今まで感じたことがない、光の中に自分がいるということを、少しずつ実感する。
立っている足の裏には、床を踏みしめているという感覚がある。
ひらっと身体を少しひねれば、ふわっと舞った制服のスカートの重みが伝わってくる。
……意外に、スカートって重いんだ。
半袖のセーラー服から伸びる、日焼けした肌。
そっ、と触ってみると、今までと違う、《熱》を感じる。
「出……ちゃった、の?」
ふにっと、自分の頬っぺたをつねってみれば、かすかに痛みを感じた。
《感じた》。そう。感じるの。
目の前の洗面台の蛇口は、ちょっぴりヒヤッとして、レバーをあげれば、勢いよくジャーッて水が流れ出す。
触れてみようと手を伸ばせば、水は四方に飛び散った。
「キャーッ!」
慌てて手を引っ込めるものの、手だけでなく制服も髪も濡れてしまった。
ポタッと、前髪から落ちる雫が洗面所の床に落ちる。
「現実……よね?」
おそるおそる、前を向く。
洗面台だから、そこには当然【鏡】がある。
見たら、どうなるんだろう?
わたしは、また、戻っちゃうのかな?
そこに映っていたのは、わたしの姿。
それともあたしなのかな?
【鏡】に映る姿は何も反応がない。
……向こうは、どうなっているんだろう?
そっと【鏡】に触れようとしたところ、大きな声が響いてきた。
「莉菜ーっ! いつまで洗面所にいるの! 遅刻するでしょっ」
多分、お母さんだ。
とにかく、今は支度して学校に行かないと、だよね?
「はーいっ! 今行く!」
最後にもう一度【鏡】を見てみるけど、やっぱりそこには莉菜の姿が映っているだけだった。
とにかく今は、莉菜として過ごしてみよう!
だって、せっかく外に出られたんだもん。
思いもしなかった出来事にワクワクしながら、わたしは洗面所を鼻歌交じりに飛び出した。
わたしはリナ。そう名乗るのが正解かどうかわからないけど、他に名乗りようがないんだ。
というのも、わたしの本来の姿が別にあるから。
本来のわたしは、楠木莉菜。夢里中学校に通う一年生なの。
わたしはその莉菜の分身? もう一人の莉菜?
とにかく、気がついた時からわたしは莉菜を見ていた。
幼稚園で泥んこになっている時も、小学校で鬼ごっこで走り回っている時も。
ずっとずっと、【鏡の部屋】の中から莉菜を見ていたの。
【鏡の部屋】というのは、わたしがいた空間のこと。
本来の莉菜の部屋とそっくり同じ部屋で、だけど違うのは部屋の壁が鏡だってこと。
その部屋からは出ることができなくて、部屋の鏡には莉菜の様子がいつでも映し出されていた。
その様子を、ただ、ただ、わたしは見ているだけ。
お腹が空くこともないし、五感というのもよくわからない。
お母さんが用意するご飯を前にして、莉菜が「いい匂い~」と言っていても、「うわ~、納豆! 匂いからして最悪~」って言っていても、その匂いがわたしはわからないんだ。
でも、それを嫌だと思ったことはない。
だって、何のために存在しているかはわからないけど、わたしはここで莉菜を見守る存在なんだ。
それに見ているだけでも、じゅうぶん楽しいし。
莉菜はいつも笑っているから。お友達と遊んでいる時も、テレビを見ている時も、家族といる時も。
そんな莉菜を見ていると、わたしも楽しくなってくるから、それでよかった。
それなのに……。
なぜか、わたしが外に出てきてしまっている。
【鏡の部屋】にいたわたしが、感覚も色彩も感じることがなかった【鏡の部屋】から、すべてが輝いて見える表の世界に出てきちゃったんだ。
「もう、莉菜っ。なんでそんな濡れているの」
リビングに入った途端、お母さんが早口で言うなり、頭からタオルでゴシゴシとわたしの身体を拭きはじめた。
そういえば、蛇口から出した水の勢いがよすぎて、思いっきり水かかっちゃったんだった。
「本当に、そそっかしいわねぇ」
ため息交じりに言いながらも、手を休めず制服も拭いてくれるお母さんの感覚に、なんだか嬉しくなってくる。
優しくされる感覚って、こんなにあったかいんだ。
莉菜が普段お母さんに口うるさく言われるたび、『お母さん、ウザイッ』なんて言ってるけど、本当は感謝しているのをわたしは知っている。
だから莉菜の気持ちも込めて伝えてみることにした。
「ありがとう、お母さん」
だけど、お母さんはわたしの言葉を聞いて、目を丸くした。
「え? 今日、雨降るんじゃない⁉ 傘、持っていく?」
……人が、人が感謝を伝えてるっていうのに、あんまりだぁ。
莉菜がウザいって言ったのが、ちょっとだけわかったよ。
「もうっいい! 行ってきますっ!」
ふてくされて玄関を出ようとするわたしに、クスクス笑いながらお母さんが「行ってらっしゃい」と見送ってくれた。
一歩一歩、踏みしめるとアスファルトの硬い感触が、靴の底に伝わってくる。
夢里中学校は坂をのぼった上に学校がある。
どのくらいの坂って、人によっては自転車でのぼることが出来ない人がいるんだとか。
だから、この登校中でも、ぜいぜい言いながらのぼっている生徒もいる。
そんな中、わたしは足取りしっかりと、力強く歩いていく。
莉菜は、陸上部ということもあって体力には自信あり!
多少、息があがってもへばることはない。
どうやら今のわたしは、莉菜の身体そのものみたい。
これって、莉菜の身体にわたしが入り込んだ状態なのかな?
だとしたら莉菜はやっぱり【鏡の部屋】にいるの?
