最初の味見は、いつも君に

 後夜祭が始まる合図は、校舎の中の熱がいっせいに外へ押し出される音だった。
 校庭のスピーカーから流れる低いベースが、コンクリートの壁をゆっくり震わせる。廊下には私服の生徒があふれ、制服の頃より少しだけ大胆な笑い声が反射して、天井の蛍光灯がやけに白く見えた。

 私はその流れに逆らって走っていた。
 目的地は決めてある。迷う暇は、今日の私はもう持たない。

 昼間、香織さんに言われた。
『秋穂は、あなたを信じている』
 その言葉が胸に刺さって抜けなくて、息をするたび痛んだ。
 そしてマスターが、私の顔を見抜いて言った。
 成功は"売れたかどうか"じゃなくて、"誰と笑ったか"で味が変わる、と。

 ――だったら、私がすることは一つだ。
 空気に負けた言葉を、剥がす。
 薄くして逃げた私自身を、引き戻す。

 階段を駆け上がる。三階の踊り場で息が乱れる。けれど足は止まらない。
 屋上へ続く扉の前には、いつもなら近づかない「立入禁止」の札がぶら下がっている。札が夜風で小さく揺れて、かすかな紙の音を立てた。

 私はドアノブを握った。金属がひんやりして、指先の熱を奪う。
 一瞬だけ怖くなる。
 ここで扉を開けたら、もう戻れない気がした。

 ……でも、戻りたい場所なんて、もうない。

 ギィ、と乾いた音。
 扉の向こうから夜風が流れ込んで、頬を撫でた。汗が一気に冷えて、肌の表面が細かく粟立つ。秋の気配が混じった風だ。昼間の熱を洗い流すみたいに、冷たくて、清い。

 屋上は薄暗い。校庭の照明が遠くで揺れて、音楽がここまで届く頃には、ひとつ膜をかけたみたいに丸くなっていた。
 その静けさの中で――

 フェンスの近くに、秋穂がいた。

 一人。
 背中をこちらに向けて、校庭の光をただ見ている。
 肩のラインが細く見える。髪が風にほどけ、ゆっくり揺れる。
 その背中が、今日一日でいちばん遠い気がした。

 私は喉の奥に息を溜めて、名前を呼ぶ。

「……秋穂」

 肩がわずかに動く。
 振り向かないまま、短く返事が落ちた。

「……なんで」

 声は冷たいというより、疲れている。
 "期待しない"に慣れてしまった音。

 私は一歩だけ近づく。距離を詰めるだけで胸が痛い。
 でも、痛いのは当然だ。私は痛みを避けるために、嘘を選んだ。

 背中が少しだけ硬くなる。

「……みんな、校庭にいる」
「うん」
「……美春も、そっちの方が――」

 秋穂が言いかけて止める。
 その途中で引き返す癖を、私は知っている。自分を守るための後退。自己否定の手前で口を閉じる癖。

 私は、そこで笑わなかった。
 誤魔化さなかった。
 "空気"に一度でも乗ったら、もう今日の私は負ける。

「話したいことがある」

 秋穂が、ゆっくり振り向いた。

 顔が、夜の光に浮かぶ。
 エプロンはもう外していて、制服のブラウスの襟が少し歪んでいる。髪も乱れている。長い一日の疲れが、肩の丸さに現れている。
 でも、目だけはこちらを見ている。逃げない目。

 その視線が、胸を刺す。
 秋穂の眉がほんの少し寄る。

 声が震える。でも、言葉は止めない。
「文化祭、成功した」
「……うん」
「秋穂のスイーツ、すごかった。みんな本当に喜んでた」
 秋穂の唇がかすかに動く。喜びの形じゃない。戸惑いの形だ。

「でも、私は――」
 言いかけて、言い直す。
 言葉の角度を間違えたくない。

「成功してるのに、私の中が空っぽだった」
「……」
「秋穂と話せない成功が、苦しかった」

 秋穂の目が揺れた。
 揺れて、すぐに硬くなる。

「私、頑張ったのに」
 少しだけ、声が上がる。
「それ、否定するの?」

 胸が締まる。
 私はすぐに首を振った。

「否定しない」
「秋穂が頑張ったのは、全部本物。あれは秋穂の味だった」
 "味"という言葉を使った瞬間、マスターの声が蘇る。
 味は、誰と作って誰と笑うかで変わる。

