最初の味見は、いつも君に

【美春】

 駅前の掲示板に貼られたイルミネーション点灯のポスターが、やけに眩しく見えるのは、空気が澄んでいるせいだけじゃない気がした。

 十二月に入ったばかりのある放課後、教室の窓際で、秋穂が小さく私を呼んだ。

「美春」

 名前。たった二文字なのに、呼ばれるたび胸の奥がほどける。六月の梅雨に相合い傘をして以来、秋穂は少しずつ、私を"言葉で掴む"のが上手くなっている気がする。

 秋穂は教科書を閉じると、いつもよりゆっくり息を吐いた。迷う前の仕草だ。

「……クリスマス、どうする?」

「どうするって……」

 言いかけたところで、秋穂が眉を寄せた。いつもみたいに論理の線を引きたいのに、線が揺れてしまう顔。

「恋人、なのに」
「ちゃんとしたこと……してない」
「デート、とか」

 その"とか"が、可愛いと思った。言い切れないところまで含めて。

 私は笑いそうになって、慌てて口元を押さえる。笑ったらからかっているみたいになる。秋穂はそういうのに弱い。

「デート……いいね」
「どこ行く?」
「……美春が、決めて」

 その言葉が落ちる音を、私はちゃんと拾った。

 秋穂は、いつも私に"決めさせて"くれる。委ねるんじゃなくて、促してくれる。私が逃げないように、逃げ道だけ残さないように。

 ――私が決める。

 クリスマスイブ。二人だけの、特別な日。
 教室の中では"友達"のふりをするのに、教室の外でだけ世界が急に色づく。

「じゃあ、駅前で待ち合わせして……イルミネーション、見よ」
「……混んでない?」
「混んでると思う」
「……怖い」
「じゃあ、混んでても大丈夫な場所、ちゃんと選ぶ」

 私は言って、自分の声が少しだけ強いことに気づく。
「秋穂が息できる場所」

 秋穂は目を瞬いて、ほんの少しだけ口角を上げた。

「……うん」

 その"うん"が、私の中のスイッチを押した。

「ねえ、あとさ」
「なに」
「プレゼント交換しない?」
「……プレゼント?」
「うん。お互いに、相手が喜びそうなものを考える」
「難しい……」
「だからいいんだよ。考えた分だけ、気持ちが入るから」

 秋穂は困ったように眉を寄せたあと、小さく頷いた。
 頷き方まで、今の秋穂は少し柔らかい。

「……やる」

 言い切るようになった。
 それを、私は嬉しいと思った。

     ◇

【秋穂】

 それから、私は街の雑貨屋をいくつも回った。

 最初の店は、駅前のセレクトショップ。
 ガラスのドアを開けた瞬間、暖房の熱と甘い香水の匂いが顔にぶつかる。店内にはクリスマスソングが流れていて、包装紙を畳む音が時々混ざる。
 棚には、色とりどりのマフラーが並んでいた。

 手に取る。
 柔らかい。触り心地がいい。
 色は……グレー? ベージュ?
 美春は、何色が好きだっけ。

 ――分からない。

 知らない、ということが、寒い。
 マフラーを棚に戻した。

 次の棚へ。
 アクセサリーが、小さなガラスケースに並んでいる。
 ネックレス。ピアス。リング。ブレスレット。
 キラキラしている。綺麗だと思う。
 でも――美春は、こういうの着けるだろうか。

 美春の耳を思い出そうとする。
 ピアスの穴、あっただろうか。
 ネックレス、してただろうか。

 ――思い出せない。

 私は、美春のことを見ているつもりだった。
 笑い方。仕草。声のトーン。
 でも、細部は?
 好きな色。好きな形。好きな質感。

 胸の奥が冷える。
 寒いからじゃない。
 足元がぐらつく感じ。

 店員さんがこちらを見た気がして、私は慌てて店を出た。

     ◇

 二軒目は、雑貨とステーショナリーの店。
 入口の飾りつけが派手で、まばゆい。
 中に入ると、さっきよりもっと人が多い。カップルが笑いながら商品を見ている。母親と娘が、包装紙の柄を選んでいる。