なんでこの現象が起きているのかわからないけど、莉菜だってきっとビックリだよね。
なんとか莉菜とコンタクトをとりたいけど、そうしたらわたしはまた【鏡の部屋】に戻ることになるのかな。
……それって、ちょっとさみしいな。
今までは【鏡の部屋】にいても特になにも感じたりしなかったんだけど、外に出たらこんなに刺激的で楽しいんだもん。
もうちょっとだけ。もうちょっとだけ莉菜としてこの感覚を味わいたい。
だから、ごめんね、莉菜。
今は、もう少しだけ。莉菜として存在させてね。
六月下旬とはいえ、街路樹の隙間から零れる陽射しは思ったより強烈だった。
【鏡の部屋】からみていた時は、ただの映像として見ていたから、陽射しがこんなに眩しいものだとも、肌にひりつく感覚があるとも思わなかったんだもん。
歩いているうちに、少しずつ汗ばむ肌も、坂道をのぼるうちにあがっていく息も。
なにもかもこんな感覚は、はじめての体験!
坂をのぼりきって見上げれば、どこまでも続く広い青空。
こんなに視界が変わるんだ。空の色ってこんなに青いんだ。
「すごーーーーいっ‼︎」
思わず両手で空を抱きしめたくなるくらい感動していたら、頭にバコンッ! と衝撃がはしった。
痛かったわけじゃないけど、何が起きたのかと振り返ったら、そこには莉菜の親友、道場芹香ちゃんが呆れ顔をして立っていた。
「芹、香ちゃん?」
頭をさすりながら声をかけると、芹香ちゃん大きくため息をついた。
「朝っぱらから正門近くでなに騒いでるのよ、恥ずかしい」
芹香ちゃんは莉菜と同じ陸上部に所属していて、ハードル走をやっている。
百六十センチを超える身長の芹香ちゃんがハードルを飛び越える様は、すごくカッコいいんだ。
それに、その時になびくショートカットの髪が、きれいなの。
鏡越しに見ていて、思わず見とれちゃったくらい。
その芹香ちゃんが、今、目の前にいる。
「芹香ちゃんだぁーーーーっ!」
思わず嬉しくなって、芹香ちゃんに、むぎゅっと抱きついた。
多分、幼い頃に離れ離れになった友達に再会できたような気持ちじゃないかな。
「うわっ! どうしたの? 莉菜」
「なんでもなーいっ!」
「なんでもないって……」
いきなりのハグに戸惑いながらも、芹香ちゃんは諦めて天を仰いだ。
ふふっ。優しいんだよね、芹香ちゃん。
そそっかしい莉菜は、とにかくうっかりミスが多い。
そんな莉菜をなにかとフォローしてくれるのが芹香ちゃんなんだ。
時には厳しいことも言われちゃうんだけどね。
でもそこにだって、芹香ちゃんの愛を感じるから、言われても嫌な気持ちにならないんだ。
そんな芹香ちゃんと、実体として対面したことで、わたしの嬉しい気持ちは最高潮で、ついついハグにも力が入っちゃう。
「莉菜ー、ちょっと力強すぎだし、そろそろ離れて欲しいんだけど」
あやすように、ぽんぽんと背中を叩いて離れるように促されたから、素直に離れることにした。
「えへへーっ」
「なぁに? 今日はやけに甘えん坊だね。あ、さては、また勉強してきてないな」
「へ……?」
勉強って、なんだっけ?
「その反応、まさか忘れてるんじゃないよね?」
忘れているというか【鏡の部屋】から出てきて、いろんなはじめてに興奮しすぎて、勉強というワードが完全に頭から抜け落ちていた。
でもなんだか、奥の方でチカチカと警告するように響いてくる。
なんか、大切なことを忘れているんじゃないの?
思わず考え込んでしまった私に、芹香ちゃんがその警告の正体を教えてくれた。
「今日、英語の小テストだって、わかってるよね」
「――そうだったっ!」
その瞬間、わたしが【鏡の部屋】から出る直前に、莉菜が落ち込んでいたことを思いだした。
莉菜は洗面所で顔を洗ったあと、鏡と睨めっこしながらブラッシングしていた。
だけどずっと、ため息が零れて止まらない。
どうしたんだろう? 普段の莉菜は元気いっぱいで、女の子なのに身だしなみもあまり気にしないタイプだから、さっさと支度を終えて飛び出していっちゃうのに。
今日は全然洗面所から離れる気配がない。
「あー……学校行きたくないな」
俯きがちに莉菜が呟いた言葉を聞いて、わたしはすごくビックリした。
あんなに学校大好きなのに、どうして?
クラスでも楽しそうに過ごしているし、部活だって熱心に練習しているのに。
そんな莉菜が憂鬱になるものって……と思いを巡らせて、ひとつの理由に思い当たった。
そうだ! 今日は英語の小テストがあるんだった!
莉菜が学校で唯一嫌いなもの。それが勉強だった。
身体を動かすのが大好きな莉菜は、机でジッとしていることがつまらなくて、教科書も先生の話も全然入ってこないらしい。
だから当然、小学生の頃から成績は良くない。
通知表は体育と音楽だけが飛びぬけている。
お父さんやお母さんには呆れられるけど、それでも今までは強く注意されてこなかったからたいして気にしていなかったのに、中学に入ったら事情が変わったの。
それは、部活の方針が文武両道だっていうこと。
中間や期末テストで赤点をとった生徒は、どんなに部活の成績が優秀でも試合に出させてもらえない。
部活が生きがいの莉菜にとっては大問題!
