞬こちらに向いたときだけ、春みたいに柔らかい。

「……美春」
 秋穂が小さく呼ぶ。
 名前が、教室の雑音の中で、ちゃんと私のところに届く。

「秋穂……」
 声が変になりそうで、私は喉の奥で一度言い直した。
「おはよう」

 秋穂は頷いた。
「……おはよう」

 たったそれだけのやり取りなのに、れいなが横で口元を押さえている。
 目が、にやにやしている。隠す気がない。

「なに」
 私が睨むと、れいなは肩をすくめた。

「いやー。背中の空気、甘いなって」
「甘くない!」
「はいはい。……てかさ、美春の後ろが周防さんって、もう席替えしなくていいじゃん」
「勝手に決めないで」
「決めないで、って言いながら、顔赤い」
「赤くない!」

 言い返しながら、私は自分の頬が熱いのを自覚してしまって、余計に焦った。
 秋穂の方を見るのが怖くて、机の上の筆箱の角を直す。直す場所なんて、最初から整ってるのに。

 背後から、秋穂の小さな声が落ちてくる。

「……れいな、うるさい」
「え、周防さんに怒られた。こわー」
 れいなは笑いながらも、どこか満足そうだ。
 たぶんこの人は、"分かってる"のが楽しいんだ。

 担任が入ってくるまでの数分、教室は小さな話題がいくつも跳ねる。
 春休み、宿題、部活、髪型、スマホの機種。

 その中に、ひとつ、私の耳を刺す言葉が混ざった。

「ねえ、もうすぐ運動会だよね? 五月!」
「え、早くない? 新学期始まったばっかじゃん」
「毎年この時期に言ってる気がする。うちの学校、気が早い」
「リレー誰走るんだろ」
「去年、結城さん走ってなかった?」
「え、美春、走るの?」
 れいながこちらに振ってくる。

「走らない……と思う」
「"と思う"って何」
「まだ分かんないし」
 言いながら、私は心の中で別のことを思っていた。

 運動会。
 体操服。
 走って、汗をかいて、人の目が集まる。

 秋穂の進路のことで、今までずっと"数字"とか"段取り"とか、そういう現実の重さを抱えてきたのに。
 今度は、身体の重さの話がくる。
 逃げ場のない、別の種類の現実。

 背後で、秋穂が教科書を机に揃える音がした。
 その音が、なぜか落ち着く。
 紙の角を揃えるみたいに、私の中のざわめきも一度整えられる。

 ――大丈夫。
 まだ先だ。五月は、まだ先。

 そう思ったのに、別の話題が追い打ちみたいに聞こえてきた。

「そういえばさ、体育ってさ、もうすぐプールも始まるよね?」
「うわ、最悪。日焼けする」
「いや、まだまだ先でしょ。だる」
「今年もペアあるのかな」
「あるでしょ。溺れたら困るし」
「ペアってさ、誰と組む?」
「好きな人と組めたら勝ちじゃん」
「はい出たー」

 笑い声が起きる。
 でも、その笑いが遠くなる。

 ペア。プール。水着。
 体の線。
 ――見える。見られる。

 私は、無意識に制服のスカートの上から太ももを押さえていた。
 触れる布の感触だけで、自分の輪郭が気になる。

 去年の私は、プールの授業が来るたびに、なるべく目立たないようにしていた。
 笑われないように。変に見られないように。
 誰と組むかなんて、決まるまで息ができないみたいだった。

