最初の味見は、いつも君に

【美春】

 あの夜から、一日。
 私はまだ、秋穂の顔をまともに見られなかった。

 教室の朝のざわめきの中、私は自分の席に座って、ノートを開いていた。開いているだけ。文字は一文字も入ってこない。
 秋穂の席は、斜め前。ちらり、と視界の端に映る制服の白いブラウス。それだけで、胸の奥が甘く痛む。

 ――昨日、屋上で。手を繋いで。キスをして。

 思い出した瞬間、頬が熱くなる。
 私は無意識に、唇に指先を当てた。

 柔らかくて、温かくて。驚くほど静かで、だからこそ怖いくらい確かだった。
 
 秋穂の味。
 甘いというより――温かい。
 温かいというより――やさしい。

 指先が唇をなぞる。
 そこに、まだ秋穂の温度が残っている気がした。

「美春?」

 れいなの声で、我に返る。
 顔を上げると、れいながニヤニヤしながら私を見ていた。

「なに、その顔」
「え……」
「めっちゃにやけてる」

 私は慌てて唇から手を離した。
 顔が燃えそうに熱い。

「にやけてない!」
「嘘だね。絶対何かあった」
 れいなが囁くように言う。
「周防さんと、何かあったでしょ」

 私は視線を逸らした。
 逸らして、でも秋穂の方を見てしまう。

 秋穂は――窓際の席で、教科書を開いていた。開いているだけ。ページをめくる気配がない。肩のラインが、いつもより硬く見える。

 秋穂も、私を意識している。
 意識しているのに、目を合わせない。
 合わせたら、きっと何か崩れてしまう気がする。

 チャイムが鳴った。
 私はほっとしたような、残念なような、複雑な気持ちでノートを閉じた。

     ◇

【美春】

 昼休み。
 私は秋穂と、いつもの階段の踊り場で会った。

 誰もいない階段。
 冷たいコンクリートの壁と、窓から射し込む冬の光だけ。
 ここなら、二人だけでいられる。

「……美春」
 秋穂が、小さく呼ぶ。

「うん」
 私は返事をして、それからまた黙った。

 何を話せばいいのか分からない。
 いつもなら、秋穂の作ったお菓子の話とか、喫茶店のこととか、自然に言葉が出てくるのに。今日は、その"自然"が壊れている。

 秋穂も黙っている。
 ただ、手すりを握って、下を見ている。髪が顔にかかって、表情が見えない。

 沈黙が、やけに長い。

 ――でも、嫌じゃない。
 気まずいのに、嫌じゃない。
 むしろ、この気まずさが、昨日の"本当"を証明している気がした。

「……ねえ」
 秋穂が、やっと言った。
「今日、喫茶店……来る?」

 私は頷いた。
「行く」

「……よかった」
 秋穂が、ほんの少しだけ肩の力を抜いた。

 私は秋穂の横顔を見た。
 頬が、少しだけ赤い。
 寒さのせいじゃない。中身のせい。

 私も、きっと同じ顔をしている。

 秋穂が、ふっと笑った。
 自分でも可笑しくなったみたいに。

「……変だね」
「何が?」
「キスしたら、普通になれると思ってた」
 秋穂が小さく言う。
「でも、もっと変になった」

 私は、思わず笑ってしまった。
「私も」
「美春も?」
「うん。今日、秋穂の顔、まともに見られない」

 秋穂が、目を瞬いた。
 それから、少しだけ笑った。困ったみたいに、でも嬉しそうに。

「……同じだ」

 その一言で、胸の奥が温かくなった。
 気まずいのは、私だけじゃない。秋穂も、同じように戸惑っている。

 だったら、大丈夫。この気まずさは、きっと時間が溶かしてくれる。

「じゃあ、今日の放課後」
 私は言った。
「喫茶店で、また練習しよう」
「練習?」