だったら頑張って勉強すればいいと思うのに、本当に大嫌いみたいで教科書を開こうともしないんだよね。
そんなわけで莉菜はため息をついていたんだ。
「学校、行きたくないなぁ」
何回目かの呟きを聞いて、わたしは思ったんだ。
あまりに莉菜が落ち込んでいたから。そんな莉菜を今まで見たことがなかったから。
『かわってあげられるなら、かわりに行ってあげたいけどね』
その瞬間、辺り一帯、目を開けていられないくらい眩い光に包まれたんだ。
そっか。あれがキッカケだったんだ。
かわってあげたいなんて思ったのはじめてだったし、まさか本当に入れ替わっちゃうなんて思わなかったんだけどね。
「莉ー菜。ぼぉーっとして、どうしたの?」
入れ替わりの原因に思い当たったことで、思わず考えごとに集中しちゃった。
芹香ちゃんが、手のひらをヒラヒラさせて心配そうに顔を覗き込んでいた。
「小テスト! どうしよう!?」
こうして莉菜と入れ替わったところで、今まで勉強なんてしてきたことないし、わたしの頭の中は莉菜と同じくらいの知識のはず。
つまりは、勉強できない状態なのはかわらないのだ。
「本当に、しょうがないなぁ」
はぁっと、大きく声に出して芹香ちゃんがため息を吐いた。
「芹香ちゃん?」
「小テストは範囲が限られているし、今からでも詰めこめばちょっとは点数とれるはずよ」
「本当!?」
「って、昨日もそう言ったはずなんだけどね」
呆れた様子で言われてしまえば、「あはは」と笑ってごまかすしかない。
だって部活で走りこんだらすぐに、小テストの勉強しなくちゃいけないことなんて忘れちゃったんだもん。
そんな莉菜に、呆れながらでもこうして面倒見てくれようとする芹香ちゃん、やっぱり大好き。
「ありがとうっ、芹香ちゃん! よし、早く教室行こうっ!」
「ちょ、莉菜! 急に引っ張らないでよ」
「だって少しでもはやく教室行かなくちゃっ」
「そう思うなら、ちゃんと前日勉強してきなさいって」
「はーいっ」
調子のいいわたしの返事に苦笑いしながらも、芹香ちゃんはわたしが引っ張る手を振り払うことなく、一緒に下駄箱まで走ってくれた。
ま、そんな簡単じゃないよね、詰めこむって。
あの後、教室に入ってすぐに芹香ちゃんから「とにかくこの単語覚えなさい!」と小テスト範囲の英単語を教えてもらったんだけど、どんなに覚えようと思ってもスルスルと忘れていっちゃって。
それでもかろうじていくつかはテストの問題を埋めることはできた。
とはいえ、いい点数ではないだろうなぁ。
芹香ちゃんは「うん、真っ白で出すよりは、いいよ」と一応なぐさめてくれた。
落ちこんだ気持ちを吹き飛ばすように、部活で思いっきり走ってきたんだけど、それはすごく気持ちよかった。
莉菜が部活大好きなのがよくわかる!
走っている間は、ただ目の前のゴールを目指すだけで無心になれるし、身体がよく動くの。
めいっぱい走ってきて汗だくだったから、家に帰ってきてから、すぐにお風呂に入ってご飯食べて。
お母さんが作ってくれたご飯、すごく美味しかったなぁ。
ちょこっとハンバーグが焦げていたけど、それを笑いながら食べる夕食は幸せだった。
朝の入れ替わりからはじまって、今日一日、本当に楽しかった。
だけど、ずっと気になってもいた。
わたしが今、こうしている間、莉菜はどうしているんだろう?
【鏡の部屋】にいるのかな? 不安になっていないかな。
そう思いながらも、楽しくてつい、気づかないふりをしてしまった。
ごめんね、莉菜。
部屋の机に置いてある卓上鏡に映る姿を見ながら、わたしは莉菜のことを思った。
すると鏡から眩い光が放たれた。
「こ、これって……」
入れ替わった時と同じ光だ!
目が開けていられなくて瞼を閉じ、光がおさまったであろう気配を感じて、そおっと目を開けた。
そこは、莉菜の部屋のままだった。
「あ、あれ? 【鏡の部屋】じゃない」
てっきりまた入れ替わったんだと思ったのに……。
特に変わりがない莉菜の部屋だけど、一つだけ変化があった。
机の上に置いてある鏡が、キラキラと光っている。
そしてそこに映っているのは、わたしであってわたしじゃない。
莉菜がニッコリこちらに向かって手を振っていた。
不安じゃないかな? と心配していた莉菜が、思ったより明るい表情をしていることにホッとする。
『やっほー! もうひとりのあたし。元気ーっ?』
さらに能天気な声が聞こえてきて、ガックリと肩の力が抜ける。
なんか、心配する必要なかったくらい、元気そうなんだけど。
え? 莉菜はこの状況、わかってるの?
『おーいっ。返事してよぉー』
鏡の中から一生懸命手を振っているから、わたしも小さく振り返した。
「げ、元気よ。そっちは?」
『あたし? 元気よー! かなりビックリしたけどね! すごいねこの部屋。まんまあたしの部屋じゃない。しかもそっちの様子がバッチリ見えるの。ねぇ、今までずっとここにいたの?』
「うん、ずっといたよ」
【鏡の部屋】からずっと莉菜のことを見ていた。
その部屋に、本人がいると思うとなんとも不思議なんだけど。
『そっかー。ふふっ、こうして鏡越しに話しているの、なんだか不思議だね』
確かに、こうして莉菜と直接話す日がくるなんて思わなかったもん。
そもそも入れ替わっていることが不思議でもあるんだけどね。
「莉菜、不安にならないの? 急に【鏡の部屋】に閉じ込められて」
『うん! だってこんな体験滅多にできないじゃない? それにおかげで今日は小テスト受けなくて済んだしさ』
「受けなくて済んだって……結局、わたしもたいして答え書けなかったよ」
『いいんだよー。あたしだったらもっと書けなかったと思うし』
あ、あれ以上に書けないって、つまり真っ白で提出するってことじゃない!
