ミラー☆みらくる!

 今まで感じたことがない、光の中に自分がいるということを、少しずつ実感する。
 立っている足の裏には、床を踏みしめているという感覚がある。
 ひらっと身体を少しひねれば、ふわっと舞う制服のスカートの重みが伝わってくる。

 ……意外に、スカートって重いんだ。

 半袖のセーラー服から伸びる、日焼けした肌。
 そっ、と触ってみると、今までと違う、《熱》を感じる。

「出……ちゃった、の?」

 ふにっと、自分の頬っぺたをつねってみれば、かすかに痛みを感じた。

 《感じた》。そう。感じるの。

 目の前の洗面台の蛇口はちょっぴりヒヤッとして、レバーをあげれば勢いよくジャーッて水が流れ出す。
 触れてみようと手を伸ばすと、水は四方に飛び散った。

「キャーッ!」
 慌てて手を引っ込めるものの、手だけでなく制服も髪も濡れてしまった。
 ポタッと、前髪から落ちる雫が洗面所の床に落ちる。

「現実……よね?」

 おそるおそる前を向く。
 洗面台だから、そこには当然【鏡】がある。
 見たら、どうなるんだろう?
 わたしは、また、戻っちゃうのかな?

 そこに映っていたのは、わたしの姿。
 それともあたしなのかな?
 【鏡】に映る姿は何も反応がない。
 ……向こうは、どうなっているんだろう?

 そっと【鏡】に触れようとしたところ、大きな声が響いてきた。

「莉菜ーっ! いつまで洗面所にいるの! 遅刻するでしょっ」

 多分、お母さんだ。
 とにかく、今は支度して学校に行かないと、だよね?
「はーいっ! 今行く!」

 最後にもう一度【鏡】を見てみるけど、やっぱりそこには莉菜(りな)の姿が映っているだけだった。
 とにかく今は、莉菜として過ごしてみよう!
 だって、せっかく外に出られたんだもん。
 思いもしなかった出来事にワクワクしながら、わたしは洗面所を鼻歌交じりに飛び出した。

 わたしはリナ。
 そう名乗るのが正解かどうかわからないけど、他に名乗りようがないんだ。
 というのも、わたしの本来の姿が別にあるから。
 本来のわたしは、楠木(くすのき)莉菜(りな)夢里(ゆめさと)中学校に通う一年生なの。
 わたしはその莉菜の分身? もう一人の莉菜?
 とにかく、気がついた時からわたしは莉菜を見ていた。
 幼稚園で泥んこになっている時も、小学校で鬼ごっこで走り回っている時も。
 ずっとずっと、【鏡の部屋】の中から莉菜を見ていたの。

 【鏡の部屋】というのは、わたしがいた空間のこと。
 本来の莉菜の部屋とそっくり同じ部屋で、だけど違うのは部屋の壁が鏡だってこと。
 その部屋からは出ることができなくて、部屋の鏡には莉菜の様子がいつでも映し出されていた。
 その様子を、ただ、ただ、わたしは見ているだけ。
 お腹が空くこともないし、五感というのもよくわからない。
 お母さんが用意するご飯を前にして、莉菜が「いい匂い~」と言っていても、「うわ~、納豆! 匂いからして最悪~」って言っていても、その匂いがわたしはわからないんだ。

 でも、それを嫌だと思ったことはない。
 だって、何のために存在しているかはわからないけど、わたしはここで莉菜を見守る存在なんだ。
 それに見ているだけでも、じゅうぶん楽しいし。
 莉菜はいつも笑っているから。お友達と遊んでいる時も、テレビを見ている時も、家族といる時も。
 そんな莉菜を見ていると、わたしも楽しくなってくるから、それでよかった。

 それなのに……。
 なぜか、わたしが外に出てきてしまっている。
 【鏡の部屋】にいたわたしが、感覚も色彩も感じることがなかった【鏡の部屋】から、すべてが輝いて見える表の世界に出てきちゃったんだ。

「もう、莉菜っ。なんでそんな濡れているの」
 リビングに入った途端、お母さんが早口で言うなり、頭からタオルでゴシゴシとわたしの身体を拭きはじめた。
 そういえば蛇口から出した水の勢いがよすぎて、思いっきり水かかっちゃったんだった。

「本当に、そそっかしいわねぇ」
 ため息交じりに言いながらも、手を休めず制服も拭いてくれるお母さんの感覚に、なんだか嬉しくなってくる。
 優しくされる感覚って、こんなにあったかいんだ。
 莉菜が普段お母さんに口うるさく言われるたび、『お母さん、ウザイッ』なんて言ってるけど、本当は感謝しているのをわたしは知っている。
 だから莉菜の気持ちも込めて伝えてみることにした。

「ありがとう、お母さん」

 だけど、お母さんはわたしの言葉を聞いて目を丸くした。
「え? 今日、雨降るんじゃない⁉ 傘、持っていく?」

 人が……人が感謝を伝えてるっていうのに、あんまりだぁ。
 莉菜がウザいって言ったのが、ちょっとだけわかったよ。

「もうっいい! 行ってきますっ!」
 ふてくされて玄関を出ようとするわたしに、クスクス笑いながらお母さんが「行ってらっしゃい」と見送ってくれた。