私は狂っている。
――いつからだ?
――あの夜の抱擁か? いいや……
私は狂っている。
あの人懐っこい笑顔が、泣き顔が、脳裏に焼き付いて離れない。
ひと時たりとも。
私は、もう、狂っている。
こうして書類を書いている今も、目が、彼女の丸い筆跡を探してしまう。
……あるはずも無いのに。
あの時抱いた彼女の柔らかさ。
どこか新鮮なハーブのような彼女の匂い。
涙に滲んだ、尊い、琥珀色の瞳。
あれらが私を壊してしまった。
彼女に触れたい衝動が、彼女を嗅ぎたい情動が、嵐のように私の中を荒れ狂う。
それらの抑え難き衝動も、また、鎮まる事は無い。
バカな話だ。
四十もとうに過ぎた男が、初……などと。
親と子ほども年の違う彼女を、どうにかしようなどと。
「烏滸がましい」
……いや、違う。
これは「罰」だ。
この己の忌まわしい異能を直視しろという戒め。
それが彼女という「光」を曇らせた罪を思い知れ、と。
なぜ私はあのような言葉を……
耐えられなかった。
彼女への想いの強さがゆえ、毒のように捻じ曲がった。
……であるならば、最早、彼女を想う事すら罪なのだ。
既に、それだけの事をしてしまっている。
求めて止まないこの情動。
そして胸に灯る、激しい熱……そして、汚らわしい、欲情。
認めるワケにはいかない。
……もしも、
ただ一つ、赦しを得られるとするならば、
私は、彼女を、守りたかっただけなのだ――
―――――――
そこは一人の私室としては少々広い部屋だった。
落ち着いた色の木目の戸棚には、整然ときっちりと資料が並べられ、床にはチリ一つない様子。
隅に観葉植物が一つ。
天井の魔石ランプの、ほの明るい蛍光が、部屋に寂しさを彩らせている。
第二調査局、副局長室。
すでに時は深夜。
ハルネを家に送った後、ヴァルグレイ・ゼオファルドはこの部屋でひたすらに書類と格闘していた。
たった1日空けていただけにも関わらず、机には、決済、調査報告書、予算決議資料、など様々な重要書類が重ねられていた。
彼は黙々と書類を右から左へ流す。
気になる点を備考で埋め、指針を促し、報告が適正かをしかと判断する。
彼は決して仕事に手を抜かない。
それでも長時間、細かい文字を見つめ続けるのは、さすがのヴァルグレイも疲労が溜まる。
ひと段落付いたところで、目を瞑り、右目の付け根を軽く揉む。
「入るわよー」
――コンコン
ドアを開け、伺いを立ててから、ノックする。
入室の順番をまるで無視して入ってきたのは、リオーネ・エメルラーデ。
魔法省からの出向治癒術士だが、今現在はヴァルグレイの部下、という扱いになっている。
「……何の用だ」
先にノックしろ、と、何度注意したか分からない言葉を彼は飲み込んだ。
レルガといい、どうして自分の部下は注意を聞かないのだという愚痴も飲み込む。
「なにさ、つれないわね。 せっかく差し入れ持ってきてあげたのにぃ」
そう告げたリオーネの手には酒瓶とグラスが2つ。
よく見れば顔が赤い。
どこぞで酒でも飲んできて、ここで飲みなおそうという腹だ、と、彼は当たりを付けた。
しかし、とうに就業時間は過ぎている。
プライベートに文句を言う程、ヴァルグレイは他人に興味を持っていない。
「つまんねー仕事なんかほっといてさぁ、飲みましょうよー?」
自身は机に腰かけながら、ゴトリ、という音と共に酒瓶とグラスを乱暴に机に置くリオーネ。
鬱陶しさから、思わず苦言を呈すヴァルグレイ。
「……貴様、以前から思っていたが、上司に対してその言葉遣いは」
「あーあーあー、うるさーい。 中年男のみみっちい小言なんか聞きませんー。 別にいいじゃない、付き合いは長いんだしさぁ」
ヴァルグレイとリオーネは、軍時代から数えればすでに十数年の付き合いだ。
所属が違うため、それほど多く顔を合わせる事は無かった。