まぁ莉菜がいいならいいんだけどね。
それにしても、急に【鏡の部屋】に閉じ込められたのに、あっけらかんとしている莉菜の逞しさに感心しちゃう。
逆の立場だったら、わたしは不安になっちゃったんじゃないかな。
『ねぇ、もう一人のあたし……うーん、なんて呼んだらいい?』
「難しいよね。でも、わたしもリナなんだよね。誰に呼ばれたわけじゃないけど、リナとして存在していたから」
『オッケー。そうだよね、あなたもあたしだもんね。よろしく、リナ』
莉菜の受け入れ能力が高すぎて、思わず口が開いてしまう。
「り、莉菜はどう思っているの? 今回、入れ替わっちゃったこと」
『んー? そうだね。なんで入れ替わっちゃったんだろうね?』
「……ちゃんと考えてなかったでしょ」
『バレたか。だって入れ替わったおかげで小テストのこと考えなくてよかったし、なにより自分が動いている様子を見てるってなんかワクワクしちゃって!』
語尾に音符がついているんじゃないかって弾む声だから、本心で言ってるんだろうな。
「わたしね、ずっと【鏡の部屋】にいたの。そこでずっと莉菜のことを見ていたんだよね。いつも楽しそうで、見ているわたしも楽しかったの」
『そうなんだ。うん、確かに毎日楽しいよー……テストがなければね』
「それ! それが入れ替わりの原因だと思うの」
『それって、どれ?』
「もうっ! テストよ、テスト。今朝の莉菜、すごく憂鬱だったでしょ? あんなに落ち込む莉菜、はじめて見たもん」
すっとぼけているんだか、本当に考えていなかったのか。
わたしはこれでも色々考えていたっていうのに。
『あー……確かに今日の小テスト本当に嫌だったんだよね。だって、藤っち厳しいんだもん』
藤っちというのは、英語の教科担任の先生でもあり、陸上部の顧問の先生で、確か三十代だったかな。でももっと若く見えるかも。
体つきもしっかりしてるから、英語の先生というより、体育の先生みたい。
練習が終われば気さくな先生なんだけど、部活中はとにかく熱血!
そしてこの藤っちこと藤城先生こそが、文武両道を掲げているから、特に英語の小テストの成績が悪いと、居残り補習があったり宿題が追加されたりしちゃうんだ。
今回の小テストの返却でも、きっと何かしらがあるんじゃないかな。
それに来週からは期末テストがはじまるし、期末が終われば夏の大会がすぐそこに迫っている。
このタイミングで成績が悪かったら、本当に試合に出られないかもしれない。
「莉菜、本気でやばいかもよ」
莉菜だって小学生の頃は、ここまで成績悪かったわけじゃないんだけどね。
『そうはいっても、中学に入ったらなんかスピードアップしてついていけなくなっちゃったんだもん』
拗ねるようにそっぽ向かれても、現実問題かなりやばい。
「でも、大会出たいでしょ? だったら頑張らないと、ね」
『そりゃ、大会は出たいけどさぁ』
だよね。そのために頑張ってきたんだもん。
「じゃあ……戻ろうか」
そう口にしながらも、本当はちょっと残念だって思っている。
だって【鏡の部屋】から出た今日一日、すごく楽しかったから。
だけどここはわたしが本来いる場所じゃない。ちゃんと莉菜に返さないとね。
『どうやって?』
「へ……?」
『入れ替わりの仕組みもわかんないのに、どうやって戻るの?』
「うーん……とりあえず、念じてみる?」
だってほかに方法思い浮かばないもん。
心当たりは莉菜が落ち込んでいたことと、わたしがかわってあげられたらいいのにって思ったことくらいなんだから。
『そうだねぇ、とりあえずやってみようか』
なんだか心なしか、莉菜が乗り気じゃないように聞こえるんだけど、気のせいかな?
でもまずはやってみるしかない!
気持ちの問題かもしれないけど、鏡に手を添えてみる。
「じゃあ、いくよ」
これで現実の世界ともさよなら。
一日だけだったけど、本当に楽しかったな。
『「せぇのっっ!」』
わたしは【鏡の部屋】に戻るようにと、強く念じた。
また眩い光に包まれると思って目を閉じていたんだけど、一向にその気配がないから、そぉっと目を開いてみる。
そこは、現実の莉菜の部屋のままだった。
「あ、あれ!?」
机の卓上鏡を見れば、莉菜が首をすくめてお手上げってポーズしている。
どういうこと? 戻れないの?
「ど、どうしよう!?」
このままでいいわけがない。だってここは本来、莉菜がいるべき場所なんだから。
「も、もう一回やってみよう!」
そうやって何回も念じてみたけど、結果は同じ。わたしと莉菜が入れ替わることはなかった。
『もう、いいじゃん』
「え……?」
『今日はもう疲れたーっ。また明日試してもいいし、なんならもうしばらくこのままでもいいよ』
「ちょっと、このままでいいって……」
『この鏡はカメラ通話みたいで便利だね! これでお互いのこと話せるし。今日はもう寝よっ。おやすみーっ』
「り、莉菜!?」
疲れたって、そんな投げやりでいいの?
しかもしばらくこのままでもいいって、どういうこと?