 私はその人混みをすり抜けて、奥の棚に向かった。

 手帳。ノート。ペンケース。
 美春は文房具が好き、だったっけ。
 いや、それは私の思い込みかもしれない。
 ノートに何か書いているのは見たことがある。
 でも、それが好きだからなのか、必要だからなのか――。

 手に取ったペンケースを、また棚に戻す。
 隣の棚へ移動する。

 キャンドル。アロマディフューザー。ルームフレグランス。
 いい匂いがする。
 でも、美春の部屋の匂い、私は知らない。
 美春が好きな香りも、知らない。

 柑橘系? フローラル?
 それとも、甘い香り?

 ――輪郭が掴めない。

 知らないことばかり。
 私は美春の隣にいるのに、美春の"好き"を知らない。

 レジの音が響く。
 笑い声が通り過ぎる。
 包装紙がカサカサ鳴る。

 その全部が、私を責めている気がした。

 店を出た。
 冷たい風が頬を撫でる。
 息が白い。

     ◇

 三軒目。
 本屋の一角にある、ギフトコーナー。

 私は本棚の前に立った。
 美春は、本を読む。
 教室で、昼休みに、ページをめくっているのを見たことがある。

 でも――何を読んでいたか。
 タイトルは? ジャンルは?

 棚を見渡す。
 小説。エッセイ。詩集。
 どれも綺麗な装丁。
 どれも、美春が喜びそうな気がする。
 どれも、美春が喜ばない気もする。

 一冊手に取る。
 表紙が柔らかい。
 ページをめくってみる。
 活字が並んでいる。
 意味が入ってこない。

 私の手が震えている。

 ――これじゃない。

 本当は、知りたい。
 美春が好きな色。好きな匂い。好きな音楽。
 朝、何時に起きるのか。
 寝る前、何を考えているのか。
 私がいないとき、誰と笑っているのか。

 ――全部、知りたい。

 でも、聞けない。
 聞いたら、重いって思われるかもしれない。
 美春を縛ってしまうかもしれない。

 だから、プレゼントで伝えたかった。
 "もっと知りたい"を、形にしたかった。

 棚に戻す。
 もう一冊、手に取る。
 これも違う気がする。
 戻す。

 また一冊。
 違う。
 また一冊。
 違う。

 私は本棚の前で、立ち尽くした。

 周りを見渡す。
 他の人たちは、迷わず商品を手に取って、レジに向かっている。
 なんでそんなに簡単に決められるんだろう。
 なんで私には、できないんだろう。

 胸が苦しい。
 息が浅くなる。

 美春へのプレゼント。
 美春が喜ぶもの。
 美春が、私からもらって嬉しいと思ってくれるもの。

 ――決め手が立たない。

 分からない、が、怖い。
 間違えたら、どうしよう。
 美春が、がっかりしたら。
 「こんなの欲しくなかった」って思われたら。
 私のこと、嫌いになったら――。

 喉の奥が熱くなる。
 目の奥も熱い。

 ダメだ。
 ここにいたら、泣いてしまう。

 私は本屋を飛び出した。

     ◇

 気づいたら、喫茶店の前にいた。

 逃げた、と思う。
 逃げてもいい、とも思う。

 ここなら――。
 ここなら、逃げ方も許してくれる。

 カラン。

 ベルが鳴って、木の匂いとコーヒーの香りが、私の肩の力を少しだけ抜いた。

「いらっしゃ……お、秋穂ちゃん」
 マスターはカウンターから顔を出して、私の顔を見てすぐに言った。
「難しい顔」

 私は鞄の持ち手を握り直した。

「……プレゼント」
「ん?」
「何がいいか、分からなくて」
「美春ちゃんへの?」
「……はい」