「……だからこそ」
 私は続ける。
「私は、ちゃんと秋穂に向き合わないと駄目だった」

 夜風がフェンスを小さく鳴らす。金属の擦れる音が、やけに鮮明に響く。
 校庭の歓声が遠くで膨らんで、またしぼむ。

 私は、息を吸った。
 ここからが本題だ。
 撤回。嘘の撤回。迎合の撤回。

 喉が乾いて、舌が重い。
 怖い。
 でも怖さを理由にしたら、また同じことをする。

 私は一歩、秋穂に近づいた。
 触れない距離。触れたら崩れそうな距離。

「秋穂。あの日、教室で……」
 言葉が震える。けれど止めない。

「『別に深い意味はない』って言ったの」
 秋穂の瞳が、ほんの僅かに見開かれる。

「『喫茶店で勉強見てもらってるだけ』って言ったの」
「……」
「秋穂の気持ちを勝手に決めたのも」
「……」
「全部、嘘」

 "嘘"という単語が空気に落ちる。
 屋上が一瞬、無音になる。
 遠い音楽さえ、薄くなった気がした。

 私は言葉を続けた。止まったら逃げる。逃げたら終わる。

「空気が怖かった」
「みんなの笑いに、逆らうのが怖かった」
「変だと思われるのが、怖かった」
「嫌われたくなくて、丸くしたくて……」
 息が苦しい。胸が焼ける。

「でも、怖いのは私で」
 私は唇を噛んで、言い切る。
「傷ついたのは、秋穂だった」

 秋穂の顔が固まる。
 固まったまま、目だけが揺れている。
 言葉が出ない。出ないのに、視線は逸らさない。

 ――受け取ろうとしている。
 その事実が、さらに私を追い込む。逃げたくなる。
 だから、逃げない。

「ごめん」
「私、優しいふりをした」
「"場を守る"って顔で、秋穂を切った」
「それで、秋穂が離れていくのを見て……追いかけたのに、また黙った」

 秋穂が、かすれた声で言う。
「……美春は、優しいから」
 震えている。怒っているのか、泣きたいのか、分からない震え。
「優しいから、みんなに合わせられるんだよ」

 私は首を振った。
 この否定だけは、絶対に曖昧にしない。

「違う」
「優しいんじゃない」
 言葉が自分の喉を切るみたいに痛い。
「ずるいだけ」

 秋穂の目が、また少し見開かれる。
 "ずるい"は自分に向ける刃だ。痛い。でも必要だ。

「傷つくのが怖くて、嫌われるのが怖くて」
「その怖さを、秋穂に押し付けた」
「秋穂が傷ついたのに、私はその場で撤回できなかった」
「それが、いちばんずるい」

 秋穂は視線を落とした。
 フェンスの下、暗いコンクリートの継ぎ目を見ている。
 指先が、制服の裾をぎゅっと握る。力が入って、白くなる。

 それから、ぽつりと落ちた。

「私も……」
 声が小さい。
「私も、勘違いしてた」

 私は息を止める。
 怖い。聞きたい。聞く。

「美春が、私を……特別だと思ってくれてるって」
 秋穂の口元が、笑おうとして失敗する。
「そう思った私が悪いって、ずっと思ってた」
「でも……」
 指が裾を掴む。離せないみたいに。
「期待したかった」

