最初の味見は、いつも君に

 三月十四日。ホワイトデー。

 朝、カーテンの隙間から入ってくる光が、冬のそれより少しだけ薄い。冷たいのに、どこか軽い。
 布団の中で目を開けた瞬間、私は昨日までずっと胸の奥に張り付いていた「受験」とは違う種類の緊張を思い出して、変な笑いが出そうになった。

 ――秋穂と、時間を交換する。
 あの夜、秋穂が言った「お返しは、ものじゃなくていい。時間がほしい」という言葉は、チョコの甘さより長く口の中に残っていた。

 スマホを見る。
「今日、昼から。店、少し早く閉める。来られる?」
 秋穂の文面は相変わらず短いのに、行間があったかい。
 私は「行く」とだけ返して、すぐにまた画面を見返した。たった二文字が、ちゃんと約束の形になっている気がして。

 母が台所で湯を沸かす音がする。
 味噌汁の匂い。トーストの焦げ目。
 いつもの朝のはずなのに、私の心だけが先に喫茶店へ走っていく。

「美春、今日は友達と?」
 母が何気なく聞く。

「うん……ちょっと。ホワイトデーだから」
 言った瞬間、舌が少しだけ苦い。
 友達。嘘。守るための言い換え。
 この嘘は、昨日までの私なら、胸を締め付けて動けなくなる種類だった。
 でも今は、違う。罪悪感はあるのに、潰されない。
 ――いつか、ちゃんと言える日のための嘘だと分かっているから。

「ふふ。楽しんできなさい。まだ寒いから、手袋持って」
 母は、いつも通りの優しさで言う。
 その優しさが、少し痛い。痛いのに、ありがたい。

 私は手袋をポケットに押し込んで、家を出た。

 喫茶店へ向かう道は、二月より明るかった。
 アスファルトの端に、溶けきれなかった雪の塊が小さく残っている。
 でも、風の匂いはもう冬のままじゃない。洗い立てのシーツみたいな、乾いた匂いが混ざっている。

     ◇

 ベルが鳴る。
 カラン。

 いつもの音が、今日は「招き入れる音」に聞こえた。

 店内は、昼なのに少しだけ薄暗い。
 電球の黄色い光が、外の白い光と混ざって、輪郭を柔らかくしている。
 カウンターの奥から、マスターが顔を出した。

「お、来た来た。今日は"時間"の日だな」
 ニヤッとした笑い。
 全部見抜いてるくせに、追い詰めない笑い。

「……うるさいです」
 私は小さく返して、コートを脱ぐ。

 厨房の奥から、秋穂が出てきた。
 エプロンの紐を短く結んで、袖をまくっている。
 髪はきっちりまとめられていて、いつもより職人っぽい。
 そのくせ、私を見た瞬間だけ、目の温度が上がるのが分かる。

「来た」
 秋穂が言った。
 それだけなのに、胸がふっと軽くなる。

「来た」
 私も同じ言葉を返して、笑いそうになって慌てて咳払いした。

 マスターが、わざとらしく咳をしてから言う。
「じゃ、俺は用事。夕方までいないから。二人で好きに使いな」
「え」
「えじゃない。今日の店は、二人の教室だ」
 そう言って、マスターは奥へ引っ込んだ。

 残った空気が、一気に静かになる。
 静かなのに、落ち着かない。
 私の心臓だけ、文化祭の準備みたいに忙しい。

 秋穂が手を洗いながら言った。
「……今日は、作る」
「なにを?」
「基本。生地。クリーム。温度。……あと、手」
 最後の単語だけ、小さかった。

「手?」
 聞き返すと、秋穂は少しだけ視線を逸らして、耳が赤くなる。
 あ、分かった。
 "手"って、混ぜ方とか、持ち方とか。
 でも、それだけじゃない気がして、私は笑うのを飲み込んだ。