 なのに今年は、もっと怖い。

 だって――

 背後から、秋穂の声がした。私にだけ聞こえるくらいの小ささで。

「……美春」
「なに」
「……大丈夫?」
 心配の仕方が、秋穂らしい。
 "今の顔"で判断して、必要な言葉だけ置く。

 私は、咄嗟に平気なふりをした。
「大丈夫」
 でも、声が少しだけ弱い。

 秋穂は一拍置いたあと、机の端を指先で軽く叩く。トン、と控えめな音。
 合図みたいに。

「……ペア、もし決めるなら」
 そこで秋穂が言い淀む。教室だから。人がいるから。
 その"言い淀み"が、逆に胸を熱くする。

 私は、振り向かずに小さく聞いた。
「……なに」
「……美春と」
 秋穂の声が、ほんの少しだけ震えた。
「組みたい」

 その言葉が、私の背中を軽く押したみたいに、呼吸が戻る。
 嬉しい。
 でも、同時に怖い。

 私はやっと振り向いて、秋穂の目を見る。
 秋穂はまっすぐ見返してきて、ほんの少しだけ耳が赤い。

 れいなが、そのやり取りを逃さない。

「おーい。今の何。もう決まった感じ?」
「決まってない!」
 私が慌てると、れいなはニヤニヤを隠さないまま言った。

「だってさ、後ろの席が周防さんでしょ? さっきから、二人だけで会話してる感じ出てる」
「出てない」
「出てる。ねえ周防さん?」
 秋穂は、れいなを一瞬だけ見て、それから淡々と言った。

「……ない」
 それだけ。
 でも、その短さの中に"守る"が入っている気がして、私はまた落ち着けなくなる。

 私は、声を落として秋穂に言った。
「……私、プール、苦手」
 秋穂が眉をわずかに動かす。理由を待ってる顔。

「体の線、見えるのが……」
 言いかけて、喉が詰まる。
 "見られる"が怖い。太ったとか、そういうのじゃなくて、輪郭が露わになるのが怖い。
 私が私であることが、急に"外側"に出てしまう感じが怖い。

 秋穂はすぐに結論を言わなかった。
 代わりに、少しだけ声を柔らかくした。

「……見ない」
「え」
「見るのは……私だけど」
 言ってから、秋穂自身が「しまった」という顔をする。
 そして、さらに小さく付け足す。

「……嫌なら、見ない。美春が嫌なこと、しない」

 その言葉が、胸の奥に落ちて、静かに温まる。
 私は、変な笑いをこぼしそうになって、必死で堪えた。

「……ありがとう」
「……うん」

 れいなが、机に頬杖をついて、幸せそうにため息をついた。
「青春かよ……」

「青春って言うな」
 私が小声で言うと、れいなは「言いたくもなるでしょ」と肩をすくめる。

 担任が教卓の前で咳払いをして、教室が少し静まった。
 出席、提出物、係、委員。
 新学期の儀式が淡々と始まる。

 私は前を向いてメモを取りながら、背中の気配を意識してしまう。
 秋穂がそこにいる。
 距離は一席分。
 でも、たぶん心は、去年よりずっと近い。

 そして、その近さが、嬉しいのに怖い。

 仲が良いと言われる。
 ペアの話が出る。
 水着の線が見えることを想像して不安になる。
 それでも、秋穂と並ぶ未来を、私はもう手放したくないと思ってしまっている。

 黒板の文字が目に入らない一瞬がある。
 その一瞬で、私は自分の中の小さな決意を拾う。

 ――ちゃんと、整えよう。
 見られるのが怖いなら、怖くない自分に近づけばいい。
 秋穂の隣に並ぶのが不安なら、"並べる私"を作ればいい。

 それは、誰かのためだけじゃなくて。
 私が、私を嫌いにならないためのやり方だ。

 背後で、秋穂が小さく息を吐く。
 その呼吸が、私の背中をそっと支える。

 私は、前を向いたまま、指先で机の端を軽く叩いた。
 秋穂がさっきやったみたいに。合図みたいに。

 すると、背後から、同じ音が返ってきた。
 トン。
 たったそれだけで、春の教室が少しだけ安心できる場所になる。

 窓の外は明るい。
 もうすぐ運動会が来る。
 そのあとに、プールも来る。

 怖い未来が、ちゃんと順番に並んでいる。
 でも、今日は――同じクラスだと分かった日だ。

 私は、ほんの少しだけ口元を緩めた。
 ばれない程度に。
 自分だけ分かる程度に。

     ◇

【美春】

 放課後、私たちは喫茶店へと足を向けた。
 校門を出た瞬間、教室のざわめきが背中から剥がれていく。代わりに、春の風が制服の裾を揺らして、シャツの中にひやりと入り込む。