「普通に話す練習」

 秋穂が、くすっと笑った。
 その笑いが、いつもの秋穂に少し戻った気がして、私はほっとした。

「……うん」
 秋穂が頷く。
「練習する」

 チャイムが鳴る。
 私たちは顔を見合わせて、それからまた笑った。

 階段を降りながら、私は思った。
 恋人になるって、こういうことなんだ。
 気まずくて、恥ずかしくて、でも嬉しい。
 全部が混ざって、胸がいっぱいになる。

 その"いっぱい"を、私はまだ言葉にできない。
 でも、秋穂と一緒なら、きっといつか言葉にできる日が来る。

     ◇

【美春】

 放課後。
 喫茶店の扉を開けると、いつものコーヒーの香りと、紅茶の湯気が迎えてくれた。

 十一月の店内は、暖かい空気に包まれている。
 暖房の乾いた熱じゃなくて、焼き菓子の甘い匂いと、木の床に染みこんだコーヒーの香りが混ざった"体温"みたいな温度。
 窓の外では、枯葉が一枚、風にさらわれて、くるりと回って落ちた。

 私はその体温の中で、秋穂と向かい合って座った。

 恋人になってから、一日。
 その言い方を、私はまだ心の中でしかできない。
 教室では、相変わらず「仲がいい友達」の顔をしている。

 距離は近いのに、触れない距離。
 でもこの店では、指先が偶然に触れても、わざとじゃないふりをしなくていい。

 秋穂が新しいマフィンを皿にのせて、私の前に差し出した。
 焼き色のついた表面に、粉砂糖が薄く降っている。ふわりと立つ香りは、バターよりも先に、柑橘の皮の苦みが鼻先をくすぐった。

「美春、これ」

 私は皿を覗きこむ。
 秋穂の顔を見ると、また唇の感触を思い出してしまいそうで、視線を逸らす。

「また新しいの?」
「……練習」
「何の?」

 秋穂は一瞬だけ視線を逸らして、髪を耳にかけた。
 その仕草が、前より少しだけ柔らかくなった気がする。大げさな表情じゃない。ほんの小さな、角の丸さ。

「……いつでも、食べてもらえるように」

 胸の奥が、甘くなる。
 "甘い"は味だけじゃないんだと、最近よく思う。
 指先の熱とか、言葉の間に落ちる照れとか、そういうものも、甘い。

 それから――キスの味も。

 私は無意識に、また唇に指を当てそうになって、慌てて手を下ろした。

「じゃあ、いただきます」

 私は手を合わせ、マフィンを割った。
 中から湯気がほわっと上がり、柑橘の香りがいっそう濃くなる。
 一口。ふわっとほどけて、後からほんの少しの苦みが追いかけてくる。甘さが、ちゃんと"締まる"。

「……おいしい。大人っぽい味」

 秋穂が私の表情を見て、ほんの少しだけ口角を上げた。
 笑った、というより、"ほどけた"に近い。私はそれが分かるようになってきた。

「……よかった」

 カウンターの奥で、マスターが新聞を畳みながらこちらを見た。
 目だけが笑っている。何も言わないのに、全部分かっている顔。

「相変わらずだなあ。二人とも」
 マスターが、からかうでもなく、軽く言う。
「店があったかい」

 私は頬が熱くなるのを紅茶でごまかした。
 秋穂は「……うるさい」と小さく言って、でも否定の勢いがない。そんなところまで、変わってきた。

 幸せだと思う。
 この店の体温の中で、秋穂の作ったものを最初に口にできて、秋穂の反応を一番近くで見られる。それだけで、十分だと思ってしまう。

 ――でも。

 十分なはずなのに、私はときどき、窓の外を見てしまう。
 枯葉が舞う季節は、同じ場所にいても、勝手に前へ進んでいく。
 前へ進むものを見ると、置いていかれる気がする。

