扉が静かに閉じられる。
すると、階下の明るい気配が遠ざかり、ハルネの部屋には静やかな気配が色濃く残った。
部屋の明かりは付いていない。
月明かりだけでも十分に明るかった。
窓辺には小瓶の集まり。
薄紫色のカーテンには押し花飾り。
窓は閉じられていたが、カーテンの布からか、どこか春の花の匂いが漂ってくる。
作業机の上には、煩雑に小物や小道具が散らかっている。
物は多いが整然とした部屋。
大きなベッドにすやすやと寝ているハルネの顔に、カーテンの隙間から月明かりが差した。
生活感漂うその部屋に、今は一つの異質な気配が在った。
ヴァルグレイ・ゼオファルド。
いつものクセで気配を薄く保ってはいるが、その表情だけはいつもと違っていた。
焦り、安堵、困惑、あるいはそのどれでも無い。
ベッドから半歩横に立ち尽くしている彼の感情は、現在の表情からは分からない。
ただ、どこか所在無さげな彼は、年齢に見合わず、なぜか幼く見えた。
彼は、気を落ち着かせようとする。
そのための深呼吸を一つ。
「……甘い」
蜂蜜と花茶を混ぜたような、淡くて柔らかい甘い香り。
彼女を腕に抱いた時の、やけに熱い体温を思い出させた。
「…………くっ……」
この部屋は良くない……直感的にそう感じ取った。
正気を保てる気がしない。
呼吸をするたびに喉が震えた。
「……落ち着け」
あえて言葉にし、自らに言い聞かせる。
現況を感じ取り、やるべき事を思いだせ。
彼女への気持ちに囚われるな……
……そうだ、彼女を。
シャリエナ嬢からも頼まれた。
ハルネ嬢の容態を、見なければ……
ベッドで寝ているハルネ嬢の顔を観察する。
「……ふへ……へ……」
小さな寝息の合間に、微かに笑ったような声。
ふっ……のんきなものだ。
彼女の邪気の無さに、思わず心が綻んだ。
……………
部屋の中央に置かれたテーブル。
そこにあった椅子を拝借し、ベッド脇へとそっと置いた。
椅子に腰かけ、さきほどのリオーネの診断を思い出す。
「……寝不足、か」
……良かった。
……本当に良かった。
教会で倒れた時は、本当に肝が冷えた。
今思い返しても、あれほど取り乱したのは記憶に無い。
命に別状は無い。
しかし、リオーネは興奮剤の反作用とも言っていた。
……あの時だ。
薬草店で悪漢を棚に叩きつけた時、何かの粉が舞って彼女がむせていた。
おそらくはあの時だろう。
……クソっ、もっと淡々と静かに制圧も出来たハズなのに。
冷静さは保っていたはずが、やはり悪意の感情色を視て、どこか昂ってしまっていた。
悪意の色を視ると冷静ではいられない。
任務に支障をきたすことは無いが、やはりどこかで焦りが出るのだろう。
早く目の前から消えろ。 さっさと消してしまえ、と。
それが……
――さあ見ろ。
――ベッドで眠る彼女を、しかと見据えろ、ヴァルグレイ・ゼオファルド。
――これがお前の『罪』だ。
――彼女が倒れたのは、お前のせいだ。
――お前のやってきたことを、しかと見ろ。
――まだまだ苦しめ。
――それが、お前への、『罰』だ。
もう一人の自分が、そう嘯く。
彼女の首に掛けられた十字のロザリオが、
私の罪をさらに責めたてるように、月明かりに反射した。
……クソっ。
……クソっ!
クソめがっ!!
左眼の魔眼がじくじくと痛む。
あの、醜い黒濁の灰色が…………私は、大嫌いだった。
悪意ばかりを見せるこの魔眼が、大嫌いだった。
視たくないものを、強制的に視せられる。
そのたびに自分が汚れていくような、そんな錯覚を感じ続けていた。
これは、永遠に終わらないのか?
私が死ぬか、この世の悪意が滅びるまで……
私は視続けなければいけないのか……?