 ――今日から、いつも通りじゃない。
 "同じクラス"が始まった。
 それだけで胸の奥が忙しいのに、私にはもうひとつ、始まったものがある。

 喫茶店のベルが、カラン、と鳴った。

「ただいま……じゃなくて、こんにちは」
 言い直した自分に、少し笑ってしまう。客として入るときと、働くために入るときじゃ、呼吸の仕方が違う。

 奥からマスターの声。
「おう、二人とも。早いね。制服のまま突っ込むと疲れるぞー」
「先に着替えます」

 カウンターの内側に回り、奥の小さな更衣スペースでエプロンを広げる。
 紺色の布。洗剤の匂いと、ほんのりコーヒーの香りが混ざっている。
 紐を腰で結ぶと、制服が"学校"から"店"に切り替わる感じがした。

 鏡に映る自分は、まだちょっとだけ緊張している。
 でも、胸の奥に「やること」があると、不思議と姿勢が整う。

 ――回す。
 私は"作る"側じゃなくて、"回す"側。
 注文が滞らないように、席が詰まらないように、カップが切れないように。
 お客さんの機嫌と、時間と、店の呼吸を見て、先に動く。

 ホールのチェックを始める。
 テーブルの拭き残し、砂糖の補充、メニュー表の角度。
 レジの釣り銭、伝票、ペン。
 水のピッチャーを満たして、グラスの口を指でなぞって曇りがないか確認する。

「……美春、結び目、いつもより丁寧」
 背後から声がして、私は反射で肩が跳ねた。

 秋穂が立っていた。
 新しいエプロンを結ぶ動作が、確かにいつもより丁寧だ。
 きゅっと紐を締めて、余った先を指で揃えて、結び目を真ん中に落ち着かせる。

「今日、なんか……」
 私は言いかけて、うまく続けられない。
 教室の空気が、まだ体に残っている。

 秋穂は私の手元を見た。
「……落ち着くために、整えてる?」
「うん。たぶん」
「……わかる」
 短い共感が、湯気みたいに胸を温める。

 マスターが新聞を畳む音をさせながら、カウンターの奥で笑った。
「お、二人とも"仕事の顔"だ。新学期の空気、店で洗い流してけー」

 その言葉に、私は小さく頷く。
 洗い流す。
 ここは、そういう場所だ。

 最初のお客さんは、いつもの常連のおばあさんだった。
 私はすぐに水を出し、笑顔の角度を作る。

「いらっしゃいませ。いつもの、ミルクティーでいいですか?」
「まあ、美春ちゃん、覚えてくれてるのね」
「もちろんです。砂糖は2つでしたよね」
「そうそう、それそれ」

 そのやり取りの間に、私は店全体を見る。
 空席の位置、日差しの当たり方、入り口の気配。
 次に来るお客さんが座りやすい席を、先に"空気として"用意する。

 カウンターの向こうで、秋穂が静かに手を動かしている。
 ボウル、泡立て器、計量。音が小さくて、一定で、気持ちがいい。
 私はその音を背中で聞きながら、伝票を書いた。

「ミルクティー、ひとつ。砂糖2つ」
 マスターが頷き、ポットを温める。
 秋穂は一瞬だけこちらを見る。
 目が合って、ふっと逸らした。
 その逸らし方が、今日の教室で見た"赤さ"を連れてきて、私は危うくミスをするところだった。

 ――だめ。仕事中。
 私は深呼吸して、レジ横のメモを整え直す。

 昼に近づくと、二人連れが増える。
 私は席の配置を頭の中で組み替えながら動いた。

「こちら、窓際どうぞ」
「お冷、先にお持ちしますね」
「ケーキセットは、今だとレモンのタルトと、ガトーショコラがあります」

 "回す"のは体力だけじゃなく、言葉の温度もだ。
 馴れ馴れしくしすぎない。冷たくしすぎない。
 相手が欲しい分だけ、会話を渡す。

 それができたとき、私は少しだけ誇らしい。
 たぶんこれが、あのときマスターが言った"店を回す目"なんだと思う。

 忙しさの波が一度引いたころ、マスターが小声で言った。
「美春ちゃん、次の波、学生三人組が来るぞ。席、先に作っとけ」
「はい」

 私はすぐに2つのテーブルをくっつけ、椅子の位置を揃える。
 ナプキンの数を増やし、氷を補充しておく。
 来てから慌てないように。
 "先に動く"のが、私の仕事だ。

