今日も空は晴れていて、磨かれた窓から朝日が差し込んでいる。
そんな爽やかな朝なのだが、彩音はがっくりと項垂れて廊下を歩いていた。
(今日も起きれなかった……)
今日は洋食なのだろうか?
廊下にはベーコンの焼けたいい香りが漂っている。
つまり、すでに朝食は出来ているということだ。
早く起きて悠樹の準備を手伝おうと思ったが、もうその必要がないということを意味している。
今日こそ悠樹を手伝おうと意気込んでいただけに、彩音は現在自分の不甲斐なさに落ち込んでいるわけである。
「おはよう」
「あ、彩音おはよう」
「おう! 眠れたか?」
出迎えた悠樹と凪に挨拶しつつ、テーブルに視線を移すと、案の定テーブルには朝食が並んでいた。
こんがりいい具合に焼けたベーコンと、半熟の目玉焼き。
たぶん凪が採ったと思われる新鮮野菜のサラダも用意されている。
完璧な朝食だった。
「悠樹、ごめんね。手伝えなくて」
「いいんだよ、気にしないで。飲み物は何にする? 牛乳? オレンジジュースやコーヒーもあるけど」
「じゃあ、牛乳もらおうかな」
「了解」
朝食作りは手伝えなかったが、その分従業員として頑張ろうと彩音は心に決めた。
悠樹が台所に行くと、入れ替わりに鏡夜がのっそりと居間に入ってきた。
「おはよう~」
「おはようございます。相変わらず眠そうですね」
「うん。でも、彩音ちゃんの顔を見るために頑張って起きたんだよ~」
「そうですか」
鏡夜の飄々とした言葉を彩音はスルーするように答えた。
最初出会った頃から思ったが、鏡夜は少し掴みどころのない性格だ。
最初はどう対処していいか戸惑った彩音だったが、ここ2、3日凪と悠樹の態度を見て、鏡夜の軽口はスルーするに限ると学んだ。
「ううう……彩音ちゃんが冷たい」
「そういや鏡夜、彩音が来てから朝ちゃんと起きているな」
「え? そうなの?」
「だから言ったでしょ。彩音ちゃんの顔が見たくて起きてるんだってばぁ」
鏡夜は凪の言葉に半分冗談に聞こえる軽妙な返しをすると、凪はため息交じりに皮肉を返す。
「彩音がいなくても朝くらいは起きていてほしいもんだな」
「えー。別に僕が朝起きなくても困らないでしょ。どうせお客は居ないし、手伝う必要なんてないだろうし」
鏡夜の指摘はもっともで、彩音はここに滞在して数日経つが宿泊客はいない。
もしかして今日もいないのだろうか?
(いやいやまさか)
彩音が自分の不安を打ち消すように否定した。
だが、初日に彩音が飛び込みの客だと勘違いした悠樹の喜びようを見ると、一抹の不安を感じる。
数日間宿泊客がいないというのは、経営的な意味で問題な状況なのではないか。
「ええと、今日はお客さん、来る……んだよね?」
彩音は恐る恐る尋ねてみたところ、悠樹は途端に顔を曇らせ、ため息交じりに答えた。
「残念ながら……。というか、かなり前から宿泊客がいない状態なんだ。コレと言って名物や観光地ってわけでもないし、仕方ないんだけど……」
確かに彩音が行こうとしていた隣駅はここよりも高原にあるためか、ちょっとした避暑地になっている。
だが、一方でこの周辺には観光地があるわけではない。それは駅の周辺に人がいないことが如実に示している。
加えて金烏荘は人里から離れた隠れ家的宿屋だ。
ここまで宿泊客が来るのは難しいのかもしれない。
「僕としては宣伝とかして、この村の魅力を押し出せばいいと思うんだけどね。凪は反対なんだよ」
「そうなの? なんで?」
「そう思うだろ? 僕はこの宿を繁盛させたいんだけどね……」
視線が凪に向かう。
だが凪は彩音と悠樹を見向きもせず、トーストを頬張りながらベーコンに手を伸ばしている。
「いいんだよ、この宿は本当に来たいと願ってくれる人間に来てもらえれば。さぁ、この話はここまでだ。ご馳走さん」
凪はそう言い終えると、さっさと居間から出て行ってしまった。
その後ろ姿を悠樹は何とも言えない表情で見送っている。
何か気がかりでもあるのだろうか?