 言った瞬間、顔が熱くなる。
 マスターはニヤニヤしない。からかわない。ただ、知っている目でこちらを見る。

「美春ちゃんが一番喜ぶもの、知ってるだろ?」

 私は首を傾げた。
 分からないから困っているのに。

 マスターは、短く言った。

「君が作ったものだ」

 ……あ。

 その言葉が、頭の中で鳴った。
 スプーンがカップに触れて、ちん、と澄んだ音がするみたいに。

 美春は、私のお菓子を食べるとき、目が少しだけ丸くなる。
 それから、口元がほどける。
 その瞬間が、私は好きだ。

 だったら――。

 私は、作る。
 美春のためだけの、特別なお菓子。

 家に帰って、レシピノートを開いた。
 白い紙に、いつもの自分の字。端に付箋がいくつも貼ってある。甘さの比率、焼き時間、温度。美春が「大人っぽい味」と言った柑橘の苦みのメモ。紅茶の種類の違い。香りが強すぎないように。

 美春は紅茶が好きだ。
 喫茶店で、ミルクを入れないで飲むことが多い。
 だから、香りが立つのに、主張しすぎない味。

「……紅茶のクッキー」

 口に出すと、少しだけ安心した。
 それでも、作り始めると不安は消えない。

 バターを練る音。砂糖が溶けるざらり。
 茶葉を砕くと、ふわっと立つ香り。指先にほんの少し残る。
 オーブンの予熱が終わって、庫内が熱を抱える匂い。
 天板に並べた生地は、同じ形のはずなのに少しずつ違う。私の手の癖が出る。

 焼き上がり。
 ぱち、ぱち、と小さく鳴る。熱が抜けていく音。

 私は一枚だけ割って、味を確認した。
 甘さ。香り。後味。
 足りない。
 もう一回。

 試作を重ねた。指先が粉で白くなる。エプロンの胸元にも小麦粉がつく。気づかないふりをして、もう一回。

 ようやく納得できたとき、私は箱を出した。
 小さな紙箱にクッキーを詰めて、間に薄い紙を挟む。
 リボンを結ぶ。結び目が不格好で、やり直す。
 結び直すたび、心臓が少し落ち着いた。

 これが、私から美春へ。

 言葉じゃない。
 形で示す、私の気持ち。

 美春、喜んでくれるかな。

 その問いは、怖いのに、前へ進ませる。

     ◇

【美春】

 十二月二十四日。

 駅前は、光で溢れていた。
 イルミネーションが木に巻きついて、呼吸するみたいに点滅している。人の話し声が重なって、足音が冬の地面を叩く。甘い匂い――屋台の焼き菓子。ホットワインのスパイス。ココアの湯気。

 その中に、秋穂がいた。

 いつもと違う服。
 コートにマフラー。髪を下ろしている。
 制服じゃないだけで、"教室"の秋穂じゃなくなる。
 胸がきゅっとなる。

 私が見とれているのに気づいて、秋穂が少しだけ目を逸らした。耳が赤い。寒さのせいにしたい赤さ。

「……遅れた?」
「ううん。私も今来たところ」
 嘘じゃない。早めに来て、駅前をぐるぐるしていただけ。

 ――秋穂へのプレゼント。
 私は昨日まで悩んでいた。

 秋穂は、お菓子を作る。
 だから道具――と一瞬思ったけれど、喫茶店の厨房を見れば分かる。秋穂は必要なものを少しずつ揃えている。無駄を嫌うくせに、必要なものには迷わない。

 じゃあ、何を?

 マスターに聞いたら、「道具は足りてる」と即答したあと、「でも、着るものは買い替え時かもな」と言った。

 秋穂のエプロン。
 いつも同じ。少し色褪せて、ポケットの端がほつれている。
 それでも丁寧に洗っているから、清潔で、秋穂の匂いがする。香水じゃない。焼き菓子と石鹸の匂い。そこが好きだ。

