最初の味見は、いつも君に

【美春】

 後夜祭の終わりは、校庭のざわめきが「現実」に戻っていく時間だった。
 スピーカーの余韻が細くなり、誰かの笑い声がほどけ、靴音が増えていく。窓の明かりがひとつ、またひとつ消えて、校舎はゆっくり"学校の顔"に戻っていく。

 屋上は、その全部から少しだけ外れていた。
 コンクリートは昼の熱をもう手放していて、風が角を取られた冷たさで頬を撫でる。フェンス越しに見える校庭の光は、粒というより、薄い膜みたいに揺れていた。

 秋穂は、手すりのそばに立ったまま、下を見ている。
 私は、その隣に立つ。

 降りようと思えば、今すぐ降りられる。
 後夜祭の熱に混ざって、また"普通の顔"に戻ることもできる。

 でも――

 秋穂の手が、手すりの冷たい金属を握っている。その指先が、少しだけ震えているのが見えた。

「……降りなくていいの?」
 秋穂が、小さく言う。

「いいよ」
 私は即答した。
「まだ、ここにいたい」

 秋穂が、ほんの少しだけこちらを見る。
 視線が合う。今度は、逸らさない。

「……ありがとう」

 その言葉の意味が、私には分かった。

 ――一緒にいてくれて、ありがとう。
 逃げないでくれて、ありがとう。

 私は、秋穂の隣にゆっくりと腰を下ろした。コンクリートが冷たい。膝にジーンズの生地越しに冷気が染みて、太ももの裏がじわっと痺れる。

 秋穂も、少し遅れて座った。

 座るまでの一呼吸が、やけに長い。
 でも、座ったら――拍子抜けするくらい自然だった。

 肩と肩の距離は、手のひら一つ分くらい。
 触れそうで触れない。
 触れたら、今度こそ決まってしまう距離。

 秋穂は、まだ泣いたあとの目をしている。
 涙は拭いたはずなのに、まつげの先がわずかに光る。頬は赤くて、でもその赤さが"寒さ"のせいなのか"中身"のせいなのか、私は決めきれない。呼吸は落ち着いているのに、胸の奥だけがまだ揺れているのが、隣にいると伝わってくる。

 触れたら崩れそうで、触れないと消えそうで。
 私は、手を膝の上に置いたまま、そこから先に進めないでいた。

     ◇

【美春】

 下から、数を数える声がふっと届く。校庭のどこかで、誰かが合図を作っているらしい。続いて、短い沈黙。人が息を揃える瞬間の、あの妙に澄んだ間。

 それから、遠くで何かが弾けた。
 空のどこかで破裂した光は、屋上まで届くともう"音"よりも"反射"になっていた。窓ガラスが一瞬白くなり、フェンスの影が足元で細く踊る。遅れて、ぱん、と乾いた音が来る。つづけざまに、もう一つ。煙の匂いが風に混じって、ほんの少しだけ焦げた甘さがした。

 私は秋穂と並んだまま、その気配を受け取る。
 見上げても、すべてが見えるわけじゃない。校舎の屋根が邪魔して、光の中心は隠れてしまう。けれど、隠れているからこそ、よけいに"そこで起きている"ことだけが鮮明になる。

 肩が触れそうで触れない距離。
 触れたら、今度こそ決まってしまう距離。

 今日は――決める日だ。

 私が撤回した日。
 秋穂が泣いた日。
 そして、ふたりが自分たちで選び直す日。

 秋穂の手が、膝の上で強く握られている。指先が白くなるほど。私は自分の手を、ほんの少しだけ近づけた。重ねない。けれど、逃げられない位置に置く。

 秋穂が、息を吸って、吐く。
「……美春」
 呼ばれた名前は、風にさらわれそうで、でもちゃんとここに残った。

「うん」
 短い返事に、心臓が小さく跳ねる。

 秋穂は視線を前に置いたまま、続ける。
「美春が……私を選ぶって言うなら」
 その言葉に、胸の奥が熱くなる。

 "選ぶ"。

 あの日、私がいちばん苦手なことを口にした言葉。
 秋穂が受け取ってしまった言葉。

 秋穂は、喉を鳴らしてから言った。
「私はもう、一人に戻れない」
 声が震える。でも、逃げる震えじゃない。
「戻れないって言うのは……弱いってことだと思う」
「でも」