しかし、出向で部下となってからは、付き合いの長さからか、リオーネは一貫して気安い態度を取り続けていた。
「……とにかく、要らぬ用だ。 まだ仕事も残っている」
「そんなツレない事言わないでさー。 これ、美味しんだから。 受けなさいよー、アタシの差し入れ~」
「…………」
やたらと絡んでくるリオーネ。
酔っぱらいの相手など、と、無視を決め込もうとしたヴァルグレイ。
「ん~? でも、アンタ、甘いの嫌いだったっけ? まあまぁいいからさ、とにかく飲んでみんさいよ、この、いわゆるひとつの~『蜂蜜酒』!」
「……蜂蜜酒?」
昼間、耳にしたばかりのその単語に、思わず反応を見せるヴァルグレイ。
「アレぇ? 興味あり? じゃあほら、飲みましょ! かなり甘いけど美味しいんだから!」
善は急げとばかりに、持参したグラス2つに蜂蜜酒を注ぐリオーネ。
「……いらん。 お前が飲め」
仕事もまだ随分と残っていると、理由を利かせるヴァルグレイ。
「ええ~?? もう注いじゃったしぃ。 んもう、ちょっとぐらい……」
リオーネは注いだグラスをヴァルグレイの方へ薦めながら、甘え声で……
「いいじゃないのさ」
そう、嘯いた。
その妙に軽い語尾・口調が、彼に、誰かの影をかすめさせた。
度合いにしてほんの微かに、ヴァルグレイの表情に痛みが混じる。
酔っているリオーネはそれに気付かない。
そして、何を思ったか。
ヴァルグレイはグラスを手に取り、一気に、注いであった蜂蜜酒を喉に流し込む。
そこそこ強い酒だったようで、喉奥と胃腑にドロリとした熱が落ちた。
「……甘い」
「おぉ~?? 絶対断られると思ってたのにイケルじゃん! ほらほら、もっと飲みんさい!」
空けたグラスに即座に代わりを注ぐリオーネ。
楽しそうなリオーネの表情と、対称的にどこか苦々しい表情を見せているヴァルグレイ。
注がれた蜂蜜酒を即座に胃に流し込む。
その様子はまるで、違う箇所に灯った熱を、アルコールの熱で誤魔化そうとしているようにも見えた。
……………
空けたばかりだった蜂蜜酒が3分の1を切るくらいの時間を過ぎた頃。
それまでグダグダと仕事の愚痴を一方的に吐いていたリオーネは、黙ったまま飲むヴァルグレイに不満を抱く。
そして、彼が嫌がるであろう話題を切り出す。
「そういえばー、アンタ、今日会議もあったってのに、1日空けてたじゃない? 大変だったんだからこっちは」
「…………」
誤魔化すように、グラスに口をつけるヴァルグレイ。
「さっき、レルガ坊やに聞いたわよぉ? あ・の・子に、1日付いてたんだって~?」
「……捜査に必要な事だ」
目線を逸らすヴァルグレイ。
酔っているリオーネはそれに気付くことなく言葉を続ける。
「あはは! まぁアンタが仕事を放りだすなんて考えてないけどさー、セーヴラン局長も珍しがってたわよ~? 現場に出たがってた事も含めて、ね?」
「…………」
ヴァルグレイの、グラスを握る手に力が入った。
「これもレルガ坊やに聞いたけどぉ、事件そのものはそんなに大ごとじゃないんでしょ? 見通しが立ったみたいな事言ってたし?」
「……ああ、事件そのものは、な。 今日彼女に付いていって黒幕の影も掴めた。 解決までもうそれほど時間はかからないだろう」
「……ふーん?」
「……なんだ?」
「随分饒舌じゃない?って。 普段のアンタなら必要な事以外しゃべんないのに」
「……酒のせいだろう」
リオーネの鋭い指摘に、誤魔化すようにグラスを煽るヴァルグレイ。
「ねえ、あの、ぽちゃ猫ちゃんと今日1日ずっといたんでしょ? 何話したのさ?」
「……他愛もない事だ」
「ええ~?? 隠すなよぉ~? 言え! コラ!」
そう攻めながら、もっと話を聞こうと、ずずいと、ヴァルグレイと物理的に距離を詰めようとするリオーネ。
魔女帽の下から静かに流れる濃い紫色のストレートロング。
そこから漂う香りが、ふわりとヴァルグレイに迫った。