……ならば仕方あるまいと、いつだったか覚悟を決めた。
悪を斬れ、と。 悪意を絶て、と。
その魔眼で持って悪の色を消し飛ばすのだ、と。
そうして私は悪意だけを見つめ続け、いつしかそれが人間の本性なのだと見切りを付け始めた。
――「悪意の色なんて、その人が持ってる一部だよ」
ハルネ嬢の言葉が蘇る。
……クソっ。
……クソっ!
……畜生めっ!!
そんな事は…………分かっているんだっ!!
じゃあ、一体、私はどうすればいいんだっ!
私の人生が間違っていたとでも言うのか!?
悪意がすべてと思って、悪人を潰してきた!
そう割り切って、魔眼は罰と思って、嫌な物も見続けてきた!
他の生き方が……存在したのか!?
この魔眼のせいで誰も信じられなくなった。
心から信じる事が出来なくなった。
孤独に生きた、この半生が……全て、間違いだとでも言うのか、ハルネ嬢っ!!
眩い彼女に心を惹かれ……彼女を想う罪にも向き合った事はあった。
だが、彼女を追いかけ、同じ魔眼を持っていると気付いたとき、私は救われたような気持ちにもなった。
……同じ境遇の人間がいる。
私は、より一層惹かれた。
しかし、あろうことか、彼女は、悪意と向き合おうともしなかった。
そんな感情なんてあって当たり前。
特別気にしようともしない。
その態度に、私の心は大きなささくれを残した。
……あの色が視えないのか? ハルネ嬢?
あの、どす黒く、禍々しく、見れば誰もが滅入ってしまうような、感情の色が……
なぜ、あれを視て、人を許せるのだ……キミは……
彼女に惹かれているのは間違いなかった。
だが同時に、私は、腹が立って……彼女が、憎くて仕方がなかった。
悔しい……!
自分はあんなに苦しんでいるのに……
なぜあんなに軽く受け流せるのか……
ズルい……
幼子のような、そんな幼稚な感情が、あとからあとからやってきた。
憎くて、悔しくて、私は、彼女に……初めて他人に怒りをぶつけた。
――「視えるだけでしょ? 感情だけが」
またしてもハルネ嬢の言葉が蘇る。
ああ、そうだよ。
視えるんだよ、私には。
私には、もう、悪意の色しか、視えないんだ。
だが……
もう、知っている。
もう、視せてもらった。
キミに。
キミの色に。
キミの感情に……
「……ああっ」
教会の彼女を思い出し、思わず声が出てしまう。
喉奥が震える。 胸が痛い……
何も考えられなくなり、顔を手で覆う。
……なんという、儚く、気高く、美しい、色なのだ。
彼女が見せてくれた――薄紅色の感情色は……
私がこの人生で初めて視る……
この世のどんなものよりも……
美しく、眩く、優しく、形容のしようもないほど、それは――感情的な、色だった。
またしても彼女に壊された。
アレを目にしてから、もう何が正しいのか自分でも分からない。
ただただ、自分の無価値さを知らしめられるだけ。
同じ魔眼を持った彼女は、あれほど美しい感情の色を持っているのに……
同じ魔眼を持った私は、こんなにも感情が濁っている。
「……くっ…」
心を揺さぶられた影響か、急に眩暈を感じた。
身体は全く疲労していないが、精神が摩耗しているのは確かだった。
ハルネ嬢は……まだ健やかな寝息を立てている。
寝不足……か。
思い返せば、私も、昨夜は仕事や調べ事で、一睡もしていない。
睡眠を一晩抜かした程度でふらつくとは……私も歳をとったものだ。
気分を変えるため、ふらついた頭を抑え、立ち上がる。
「……ふぅ」
深呼吸を一つ。
……彼女を彷彿させる、蜂蜜のような甘い空気が肺を満たす。
やはりこの部屋は良くない。
女性の部屋という事で、遠慮の気持ちは多段にある。
しかし、気を紛らわしがてら、周りを少しだけ見渡す。
すると、部屋に入った時から気になっていたモノが、月明かりに照らされ輝いていた。
「……これは」