 秋穂の唇が、ほんの少しだけ歪む。
「……美春に"特別"って言われたら、戻れない」

 冷たい空気を吸ったのに、胸の中だけが灼けるみたいだった。
 私は、その言葉の重さをちゃんと受け取った。

 秋穂は今、代償を言語化している。
 "私を選んだら、こういうリスクがある"って。
 それを先に言ってしまうのが、秋穂の癖だ。

 怖くなったら突き放す。
 期待を裏切る前に、自分から諦める。
 それが秋穂の生き方だったから。

 でも、今は違う。

 秋穂は、怖がりながらも――ちゃんと、ここにいる。
 私に、リスクを見せている。
 隠さないで。

 それが、どれだけ勇気のいることか。

「戻らなくていい」
 言葉は、思ったよりもまっすぐに出た。
「私も……戻りたくない」

 秋穂が、ゆっくりこちらを向く。
 光がまたどこかで弾けて、秋穂の瞳に小さな白が映る。その白が揺れているのを見た瞬間、私は思った。

 ――私は、この人を守りたい。

 夢だけじゃない。
 孤立の癖も、自己否定も、ちゃんと抱えたままの秋穂を。
 "直ったら好き"じゃなくて、"今のまま"を。

 秋穂は唇を噛んで、それでも言葉を落とした。
「でも、私……美春を傷つける」
「怖いと、突き放す」
「自分が悪いって先に決めて、先に諦める」
「追いかけてもらっても、信じきれない」

 秋穂が一度だけ目を閉じて、また開く。
「そういうの……変わらないかもしれない」
「美春が傷ついて」
「それで、美春が離れて」
「私が、また一人になる」

 その言葉が、胸に刺さる。

 ――変わらないかもしれない。

 それは未来の不安で、代償の匂いだった。軽い恋の話じゃない。口にした瞬間に責任が増える、重い言葉だ。
 私は、その重さを見てしまったからこそ、逃げたくなった。

 ――また、薄く生きたくなる。

 でも。

 薄く生きて、秋穂を失うのは、もう嫌だ。

 私は秋穂の手を見た。握りしめられた指の関節が、こわばっている。お菓子を作る手。粉の感触も、熱の加減も、きっと誰より知っている手。なのに今は、どこに力を入れていいのか分からなくて、ただ自分を痛めつけている。

 私は、言葉より先に、少しだけ身体を近づけた。
「……その"変わらないかもしれない"も、ちゃんと聞く」

 秋穂が目を見開く。

「怖くなるのも、突き放すのも、諦める癖があるのも――全部、秋穂の一部でしょ」
「それで、私が痛い日が来るかもしれない」
「たぶん、来る」

 私は小さく笑った。笑って誤魔化したいからじゃない。ここで笑わないと、自分がまた逃げるから。
「でもね、秋穂」

 私は、自分の手をゆっくり持ち上げた。膝の上から、ほんの数センチ。世界でいちばん短い距離が、いちばん長い。
「痛いって分かった上で手を取るほうが、私は――ずっと正直だと思う」

 "傷ついてもいい"なんて、簡単に言いたくない。
 痛いのは怖い。泣くのは嫌だ。置いていかれるのは、もっと嫌だ。

 だからこそ、私は言い方を変える。
「秋穂が手を離しそうになったら、私がもう一回、握り直す」
「逃げ道みたいに嘘をつくのは……もうやめる」
「秋穂のことを"特別"って言ったの、撤回しない」

 私は、秋穂の目をまっすぐ見た。
「撤回しないから――秋穂も、私から撤回しないで」
 秋穂のまつげが揺れた。喉が動く。言葉が詰まる音がした。

 遠くでまた光が弾けて、校舎の壁が一瞬明るくなる。音は遅れて届き、空気を少しだけ震わせた。

 秋穂が、かすれた声で言う。
「それ……ずるい」

「うん」
 私はうなずいた。
「ずるいくらいじゃないと、私はまた"平気な顔"しちゃう」
「それで秋穂を一人にしたら……私、今度こそ自分が許せない」

 秋穂が息を吐く。それは、諦めの息じゃない。決める前の、最後の呼吸だ。

 秋穂の視線が、私の手に落ちる。
 そして、ゆっくりと、その手が伸びてきた。
 指先が触れる。ひんやりしているのに、触れた場所だけ熱い。秋穂の指が、私の指を探って絡める。掴むというより、確かめるみたいに。確認しながら、それでも離さない。