ヴァルグレイは同じ距離だけ離れる。
「……近い」
「ああ、出た! 長年アンタに付き合ってるアタシですらそんなザマだもの! ぽちゃ猫ちゃんも可哀想よねー? こんな真正女嫌いのヴァルグレイ・ゼオファルドと一緒になんてさー?」
「…………」
大げさに頭を振って、彼女への同情を示すリオーネ。
ふるふる揺れる髪先と魔女帽が、大分酔っているリオーネの状態を現わしている。
腰かけていた机から降り、今度は机に突っ伏すリオーネ。
「あ~、冷たくてきもちいー。 ……あのぽちゃ猫ちゃん、可愛かったな~。 ぷにぷにしてて、髪もふわふわで、眼もクリっとしてて……廊下でスレちがっただけだけど、お話ししたかったな~」
「…………」
「泣かせたんでしょ? あの子。 目元が赤かったもん。 どうせアンタの事だから、すっごい冷たい言い方したんでしょ?」
「…………」
「ほれ、図星~。 あんな可愛い若い子泣かせてさ~。 よくその後1日一緒にいれたもんよ。 アンタ、おっかないし、冷たいし、彼女……嫌がってたんじゃないの~?」
「そんな事は無い。 彼女は懸命に、私と親しくなろうと努力していた」
「お、おお?」
からかい半分だったリオーネは、思わぬヴァルグレイの反論にたじろいだ。
「な、何よ~? ずいぶん彼女を庇うじゃないのさ。 惚れちゃったの~? オ・ジ・さ・ま?」
「その言い方はやめろ」
「お、おおぉ??」
またしても強い口調で反論するヴァルグレイに、いつもと違う感じを受けるリオーネ。
「…………」
真顔に戻り、ジッとヴァルグレイを観察するリオーネ。
その様子は、さきほどまでベロベロに酔っていたとは思えない。
顔こそ赤いものの、彼女の本来の聡明さを垣間見せる表情。
やがて、何かを納得したかのように、笑顔で頷くと……
「うん。 酔い、覚めちゃった。 またね、ヴァルグレイ」
突然そう切り出すと、来た時と同じように唐突に去っていくリオーネ。
「あっ、その残りの蜂蜜酒、あげるわ。 仕事のアテに飲んだら? じゃね」
ドア前でそう勝手に告げると、未練も無しに彼女は出て行った。
唐突にテンションを変えた彼女に訝しむも、
ヴァルグレイは、女性のそういった所も苦手なのだと思いなおす。
「ふぅ……」
アルコールの染みた身体から、それを吐き出すように溜息を一つ。
火照る顔を冷まそうと、部屋の窓を開くと、白く輝く月の光が右目に飛び込む。
その白銀に輝く月光を浴びながら、己の左眼の眼帯を押さえる。
それとともに、夕方、制御の効かない感情を彼女にぶつけてしまった後悔を思い出す。
「……くっ」
罪悪感に胸が痛む。
決してアルコールでは飛ばせない痛み。
どうしてあんな事を言ってしまったのか。
ぶつけてしまったのか。
自身でも正体が掴めない。
説明が足りなかった朝と違い、明確に彼女を傷付けた。
傷付ける意図で言葉を吐いた。
どうしても彼女が許せなかった。
……しかし、それを遥かに上回る大きさで、
彼女にそれをぶつけた自分自身が、何よりも許せなかった。
――ダンッ!!
やりようの無い怒りを机にぶつける。
そんな事をしてもなんにもならない。
しかしどこかで痛みを感じなければ。
自分を痛めつけなければという衝動が止まる事は無い。
……どうか、神よ、私の罪を、許さないでくれ。
しばらく胸の内の黒い衝動と争った後、彼の注意は机の書類へと向いた。
「そうだ……仕事の続きを」
早期の事件解決は贖罪でもある。
酔いは覚めたが、まだアルコールの残る身体を引きずり、再び椅子に座った。
ふと、机の上に、リオーネの残していった蜂蜜酒の瓶が目に入る。
――「蜂蜜酒好きなんだ! 良かった! あたしと、おんなじだね!」
耳に、彼女の声が蘇る。
息が詰まった。
……ヴァルグレイは書類を手に取り、仕事を再開する。
無論、この日、彼は、一睡も出来なかった。
~ 第2章 ―完― ~
