第一章 【宵の明星】
——チュン……チュン……
「……ん…」
耳に春の訪れを知らせる鳥たちの歌声が響く。桜の花びらを連れた風は、レースのカーテンにそっと触れ私の頬を優しく撫でた。暗い部屋に、眩い朝日が差し込む。
自然の目覚まし時計が私を夢から現実世界へと連れ出そうとしている。
その狭間で私はゆっくりと目を開く。白の天井が光を吸収し、視覚を刺激する。花の匂いが私の鼻腔をくすぐる。
まだずっしりと重い頭で、私はゆっくりと思考を始めた。
…そういえば私、もう退院したんだっけ…。で、今日から高校に行かないといけないんだ。
遡ること中学二年生の秋、とある事情で私は意識を失った。そして中学卒業ギリギリまで、私は病院でずっと眠りについていたそうだ。
解離性健忘漢字(記憶喪失の一種)、それが私の患った病だ。私はどうやら重要な記憶を失ってしまっているみたい。
白衣のおじいさんは言っていた。記憶を完全に取り戻すのは大変なことだから、日々の生活の中でゆっくり見つけていこう、と。
昨日、病院でのあらゆる検査が終わった。そして今日からようやく私の記憶探しの旅が始まる。
…と言ったものの、全く検討がつかない。第一に長い眠りから覚めた私に突然そんなよく分かんない病名突きつけられても困惑しか起きない。
何を、そして誰を忘れてるのかすら分からないのに、どうやって記憶を思い出していけばいいのだろう。
「全くもう、無情なお医者さんだな。手掛かりとかヒントとか一つくらい教えてくれても良くない?」
愚痴を零しながら私はスマホに手を伸ばす。その行動は現代人の逃れられない宿命と言っても過言では無い。
液晶画面が顔を照らすと同時にロック画面に映るのは、三人の写真だ。
夕焼け色に染まった校庭。桜の花びらが彩っている中央にはランドセルを大切そうに抱きしめ、優しく微笑む少女。そして隣のミディアムボブの女の子は犬歯を覗かせ、ブイサインをこちらに向ける。中央の少女の手を握るのは大人びた顔で微笑を唇のふちに浮かべている、まだあどけなさが残る少年。
この写真は多分、私の小学校の卒業式で撮った写真だろう。
中央に映るのは私。ミディアムボブの女の子は確か、私の妹の夏花だ。私が初めて目を覚ました時、目の端に涙を浮かべて病室の隅の椅子で眠っていた。
眠りから覚め私を見た瞬間、大きな目をさらに見開いてまた泣いてたっけ。そんな私の妹は、ずっと付きっきりで私の病院生活の手助けをしてくれていた。
————じゃあ、この男の子は一体誰だろう。
考えを巡らせようとした瞬間のことだった。
「——うっ、痛っ…た…………」
脳を劈くような痛みが私を襲う。嵐のような勢いで浮かび上がる情景は、私の脳をどんどん圧縮していく。あまりの苦痛で部屋がどんどん歪んで、ぼやけていく。上下も分からない世界で立ち続ける力は私に残っていなかった。
「……これ、無理だ」
処理が追いつかずブラックアウトしたパソコンのように、私は再び眠るように意識を失った。
〈記憶の欠片 約束〉
六年間通った見慣れた景色。
オレンジ色に染まった住宅街の坂道。
小学校を卒業した私は、妹と弟、そしてお母さんと一緒に帰路についていた。
「姉ちゃん」
私の右隣を歩いているのは、私より少し背の高い少年。
「どうしたの、怜桜」
お母さん譲りの黒い艶のある髪が夕日を反射している。
「姉ちゃんは中学生になったら何部に入る?」
「えー全然考えてなかったなぁ。怜桜はもう決めてるの?」
私の弟、怜桜は小学五年生で一つ年下。
周りの男の子達より、少し大人びていて綺麗な顔立ちをした弟だ。
その顔は、お父さんの面影を感じさせる。
筋の通った鼻、少し切長で夜の空みたいに黒い目。
なのに中性的な顔立ちで、幼さも感じさせる。
…お父さんは事故でなくなった。
私がまだ小学三年生の夏の頃だった。
その事故を境に、弟は小学生らしい無邪気さを隠し、大人に近づいた。
「俺さ音楽勉強して、それで稼いでいきたいんだ。お父さんみたいに上手くは歌えないけど俺、誰かの心を動かせれるような歌を届けたい」
「凄いね、怜桜は。私なんて全然将来の目標とかも無いのに」
「今日の式でさ、姉ちゃんハープ引いてたじゃん。あれ凄い上手だったよ」
怜桜が私の目を見て微笑む。
「吹奏楽部とか入ってみたらどうかな。姉ちゃんの演奏、もっと色んな人に聞いて欲しい」
「ホントに?私、頑張ってみようかな」
私の言葉を聞いて、お母さんもにこにこ微笑む。
「愛梨、怜桜。みんなには悲しい思いさせちゃってるけど、みんながやりたいこと出来るように、お母さんも頑張るからね。変に遠慮せず、好きなことはどんどん挑戦していきなさい」
その言葉を聞いた私と怜桜は目を合わせて、頷き合う。
「姉ちゃん、約束。俺音楽頑張るから、姉ちゃんも好きなこと全力で頑張れ!」
その言葉と共に差し出された小指。
「もちろんだよ」
私は満面の笑みで怜桜と小指を重ねた。
…はっ、今のって…怜桜…私の、弟?