それは小瓶に入った色とりどりのポーションのようだった。
いくつかには紙のラベルが貼り付けてある。
そういえば、彼女の趣味にそういう物があると聞いた。
たしか、エモパレポーションと言ったか……
印象的だったキレイな色を取っておくのだ、と。
……彼女らしい趣味だ。
一つ手に取ると「リゼラちゃんのよろこび」や「ギルド長の誇り」など、感情の種類が書いてある。
……彼女の見る世界は、こんなにも綺麗な物なのか、と感心していると、気になるラベルを見つけた。
――『オジさまの葛藤』
これは……
それは白色と黒色が綺麗に分かれているポーションだった。
オジさま……つまり、私の事だ。
私の葛藤……タイミング的に、おそらく昨日の夕方の、私の事だろう。
あの時、確かに私は葛藤はしていた。
だが、彼女は私の感情色は視えないと言っていた。
……想像で作ったのか。 これを。
葛藤は、苦悩の感情色だ。
混沌の黒色を基本に、様々な感情が入り混じる。
なんてことだ……
葛藤や苦悩のような、マイナスの感情すら、彼女は楽しんで作っている。
忌避されるべき感情を、大切そうに、瓶で保存しようとしている。
本当に綺麗な物なのだと、そう認識している。
……ああ、また……
変えたはずの気分が揺り戻される。
彼女の価値観に触れるものが、私の全てを大きく揺るがす。
「……うっ…」
再度ふらつきを覚え、椅子に倒れこむようにして座った。
理解できない……
私には、負の感情を、愛おしみ、尊ぶなど、まったく理解できない。
だが、彼女は本気でそう思っている。
……怖い。
……彼女が怖い。
教会で彼女が迫ってくる時も、そう感じた。
彼女が近づくたび、私の何かを壊していく。
耐え難い……
それは、まるで、自分の人生を否定されているようで……
自分の存在が消えてしまいそうで……
自分を消してしまう彼女が、恐ろしくて仕方が無かった。
……だが、同時に。
壊れたナニカを、彼女が埋めてくれる感覚もまた、感じていた。
彼女が包んでくれる予感もまた、感じていた。
壊してくれる心地よさすら、感じていた。
そう、真に恐ろしいのは……
それを「良し」と受け入れてしまいそうな自分だった。
自分は許されない存在なのだ。
それでもこの娘を受け入れてしまいたいという欲望。
矛盾した二つの感情が、私の心をさらに苛む。
もう、自分一人では整合が取れない。
「……キミは、答えを、知っているのか?」
教会で彼女の、気高い献身を感じ取った時……
私は期待してしまった。
この混乱と、そして怖れを……そこから私を、救ってくれるのか? と。
ハルネ嬢の寝顔に視線を移す。
穏やかな寝息。
甘い香り。
無防備な顔。
いつの間にか、自分の手が勝手に伸びていた。
まるで何かに縋るように……
私は、寝ている彼女の、手を、そっと握る。
……足りない。
私は無心に、手袋を外した。
寝ている彼女の手を、素手で握る。
彼女の体温を直に感じとる。
……温かい。
その、温かさが、何にも代えて心地よかった。
代えがたいほど、安心をくれた。
沸き上がるのは、ただただ無垢な、畏敬。
優しく、ヒナを包むように、彼女の右手を両手で包む。
何よりも何よりも大切に……
どんなものよりも大切に……
そして、彼女に、すがる様に……
目を瞑り、祈りを捧げる。
「……どうか、私を……」
手を握り、ただ祈りを捧げる。
彼女の……温もりと……匂いに……包まれて……
心地いい……
このまま……もう少し……溺れて……
……いや……ダメだ……寝て、は…………
……………
ハルネの手を握り締めたまま……
ヴァルグレイの意識は、虚空へと落ちた。
その時、結び目が緩んだ眼帯が頬を掠めてズレ落ちる。
静かに、そして優しく。
むき出しになった左眼に、月光が触れた。
それに気付く意識は、彼にはもう、残っていなかった。