わたしはリナではあるけれど、莉菜の心まではわからない。
見てて楽しそうとか、お母さんにきついこと言ってあとから悔やんでいるとか、そういうのは見て知っているから、わかる部分もあるんだけど、本当の心の中はわからないんだ。
だから莉菜が今、なにを考えているのか、まったくわからない。
莉菜はもう鏡の前から離れてしまったみたいで、こちらから様子を伺うことはできない。
向こうは見えているんだろうけどね。
「とりあえず、明日もう一回、挑戦してみよう」
早く元に戻らなくちゃって思う一方で、心のどこかでまだこっちにいられるんだってことを、嬉しく思ってしまっている自分がいるのに、気づかないふりをしようとした。
立っている足の裏には、床を踏みしめているという感覚がある。
ひらっと身体を少しひねれば、ふわっと舞った制服のスカートの重みが伝わってくる。
……意外に、スカートって重いんだ。
半袖のセーラー服から伸びる、日焼けした肌。
そっ、と触ってみると、今までと違う、《熱》を感じる。
「出……ちゃった、の?」
ふにっと、自分の頬っぺたをつねってみれば、かすかに痛みを感じた。
《感じた》。そう。感じるの。
目の前の洗面台の蛇口は、ちょっぴりヒヤッとして、レバーをあげれば、勢いよくジャーッて水が流れ出す。
触れてみようと手を伸ばせば、水は四方に飛び散った。
「キャーッ!」
慌てて手を引っ込めるものの、手だけでなく制服も髪も濡れてしまった。
ポタッと、前髪から落ちる雫が洗面所の床に落ちる。
「現実……よね?」
おそるおそる、前を向く。
洗面台だから、そこには当然【鏡】がある。
見たら、どうなるんだろう?
わたしは、また、戻っちゃうのかな?
そこに映っていたのは、わたしの姿。
それともあたしなのかな?
【鏡】に映る姿は何も反応がない。
……向こうは、どうなっているんだろう?
そっと【鏡】に触れようとしたところ、大きな声が響いてきた。
「莉菜ーっ! いつまで洗面所にいるの! 遅刻するでしょっ」
多分、お母さんだ。
とにかく、今は支度して学校に行かないと、だよね?
「はーいっ! 今行く!」
最後にもう一度【鏡】を見てみるけど、やっぱりそこには莉菜の姿が映っているだけだった。
とにかく今は、莉菜として過ごしてみよう!
だって、せっかく外に出られたんだもん。
思いもしなかった出来事にワクワクしながら、わたしは洗面所を鼻歌交じりに飛び出した。
わたしはリナ。そう名乗るのが正解かどうかわからないけど、他に名乗りようがないんだ。
というのも、わたしの本来の姿が別にあるから。
本来のわたしは、楠木莉菜。夢里中学校に通う一年生なの。
わたしはその莉菜の分身? もう一人の莉菜?
とにかく、気がついた時からわたしは莉菜を見ていた。
幼稚園で泥んこになっている時も、小学校で鬼ごっこで走り回っている時も。
ずっとずっと、【鏡の部屋】の中から莉菜を見ていたの。
【鏡の部屋】というのは、わたしがいた空間のこと。
本来の莉菜の部屋とそっくり同じ部屋で、だけど違うのは部屋の壁が鏡だってこと。
その部屋からは出ることができなくて、部屋の鏡には莉菜の様子がいつでも映し出されていた。
その様子を、ただ、ただ、わたしは見ているだけ。
お腹が空くこともないし、五感というのもよくわからない。
お母さんが用意するご飯を前にして、莉菜が「いい匂い~」と言っていても、「うわ~、納豆! 匂いからして最悪~」って言っていても、その匂いがわたしはわからないんだ。
でも、それを嫌だと思ったことはない。
だって、何のために存在しているかはわからないけど、わたしはここで莉菜を見守る存在なんだ。
それに見ているだけでも、じゅうぶん楽しいし。
莉菜はいつも笑っているから。お友達と遊んでいる時も、テレビを見ている時も、家族といる時も。
そんな莉菜を見ていると、わたしも楽しくなってくるから、それでよかった。
それなのに……。
なぜか、わたしが外に出てきてしまっている。
【鏡の部屋】にいたわたしが、感覚も色彩も感じることがなかった【鏡の部屋】から、すべてが輝いて見える表の世界に出てきちゃったんだ。
「もう、莉菜っ。なんでそんな濡れているの」
リビングに入った途端、お母さんが早口で言うなり、頭からタオルでゴシゴシとわたしの身体を拭きはじめた。
そういえば、蛇口から出した水の勢いがよすぎて、思いっきり水かかっちゃったんだった。
「本当に、そそっかしいわねぇ」
ため息交じりに言いながらも、手を休めず制服も拭いてくれるお母さんの感覚に、なんだか嬉しくなってくる。
優しくされる感覚って、こんなにあったかいんだ。
莉菜が普段お母さんに口うるさく言われるたび、『お母さん、ウザイッ』なんて言ってるけど、本当は感謝しているのをわたしは知っている。
だから莉菜の気持ちも込めて伝えてみることにした。
「ありがとう、お母さん」
だけど、お母さんはわたしの言葉を聞いて、目を丸くした。
「え? 今日、雨降るんじゃない⁉ 傘、持っていく?」
……人が、人が感謝を伝えてるっていうのに、あんまりだぁ。
莉菜がウザいって言ったのが、ちょっとだけわかったよ。
「もうっいい! 行ってきますっ!」
ふてくされて玄関を出ようとするわたしに、クスクス笑いながらお母さんが「行ってらっしゃい」と見送ってくれた。
一歩一歩、踏みしめるとアスファルトの硬い感触が、靴の底に伝わってくる。
夢里中学校は坂をのぼった上に学校がある。
どのくらいの坂って、人によっては自転車でのぼることが出来ない人がいるんだとか。
だから、この登校中でも、ぜいぜい言いながらのぼっている生徒もいる。
そんな中、わたしは足取りしっかりと、力強く歩いていく。
莉菜は、陸上部ということもあって体力には自信あり!
多少、息があがってもへばることはない。
どうやら今のわたしは、莉菜の身体そのものみたい。
これって、莉菜の身体にわたしが入り込んだ状態なのかな?
だとしたら莉菜はやっぱり【鏡の部屋】にいるの?