「ホワイトデー、だから」
 秋穂が言う。
「時間、あげるって言った。……美春、欲しいって言った」
 言い方が淡々としているのに、内容がずるい。
 欲しいって言ったのは、私だ。
 その事実を秋穂の口から言われると、胸が熱くなる。

「……欲しかった」
 私は、少しだけ声を落として言った。
「秋穂の時間」

 秋穂が、ほんの一瞬だけ口元を緩める。
 それは、砂糖が溶けるみたいな笑いだった。

     ◇

 最初のレッスンは、意外と地味だった。

 計量。
 粉をふるう。
 バターを室温に戻す。
 卵を割るときの角度。
 泡立て器を立てる位置。
 ボウルの縁に当てる音の強さ。

 秋穂は、説明が短い。
 でも短い分、手が丁寧で、見れば分かるようにしてくれる。

「ここ、止めない」
 秋穂が、私の手首に軽く触れて、動きを修正した。
 触れ方が一瞬で、でも確実で、私は呼吸を忘れかけた。

「……止めると、分離する」
 秋穂は何事もない顔で言う。
 何事もない顔が、逆にずるい。

 私は、わざと真面目に返した。
「……分離、したら困る」
「困る」
 秋穂が頷く。
 同じ言葉を繰り返しながら、指先だけが少し赤い。

 生地が、少しずつ「生地」の顔になる。
 粉っぽさが消えて、まとまりが出る。
 艶が出る。
 その変化が、見ていて気持ちいい。
 まるで、私の心が秋穂の隣で形を整えていくみたいだった。

 焼き時間の間、秋穂はタイマーをセットしてから、私に紅茶を淹れてくれた。
 香りが立ち上る。
 喉の奥がほどける。

「……どう?」
 秋穂が聞く。

「喫茶店って、落ち着く」
 私は素直に言った。
「家でも学校でもないのに、ちゃんと居場所って感じがする」

 秋穂が小さく頷く。
「……ここは、逃げ場所」
「逃げ場所?」
「……うん。私にとって」
 秋穂はカップを両手で包んで言う。
「家で、ちゃんとしてると、息が詰まる。学校でも、ちゃんとしてると、疲れる。ここだけ、ちゃんとしなくても……まあ、死なない」