「悠樹、どうしたの?」
彩音が尋ねると悠樹は目を伏せ、ため息交じりに答えた。
「うん……。実は、凪は金烏荘を今年の夏を最後に辞めるつもりかもしれないんだよ。はっきりは言わないけどさ」
「え! どうして!?」
「分からないんだよ。詳しくは僕にも教えてくれないんだ」
知らされた話に彩音は驚きの声を上げた。
沈んだ声の悠樹と、驚く彩音をよそに、鏡夜は何事もないかのように食後のお茶を飲んでいた。
その様子は彩音にとって意外だった。だがこの落ち着いた様子から察するに、鏡夜は凪が金烏荘を辞める理由を知っているのではないか。
彩音にはそんな風に思えた。
「鏡夜さんは何か知っているんですか?」
「うーん。知っているといえば知っている、知らないといえば知らない、かな」
「何ですか、それ? 鏡夜さんはこの宿がなくなっても平気なんですか? 宿がなくなっちゃったら、鏡夜さんだって行く場所ないんじゃないですか!」
鏡夜さんの煮え切らない態度に思わず語尾が荒くなってしまった。
しかし、鏡夜はそんな彩音の気持ちとは裏腹に、のんびりと答えた。
「そりゃ、僕としてものんびりゆっくり暮らせるこの宿がずっと続いてほしいと思うけどね。でもこの宿の主人は凪だから。僕は凪の意見に従うだけだよ」
はっきりと告げられた答えに、彩音はなんとも言えない気持ちになった。
思わず黙り込む彩音に、鏡夜はくすりと笑った。
だが、笑っているのに目はまるで笑っていない。
探るような色が見えるのは気のせいだろうか?
「彩音ちゃんだって一時的に身を寄せているに過ぎないじゃない?」
「!」
確かに鏡夜の言うことは正論だ。
金烏荘の主人は凪だし、彩音も一時的な使用人に過ぎない。
それなのに彩音がどうのこうの言える立場ではないのだ。
同時に、鏡夜の言い方から、彩音は明確に線引きされた気がした。
鏡夜は彩音を歓迎してくれていたようだったし、軽口や冗談をよく言ってくれる。
だから、なんとなく金烏荘の一員になれた気持ちでいたのだ。
だが、そうではないのだと突きつけられた気持ちだった。
その事実に何故か彩音の胸がぎゅっと締め付けられ、胸に痛みが走った。
「そうですね。……ご馳走様でした」
それだけ言うと、彩音は静かに居間を出た。
※
朝、廊下を歩くときにも気持ちは沈んでいたが、その比ではないほど、彩音の気持ちは沈んでいた。
ザッザッと箒で玄関を掃除している間も、鏡夜の言葉が頭から離れない。
『彩音ちゃんだって一時的に身を寄せているに過ぎないじゃない?』
そう、自分は一時的に金烏荘にいるだけでいずれはここを出て行く。
頭では分かっているのだ。
ただ、気持ちがついていかないだけで。
まだ数日過ごしただけなのに、金烏荘は居心地が良くてずっといたくなる。
ここを出ても、また戻ってきたくなるほどに。
「彩音ちゃん」
名前を呼ばれてハッと顔を上げると、鏡夜がにっこりと笑いながら歩いてきた。
「鏡夜さん」
「ねぇ、彩音ちゃん。さっきの話なんだけど」
さっきの話、というのは金烏荘の話だろう。
言葉の続きを待っていると、鏡夜が彩音の顔を覗き込んだ。
黒い瞳のはずなのに、間近に見ると濃い紫色のようにも見える。
普通の人間ならこんな瞳の色はしていない。
カラーコンタクトなのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えてしまう。
男性とこんなに顔を近づけたことはないのに、羞恥心など全く湧かず、その瞳を逸らすことができずに見つめ返してしまう。
「彩音ちゃんは、この金烏荘にいたい?」
そうだ。
帰りたくない。
ずっと金烏荘にいたい。
帰る?
どこに帰るのだろうか?