 この時間が、いつまで続くんだろう。
 秘密のまま、どこまで行けるんだろう。
 私はまだ、その先をちゃんと想像できない。

 そういう不安を、私は秋穂に言っていない。
 言えない、というより――言わなくてもいい時間が、今はまだここにあるから。

 その"まだ"が、唐突に終わったのは、秋穂のスマホが小さく震えた瞬間だった。

     ◇

【美春】

 秋穂はスマホの画面を見た途端、表情から色が引いた。
 まるで、暖かい店内に冷たい風が一本だけ通ったみたいに。

「……どうしたの?」

 秋穂は答えず、画面をこちらに向けた。

『今週末、進路について話したい。事前に、一度家で話しておきましょう』
 差出人は、香織さん。

 私は喉がきゅっと鳴るのを感じた。
 文化祭は成功した。夏祭りも、ちゃんと乗り切った。あれだけのプレッシャーの中で。
 でも、それで"認めてもらえた"かどうかは、別の話だ。

 約束は条件付きだった。
 結果を出すこと。学業を崩さないこと。勢いだけで突っ走らないこと。
 秋穂は守ってきた。守ってきたはずなのに、香織さんの一通の文面は、秋穂の足元をぐらつかせる。

「……怖い」
 秋穂が、息を吐くように言った。

「文化祭、ちゃんとできたのに」
「うん」
「それでも……また、大学って言われるかもしれない」

 その言葉に、私は胸の奥の痛みを思い出す。
 "深い意味はない"と口にしたあの日みたいに、何かを否定される痛み。
 秋穂は、今度は否定される側じゃなくて、否定される未来を想像している。

「秋穂は、どうしたい?」
 私は紅茶のカップを両手で包みながら、ゆっくり聞いた。
 急かしたら、秋穂はまた自分の言葉を引っ込めてしまう。

 秋穂は少し黙ってから、言った。
 今までより、まっすぐに。

「……専門学校に、行きたい」

 それだけで、私の胸が熱くなる。
 "言い切れる"って、強い。秋穂はずっと、強いのに、弱いふりをしてきた。自分を守るために。

「なら、それを伝えよう。ちゃんと」
 私は頷いた。
「今度は、逃げなくていい」

 秋穂が眉を寄せる。
「……一人じゃ、無理かも」

「一人じゃないよ」
 私は言いかけて、言葉の角度を選び直した。
 "私もいる"と言いたい。でも、それは香織さんの前でどこまで言える?
 私たちはまだ、秘密の中にいる。

 だから私は、別の形で支える。

「準備しよう」
「準備?」
「資料とか、言う順番とか。秋穂の言葉が、ちゃんと届くように」

 私は笑って、少しだけ冗談めかした。
「秋穂、内容は完璧でも、声が小さくなると損するから」

 秋穂が小さく息を吐いて、ほんの少し笑った。
 その笑い方に、私は救われる。
 "救われる"じゃなくて、背中を押される。私も。

「……うん」
 秋穂は頷いた。
「やる」

 その返事が、以前の「やれたら」じゃなくて、「やる」になっている。
 私はその変化を見逃さない。

 マスターがカウンターから、静かに声をかけた。

「資料なら、うちにもあるぞ」
「……何が」
「夏祭りの売上。仕入れ。お前らの働きぶり。証拠は、ちゃんと残ってる」

 マスターは、新聞を畳んだ手で、軽くトントンとカウンターを叩いた。
「約束ってのは、守ったことを示せれば強い。言葉だけじゃなくてな」

 秋穂が唇を噛む。
 怖さの中に、少しだけ安心が混ざる顔。
 私は、その横顔を見て思う。

 この一ヶ月で、秋穂は笑えるようになった。
 じゃあ私は――秋穂の"先"を支えられるようになっただろうか。

 不安はまだある。

 でも、やる。

     ◇

【秋穂】

 週末。
 私はリビングのテーブルに紙を並べた。

 文化祭の写真。クラスの報告書。夏祭りの売上表。マスターが書いてくれた短い推薦の文。
 それから、模試の結果と成績表のコピー。
 "約束を守った証拠"を、順番に置いた。