 新しいエプロン。
 専門学校でも使える、シンプルで丈夫なもの。
 派手じゃなくて、でも大事にしたくなる質感。

 私はそれを選びながら、胸の中で小さく呟いた。

 これを着て、秋穂が夢に向かう。
 それを私は――見ていたい。
 隣で、同じ季節を。

 そう思って選んだプレゼントが、今、私の鞄の中にある。

 歩き出すと、私の肩が誰かにぶつかりそうになる。
 人の流れが多い。
 秋穂が少しだけ身をすくめた。

 私は自然に、秋穂の歩幅に合わせる。
 そして、少しだけ距離を詰めた。
 肩が触れそうな、触れない距離。

「……美春」
「なに?」
「手」
「え?」
「……繋いで、いい?」

 秋穂が先に言うのは、珍しい。
 珍しいから、胸が跳ねる。

 私は頷いて、手袋越しに秋穂の手を探した。
 指先が触れた瞬間、秋穂が微かに息を呑む音がした。
 その音だけで、私は温かくなる。

 人目がある。
 でも今日だけは、いい。
 "友達"のふりをするのは、明日からでいい。

 私たちはイルミネーションの道を抜けて、少し静かな通りのカフェに入った。喫茶店とは違う、白い光と軽い音楽の店。
 窓際の席は、人の流れから少し外れている。

 テーブルの上に、小さな包みが二つ並んだ。
 包み紙の音が、妙に大きく聞こえる。
 心臓の音に似ているからだ。

「……先に、いい?」
 秋穂が言って、私の方に小さな箱を差し出した。
 箱の角が少しだけ潰れている。ぎゅっと握ったのが分かる。

「開けていい?」
「……うん」

 蓋を開けた瞬間、紅茶の香りがふわっと広がった。
 温かいのに、すっとする香り。
 クッキーが丁寧に並んでいる。
 一枚一枚、形が少しずつ違う。手の温もりが、そこにある。

「秋穂……これ」
「私が、作った」
「美春のために」

 胸がいっぱいになって、言葉が詰まった。
 嬉しいのに、泣きたくなる。
 泣いたら、クッキーが湿っちゃう――そんな変な心配までしてしまう。

「……ありがとう」
 私はやっと言って、クッキーを一枚摘んだ。
 口に入れる。
 サクッ、と小さく鳴って、紅茶の香りが喉の奥まで広がる。甘さは控えめで、後からほんの少しだけ苦みが追いかけてくる。

「……おいしい。秋穂の味」
「……それ、褒めてる?」
「褒めてる。最高に」
 私は笑って、秋穂の指先をそっと握った。
「私だけの、って感じがする」

 秋穂が目を伏せた。
 その仕草が、照れだと分かるようになった自分が嬉しい。

「……次、私?」
 私は包みを差し出した。

 秋穂が慎重に包み紙を剥がす。紙が擦れる音。
 箱を開けて、中身を見た瞬間、秋穂のまつげが震えた。

「……エプロン」
「うん」
「秋穂が、これから夢に向かうから」
「新しいの、使ってほしくて。専門学校でも……」

 秋穂はエプロンの布を指で撫でた。
 触り方が、いつも生地を確かめるときのそれと同じ。
 大事なものに触れる手。

「……ありがとう、美春」
 秋穂が言う。声が少しだけ震えている。
「大事に、使う」
 一拍置いて、小さく付け足した。
「ずっと」

 その「ずっと」という言葉が、胸に染みる。
 秋穂は、私の夢見た未来を、一緒に見てくれている。

 私は笑った。
 以前より、自分で決めた笑い。

 秋穂の表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。
 その変化を、私は見逃さない。
 この人は、私の隣で変わっている。
 私だけが変わっているんじゃない。
 私たちは、互いに温度を渡し合っている。

 カフェを出ると、夜が深くなっていた。
 街の光はまだ眩しいけれど、空気は冷たい。息が白くなる。

 私たちは公園のベンチに向かった。遠くのイルミネーションが、木々の隙間から見える。風が葉のない枝を揺らして、かさ、かさ、と乾いた音がした。

     ◇

【秋穂】

 公園のベンチに座ると、美春が少し身を乗り出して聞いた。

「秋穂は、これからどうしたい?」
「……菓子職人になって」
「それから?」

 美春の声が、少しだけ震えている。
 この先を聞くのは、怖いのかもしれない。
 でも、聞いてくれる。

 私は空を見上げた。
 イルミネーションじゃない、暗い空。
 でも、その暗さの中で言う声は、揺れない。

「……いつか、自分の店を持ちたい」
「小さくていい」
「マスターの店みたいに、落ち着ける場所」
「そこで、お菓子を作る」

 美春が息を呑む音がした。
 そして、言った。

「そこに、私はいる?」

 ……え?