 "死なない"って言葉が、秋穂の口から出ると重い。
 でも、それを冗談みたいに言えるくらいには、秋穂の心が少し柔らかくなっているのも分かる。

 私は、その言葉の重さを受け止めて、少しだけ前に身を乗り出した。

「秋穂、逃げ場所って言ったけど」
「……うん」
「私にとっては、逃げ場所じゃない」
 秋穂が、少しだけ目を見開く。

「ここは、私の"居場所"」
 言い切った。
 秋穂の目が揺れて、唇が少しだけ開く。
 何か言いたそうで、でも言葉が出ない。

 私は続ける。
「秋穂がいるから。……秋穂が作るものがあるから」
 秋穂の指が、カップの縁で小さく震えた。

「……ありがとう」
 秋穂が、ほんの少しだけ声を震わせて言った。
 その"ありがとう"が、私の胸を熱くする。

 秋穂が、目を伏せて、短く息を吐いた。
 それが、照れ隠しの呼吸だと分かってしまう。
 分かってしまうくらい、私は秋穂のことを知り始めている。

 タイマーが鳴る。
 ピピピ。

 秋穂がオーブンを開ける。
 熱気が、顔に当たる。
 焼き上がりの匂い。バターと砂糖の、少し焦げた甘さ。
 その匂いの中に、私は確かに"未来"を嗅いだ気がした。

「……味見」
 秋穂が言って、小さな端切れを私に渡す。

「え、私?」
「うん。美春が、最初」
 秋穂の声が、ほんの少しだけ柔らかい。

 私は受け取って口に入れた。
 甘い。
 でも甘いだけじゃない。
 奥に、ちゃんと焼きの香ばしさが残る。

「……んまい」
 思わず言うと、秋穂が「……当然」と言いながら、口角だけが上がった。

 その瞬間、私は確信した。
 この時間は"交換"なんかじゃない。
 私がもらってしまったものの方が大きい。

 午後の途中で、マスターが一度だけ顔を出した。

「おー、やってるやってる。……あ、いい匂い」
 鼻を鳴らして、焼き菓子を見て、満足そうに頷く。

「美春ちゃん」
 マスターが急に真面目な声で言った。

「はい」
 背筋が伸びる。反射で。

「春休みから、バイトしないか」
「え」
 驚きが、声になった。

 秋穂が一瞬だけ動きを止める。
 私を見る。
 その目に、ほんの少しだけ不安が混じる。
 ――私が断ったら、秋穂が困る。
 そう思ってしまうのが、私の癖だ。
 でも今日は、癖で返事をしない。

「……なんで、私?」
 私は聞いた。

 マスターは笑って、でも目は真剣だった。
「前に言ったろ。店ってのは、作る人と、回す人が必要だ」
 その言葉が、頭の中の引き出しを開ける。

 夏祭りのとき。
 マスターが私に向けて「店を回す目をしてる」って言った。
 あの時は褒め言葉みたいに流したけど、今は違う。
 それが、秋穂の夢の形に繋がっているのが分かる。

「秋穂の菓子は、伸びる」
 マスターが続ける。
「でも伸びるほど、回す側が要る。仕入れ、在庫、動線、釣り銭、予約、客の波。……全部、味と同じくらい大事だ」
「……」
 私の喉が動く。
 頭の中に、夏祭りのピンチが浮かぶ。
 材料が足りなくて、連携が噛み合わなくて、空気が冷えた日。
 あの日、私が"整理"と言って動けたのは、たぶん偶然じゃない。

 マスターが、最後に言った。
「美春ちゃん、逃げない顔になってきた。だから誘う」
 逃げない顔。
 あの言葉は、私の胸の奥を静かに叩く。

 見てる。
 言わないけど、待ってる。
 私の返事を。
 秋穂の唇が、わずかに震えている。
 普段は動かない秋穂の表情が、今だけ、ほんの少しだけ――怖がっている。断られることを。

 私は、息を吸って――
 一瞬だけ、迷った。
 進路。受験。親の期待。
 全部、頭をよぎる。
 でも、それより強い声が聞こえた。

 ――秋穂の隣にいたい。

 その声が、全部を押し流す。
 吐いてから言った。

「……やります」
 言葉が自分のものになるのが分かった。
「春休みから。できること、やります」

 秋穂の肩が、ほんの少し落ちる。
 息が抜けたみたいに。
 その反応が、嬉しくて、少し苦しい。

「よし」
 マスターが満足そうに頷く。
「じゃ、春休みの予定、二人で詰めとけ。喧嘩すんなよ?」
 最後はいつもの調子で笑って、また奥へ消えた。

 残された私たちは、目を合わせた。

「……いいの?」
 秋穂が小さく言う。
 きっと"負担じゃない?"の意味も含んでいる。

「いい」
 私は言い切った。
「秋穂の店。そこに私がいる未来――叶えたいって、思った」
 自分の口から出た言葉に、自分が少し驚く。
 でも、嘘じゃない。

 秋穂が、視線を落として、短く言った。
「……安心」
 それだけ。
 それだけなのに、胸の奥が熱くなる。

     ◇

 春休みの計画は、スマホの画面の上で決まっていった。

 共有カレンダー。
 秋穂が提案したとき、私は一瞬だけ笑いそうになった。
 "恋人っぽい"って思ってしまったから。
 でも、秋穂の顔は真面目で、照れもない。
 たぶん秋穂にとっては、効率と安全のためのツールなんだろう。
 その真面目さが、逆に愛しい。