 母は、向かいの椅子に座っている。
 背筋が伸びている。指先が揃っている。
 いつもと同じ姿勢なのに、今日はそれが妙に怖い。正しい人の前に、間違えるかもしれない自分が座っている感じがする。

 膝の上で指を握った。
 震えそうになるのを、手のひらで押さえつける。

 ――大丈夫。
 美春が「選んでいい」って言ってくれた。
 美春が、嘘を撤回してくれた。
 逃げないで、私の前に立ってくれた。

 だから私も、逃げない。

 母は資料を一枚ずつ見ていった。
 静かに。無駄なく。
 ページをめくる音だけが、部屋に落ちる。
 その音が、やけに大きく聞こえる。

 私は息を吸った。
 言う。今。先延ばしにしたら、また「なれたらいいな」に戻ってしまう。

「……話がある」
 声が自分でも小さいと思った。でも、言った。

 母は資料から目を上げる。
「何?」

 私は、机の端を指で押さえた。手が震えないように。

「専門学校に、行きたい」

 言い切った瞬間、胸が痛いくらい熱くなった。
 言えた。
 逃げなかった。

 母の目が、ほんの少しだけ揺れた。
 それから、意外にも、すぐに否定は来なかった。

「……文化祭、見に行ったわ」
 母が言った。
 私は目を瞬いた。

「あなたが……笑っていた」
 母の声は淡々としているのに、どこか柔らかい。
「久しぶりに見た。あんな顔」

 え。
 私は耳を疑った。
 母が、私の笑い方を見ていた。
 成績じゃなくて、結果だけじゃなくて。

 涙が出そうになった。
 出したら止まらない気がして、唇を噛んだ。
 泣いたら負け、じゃない。泣いたら、言葉が崩れる気がした。

 母は続けた。
「……私、間違えていたのかもしれない」
 その言葉が、胸に落ちる。重いのに、温度がある。

 でも、母は母だ。
 簡単に全部が変わるわけじゃない。
 私は息を整え、次を待った。

 母は資料の上に手を置いた。
「約束は守ったわね」
「……うん」
「成績も落ちていない。むしろ上がっている」

 私は小さく頷いた。
 夏祭りも文化祭も、その合間に勉強して、睡眠を削って、何度も折れそうになった。
 でも折れなかった。
 折れなかったのは、夢があるから。
 それから――美春が、隣にいたから。

 母が、少し息を吐いた。

「専門学校、行きなさい」

 ……え?

 言葉が理解できなくて、私は目を見開いた。
 母の顔は真面目なまま。でも、そこに"決めた"がある。

「条件は達成した。約束は守る」
 母は言った。
 正しさの人は、約束を破らない。
 それが今、私を救う。

 母は指を一本立てた。

「ただし」
 やっぱり、条件は来る。
 私は背筋を伸ばした。受け止める準備をする。

「一つ。卒業後の就職先は、自分で探すこと」
「……はい」
「二つ。学費はあなたの貯めた分も入れること。アルバイトは続ける。体を壊さない範囲で」
「……はい」
「三つ。途中で投げ出さないこと」
 母は私を見た。
 まっすぐ。逃げ場のない目。