 私は驚いて、美春を見る。
 まるで、答えは最初から分かっているのに、問いの形が新しいみたいに。

「いて、ほしい」
 美春が続ける。目が熱そうだ。

「私も、秋穂の未来に……居たい」
 美春が、泣きそうな顔で笑っている。

 "いてほしい"
 その言葉が、胸に刺さる。

 いてほしい、って。
 私の未来に、いてほしい、って。

 当たり前だ。
 美春がいない未来なんて、考えられない。

 私は息を吸って、ちゃんと言った。

「いる」
「美春は、絶対にいる」
「私の隣に、ずっと」

 言った瞬間、肩の力が抜けた。
 怖さが消えるわけじゃない。
 でも、怖さの横に、確かな温度が座る。

 私は少しだけ身を乗り出して、美春の頬にキスをした。
 触れるだけの、軽いキス。
 それでも、胸の奥まで温かい。

「メリークリスマス、美春」
「メリークリスマス、秋穂」

 美春が笑う。
 その笑い方が、私の中の何かを溶かす。

     ◇

【美春】

 帰り道、私たちは手を繋いだまま歩いた。
 今日だけは、堂々とじゃないけど、少しだけ胸を張って。

 秋穂の店。
 そこに私がいる未来。

 ――叶えたい。

 秋穂の夢を、一緒に作りたい。
 だったら私は、何をすればいい?

 答えはまだ見つからない。
 でも、探したいと思える。

 手袋越しでも分かる秋穂の体温が、私の背中を押す。
 冷たい夜に、温かい約束がひとつ増えた。

 この冬の始まりを、私は忘れない。

     ◇

【秋穂】

 駅までの道は、さっきまでのベンチより明るいのに、どこか薄い。街灯の白さが、雪じゃないものまで白く見せる。
 人の笑い声や、紙袋の擦れる音が、音楽みたいに遠い。

 私は歩幅を合わせようとして、合わせすぎて、逆に遅れる。
 美春の歩き方は、焦っていない。肩の力が抜けている。

 それが嬉しいのに、私は嬉しさを扱うのが下手で、つい黙る。

 改札の前で、美春が指先を止めた。
 ICカードをかざす手が、ほんの一瞬だけ迷ったみたいに見えた。

 「……混んでるね」
 美春が言う。

 「うん」
 私は短く返す。短すぎて、声が冷たく聞こえないか心配になる。
 でも美春は、笑っていた。

 改札を通ると、ホームの空気がひんやりしていた。
 吐いた息が白くなる。白さが、さっきの言葉の続きを隠すみたいで、私は少しだけ安心する。

 電車が来る音がする。
 遠くから鉄の音が近づいてきて、風が巻き起こる。

 周りには、たくさんのカップルがいる。
 笑い声。肩を寄せ合う影。
 でも、私には美春しか見えない。

 美春の横顔。髪の揺れ。息の白さ。
 全部が、世界で一番大事なものに見える。

 扉が開いた瞬間、あたたかい空気が漏れた。
 暖房の匂いと、人のコートの匂いが混ざる。甘い匂いはしない。――なのに、胸の奥が甘い。

 車内は思ったより混んでいて、座れなかった。
 私たちは吊革の下に並ぶ。肩が近い。近いのに、触れていない。
 触れていないことが、逆に意識を増やす。

 美春がつり革を握る。
 その指先が、さっき私の頬を掠めた指先と同じだと思うだけで、息が少し浅くなる。

 窓の外は暗い。
 暗さの中に、点々とした街の灯り。
 その灯りが流れていくのを見ていると、自分がどこへ運ばれているのか分からなくなる。分からなくなるのに、怖くない。