 ベルが鳴って、予想通り、制服の子たちが入ってきた。
 私は笑顔で迎えながら、心の中で小さくガッツポーズをする。
 ――回せてる。

 夕方。
 最後のお客さんが帰って、扉のベルが静かに鳴り終わると、店の空気がすとんと落ち着いた。
 テーブルの上に残るのは、ぬるくなった水滴と、砂糖の粒と、人がいた余韻。

 閉店札を掛け、カーテンを半分閉める。
 マスターは奥で洗い物をしている。水音が一定で、ちゃんと"気配"としてそこにいる。
 聞こえるけど、こちらに入ってこない距離。

 私はカウンターの内側で、秋穂に小さく声をかけた。

「秋穂」
「……なに」

 秋穂は、布巾でカウンターを拭きながら言った。
 拭き方が、やっぱり丁寧だ。
 今日の彼女も、ずっと"丁寧"で出来ている。

 私はエプロンの端を指先で絡めた。

 秋穂が、ほんの少しだけ笑った。
 薄い笑み。春の光みたいに、眩しくないのに確かに明るい。

 ここは、私たちの場所。
 教室の視線も、廊下の噂も、届かない場所。

 私は、秋穂の手にそっと触れた。
 指先が重なる。
 それだけで、胸の冷たいものが少し溶ける。

「教室では触れられないから」
「……うん」
「ここでは、いい?」
「……いい」

 秋穂の声が、少しだけ震えていた。
 嬉しさと、切なさが混ざった震え。

 私は息を吐いて、言葉をひとつだけ選ぶ。

「……いつか、ちゃんと言えるようになりたい」
「いつか?」
「うん。秋穂は、私の恋人だって」

 秋穂の頬が少し赤くなる。
 エプロンの紐を指で触って、目を逸らして――短く頷いた。

「……いつか、ね」
「うん。いつか」

 その"いつか"は、遠い未来の夢じゃなくて、私たちが守るために必要な時間のことだ。

 ふと、秋穂の顔を見ると少しだけ疲れて見えた。
 新学期の始まりは、環境の変化で体調が揺れる。
 去年も秋穂はこの時期に風邪を引いた。

「秋穂、無理しないでね」
「……美春も」
「私は平気。回すの得意だから」
 冗談めかして言うと、秋穂が小さく笑った。

「……頼りにしてる」
 その言葉が妙に重くて、胸がきゅっとなる。

 私は、ちゃんと応えたい。
 ホールの流れも、店の息も、秋穂の夢も。
 "回す"って、たぶんそういうことだ。

 カウンターの上に、マスターが置いていった不揃いの焼き菓子があった。
 試作の端切れ。見た目は欠けているのに、香りはちゃんと甘い。

 秋穂がそれを半分に割って、私に差し出す。

「……食べる?」
「うん」

 口に入れると、じんわり広がるバターの風味。
 少しだけ苦いカカオ。最後に残る甘さ。

 秋穂の味。

 私は噛みしめながら、今日の掲示板の前のことを思い出す。
 同じクラスだと分かっただけで、世界が戻ってきた感覚。

 三年生が始まった。
 秋穂と同じクラス。
 秋穂と放課後も一緒。

 最後の一年。

 教室で隣じゃなくても。
 友達って嘘をつく日があっても。
 それでも、変わらないものがある。

 秋穂が、私の後ろにいる。
 振り向けば、そこにいる。
 そして、誰もいない場所では、ちゃんと手を取れる。

 私は、心の中で小さく繰り返した。

 ――卒業したら。
 秘密じゃなくなる。
「秋穂は、私の恋人です」って、言える。

 一年は長い。
 でも、待てる。
 秋穂と一緒なら、待てる。

 そのために私は、明日も回す。
 店を、時間を、そして――私たちの"いつか"に向かう日々を。