なんでこの現象が起きているのかわからないけど、莉菜だってきっとビックリだよね。
なんとか莉菜とコンタクトをとりたいけど、そうしたらわたしはまた【鏡の部屋】に戻ることになるのかな。
……それって、ちょっとさみしいな。
今までは【鏡の部屋】にいても特になにも感じたりしなかったんだけど、外に出たらこんなに刺激的で楽しいんだもん。
もうちょっとだけ。もうちょっとだけ莉菜としてこの感覚を味わいたい。
だから、ごめんね、莉菜。
今は、もう少しだけ。莉菜として存在させてね。
六月下旬とはいえ、街路樹の隙間から零れる陽射しは思ったより強烈だった。
【鏡の部屋】からみていた時は、ただの映像として見ていたから、陽射しがこんなに眩しいものだとも、肌にひりつく感覚があるとも思わなかったんだもん。
歩いているうちに、少しずつ汗ばむ肌も、坂道をのぼるうちにあがっていく息も。
なにもかもこんな感覚は、はじめての体験!
坂をのぼりきって見上げれば、どこまでも続く広い青空。
こんなに視界が変わるんだ。空の色ってこんなに青いんだ。
「すごーーーーいっ‼︎」
思わず両手で空を抱きしめたくなるくらい感動していたら、頭にバコンッ! と衝撃がはしった。
痛かったわけじゃないけど、何が起きたのかと振り返ったら、そこには莉菜の親友、道場芹香ちゃんが呆れ顔をして立っていた。
「芹、香ちゃん?」
頭をさすりながら声をかけると、芹香ちゃん大きくため息をついた。
「朝っぱらから正門近くでなに騒いでるのよ、恥ずかしい」
芹香ちゃんは莉菜と同じ陸上部に所属していて、ハードル走をやっている。
百六十センチを超える身長の芹香ちゃんがハードルを飛び越える様は、すごくカッコいいんだ。
それに、その時になびくショートカットの髪が、きれいなの。
鏡越しに見ていて、思わず見とれちゃったくらい。
その芹香ちゃんが、今、目の前にいる。
「芹香ちゃんだぁーーーーっ!」
思わず嬉しくなって、芹香ちゃんに、むぎゅっと抱きついた。
多分、幼い頃に離れ離れになった友達に再会できたような気持ちじゃないかな。
「うわっ! どうしたの? 莉菜」
「なんでもなーいっ!」
「なんでもないって……」
いきなりのハグに戸惑いながらも、芹香ちゃんは諦めて天を仰いだ。
ふふっ。優しいんだよね、芹香ちゃん。
そそっかしい莉菜は、とにかくうっかりミスが多い。
そんな莉菜をなにかとフォローしてくれるのが芹香ちゃんなんだ。
時には厳しいことも言われちゃうんだけどね。
でもそこにだって、芹香ちゃんの愛を感じるから、言われても嫌な気持ちにならないんだ。
そんな芹香ちゃんと、実体として対面したことで、わたしの嬉しい気持ちは最高潮で、ついついハグにも力が入っちゃう。
「莉菜ー、ちょっと力強すぎだし、そろそろ離れて欲しいんだけど」
あやすように、ぽんぽんと背中を叩いて離れるように促されたから、素直に離れることにした。
「えへへーっ」
「なぁに? 今日はやけに甘えん坊だね。あ、さては、また勉強してきてないな」
「へ……?」
勉強って、なんだっけ?
「その反応、まさか忘れてるんじゃないよね?」
忘れているというか【鏡の部屋】から出てきて、いろんなはじめてに興奮しすぎて、勉強というワードが完全に頭から抜け落ちていた。
でもなんだか、奥の方でチカチカと警告するように響いてくる。
なんか、大切なことを忘れているんじゃないの?
思わず考え込んでしまった私に、芹香ちゃんがその警告の正体を教えてくれた。
「今日、英語の小テストだって、わかってるよね」
「――そうだったっ!」
その瞬間、わたしが【鏡の部屋】から出る直前に、莉菜が落ち込んでいたことを思いだした。
莉菜は洗面所で顔を洗ったあと、鏡と睨めっこしながらブラッシングしていた。
だけどずっと、ため息が零れて止まらない。
どうしたんだろう? 普段の莉菜は元気いっぱいで、女の子なのに身だしなみもあまり気にしないタイプだから、さっさと支度を終えて飛び出していっちゃうのに。
今日は全然洗面所から離れる気配がない。
「あー……学校行きたくないな」
俯きがちに莉菜が呟いた言葉を聞いて、わたしはすごくビックリした。
あんなに学校大好きなのに、どうして?
クラスでも楽しそうに過ごしているし、部活だって熱心に練習しているのに。
そんな莉菜が憂鬱になるものって……と思いを巡らせて、ひとつの理由に思い当たった。
そうだ! 今日は英語の小テストがあるんだった!
莉菜が学校で唯一嫌いなもの。それが勉強だった。
身体を動かすのが大好きな莉菜は、机でジッとしていることがつまらなくて、教科書も先生の話も全然入ってこないらしい。
だから当然、小学生の頃から成績は良くない。
通知表は体育と音楽だけが飛びぬけている。
お父さんやお母さんには呆れられるけど、それでも今までは強く注意されてこなかったからたいして気にしていなかったのに、中学に入ったら事情が変わったの。
それは、部活の方針が文武両道だっていうこと。
中間や期末テストで赤点をとった生徒は、どんなに部活の成績が優秀でも試合に出させてもらえない。
部活が生きがいの莉菜にとっては大問題!