 ――さっき、「いる」って言った。
 言えた。言い切った。
 なのに私は、まだ、その言葉の後ろに隠しているものがある。

 好き。
 それは多分、言える。言おうと思えば。
 けれど言った瞬間、何かが変わってしまう気がする。
 変わるのが怖いんじゃない。変わったあと、守れるかが怖い。

 電車が揺れる。
 小さくガタン、と足元が沈む。
 その瞬間、私の体がほんの少しだけ傾いて、美春の肩に触れそうになる。

 触れそうになって、私は反射で体を戻した。
 逃げるみたいな動き。
 自分で自分が恥ずかしくなる。

 でも、すぐ隣で、別の男の人が美春の方に揺れた。
 ぶつかりそうになる。

 私の手が、反射で美春の袖を掴んでいた。
 引き寄せるみたいに。

 男の人は謝って、体勢を立て直す。
 何でもなかった。
 でも、私の心臓は跳ねたままだ。

 美春が、小さく笑う。
「……守られちゃった」

 私は慌てて袖を離した。
 顔が熱い。
「……ごめん」
「ううん。嬉しい」

 美春の声が、小さくて、温かい。
 私は、また袖を掴みたくなる。
 でも、掴めない。
 掴んだら、離せなくなる気がした。

 美春が、こちらを見ないまま言った。

「寒い?」
 声が小さい。周りに溶ける声。

「……寒くない」
 私は言う。
 嘘じゃない。本当に寒くない。
 寒いのは、外じゃなくて、私の中の"言えない"だ。

「そっか」
 美春が少しだけ笑う。
 その笑い方が、あの喫茶店の電球みたいに柔らかくて、私は目を逸らしたくなる。

 すると、美春が今度は少しだけ体を寄せた。
 寄せた、というほど大きくない。
 ただ、肩の距離が、逃げ道を一つだけ塞ぐ程度。

 私の袖と、美春の袖が触れた。
 布が擦れる音はしないのに、触れたことだけがはっきり分かる。

「……」
 私は何も言えない。

 美春が、つり革を握ったまま、ぽつりと続けた。

「秋穂、さっきさ」
「……うん」
「"いる"って言ったの、嬉しかった」

 胸の奥が、きゅっと縮む。
 嬉しい、と言われると、私は"ちゃんとしなきゃ"が出てしまう。
 でも今は、ちゃんとするより先に、こぼれそうなものを掬わないといけない気がした。