「ここ、バイト」
 秋穂が画面を指でなぞる。
「ここ、私の仕込み。……美春、学校の宿題」
「春休みに宿題ってある?」
「……あるでしょ。予習」
「秋穂、ほんとに真面目だね」
「真面目じゃないと、崩れる」
 いつもの言い方。
 でも今日は、それが責めじゃなく、二人の生活の設計図に聞こえる。

 遊びの日も入れた。
 "遊び"って入力するのが、なんだか恥ずかしい。
 秋穂が「……遊びは必要」と言って、淡々と登録するから余計に。

「ここ、映画」
「いい。……美春、泣く?」
「泣かない。たぶん」
「たぶん」
 秋穂が、ほんの少しだけ笑った。

「ここ、水族館」
「いい。……美春、魚、好き?」
「そんなに詳しくないけど、秋穂と行くなら」
「……ペンギン、見る」
「秋穂、ペンギン好きなの?」
「……少し。動きが、真面目」
 秋穂の理由が、秋穂らしくて、私は笑った。

「じゃ、ペンギン見に行こう。真面目な秋穂と、真面目なペンギン」
「……美春、からかってる」
「からかってない。愛してる」
 冗談みたいに言ったのに、秋穂が固まる。
 私も固まる。

「……今の、なし」
「なしって」
「なし!」
 私は赤くなって、画面に集中した。
 秋穂が、小さく笑う音が聞こえた。

 予定が埋まっていく。
 埋まっていくほど、春休みが"空白"じゃなくなる。
 空白は、不安を呼ぶ。
 でも予定は、未来の形になる。

 私は画面を見ながら思った。
 ――去年の私は、春休みを"消費"して終わっていた気がする。
 寝て、起きて、スマホを見て、ぼんやりして。
 時間が通り過ぎていくのを眺めていただけ。
 今年は違う。
 秋穂の隣で、時間を使う。
 守るために、積み上げるために。

「……美春」
 秋穂が急に呼ぶ。
「なに?」
「"空白の日"も入れる」
「空白?」
「何もしない日。……息抜き」
 秋穂が言うその言葉は、少しだけぎこちない。
 息抜きが下手な人の言葉だ。

「うん、入れよう」
 私は頷く。
「その日は、喫茶店でだらだらする」
「……それ、空白?」
「空白。だらだらは大事」
「……美春、そういう理屈、得意」
 秋穂の声が、少しだけ面白そうになる。

 このカレンダーは、ただの予定表じゃない。
 二人で未来を扱う練習だ。
 そう思った。

     ◇

 春休みのアルバイト初日。

 制服じゃない服で朝起きて、駅へ向かうだけで、少しだけ大人になった気がする。
 でも、駅のホームはいつも通りで、私はいつも通りに緊張していた。

 喫茶店の鍵の音。
 カチャ。

 店内の冷たい空気。
 昨夜のコーヒーの匂い。
 木の床の冷たさ。
 全部、知ってるのに、今日は"働く側"として入るから、景色が少し違う。

「おはよう」
 秋穂が先に来ていた。
 エプロン姿。髪を結んで、もう仕込みの途中。

「おはよう……っていうか、今日から、よろしくお願いします」
 私はわざと改まって言った。

 秋穂が一瞬だけ固まって、すぐに目を逸らす。
「……やめて」
「なんで」
「照れる」
「秋穂が照れるの、珍しい」
「……美春が変」
 変。
 でも、その"変"が、嬉しい。

 マスターが奥から出てきて、私にエプロンを投げてよこした。
「ほらよ新人。……お。似合う似合う」
「新人って」
「新人だろ。今日から回す側の練習だ」
 マスターが笑って、レジの前を指さす。
「まず釣り銭チェック。次、予約表確認。あと、今日の焼きのラインナップ、声に出して覚えろ」
「声に出して?」
「声に出すと、頭が回る。ミスも減る」
 そう言って、マスターはコーヒー豆の瓶を整え始めた。