だったら頑張って勉強すればいいと思うのに、本当に大嫌いみたいで教科書を開こうともしないんだよね。
そんなわけで莉菜はため息をついていたんだ。
「学校、行きたくないなぁ」
何回目かの呟きを聞いて、わたしは思ったんだ。
あまりに莉菜が落ち込んでいたから。そんな莉菜を今まで見たことがなかったから。
『かわってあげられるなら、かわりに行ってあげたいけどね』
その瞬間、辺り一帯、目を開けていられないくらい眩い光に包まれたんだ。
そっか。あれがキッカケだったんだ。
かわってあげたいなんて思ったのはじめてだったし、まさか本当に入れ替わっちゃうなんて思わなかったんだけどね。
「莉ー菜。ぼぉーっとして、どうしたの?」
入れ替わりの原因に思い当たったことで、思わず考えごとに集中しちゃった。
芹香ちゃんが、手のひらをヒラヒラさせて心配そうに顔を覗き込んでいた。
「小テスト! どうしよう!?」
こうして莉菜と入れ替わったところで、今まで勉強なんてしてきたことないし、わたしの頭の中は莉菜と同じくらいの知識のはず。
つまりは、勉強できない状態なのはかわらないのだ。
「本当に、しょうがないなぁ」
はぁっと、大きく声に出して芹香ちゃんがため息を吐いた。
「芹香ちゃん?」
「小テストは範囲が限られているし、今からでも詰めこめばちょっとは点数とれるはずよ」
「本当!?」
「って、昨日もそう言ったはずなんだけどね」
呆れた様子で言われてしまえば、「あはは」と笑ってごまかすしかない。
だって部活で走りこんだらすぐに、小テストの勉強しなくちゃいけないことなんて忘れちゃったんだもん。
そんな莉菜に、呆れながらでもこうして面倒見てくれようとする芹香ちゃん、やっぱり大好き。
「ありがとうっ、芹香ちゃん! よし、早く教室行こうっ!」
「ちょ、莉菜! 急に引っ張らないでよ」
「だって少しでもはやく教室行かなくちゃっ」
「そう思うなら、ちゃんと前日勉強してきなさいって」
「はーいっ」
調子のいいわたしの返事に苦笑いしながらも、芹香ちゃんはわたしが引っ張る手を振り払うことなく、一緒に下駄箱まで走ってくれた。
ま、そんな簡単じゃないよね、詰めこむって。
あの後、教室に入ってすぐに芹香ちゃんから「とにかくこの単語覚えなさい!」と小テスト範囲の英単語を教えてもらったんだけど、どんなに覚えようと思ってもスルスルと忘れていっちゃって。
それでもかろうじていくつかはテストの問題を埋めることはできた。
とはいえ、いい点数ではないだろうなぁ。
芹香ちゃんは「うん、真っ白で出すよりは、いいよ」と一応なぐさめてくれた。
落ちこんだ気持ちを吹き飛ばすように、部活で思いっきり走ってきたんだけど、それはすごく気持ちよかった。
莉菜が部活大好きなのがよくわかる!
走っている間は、ただ目の前のゴールを目指すだけで無心になれるし、身体がよく動くの。
めいっぱい走ってきて汗だくだったから、家に帰ってきてから、すぐにお風呂に入ってご飯食べて。
お母さんが作ってくれたご飯、すごく美味しかったなぁ。
ちょこっとハンバーグが焦げていたけど、それを笑いながら食べる夕食は幸せだった。
朝の入れ替わりからはじまって、今日一日、本当に楽しかった。
だけど、ずっと気になってもいた。
わたしが今、こうしている間、莉菜はどうしているんだろう?
【鏡の部屋】にいるのかな? 不安になっていないかな。
そう思いながらも、楽しくてつい、気づかないふりをしてしまった。
ごめんね、莉菜。
部屋の机に置いてある卓上鏡に映る姿を見ながら、わたしは莉菜のことを思った。
すると鏡から眩い光が放たれた。
「こ、これって……」
入れ替わった時と同じ光だ!
目が開けていられなくて瞼を閉じ、光がおさまったであろう気配を感じて、そおっと目を開けた。
そこは、莉菜の部屋のままだった。
「あ、あれ? 【鏡の部屋】じゃない」
てっきりまた入れ替わったんだと思ったのに……。
特に変わりがない莉菜の部屋だけど、一つだけ変化があった。
机の上に置いてある鏡が、キラキラと光っている。
そしてそこに映っているのは、わたしであってわたしじゃない。
莉菜がニッコリこちらに向かって手を振っていた。
不安じゃないかな? と心配していた莉菜が、思ったより明るい表情をしていることにホッとする。
『やっほー! もうひとりのあたし。元気ーっ?』
さらに能天気な声が聞こえてきて、ガックリと肩の力が抜ける。
なんか、心配する必要なかったくらい、元気そうなんだけど。
え? 莉菜はこの状況、わかってるの?
『おーいっ。返事してよぉー』
鏡の中から一生懸命手を振っているから、わたしも小さく振り返した。
「げ、元気よ。そっちは?」
『あたし? 元気よー! かなりビックリしたけどね! すごいねこの部屋。まんまあたしの部屋じゃない。しかもそっちの様子がバッチリ見えるの。ねぇ、今までずっとここにいたの?』
「うん、ずっといたよ」
【鏡の部屋】からずっと莉菜のことを見ていた。
その部屋に、本人がいると思うとなんとも不思議なんだけど。
『そっかー。ふふっ、こうして鏡越しに話しているの、なんだか不思議だね』
確かに、こうして莉菜と直接話す日がくるなんて思わなかったもん。
そもそも入れ替わっていることが不思議でもあるんだけどね。
「莉菜、不安にならないの? 急に【鏡の部屋】に閉じ込められて」
『うん! だってこんな体験滅多にできないじゃない? それにおかげで今日は小テスト受けなくて済んだしさ』
「受けなくて済んだって……結局、わたしもたいして答え書けなかったよ」
『いいんだよー。あたしだったらもっと書けなかったと思うし』
あ、あれ以上に書けないって、つまり真っ白で提出するってことじゃない!