「……私も、嬉しかった」
 自分の声が、思ったよりかすれている。
 暖房で乾いたのか、緊張で乾いたのか、分からない。

 美春が、少しだけこちらを見る。
 その視線が、問いじゃなくて、確認だった。
 ――大丈夫? っていう、優しい確認。

 私はそれに、頷く代わりに、少しだけ指先を動かした。
 つり革を握っていない方の手。
 コートのポケットの中で、指を開く。

 美春の手はポケットの外に出ている。
 スマホを握っていて、画面は暗い。
 なのに、その手だけが、妙に明るく見える。

 私は一歩、ほんの少しだけ近づく。
 肩じゃなく、肘でもなく、手でもなく、――"気配"を近づける。

 美春が、気配に気づいて、スマホを持つ指を少し緩めた。
 緩めて、手が自由になる。

 ポケットの中の私の指が、もう一度開く。
 開いたまま、閉じられない。

 美春が、こちらの手元を見ないまま、同じように指を開いた。
 それだけで、私の胸がほどける。
 誰にも見えない場所で、二人だけが合図を交換しているみたいだ。

 電車の揺れに合わせて、指先がほんの少しだけ触れた。
 触れて、離れて、また触れる。
 握らない。握れない。
 でも、触れている。

 それは、キスより静かで、キスより現実だった。

 次の駅のアナウンスが流れる。
 機械の声が、やけに正確で、やけに冷たい。

 降りる準備で、人が動く。
 隣の人の荷物が私たちの間に割り込んでくる。

 その瞬間、触れていた指先が離れた。
 離れたのに、熱は残っている。
 皮膚じゃなくて、もっと内側に。

 美春が、ほんの少しだけ息を吐いて言った。

「……ねえ」
「うん」
「来年の今頃も、こうやって帰りたい」

 来年。
 その言葉が、冬の窓みたいに透き通っていて、私は少しだけ怖くなる。
 でも、怖いのに、目を逸らしたくない。

「……帰る場所、同じがいい」
 私は言った。
 言ってしまってから、心臓が早くなる。
 自分で言ったのに、自分で受け止めきれない。

 美春が小さく笑った。

「同じって、喫茶店?」
「……喫茶店も」
 私は答えて、続ける。
 続けないと、逃げになる。
「……それだけじゃない」

 美春の頬が、ほんの少し赤くなる。
 暖房のせいかもしれない。
 でも私は、そういう"逃げ道"を今は使いたくなかった。

「そっか」
 美春が言う。
 その一言が、肯定みたいで、私は息ができる。

 電車が停まり、扉が開いた。
 外の冷気が入り込んで、頬がきゅっとなる。

 人波に押されて降りる。
 降りた瞬間、寒さが体に貼りつく。
 でも、さっきまでの暖房の匂いが、コートの中に残っている。

 改札へ向かう途中、美春が少しだけこちらを見て言った。

「秋穂、手」
「……え」
「今なら、誰も見てない」

 私は一瞬迷って、それでも、迷いを置いていくみたいに指を差し出した。
 美春がそれを取る。
 指が絡む。握られる。

「……離したくない」
 美春が、ぽつりと言う。
 声が震えている。

 私は胸がきゅっとなる。
「私も」

 美春が少しだけ笑う。
 泣きそうな笑い方。

 "触れてるだけ"じゃなく、"握る"。
 さっきより確かな形。

 握られた瞬間、私は思う。
 ――守りたい。
 この子の未来も、この手の温度も、喫茶店の灯りも。

 言葉にしなくても、誓いみたいに胸の奥で固まる。

「……美春」
「ん?」
「メリークリスマス、もう一回言って」
「なんで」
「……さっき、ちゃんと聞けてなかった」

 美春が笑った。
 それから、私の耳元に少しだけ顔を寄せて、囁く。

「メリークリスマス」

 その二語が、外の冷気を一瞬だけ溶かした。
 私は握っている手に、ほんの少し力を入れる。

 帰り道は、まだ続く。
 でも、続くことが、もう怖くなかった。

     ◇

【秋穂】

 改札の前は、人が増える。
 さっきまでの「誰も見てない」が、急に嘘みたいに薄くなる場所だ。

 駅の天井は高くて、蛍光灯がまっすぐ白い。
 白さが、私たちの影を薄くする。隠してくれるのか、さらしてしまうのか、分からない。

 私の手の中にはまだ、美春の熱がある。
 握っているのに、もう"離す段取り"が始まってしまうのが分かる。
 別れ際はいつも、先に心だけが降りていく。

 改札の手前で、美春が足を止めた。
 止め方が、ためらいじゃない。きちんと立ち止まる止め方だ。

「ここで、いい?」
 美春が言う。

「……うん」
 よくない。
 でも、ここでごねるのは違う。帰ることも、選んだことの一部だ。

