香房内は、暗闇に包まれていた。
辺りはひどく荒れている。
木製の棚は無残に砕け、床板の一部は剥がれ、
商品のハーブの香りは、今は焦げた匂いへと塗り潰されている。
そして、暗闇に身を隠した、一人のぽっちゃり乙女――ハルネ。
「……あたし達サフラン姉妹を……ナメるんじゃないわよ……っ!」
その呟きは暗闇に溶け、ハルネは痛みからケープ越しに肩を押さえた。
春色のリボンケープは肩口から大きく裂け、そこから覗く傷痕が生々しい。
苦悶に顔を歪めながらも、小盾の付いたステッキを握りしめ、機を窺っていた。
「どこに行きやがった? だがもう目が慣れて来たぜ!」
がなり声を上げたのは――異形の男。
歪に発達した上半身の筋肉に、血走った眼。
暗闇に沈んだ店内だが、ハルネにだけは状況が手に取るように分かっていた。
――赤黒く濁った感情色。
仄かに光を宿すハルネの蜂蜜色の瞳は、暗闇の中でも異形の輪郭を見失わない。
姿勢を低くしたハルネは、暗闇の中、男の視線を避けながら、店の入り口へと身を滑らせる。
「……くっ」
柱に肩がぶつかり、痛みで思わず顔をしかめる。
幸い、漏れた声が異形の男に気付かれる事は無かった。
移動を終え、左手に小麦ボールを持ったハルネは、右手でステッキの魔石に力を込めた。
「今よ! シャリエナっ!」
――刹那。
煌々と輝く魔石ランプに照らされる店内。
突然明るくなった照明に、異形の男の意識が逸れた。
その隙を逃さず、ハルネは左手のボールを男へぶつけた。
白い粉塵が辺りを濛々と舞った。
「また粉かよっ! もう飽きたぜ!」
男は腕で顔を覆いながら、持っていた棒を、闇雲に振り回す。
凄まじい風切り音が空気を揺らした。
そこへ……
「えーいっ!! ピカパフBっ!!」
カウンターの影から姿を現した別の少女――シャリエナの投げた小瓶が、異形の男に命中し、爆ぜた。
――カッ!
眩い閃光に包まれる店内。
異形の男が怯んだ隙に、ハルネが前へと躍り出る。
握りしめたステッキの先端を、男に向かって突き出した。
「くらえっ! バーストぉッ!!!!」
――ズッバアァァンッ!!
「ぐああああぁぁぁぁっっっ……」
――――――
夜の帳が降りた南街の外れ。
すでに人通りの絶えた商店街の一角に、姉妹の営むサフラン香房はあった。
建物の影には、青い制服を身に纏っている二人組の姿があった。
彼らは何かを話しているが、それが漏れ聞こえる事は無かった。
――ズッバアァァンッ!!
突如、何かの炸裂音が辺りを轟かせた。
どこから聞こえたなどとは問われるまでもない。 店内からだ。
二人組は、反射的に壁に張り付き、闇の気配と同化する。
しばらくして――
――ゴッ、ガッシャーーーンッ!!
店の扉を派手に突き破り、異形の男が二度三度と地面を打って転がっていった。
完全にノックアウトされた男を、身動ぎ一つせず様子を窺う、二人組。
その目の前を、焼け焦げたケープがひらひらと舞った。
――――――
「あたたた……思い出したら肩の痛みが……」
「お姉ちゃん、ごめんね。 お気に入りのケープだったのに」
「シャリエナが無事ならいいのよ。 それに……いい気味よ!」
勝利を確信し、すっかり緊張を解くサフラン姉妹。
ふんすと胸を張るハルネに、シャリエナは少し笑みが戻った。
「片付けは明日にして、プリンでも食べよっか」
「お姉ちゃん。 ご飯の前にスイーツとか、また……」
日常の、いつものやりとり。
気の抜けたやりとり。
荒れ果てた店内を眺めながらも、姉妹の表情は、明るさを取り戻していく。
すでにさきほどの戦いに決着がついた、と……安心しきっていた。
――その時、背後で何かが踏みしめられる音が耳に届く。
「――クソ豚ァァァァァァッ!!!!」
「えっ!」
「……あっ!」
一体、いつの間に起き上がっていたのか。
動くはずの無かった異形の男は、爆発的な踏み込みと共に、一直線に姉妹の元へ――
「お、お姉ちゃんっ!!」
「くっ!! シャリエナ!!」
反射的に妹を突き飛ばすハルネ。
横に弾かれた妹の代わりに、体勢を崩したハルネの視界へ、その凶刃が迫る。
一瞬、時間が引き延ばされたように感じた。
(……お店を守りたかっただけなのに)
煙の残滓の散る様子が、くっきり見てとれた。
(……妹を守りたかっただけなのに)
蹴り散らされたガラス片が舞う様子も、はっきり見てとれた。
(ああ、どうして……あたしはいつもこうなんだろう? でも……)
男の持つ刃の穂先すらも、しっかりと見えた。
(でも……シャリエナを守れてよかった)
刃が、迫る。
――ああ、当たる。
そう、悟った途端、
世界から音が遠のいて……
――代わりに、ドンっ!という鈍い衝突音が、あたしのすぐ傍で弾けた。
……………
「……え?」
次の瞬間、あたしの世界は一変していた。
知らない誰かの腕の中にあった。
混乱の中、視線をゆっくりと上げると、そこには……
淡い灰銀の髪。
琥珀色の瞳。
頬に刻まれた、老練な経験を思わせる皺。
それは、まさに、あたしの……
オジさまは、抱き留めたあたしの顔をじっと見つめながら……
「……間に合って、よかった」
落ち着いた声に、息が詰まる。
その低い声色は、
あたしの胸の奥にそっと、感情の色を灯した。
……そんな素敵な紳士なオジさまに、
……どうして、あたしは抱き留められているんだっけ?
……どうしてこんな夜になったんだっけ?
……ちょっと前の夜までは、
いつも通り、あたしとシャリエナで、くだらない事で笑い合ってたのに。
そう。
話は、少し前の夜まで遡る――