「『楽しい』だけで選んだなら、続かない。あなたは分かっている?」
 私は頷いた。
「分かってる」
 声が震えた。でも、引っ込めない。

「やります」
 私は言った。
「最後まで」

 母は、少しだけ目を細めた。
 怒っているわけじゃない。観察している目。
 それから、ぽつりと言った。

「あなた、変わったわね」
「……」
「前は、『なれたらいいな』って言い方だった」
 母は言葉を探すみたいに、少し間を置いた。
「今は、『なりたい』って言い切る」

 胸がぎゅっとなる。
 その違いを、母が気づいている。

 母は続けて、ほんの少しだけ声を落とした。

「……結城さんの影響?」

 名前が出た瞬間、私の心臓が跳ねた。
 美春。
 友達の名前として出されたそれが、胸の奥で別の意味に変わってしまう。

 私は息を吸って、正直に答えた。
 "全部"は言えない。でも、"嘘"は言わない。

「……はい」
「美春が、背中を押してくれました」

 母は小さく頷いた。

「そう」
 少しだけ、口元が緩む。
「いい友達ね」

 友達、じゃない。
 喉の奥までその言葉が上がってきて、でも私は飲み込んだ。

 今言ったら、壊れる。
 母が認めたのは進路であって、私の恋じゃない。
 順番を間違えたら、全部ひっくり返る気がした。

 ――いつか。
 いつか、言える日が来る。
 美春と一緒にいる未来を、ちゃんと守れるようになったら。

 私は椅子から立ち上がった。
 母の前に立つと、背が少しだけ低く感じる。
 それでも、今日の私は、逃げない。

「……ありがとう」
 私は言った。
「お母さん」

 母は一瞬だけ固まって、それから目を逸らした。
 照れたみたいに。

「……当然よ」
 ぶっきらぼうに言って、でも声の角は丸い。
「心配してるの」

 私は胸がいっぱいになって、勢いで母に抱きついた。
 母の身体は一瞬固くなったけれど、数秒後、ゆっくりと背中に手が回ってきた。

「……ばかね」
 母の声が少しだけ震える。
「はい」
 私は短く返した。
「でも、嬉しい」

 抱きしめる腕の力は強くない。
 でも、今まででいちばん確かな温度だった。

 私は、この温度を忘れない。
 美春に伝える日まで。

     ◇

【美春】

 翌日。喫茶店。
 窓の外は曇っていて、枯葉の色だけが鮮やかに見える。
 私は落ち着かなくて、何度も時計を見ていた。店内のベルが鳴るたび、心臓が跳ねる。

 カラン。

 ドアのベルがいつもより高く響いた気がした。
 顔を上げると、秋穂が立っていた。制服の上に薄いコート。頬が少し赤い。冷えた風に当たったせいか、泣いたせいか、それは分からない。

 秋穂は私を見るなり、息を吐いた。
 その吐息が、白い。

「美春……」

「うん」
 私は立ち上がった。
 この一ヶ月で、私は秋穂の"言葉が出る前の顔"を少し読めるようになった。

 秋穂の目が、揺れている。
 泣きそうで、笑いそうで、どっちでもある目。

「……認めてもらえた」

 一瞬、意味が入ってこなくて、私はぽかんとした。
 次の瞬間、言葉が追いつく。

「え……本当に!?」
 声が裏返った。

 秋穂は小さく頷いた。
「うん。専門学校、行っていいって」

 私は思わず、秋穂の手を掴んだ。
 冷たい指先。
 でも、その冷たさが、現実の温度だ。

「よかった……!」
 息が漏れる。
「ほんとに、よかった……!」

 秋穂の目が潤む。
 私は自分の目も熱くなるのを感じた。
 泣いていいのか、笑っていいのか、分からない。でも、どっちでもいい。

 秋穂の夢が、一歩前へ進んだ。
 それだけで、胸がいっぱいだ。

「おめでとう、秋穂ちゃん」
 マスターがカウンターから出てきて、秋穂の頭を軽く撫でた。
「これで胸を張って働けるな」
「……うん」

 秋穂は小さく返事をして、私の方を見た。
 その目が、少しだけ柔らかい。

「美春、ありがとう」
「え?」
「美春がいなかったら、私……たぶん、言えなかった」
 秋穂は言葉を探しながら、でも最後は言い切った。
「ここまで来られなかった」

 私は首を振った。
「違うよ。秋穂が決めた」
「でも」
「でもじゃない」
 私は笑って、握った手に少し力を入れた。
「秋穂が、ちゃんと自分で選んだ。……それがいちばんすごい」