まぁ莉菜がいいならいいんだけどね。
それにしても、急に【鏡の部屋】に閉じ込められたのに、あっけらかんとしている莉菜の逞しさに感心しちゃう。
逆の立場だったら、わたしは不安になっちゃったんじゃないかな。
『ねぇ、もう一人のあたし……うーん、なんて呼んだらいい?』
「難しいよね。でも、わたしもリナなんだよね。誰に呼ばれたわけじゃないけど、リナとして存在していたから」
『オッケー。そうだよね、あなたもあたしだもんね。よろしく、リナ』
莉菜の受け入れ能力が高すぎて、思わず口が開いてしまう。
「り、莉菜はどう思っているの? 今回、入れ替わっちゃったこと」
『んー? そうだね。なんで入れ替わっちゃったんだろうね?』
「……ちゃんと考えてなかったでしょ」
『バレたか。だって入れ替わったおかげで小テストのこと考えなくてよかったし、なにより自分が動いている様子を見てるってなんかワクワクしちゃって!』
語尾に音符がついているんじゃないかって弾む声だから、本心で言ってるんだろうな。
「わたしね、ずっと【鏡の部屋】にいたの。そこでずっと莉菜のことを見ていたんだよね。いつも楽しそうで、見ているわたしも楽しかったの」
『そうなんだ。うん、確かに毎日楽しいよー……テストがなければね』
「それ! それが入れ替わりの原因だと思うの」
『それって、どれ?』
「もうっ! テストよ、テスト。今朝の莉菜、すごく憂鬱だったでしょ? あんなに落ち込む莉菜、はじめて見たもん」
すっとぼけているんだか、本当に考えていなかったのか。
わたしはこれでも色々考えていたっていうのに。
『あー……確かに今日の小テスト本当に嫌だったんだよね。だって、藤っち厳しいんだもん』
藤っちというのは、英語の教科担任の先生でもあり、陸上部の顧問の先生で、確か三十代だったかな。でももっと若く見えるかも。
体つきもしっかりしてるから、英語の先生というより、体育の先生みたい。
練習が終われば気さくな先生なんだけど、部活中はとにかく熱血!
そしてこの藤っちこと藤城先生こそが、文武両道を掲げているから、特に英語の小テストの成績が悪いと、居残り補習があったり宿題が追加されたりしちゃうんだ。
今回の小テストの返却でも、きっと何かしらがあるんじゃないかな。
それに来週からは期末テストがはじまるし、期末が終われば夏の大会がすぐそこに迫っている。
このタイミングで成績が悪かったら、本当に試合に出られないかもしれない。
「莉菜、本気でやばいかもよ」
莉菜だって小学生の頃は、ここまで成績悪かったわけじゃないんだけどね。
『そうはいっても、中学に入ったらなんかスピードアップしてついていけなくなっちゃったんだもん』
拗ねるようにそっぽ向かれても、現実問題かなりやばい。
「でも、大会出たいでしょ? だったら頑張らないと、ね」
『そりゃ、大会は出たいけどさぁ』
だよね。そのために頑張ってきたんだもん。
「じゃあ……戻ろうか」
そう口にしながらも、本当はちょっと残念だって思っている。
だって【鏡の部屋】から出た今日一日、すごく楽しかったから。
だけどここはわたしが本来いる場所じゃない。ちゃんと莉菜に返さないとね。
『どうやって?』
「へ……?」
『入れ替わりの仕組みもわかんないのに、どうやって戻るの?』
「うーん……とりあえず、念じてみる?」
だってほかに方法思い浮かばないもん。
心当たりは莉菜が落ち込んでいたことと、わたしがかわってあげられたらいいのにって思ったことくらいなんだから。
『そうだねぇ、とりあえずやってみようか』
なんだか心なしか、莉菜が乗り気じゃないように聞こえるんだけど、気のせいかな?
でもまずはやってみるしかない!
気持ちの問題かもしれないけど、鏡に手を添えてみる。
「じゃあ、いくよ」
これで現実の世界ともさよなら。
一日だけだったけど、本当に楽しかったな。
『「せぇのっっ!」』
わたしは【鏡の部屋】に戻るようにと、強く念じた。
また眩い光に包まれると思って目を閉じていたんだけど、一向にその気配がないから、そぉっと目を開いてみる。
そこは、現実の莉菜の部屋のままだった。
「あ、あれ!?」
机の卓上鏡を見れば、莉菜が首をすくめてお手上げってポーズしている。
どういうこと? 戻れないの?
「ど、どうしよう!?」
このままでいいわけがない。だってここは本来、莉菜がいるべき場所なんだから。
「も、もう一回やってみよう!」
そうやって何回も念じてみたけど、結果は同じ。わたしと莉菜が入れ替わることはなかった。
『もう、いいじゃん』
「え……?」
『今日はもう疲れたーっ。また明日試してもいいし、なんならもうしばらくこのままでもいいよ』
「ちょっと、このままでいいって……」
『この鏡はカメラ通話みたいで便利だね! これでお互いのこと話せるし。今日はもう寝よっ。おやすみーっ』
「り、莉菜!?」
疲れたって、そんな投げやりでいいの?
しかもしばらくこのままでもいいって、どういうこと?
わたしはリナではあるけれど、莉菜の心まではわからない。
見てて楽しそうとか、お母さんにきついこと言ってあとから悔やんでいるとか、そういうのは見て知っているから、わかる部分もあるんだけど、本当の心の中はわからないんだ。
だから莉菜が今、なにを考えているのか、まったくわからない。
莉菜はもう鏡の前から離れてしまったみたいで、こちらから様子を伺うことはできない。
向こうは見えているんだろうけどね。
「とりあえず、明日もう一回、挑戦してみよう」
早く元に戻らなくちゃって思う一方で、心のどこかでまだこっちにいられるんだってことを、嬉しく思ってしまっている自分がいるのに、気づかないふりをしようとした。