 私は、その感触に呼吸を忘れた。

 秋穂の視線が、私の手から――ゆっくりと上がってくる。
 指先。手首。腕。肩。首筋。

 そして、私の唇に落ちる。
 ほんの一瞬。けれど、その一瞬に全部が詰まっている。

 私の心臓が、音を立てた。
 秋穂の呼吸が、一度だけ止まる。
 風が、二人の間を通り抜けていく。
 冷たいはずなのに、頬が熱い。

 秋穂が、震える声で言った。
「……最初の味見、してくれる?」

 一瞬、意味が追いつかない。
 次の瞬間、胸の奥が甘く痛くなった。

 最初の味見。

 それは、秋穂が作ったものを私が最初に食べる、ただの役割じゃない。
 評価じゃなく、共有。
 "ここにいていい"を確認するための合言葉。

 それを――今、秋穂が、私に向けて言った。

 お菓子じゃない。
 秋穂自身を。

 私は、笑った。
 薄く溶ける笑いじゃなくて、舌に残る笑い方で。
 秋穂の目が揺れて、ほんの少しだけ口角が上がる。けれど、すぐに真顔になる。怖さと決意が同じ場所に並んでいる顔。

 秋穂が手を握ったまま、距離を詰める。

 冷たさが遠のく。遠くの歓声も、スピーカーも、靴音も、一枚ずつ布をかけられたみたいに薄くなる。残るのは、私と秋穂の呼吸の重なりだけ。

 秋穂の顔が、近い。
 まつげの一本一本が見える。
 目の奥に、小さく私が映っている。

 秋穂が、私の額に触れそうなくらい近づいて、言った。
「……返事、待てない」

 その言葉が、"逃げ道を残さない"って意味だと分かってしまう。
 かつて私の嘘が壊したものを、今ここで作り直すみたいに。

 そして、秋穂が――来た。

 唇が、触れた。

 柔らかい。温かい。驚くほど静かで、だからこそ怖いくらい確かだった。

 私は一瞬、固まってしまいそうになる。

 でも――次の瞬間。
 私は、秋穂の手を握り返した。指を絡めたまま、逃げない力で。もう片方の手で、秋穂の頬に触れる。冷えているはずの肌が、触れた瞬間に熱を持つ。

 そして私は、遅れて"返事"をした。
 秋穂のキスに、ちゃんと返した。
 ただ受け取るんじゃなくて、こちらからも寄せて、確かめるように、もう少しだけ深く。

 ――これが、最初の味見。

 お菓子じゃない。
 秋穂の。

 短いのに、確かに世界の温度が変わる味。

 甘いというより――温かい。
 温かいというより――やさしい。
 やさしいというより――痛い。

 痛いのに、離れたくない。
 息が混ざるのが怖くて、でも怖いのに離れたくなくて、私は秋穂の頬を包む指に力を込めた。

 秋穂の唇が、ほんの少しだけ動く。
 キスの中で、言葉を探しているみたいに。

 それが、また胸を締めつける。
 時間が引き伸ばされたみたいに長くて、でも一瞬で終わってしまう。

 唇が離れた瞬間、私は息を吸った。
 冷たい空気が肺に入ってくるのに、さっきよりずっと甘く感じる。

 秋穂の顔が近い。
 頬が赤い。
 目が潤んでいて、今にも逸らしそうで、でも逸らさない。

 秋穂が、小さく笑って、すぐに困った顔になった。
「……今の、ずるい」

 私は、思わず息を漏らした。
「秋穂が言う?」
「だって……返事、待てないって言ったのに」
「待てなかったのは秋穂でしょ」

 秋穂が一度だけ目を閉じて、開いた。
「……そう」
「でも、美春」
 声が、少しだけ現実に戻る。
「これ……クラスには言えない」

 秋穂の声が、少しだけ硬くなる。
「言ったら、面倒になる」
「からかわれる」
「噂になる」
「……私、耐えられないかもしれない」

 自己否定の影が、また秋穂の後ろに立つ。
 でも、今はその影に飲まれない。秋穂は"言える"。怖いことを、私に言える。言えるってことは、逃げる前に手を伸ばせているってことだ。