確かに今、怜桜が私の記憶に映っていた。
少し汗ばむ手に握りしめているその電子機器にもう一度視線を落とす。そこにいるのはやっぱり先程の男の子だ。
記憶の中で彼は夢を掲げていた。音楽を勉強して、その歌を多くの人に届けていきたいと。
私が眠っている間に、少しでも夢に近づけたのかな。
「…私は、まだ立ち止まったままだ」
写真に写る彼の笑顔が眩しい。将来への希望に満ちた若葉のように純真な笑み。
立ち止まってないで、私も歩き出さないと。
部屋のカレンダーは、去年から動きを止めている。
私はベッドから起き上がり、それを壁から取り外してゴミ箱に捨てた。
今日は四月七日。高校生活が始まる日。
すうっと息を吸い込めば、花の香りが私の気持ちを高揚させていく。
真新しい制服に身を包み、入学式に向けて支度を進めていく。
胸の辺りまで伸びた黒髪を緩く巻いていると、部屋の扉をコンコンと優しく叩く音が響いた。
扉が開いて顔を覗かせているのは私の三個下の妹、夏花だ。
「お姉ちゃん、もうすぐ時間だよー。遅刻しないように気をつけてね」
「はあい」
準備ばっちり。
踝が覗く長さの靴下。膝より少し上の赤いチェック柄スカート。折れ目もホコリも付いていない綺麗なブレザー。口元できらめく桜色のグロス。
「あとは、これだけだね」
机に目を向けると、そこにはひとつのキーホルダーが大切そうに置かれている。硝子の小瓶に入っている、星の形をした金平糖のような三つの宝石。
指先で持ち上げると、かすかに音がした。
どうして持っているのか。誰にもらったのか。それは、まだ思い出せない。
何故か分からないけれど、これは私にとって大切な物だと、私の直感がそう言っている。
私はそのキーホルダーを、ぎゅっと握ってから鞄にしまった。
「じゃあ行ってきます」
我が家に一時の別れを告げ、外の世界へ一歩を踏み出す。
外に出れば、一段とこの季節の穏やかさを実感できる。
まだ冷たい空気が残る朝、静かな街を抜ける風が制服を揺らし、ひらりと舞った花びらが視界を横切る。
その色に惹かれて視線を移すと、映るのは今まで何百回も見た住宅街の景色。
おそよ一年の空白があったにも関わらず、その景色はただ街路樹の纏う衣装が変化しているだけだった。上を見上げれば、青い背景にモンシロチョウが泳ぐようにふわふわと飛び、スズメはその歌声を自慢するように春の音楽を奏でている。地面を見れば、風や蜂に運ばれた種が芽吹き、その小さな体で大きく伸びをするシロツメクサがある。
どれも普段は気にしないはずの光景だけど、今の私には全てが新鮮に感じられた。
桜の絨毯の上を歩くこと十分。
大きな校舎が長い階段の終点から屋上を覗かせているのが目に入った。
「ここが私が今日から通う高校、だね」
目の前には少し錆びた門が、私たち新入生を歓迎するように大きく開いている。
「よし、これから頑張ろう」
一歩、境界線を跨いだ。
新たな生活へと歩き出したその足取りは希望に満ちていた。
その時の私は、気持ちが浮ついていて気づくことができなかった。
「……あ、いり…?」
風に紛れて消えそうな声。
呼ぶでもなく、確かめるように落とされた、その名前。
その声に、わたしは気づくことがなかった。
ただ、鞄の中の小さなキーホルダーが、微かに音を立てる。
まるで、何かが始まる合図みたいに。
——チュン……チュン……
「……ん…」
耳に春の訪れを知らせる鳥たちの歌声が響く。桜の花びらを連れた風は、レースのカーテンにそっと触れ私の頬を優しく撫でた。暗い部屋に、眩い朝日が差し込む。
自然の目覚まし時計が私を夢から現実世界へと連れ出そうとしている。
その狭間で私はゆっくりと目を開く。白の天井が光を吸収し、視覚を刺激する。花の匂いが私の鼻腔をくすぐる。
まだずっしりと重い頭で、私はゆっくりと思考を始めた。
…そういえば私、もう退院したんだっけ…。で、今日から高校に行かないといけないんだ。
遡ること中学二年生の秋、とある事情で私は意識を失った。そして中学卒業ギリギリまで、私は病院でずっと眠りについていたそうだ。