 私は、言われた通りに釣り銭を数えた。
 硬貨の冷たさ。
 数字が揃っていく安心感。
 こういうの、嫌いじゃない。

 予約表を見る。
 常連さんの名前が並ぶ。
 "いつもの"が続くことの重みが、紙の上にある。

 焼き菓子のラインナップを声に出す。
「フィナンシェ、マドレーヌ、スコーン、レモンのタルト……」
 口に出すと、匂いが想像できる。
 秋穂が作る味の輪郭が、頭の中に並ぶ。

 開店のベルが鳴る。
 カラン。

 最初の一時間は、平和だった。
 常連さんが来て、いつもの席に座って、いつものように笑う。
 私は注文を取って、伝票を回して、カップを運ぶ。
 秋穂は厨房で、淡々と、でも確実に手を動かしている。

 ――順調。
 そう思った瞬間に、事件は起きる。

 昼前。
 近くの中学校が春休みの補習を終えたらしく、制服の集団がどっと入ってきた。
 四人、六人、さらに増える。
 席が埋まる。
 注文が重なる。
 声が重なる。
 空気が一気に熱くなる。

「アイスココア2つ、ホットコーヒー3つ、あとケーキセット……」
 口が追いつかない。手が追いつかない。

 レジに並ぶ列。
 席で待つ列。
 厨房に溜まる伝票。
 動線が詰まる。

 私は一瞬だけ頭が白くなりかけた。
 でも、ここで止まったら、夏祭りの"詰まり"に戻る。
 私は深呼吸して、目を動かした。
 全体を見る。
 波を見る。
 "今、何が詰まっているか"を見る。

 詰まっているのは、レジ。
 レジが詰まると、注文が遅れる。
 注文が遅れると、厨房の準備がズレる。
 ズレると、提供が遅れる。
 遅れると、不満が出る。
 不満は、喫茶店の空気を壊す。

「マスター、釣り銭、千円札足りなくなります!」
 私は声を張った。
 マスターが一瞬こちらを見て、すぐに頷く。
「よし、両替。美春ちゃん、レジ一旦止めて、席案内優先!」
「はい!」

 私はレジ前の列に向かって言った。
「すみません、先に席の確保をお願いします! お席にご案内しますので、こちらへ!」

 学生たちは最初きょとんとしたけど、誰かが笑って「了解でーす」と言って動いてくれた。
 空気が少しだけ和らぐ。
 "高校生らしさ"が、場を救う。
 大人の正しさだけじゃない。
 こういう時の軽さも、武器になる。

 席案内を終えたら、今度は注文の取り方を変える。
 一組ずつじゃなく、同じ卓をまとめて取る。
 飲み物とケーキの種類を先に決めてもらって、伝票を一気に書く。
 厨房へ回す順番を整える。

 秋穂が、厨房の奥から顔を出して言った。
「美春、ケーキ、残り少ない」
 その声が、いつもより少し焦っている。

 私は即座に返した。
「分かった。ショーケースの前に"残り少"の札、出す。注文取るときも先に言う」
 言いながら、自分でも驚く。
 私は今、ちゃんと回している。

 札を出すと、客は文句じゃなく「じゃあこっちにする」と選び直してくれた。
 先に伝えるだけで、摩擦が減る。
 "回す目"って、こういうことかもしれないと思った。

 波が引く。
 少しずつ席が空く。
 伝票が薄くなる。
 レジの列が短くなる。

 一段落した瞬間、マスターがぽん、と私の肩を軽く叩いた。
「合格。今の判断、良かった」
 合格。
 その言葉が、受験の合格より小さいのに、胸に刺さった。

 秋穂が、私の方を見て、ほんの少しだけ笑う。
 "安心"の笑い。
 それだけで、私はまた頑張れる。

 閉店後、秋穂が小さく言った。
「……美春、すごかった」
 褒め言葉が下手な秋穂が、珍しく言葉を続ける。
「私、あの時、何もできなかった。美春が、全部、回してた」
 秋穂の声が、ほんの少しだけ震えている。
 