 私はうなずいた。
「うん」
「今は、内緒」

 秋穂が、少しだけ眉をひそめる。
「……ごめん」
 その"ごめん"が出る前から、私はもう返事を決めていた。

「謝らないで」
 私は、秋穂の手を握ったまま続ける。
「秘密にするのも、私が選ぶ」
「秋穂が怖いなら、私も怖い」
「だから、一緒に慎重になる」

 秋穂の目が揺れる。
「でも……それって、美春が我慢するってことでしょ」
「我慢じゃないよ」
 私は首を振った。
「大事にするって意味」
「大事に?」
「うん」

 私は自分の胸の辺りを指で軽く叩いた。
「二人だけの箱に入れておくの」
「割れやすいから、最初は丁寧に運ぶ」
「慎重にするのは、怖いからじゃなくて――壊したくないから」

 秋穂の唇が震える。
「……箱」

「そう」
 私は続けた。

「箱の中には、今日のこと全部入れる」
「秋穂が泣いたことも」
「私が撤回したことも」
「手を繋いだことも」
「……今、したことも」

 秋穂の目がまた濡れる。

「それって……重くない?」
「重いよ」
 私は即答した。
「でも、軽いものじゃないでしょ」
「軽く扱ったら、なかったことになっちゃう」
「私はそれが嫌」

 秋穂が、視線を落とす。
「……私も、嫌」

「だったら」
 私は秋穂の手を、指を絡めたまま持ち上げる。
「手は離さない」
「箱は隠すけど、捨てない」
「秋穂が準備できたら……そのとき、一緒に開ける」

 秋穂の目がまた上がってくる。
「開けるって……言うってこと?」

「いつかね」
 私は頷いた。

「今じゃなくていい」
「秋穂が"言ってもいい"って思えるまで、私は待つ」
「でも、待ってる間も――箱の中身は、ちゃんとあるから」

 秋穂が、息を吐く。
「……美春、ずるい」

 私は笑ってしまった。
「ずるくないと、秋穂を守れない」

 秋穂が、泣きそうになる顔なのに、崩れない。崩れそうな部分を、今は私が支えられる気がした。

     ◇

【秋穂】

 美春の顔が、近い。

 さっきまで泣いていた私の目を、美春は逸らさない。
 逃げない。
 それが、怖い。

 怖いけど――嬉しい。

 私は、ずっと"一人でいる方が楽"だと思っていた。
 期待しなければ、裏切られない。
 傷つく前に、自分から離れる。

 それが、正しいと思っていた。
 でも、美春は違う。

 美春は、私の"変わらないかもしれない"を聞いて――それでも手を取ると言った。
 痛いかもしれないのに。
 傷つくかもしれないのに。

 そんなの、ずるい。

 私の手を、美春は温かい手で包んでいる。
 冷えていた指先が、少しずつ熱を取り戻していく。

 美春の唇は、少しだけ震えている。
 怖いのは、私だけじゃないんだ。

 美春も、怖がってる。
 それなのに、逃げない。

 ――だったら、私も。

 私は、美春の頬にそっと触れた。
「……美春、もう一回って言ったら、怒る?」
 その言葉が出た瞬間、自分で驚いた。
 私が、こんなこと言うなんて。

 美春が、笑った。
 今度は、隠さない笑い。

「怒らない」
「でも、今は……我慢できる?」

 我慢、できない。

 でも――

「……できる」
 私は頷いた。

 今すぐじゃなくていい。
 この手の温度だけで、十分だから。

     ◇

【美春】

 秋穂が、少しだけ笑う。

「えらい」
 私は、思わず言ってしまった。

「子ども扱いしないで」
 秋穂が、少しだけ膨れる。

「してない」
 私は指を絡め直した。
「ただ、すごく……大事にしたい」

 秋穂が、息を飲む。言葉が出ない。だから私は、代わりに言った。

     ◇

【美春】

「最初の味見ってさ」
 秋穂が、私の言葉を待つ。
「最初だから、特別なんじゃないよね」
「……うん」

「"いつも"って言えるようにするための、最初なんだよね」
 秋穂が、ゆっくりうなずく。
「……うん」
 そして、小さく言った。
「いつも、美春に」

 その言い方があまりに真っ直ぐで、私はまた胸が熱くなる。
「ねえ、秋穂」
「なに」
「今日のこと、明日になっても消えない?」
「消えない」
 即答だった。
「消したくない」

 私はその答えに、安心してしまうのが怖かった。安心って油断だから。油断って、また逃げる入口になるから。
 だから私は、もう一つだけ、ちゃんと自分から言う。
「私も、消さない」
「もし、私がまた怖くなって変な顔したら……引っ張って」
「今日みたいに」