解離性健忘漢字(記憶喪失の一種)、それが私の患った病だ。私はどうやら重要な記憶を失ってしまっているみたい。
白衣のおじいさんは言っていた。記憶を完全に取り戻すのは大変なことだから、日々の生活の中でゆっくり見つけていこう、と。
昨日、病院でのあらゆる検査が終わった。そして今日からようやく私の記憶探しの旅が始まる。
…と言ったものの、全く検討がつかない。第一に長い眠りから覚めた私に突然そんなよく分かんない病名突きつけられても困惑しか起きない。
何を、そして誰を忘れてるのかすら分からないのに、どうやって記憶を思い出していけばいいのだろう。
「全くもう、無情なお医者さんだな。手掛かりとかヒントとか一つくらい教えてくれても良くない?」
愚痴を零しながら私はスマホに手を伸ばす。その行動は現代人の逃れられない宿命と言っても過言では無い。
液晶画面が顔を照らすと同時にロック画面に映るのは、三人の写真だ。
夕焼け色に染まった校庭。桜の花びらが彩っている中央にはランドセルを大切そうに抱きしめ、優しく微笑む少女。そして隣のミディアムボブの女の子は犬歯を覗かせ、ブイサインをこちらに向ける。中央の少女の手を握るのは大人びた顔で微笑を唇のふちに浮かべている、まだあどけなさが残る少年。
この写真は多分、私の小学校の卒業式で撮った写真だろう。
中央に映るのは私。ミディアムボブの女の子は確か、私の妹の夏花だ。私が初めて目を覚ました時、目の端に涙を浮かべて病室の隅の椅子で眠っていた。
眠りから覚め私を見た瞬間、大きな目をさらに見開いてまた泣いてたっけ。そんな私の妹は、ずっと付きっきりで私の病院生活の手助けをしてくれていた。
————じゃあ、この男の子は一体誰だろう。
考えを巡らせようとした瞬間のことだった。
「——うっ、痛っ…た…………」
脳を劈くような痛みが私を襲う。嵐のような勢いで浮かび上がる情景は、私の脳をどんどん圧縮していく。あまりの苦痛で部屋がどんどん歪んで、ぼやけていく。上下も分からない世界で立ち続ける力は私に残っていなかった。
「……これ、無理だ」
処理が追いつかずブラックアウトしたパソコンのように、私は再び眠るように意識を失った。
〈記憶の欠片 約束〉
六年間通った見慣れた景色。
オレンジ色に染まった住宅街の坂道。
小学校を卒業した私は、妹と弟、そしてお母さんと一緒に帰路についていた。
「姉ちゃん」
私の右隣を歩いているのは、私より少し背の高い少年。
「どうしたの、怜桜」
お母さん譲りの黒い艶のある髪が夕日を反射している。
「姉ちゃんは中学生になったら何部に入る?」
「えー全然考えてなかったなぁ。怜桜はもう決めてるの?」
私の弟、怜桜は小学五年生で一つ年下。
周りの男の子達より、少し大人びていて綺麗な顔立ちをした弟だ。
その顔は、お父さんの面影を感じさせる。
筋の通った鼻、少し切長で夜の空みたいに黒い目。
なのに中性的な顔立ちで、幼さも感じさせる。
…お父さんは事故でなくなった。
私がまだ小学三年生の夏の頃だった。
その事故を境に、弟は小学生らしい無邪気さを隠し、大人に近づいた。
「俺さ音楽勉強して、それで稼いでいきたいんだ。お父さんみたいに上手くは歌えないけど俺、誰かの心を動かせれるような歌を届けたい」
「凄いね、怜桜は。私なんて全然将来の目標とかも無いのに」
「今日の式でさ、姉ちゃんハープ引いてたじゃん。あれ凄い上手だったよ」
怜桜が私の目を見て微笑む。
「吹奏楽部とか入ってみたらどうかな。姉ちゃんの演奏、もっと色んな人に聞いて欲しい」
「ホントに?私、頑張ってみようかな」
私の言葉を聞いて、お母さんもにこにこ微笑む。
「愛梨、怜桜。みんなには悲しい思いさせちゃってるけど、みんながやりたいこと出来るように、お母さんも頑張るからね。変に遠慮せず、好きなことはどんどん挑戦していきなさい」
その言葉を聞いた私と怜桜は目を合わせて、頷き合う。
「姉ちゃん、約束。俺音楽頑張るから、姉ちゃんも好きなこと全力で頑張れ!」
その言葉と共に差し出された小指。
「もちろんだよ」
私は満面の笑みで怜桜と小指を重ねた。
…はっ、今のって…怜桜…私の、弟?