「……美春がいてくれて、よかった」
 その言葉が、マスターの「合格」より、もっと深く刺さった。

 看板を裏返して、椅子を上げて、床を掃いて、レジを締める。
 働くと、店の音が増える。
 普段は聞こえない音が、ちゃんと聞こえる。
 "店が生きてる音"。

 マスターが奥で日報を書きながら言った。
「美春ちゃん、今日の反省は?」
「……釣り銭、千円札の補充タイミングが遅かった」
「だな。じゃ次は?」
「……朝の時点で、混みそうな日を予測して、先に両替しておく」
 マスターが満足そうに頷く。
「そうそう。それが回すってことだ」

 秋穂が、洗い物を終えて、私の隣に来た。
 手が少し赤い。お湯のせいだ。

「……疲れた?」
 秋穂が聞く。
 "心配"を、短い言葉に詰めた声。

「疲れたけど……楽しかった」
 私は正直に言った。
「店って、こうやって回ってるんだって、初めて分かった」
「……分かったなら、偉い」
 秋穂が小さく言う。
 褒め言葉が下手なのに、今日はちゃんと出てくる。

 マスターが手を止めて、わざとらしく咳払いする。
「はいはい、二人とも。今日はもう終わりな。俺は帰る。戸締り頼む」
「え、マスター……」
「大人は空気読むんだよ」
 そう言って、マスターはさっさと帰っていった。

 静けさが残る。
 でも、嫌な静けさじゃない。
 今日一日働いた後の、柔らかい静けさ。

 秋穂が、エプロンを外しながら言った。
「……お菓子、続き」
「え、まだやるの」
「時間、あげるって言った」
 秋穂が淡々と言う。
 淡々としてるのに、目だけが少し楽しそうで、私は負ける。

「やる」
 私は答えた。
「今日の私は、頑張ったから、許される」

 秋穂が、ふっと笑った。
「……許す」
 その「許す」が、私の心を甘くする。

 厨房の灯りは、ホールより白い。
 作業台の上にボウルを置くと、金属が冷たく光る。
 外はもう暗い。窓の向こうに街灯の光が点る。
 でもここは、まだ昼みたいに明るい。

 秋穂は、今日作った生地の続きを、私に任せた。
 混ぜる。
 止めない。
 分離させない。
 今日の私は、手だけじゃなく、頭も動かす。

「……上手くなってる」
 秋穂がぽつりと言った。
 不意打ちみたいに。

「ほんと?」
「ほんと。さっきの混み方で、崩れなかったし」
 秋穂は、私の"仕事"を見ていた。
 私はそれが、胸の奥を熱くする。

「秋穂が、見てたから」
 私は言ってしまう。
「見られてると、頑張れる」

 秋穂が、一瞬だけ固まって、視線を逸らす。
 耳が赤い。
 それが嬉しくて、私は作業台の上の粉をわざと丁寧に払った。
 落ち着け、私。

「……美春」
 秋穂が名前を呼ぶ。
 静かに、でもはっきり。

「なに?」
「三年、最後の一年」
 秋穂の言葉が、作業台の上に落ちる。
 粉みたいに軽いのに、吸い込むと重い。

「うん」
 私は頷く。
 カレンダーの四月が頭に浮かぶ。
 クラス替え。進路。将来。
 秋穂の夢。私の役割。

 秋穂が、少しだけ視線を落とす。
「……怖い。三年生になって、卒業したら、美春がいなくなるかもって」
 珍しく、秋穂が先に弱音を吐く。

「……美春は、怖い?」
 秋穂が聞く。
 怖いと言ってしまったら、秋穂まで怖くなる気がして、私は一瞬迷う。
 でも、今日は逃げない日だ。

「怖い」
 私は素直に言った。
「でも、秋穂と一緒なら……怖いままでも進める気がする」
 言いながら、手が少し震える。
 でも止めない。
 混ぜ続ける。
 止めたら分離するから。