 私は秋穂の手を少し持ち上げた。
「返事、待てないって」

 秋穂が、ほんの少しだけ笑う。
「……言わない」
「え」
「言わないで、する」
「……それは反則」

 秋穂が目を細める。その顔が、少しだけ"幸せ"に近い。

「でもさ、秋穂」
「なに」
「"いつも"って、どういうこと?」
 私は、少しだけ真面目な顔で聞いた。

 秋穂が、視線を落とす。
「……分かんない」
 正直な答えだった。
「でも」

 秋穂が、また顔を上げる。
「美春が喫茶店に来るたびに、最初の味見をしてもらう」
「それが"いつも"になればいいなって」

 その言葉が、胸に染みた。
「うん」
 私は頷いた。
「それ、いい」
「約束」

「……約束」
 秋穂が、小さく繰り返す。

 遠くで、最後の大きな光が上がる。校庭のどこかが一瞬だけ昼みたいに明るくなって、歓声が遅れて届く。屋上の影が足元で揺れ、また静かになる。

 秋穂が、私の頬に触れようとして――途中で止めた。
「……触っていい?」

 その問いが、胸の奥をぎゅっと締めた。
「いいよ」

 答えた瞬間、秋穂の指先がそっと頬に触れた。さっき私がしたみたいに、確かめるみたいに。

 校庭の喧噪はもう薄く、風の音だけが屋上を撫でる。煙の匂いも流れていって、代わりに秋の夜の乾いた匂いが戻ってくる。

 私たちは手を繋いだまま、しばらく何も言わない。
 何も言わなくても、手の温度だけで足りる時間が、確かにある。

 秋穂が、小さく言った。
「美春、ありがとう」

 その声は、今まででいちばん柔らかい。

 私はうなずいて返す。
「私も」
「秋穂に会えてよかった」
「喫茶店に行ってよかった」
「……自分で決めてよかった」

 秋穂が、少しだけ頷く。
「……よかった」
「一人じゃなくて、よかった」

 私はその言葉を胸に落として、見えない光の残り香が漂う空を見上げた。

     ◇

【美春】

 空は、もう完全に夜の色になっていた。

 星が、いくつか見える。
 冬の星座は、まだ見えない。
 でも、もうすぐ見えるようになる。

 風が、また吹いた。
 さっきより冷たい。
 秋の終わりが、少しずつ冬に変わろうとしている。

 肌寒い。
 でも、秋穂の手は温かい。

 季節は確かに進む。
 この先、冬が来る。
 きっと、怖い日も来る。

 それでも――

 秋穂が、小さく言った。
「……そろそろ、降りる?」

「うん」
 私は頷いた。
「明日、また喫茶店に行く」

「……うん」
 秋穂が、少しだけ笑う。
「マスターに、報告する?」

「しない」
 私は即答した。
「箱の中だから」

「……そっか」
 秋穂が、手を離そうとする。

 でも、私は離さなかった。
「階段まで、このままでいい?」

 秋穂が、驚いたように私を見る。
「……いいの?」

「誰もいないし」
 私は笑った。
「それに、まだ離したくない」

 秋穂の頬が、また赤くなる。
「……ずるい」

 私は、その言葉がもう嫌じゃなかった。
 むしろ、秋穂が"ずるい"って言うたびに――私は、ちゃんと秋穂を選んでいる気がした。

 私たちは、手を繋いだまま立ち上がった。
 膝に残ったコンクリートの冷たさが、ゆっくり消えていく。

 屋上のドアを開けると、廊下の明かりが目に染みた。
 でも、階段を降りるまでの間――私たちは、手を離さなかった。

 階段の踊り場で、秋穂が立ち止まる。
「……ここで」

「うん」
 私は頷いて、手を離した。

 指先が離れる瞬間、少しだけ寂しい。

 でも、大丈夫。
 また明日、喫茶店で会える。

 秋穂が、小さく笑った。
「……また明日」
「うん、また明日」

 私たちは、そこで別れた。

 廊下の蛍光灯が、やけに白く見える。
 後夜祭の音は、もうほとんど聞こえない。

 私は、階段を降りながら思った。

 ――今日は、特別な日になった。

 撤回の日。
 涙の日。
 手を繋いだ日。
 そして、最初の味見の日。

 この先、何が起きるか分からない。
 怖い日も、きっと来る。

 でも、今は――

 口元に残る"秋穂の味"と、手に残る温度だけで、十分だった。

 それから、季節は流れて――

 冬が、やってくる。