 秋穂は目を伏せて、ほんの少しだけ笑った。
 その笑いが、前よりも"隠さない"笑いになっている気がして、私はまた胸が熱くなる。

「私も、秋穂のおかげ」
 私は言った。
「決める練習、させてもらった」

 マスターが「そうそう」と頷く。
「人はな、誰かの夢を見て、自分の足の位置を知ることもある」

 その言葉が、私の胸に引っかかった。
 足の位置。
 私は自分の足がどこにあるのか、あまり見てこなかった。

     ◇

【美春】

 マスターが私のカップに紅茶を注ぎ足しながら、何気なく言った。

「で、美春ちゃんは進路どうするんだ?」

 ……進路。
 その二文字が、喉に冷たい水を流し込まれたみたいにひやりとした。

 私は、秋穂の夢のことばかり考えてきた。
 守りたいと思った。支えたいと思った。秋穂が"なりたい"と言い切れるようになるのが嬉しかった。
 その嬉しさに夢中になって――自分のことを、後回しにしていた。

「……まだ、決めてないです」
 私は正直に言った。
「大学には行くと思いますけど」
「ほう」
「何学部とかは……」

 言いながら、自分でも分かる。薄い。
 "行くと思う"は、昔の秋穂の言い方に似ている。
 なれたらいいな。行けたらいいな。
 私は、まだ自分の未来を"他人事"のままにしている。

 秋穂が私を見た。
 心配の目。
 あの日、屋上で私が嘘を撤回したときみたいに、まっすぐな目。

「美春、大丈夫?」
 秋穂が言う。
 その問いは優しいのに、逃げ道を塞ぐ。

「うん」
 私は反射で言いそうになって、言い直した。
「……うん。でも、ちょっとだけ怖い」

 秋穂の目が瞬く。
 私が"怖い"を口にしたことに、驚いたみたいに。

 怖い。
 秋穂には夢がある。私はまだ、輪郭がない。
 秋穂と並びたいのに、私は立つ位置すら曖昧だ。

 でも、だからこそ、考えなきゃいけない。

 秋穂と一緒にいる未来を、私は願っている。
 願っているだけじゃ足りない。
 そのために、自分の足で立つ必要がある。

 マスターが、静かに言った。

「怖いってのは、前を見てる証拠だ」
「……」
「考えろ。急がなくていい。でも、誤魔化すな」

 私は頷いた。
 誤魔化すな。
 その言葉は、撤回の夜から、私の中に残っている合図だ。

     ◇

【美春】

 店を出ると、空気はもう冬の入口だった。
 息が白くなって、頬がきゅっと縮む。街路樹の葉は少なくなり、枝が細い線みたいに夜空に伸びている。

 私たちは並んで歩いた。
 肩が触れそうで、触れない距離。
 でも、指先だけは、そっと絡んでいた。誰もいない道だからできる、ささやかな反則。

「美春、寒くない?」
 秋穂が言う。

「大丈夫」
 私は答えて、少し笑う。
「秋穂の手、温かいから」

 秋穂が眉を寄せた。
 困ったみたいに、でもどこか嬉しそうに。

「……ずるい」
「何が?」
「そういうこと、さらっと言うの」

 私は肩をすくめた。
「練習してるから」
「何の?」
 秋穂が、さっきの私みたいに聞く。

 私は少しだけ間を置いてから、言った。
 言葉を薄くしないで、ちゃんと。

「一緒にいる未来の、練習」

 秋穂は一瞬止まって、次の瞬間、私の手をぎゅっと握り返した。
 握り返す力が、答えみたいだった。

 冬が始まる。
 秋穂の夢は一歩前へ進んだ。
 私の夢はまだ見つからない。

 でも――隣で同じ季節を歩く手がある。
 その温度を頼りに、私は自分の足の位置を探していく。

 枯葉が一枚、足元でカサ、と鳴った。
 その音が、これからの時間の合図みたいに聞こえた。