 秋穂が、作業台の向こうから、私の手元にそっと手を伸ばす。
 私の手首に触れて、動きを支える。
 指先の温度が、私の震えを止める。

「……進む」
 秋穂が言った。
「一緒に。……約束」
 "約束"という言葉は、秋穂の口から出ると、嘘みたいに強い。

「うん」
 私は小さく笑って、頷いた。
「春休み、バイトも、お菓子も、遊びも。全部、ちゃんとやる」
「……全部」
 秋穂が復唱して、少しだけ笑った。
「欲張り」
「欲張りでいい」
 私は言う。
「去年の私は、欲張れなかったから」

 去年の私は、誰かに合わせて、空気に合わせて、嘘に合わせて、消えていくみたいに生きていた。
 今は違う。
 欲張って、選んで、決めて、積み上げたい。

 生地が、艶を増す。
 泡立て器の音が、一定のリズムになる。
 秋穂が隣で、同じリズムで呼吸している。

 その時間が、幸福だった。
 甘いだけじゃなく、ちゃんと手触りがある幸福。

 ――この時間が、ずっと続けばいいのに。
 ふと、思ってしまう。
 でも"ずっと"なんて、今は簡単に言えない。

 三年は、きっと速い。
 受験も、卒業も、未来も。
 時間は、いつだって足りない。

 だからこそ、今日の一時間が大事だ。
 今日の一日が大事だ。
 もらった時間を、ちゃんと味わう。

 秋穂が、焼き上がりを待つ間に言った。
「……次は、もっと難しいの教える」
「え、なに」
「……生チョコ」
 その単語に、私は思わず笑ってしまう。
「バレンタインは終わったよ」
「終わったけど。……次のため」
 秋穂の目が、少しだけ遠くを見る。

 次。
 来年。
 再来年。
 その先。

 私は胸がいっぱいになって、言葉が詰まりそうになった。
 詰まりそうになったけど、詰まらせない。

「うん。次のために、頑張る」
 私は言った。
「秋穂の店のために。……私が隣にいる未来のために」
 言い切った瞬間、秋穂の指が、私の手首を少しだけ強く握った。
 痛くない程度。
 逃がさない程度。

「……うん」
 秋穂が小さく答える。
 その一音が、春の始まりみたいに柔らかい。

 オーブンのタイマーが鳴った。
 ピピピ。

 秋穂が扉を開ける。
 熱気が広がり、甘い匂いが店に満ちる。
 私はその匂いの中で思った。

 三年は、きっと忙しい。
 不安も、嫉妬も、また来るかもしれない。
 でも、こうして並んで、同じ作業台に向かって、同じ匂いを吸っていられるなら。

 ――それだけで、私は走れる。

 ベルは鳴らない。
 もう閉店しているから。
 でも、私の中では小さな音が鳴っていた。

 カラン。

 "春休みが始まった音"。
 "最後の一年へ向かう音"。
 そして――"二人で約束を積む音"。

 焼き上がった生地を、秋穂が丁寧にオーブンから取り出す。
 まだ熱い。湯気が立つ。
 その湯気の向こうで、秋穂が私を見た。

「……来年も、こうしてる?」
 秋穂が聞く。
 不安じゃない。確認。

「してる」
 私は即答した。
「来年も、再来年も。秋穂の店が開くまで。……開いてからも」

 秋穂が、生地を持つ手を少しだけ震わせた。
 震えているのに、落とさない。
 その手の強さが、私の決意を支えてくれる。

「……約束」
 秋穂が言った。
 私は頷いて、窓の外を見た。

 春の夜。
 桜はまだ眠っている。
 でも、蕾が膨らむ前の空気は、もう甘い。

 私たちも同じだ。
 まだ咲いていない。
 でも、咲く準備はもう始まっている。

 ――春休みの約束は、ここから始まる。