 その一言が、胸に沈む。
 秋穂は"期待しない"の鎧の下で、ずっと期待していた。
 私はその期待に、嘘で蓋をした。

 だから、今度は蓋を外す。

「特別だよ」
 私は言った。
 声は震える。だけど逃げない。

「秋穂は、特別」

 その言葉を、もう一度言う。
 何度でも言う。
 秋穂に届くまで、何度でも。

「私にとって――秋穂は、特別だよ」

 秋穂が顔を上げた。
 夜の光の中で、目が濡れている。涙が溜まって、落ちそうで、落ちない。
 必死に堪えているのが分かる。

「……どうして」
 声が掠れる。
「どうして、そんなこと言うの」
 問いかけの形をしているのに、答えを求めている声。
 否定されるのが怖い声。

「だって本当だから」
 私は、短く返した。
 長い説明をして逃げない。真ん中だけを言う。

「秋穂の夢を応援したい」
「秋穂の笑顔が見たい」
「秋穂の味を、いちばん最初に食べたい」

 私は一つずつ、言葉を重ねる。

「秋穂が困ってたら、助けたい」
「秋穂が泣いてたら、そばにいたい」
「秋穂がいない世界は、色が薄い」

 秋穂の唇が震える。

「それが、私にとっての"特別"」
 私は言い切る。
「秋穂は、私にとって、かけがえのない人」

 秋穂の目から、涙が一粒落ちた。
 落ちた瞬間、秋穂は驚いたみたいに瞬きをして、でももう一粒落ちる。止められない。静かに溢れてくる。

「……ずるい」
 秋穂が小さく言った。
「美春、ずるい」

「うん」
 私は頷いた。
「ずるかった。ずっと」

 秋穂は涙を拭こうともしない。
 ただ、立っている。
 泣いているのに、逃げない。
 それだけで、胸がいっぱいになる。

 私はあと半歩だけ近づき、そこで止まった。
 手を伸ばせば触れられる距離。
 でも、触れるのはまだ早い。触れたら、言葉が薄まる気がした。

「私、もう」
 秋穂が言いかける。
「もう、期待しないって決めたのに」

 その言葉が、痛い。
 でも痛いのは、私が刺した傷がまだ生きている証拠だ。

「……ごめん」
 私はもう一度だけ言った。
「でも、撤回する」
「教室で言ったこと、全部」
「"深い意味はない"なんて、嘘だったって」

 私は、秋穂の目をまっすぐ見る。

「秋穂のことを、私はちゃんと――」

 秋穂の目が、大きく揺れる。

「今すぐ返事が欲しいわけじゃない」
 私は言う。
「言えないなら、言わなくていい」
「でも、聞いて」
「私はもう、空気に負けない」
「秋穂のこと、誰の前でも、ちゃんと言う」

 秋穂の涙がまた落ちる。
 そして、秋穂は震える声で、やっと言った。

「……私」
 言葉が途中で詰まる。
 自己否定が邪魔をする。
 それでも、秋穂は息を吸って――

 言いかけて、止まった。

「言えない」
 秋穂が小さく言う。
「今、言葉にできない」

 だけど私は分かった。
 秋穂は、受け取った。
 受け取って、今、言葉を探している。

「いいよ」
 私は言った。
「待つ」

 秋穂の目が、また揺れる。

「……待てる?」
「待てる」
 私は即答した。
「秋穂が言葉にできるまで、何日でも」

 でも、と私は続ける。

「今日だけは、一つだけ聞かせて」

 秋穂が息を吸う。

「私のこと……」
 私は声を震わせながら、でも逃げないで聞く。
「嫌いになった?」

 秋穂が、首を振った。
 小さく、でも確かに。

「……嫌いじゃない」

 その言葉だけで、胸がいっぱいになる。
 涙が出そうになる。
 でも、泣くのは後だ。今は、秋穂の言葉を受け取る。

「なら、それでいい」
 私は笑った。
 笑顔が震える。でも、本物の笑顔だ。

 屋上の冷たい風が、二人の間を通り抜ける。
 遠い花火の音みたいな拍手が、校庭から遅れて届く。

 秋穂が、少しだけ前に出る。
 一歩だけ。
 触れられる距離まで。

「……美春」
 秋穂が呼ぶ。
「はい」
「……ありがとう」

 その言葉が、胸に落ちる。
 甘い。甘いのに、苦い。

「こちらこそ」
 私は言った。
「秋穂が、受け取ってくれて、ありがとう」

 秋穂の目が、また潤む。
 でも今度は、泣かない。
 堪えている。

「次は……」
 秋穂が小さく言う。
「次は、私が言う」

 その約束が、空気に刻まれる。

 私は頷いた。
 頷いて、秋穂の顔を見る。

 夜の光の中で、秋穂が少しだけ笑った。
 小さな、でも確かな笑い。

 その笑顔を見た瞬間、私は思った。

 ――これが、秋穂と笑える成功だ。

 校庭の音楽が、少しだけ大きくなる。
 後夜祭のクライマックスが近い。

 でも、私たちの時間は、ここにある。
 屋上の冷たい風の中で、秋穂と向き合えた時間。

 それが、今日いちばんの成功だった。

 秋穂が、手を伸ばしかけて――止めた。

「……まだ、怖い」
 秋穂が言う。
「触れたら、壊れそう」

「分かる」
 私は頷いた。
「私も」

 だから、触れない。
 触れないまま、ただ向き合う。

 それだけで、十分だった。

 次は、秋穂の番。
 次は、秋穂が言葉にする番。

 私は、それを待つ。
 何日でも、待つ。

 後夜祭の夜は、冷たい風と、遠い音楽と、校庭の光で満ちていた。

「……美春」
「なに?」
「もう一回だけ、言って」

 私は、秋穂の目を見た。

「特別」
 私は言った。
「秋穂は、特別」

 秋穂が、小さく笑った。
 今度は、泣かない笑顔。

「……うん」
 秋穂が言う。
「もう一回、聞けた」

 その笑顔を見て、私は思う。

 次は、秋穂の言葉。

 私は、それを待っている。
 胸を焼くような期待と、怖さと、でも確かな予感を抱いて。

 秋穂と目を合わせた。
 その温度が、全部を変える。