 人が横を通っていく。
 制服の子、家族連れ、手をつないだ恋人。
 それぞれの"当たり前"が、流れていく。

 美春が私の手を見た。
 見てから、私の顔を見ないまま、小さく言う。

「……離す?」

 その言い方が、優しすぎて、胸がきゅっとなる。
 離すかどうかを、私に選ばせてくれる。
 選べる、ということが、こんなに苦しいとは思わなかった。

 私は喉の奥で息をひとつ転がして、答える。

「……一回、ぎゅってしてから」

 言ってしまって、顔が熱い。
 子どもみたいなお願い。
 でも、美春は笑わなかった。

「うん」
 美春は短く言って、指を絡めたまま、少しだけ強く握った。

 ぎゅっ。
 それだけで、私は泣きそうになる。
 泣きたくない。今日は、泣く日じゃない。
 けれど、胸の奥の柔らかいところが、溶けてしまいそうだ。

「……秋穂」
 美春が言う。

「なに」
 私は、なるべく普通に返したつもりだった。
 でも、声が少しだけ揺れた。

 美春が少しだけ言い淀む。
 淀み方が、受験の前みたいじゃない。
 もっと、個人的で、触れたら壊れそうな淀み。

「今日さ」
「うん」
「楽しかった」

 "楽しかった"。
 その言葉が、簡単すぎるのに、救いみたいに重い。
 私は頷いて、同じ言葉を返す。

「……楽しかった」
 それから、嘘をつけなくて付け足す。
「……もっと、一緒にいたかった」

 美春が、やっと私を見る。
 目が合って、視線が絡む。
 その絡み方が、指より強い。

「私も」
 美春が言った。
「でも、帰るのも……ちゃんとしたい」

 ちゃんとしたい。
 その言葉は、美春がこの一年で覚えた"強さ"だ。
 私はその強さを、邪魔したくない。
 なのに、寂しさは勝手に増える。

 美春が、改札の向こうをちらりと見た。
 人が多い。
 その確認が、私の中の何かを引き締める。

 私は、美春の手を握ったまま、少しだけ顔を近づける。
 キスはできない。
 できないけど、言葉で触れたい。

 美春が、少し困ったみたいに笑った。

 人波が、また横を通る。
 ぶつからないように、私たちは半歩だけずれる。

 その半歩が、距離の始まりに見える。

 美春が、名残惜しそうに息を吐いて言う。

「……じゃあ」

 私は、うなずく。
 でも、うなずくだけじゃ足りなくて、言った。

「……また、すぐ」

 "すぐ"の根拠はない。
 でも、私たちは喫茶店という場所を持っている。
 あの灯りが、次の"すぐ"を保証してくれる。

 美春が小さく笑う。

「うん、すぐ」
「……連絡する」
「私も」

 その後で、美春が、ほんの少しだけ前に出た。
 改札に向かうための一歩。
 その一歩の前に、彼女は手にもう一度力を入れる。

 ぎゅっ。
 さっきより短い。
 でも、決定的。

 そして、ゆっくり指がほどける。

 指が離れる瞬間、空気が冷たい。
 手のひらに、形だけが残る。
 握られていた場所が、薄く空洞になる。

 美春が、改札の向こうへ行く前に、振り返った。
 人混みの中で、ちゃんと私を見つける目。

「秋穂」
 呼ばれて、私は胸が跳ねる。

「なに」
「……好き」

 声は小さい。
 周りには聞こえないくらい。
 でも、私にはちゃんと聞こえる。

 私は息を止める。
 止めた息が、次の瞬間、熱い吐息になって漏れた。

「……私も」
 言うだけで、精一杯だった。
 "もっと"を言ったら、追いかけてしまいそうだった。

 美春が少しだけ笑って、改札を通る。
 ピッ、という音が、妙に軽い。
 その軽さが、胸に痛い。

 改札の向こうで、美春が手を振った。
 私は振り返す。
 振り返しながら、思う。

 ――離れた。
 でも、終わってない。
 むしろ、ここからだ。

 人の流れに美春の姿が溶けていく。
 見えなくなる直前まで、私は目を逸らさなかった。

 見えなくなったあと、手のひらを見た。
 何もないのに、まだ温かい。

 私はその手を、胸の前で軽く握りしめる。
 逃げない。
 次に会うまで、温度を持って帰る。

 スマホが震えた。
 美春からのメッセージ。

『秋穂、初詣、一緒に行きたい』
『また、二人で』

 画面を見て、私は息を吐いた。
 息が白くなる。

 返信する。

『行く』
『……行きたい』

 送信ボタンを押した瞬間、胸の奥が温かくなる。
 クリスマスが終わった。
 でも、終わりじゃない。
 次の約束が、もうそこにある。

 冬の空気が冷たいのに、私の頬は熱かった。