確かに今、怜桜が私の記憶に映っていた。
少し汗ばむ手に握りしめているその電子機器にもう一度視線を落とす。そこにいるのはやっぱり先程の男の子だ。
記憶の中で彼は夢を掲げていた。音楽を勉強して、その歌を多くの人に届けていきたいと。
私が眠っている間に、少しでも夢に近づけたのかな。
「…私は、まだ立ち止まったままだ」
写真に写る彼の笑顔が眩しい。将来への希望に満ちた若葉のように純真な笑み。
立ち止まってないで、私も歩き出さないと。
部屋のカレンダーは、去年から動きを止めている。
私はベッドから起き上がり、それを壁から取り外してゴミ箱に捨てた。
今日は四月七日。高校生活が始まる日。
すうっと息を吸い込めば、花の香りが私の気持ちを高揚させていく。
真新しい制服に身を包み、入学式に向けて支度を進めていく。
胸の辺りまで伸びた黒髪を緩く巻いていると、部屋の扉をコンコンと優しく叩く音が響いた。
扉が開いて顔を覗かせているのは私の三個下の妹、夏花だ。
「お姉ちゃん、もうすぐ時間だよー。遅刻しないように気をつけてね」
「はあい」
準備ばっちり。
踝が覗く長さの靴下。膝より少し上の赤いチェック柄スカート。折れ目もホコリも付いていない綺麗なブレザー。口元できらめく桜色のグロス。
「あとは、これだけだね」
机に目を向けると、そこにはひとつのキーホルダーが大切そうに置かれている。硝子の小瓶に入っている、星の形をした金平糖のような三つの宝石。
指先で持ち上げると、かすかに音がした。
どうして持っているのか。誰にもらったのか。それは、まだ思い出せない。
何故か分からないけれど、これは私にとって大切な物だと、私の直感がそう言っている。
私はそのキーホルダーを、ぎゅっと握ってから鞄にしまった。
「じゃあ行ってきます」
我が家に一時の別れを告げ、外の世界へ一歩を踏み出す。
外に出れば、一段とこの季節の穏やかさを実感できる。
まだ冷たい空気が残る朝、静かな街を抜ける風が制服を揺らし、ひらりと舞った花びらが視界を横切る。
その色に惹かれて視線を移すと、映るのは今まで何百回も見た住宅街の景色。
おそよ一年の空白があったにも関わらず、その景色はただ街路樹の纏う衣装が変化しているだけだった。上を見上げれば、青い背景にモンシロチョウが泳ぐようにふわふわと飛び、スズメはその歌声を自慢するように春の音楽を奏でている。地面を見れば、風や蜂に運ばれた種が芽吹き、その小さな体で大きく伸びをするシロツメクサがある。
どれも普段は気にしないはずの光景だけど、今の私には全てが新鮮に感じられた。
桜の絨毯の上を歩くこと十分。
大きな校舎が長い階段の終点から屋上を覗かせているのが目に入った。
「ここが私が今日から通う高校、だね」
目の前には少し錆びた門が、私たち新入生を歓迎するように大きく開いている。
「よし、これから頑張ろう」
一歩、境界線を跨いだ。
新たな生活へと歩き出したその足取りは希望に満ちていた。
その時の私は、気持ちが浮ついていて気づくことができなかった。
「……あ、いり…?」
風に紛れて消えそうな声。
呼ぶでもなく、確かめるように落とされた、その名前。
その声に、わたしは気づくことがなかった。
ただ、鞄の中の小さなキーホルダーが、微かに音を立てる。
まるで、何かが始まる合図みたいに。