鏡夜の瞳が一瞬怪し気に光ったような気がする。
だが思考がぼんやりとして、霞がかかったように感じた彩音には、それすらも気にはならなかった。
そして思わずぽつりと漏らしていた。
「私、ずっとここに居たいな」
「本当に、ずっと居たい? この地に、居てくれるかい?」
「うん、ずっと居るよ。この地に……」
そう答えた彩音の脳裏をよぎったのは、不思議な着物を纏った少年の姿だった。
後ろ姿だけだが、凪のように思えるのは何故だろうか?
「凪と離れたくないな……私は……帰りたくない。ここに、居たいな」
「そうか、じゃあ、ずっとこの金烏荘に居ようよ」
「うん。凪が許してくれるなら、居たいな」
彩音がそう笑って答えた時だった。
突然鋭い声が廊下に響いた。
「鏡夜! 何をしているんだ!」
荒げた凪の声に、彩音ははっとした。
声の方向を見ると、厳しい表情をした凪がこちらにやって来ていた。
明らかに怒っている様子の凪を見て、鏡夜は彩音との距離を取って瓢々とした笑みを浮かべる。
「ん? ちょっと話を聞いていただけだよ。怖い顔しないでくれよ」
「彩音に変な真似をしてみろ。この宿から叩き出すからな」
「それは困ったな。ここを追い出されたら行き場を失ってしまう。でも、凪は彩音ちゃんがいてくれた方が凪のためになるでしょ?」
(凪のため?)
鏡夜の言葉に彩音は首を傾げた。
彩音がそんな疑問を尋ねようとするが、鏡夜を睨みつける凪の空気に口を開くことができなかった。
「余計なお節介だ。居候はさっさと部屋に戻れ」
「おお怖い。じゃあ大人しく僕は部屋に戻るよ」
じゃあねとひらひらと手を振りながら鏡夜は去って行った。
その後ろ姿を見送った凪は、小さくため息をついた。
先ほどの怒りはすっかり消えており、凪の声はいたって普通の様子に戻っていた。
「はぁ。油断も隙もあったものじゃないな。彩音、大丈夫だったか?」
「大丈夫って、うん、大丈夫だけど」
「そっか。鏡夜の言葉を気にするなよ」
「気にするなって?」
凪が何を心配しているのか分からず、彩音は首を傾げた。
ただ単にここに残りたいかどうかを聞かれただけなのに。
「ねぇ、金烏荘を締めちゃうって本当?」
「あぁ。そのつもりだ。彩音もさっさと帰った方がいい」
「帰りたくないな。居ちゃダメ、かな?」
先ほど口にした言葉が思わずついて出る。
「それはお前の本当の気持ちか? 鏡夜に言わされているんじゃないか?」
彩音はその言葉を聞いて、自分の想いを疑われているように感じた。
だから、気づけば想いを込めて訴えかけていた。
「確かに、まだ数日しかここに居ないけど、ここにはここの魅力があるでしょ」
都会には都会の便利さがあるし、刺激も見所もいっぱいだ。
スマホの電波の入らないここに比べれば、都会はたくさんの娯楽に溢れている。
都会には都会のよさがあると思う。
だが、この村には都会には無い魅力がいっぱいある。
美味しい空気に、たくさんの緑、のんびりとした時間の流れ、静かな時間。
これらは都会にはないこの村の魅力だ。
「それにね、おかしいかも知れないけど、この宿って安心するの。凪や悠樹が丁寧に掃除しているところとか、お客さんがいつ来てもいいようにって真心込めて準備している姿とか見ているとね、ずっとこの宿があればいいのにって思えてきたの」
たった数日のことなのに、凪も悠樹も鏡夜も、この金烏荘を大切に思っていることは伝わってきた。
「うん……私、金烏荘、好きだなぁ」
本当に思わず漏れた一言だった。
そして、すぐに我に返った。
まるで、それは告白のようだ。
そのことに気づいた彩音は急に我に返って慌てて弁解の言葉を述べた。
「や、やだ! 私ってば、一人で語っちゃって。ごめん!」
急に恥ずかしくなり、早口になった彩音を、凪は眩しい物を見るように目を細めた。
その眼差しがあまりにも優しくて、何故か彩音の胸がギュッと締め付けられて息を呑んだ。
「……はぁ。仕方ない、もう少しだけいるといい。どうせ祭りが終わったら帰ることになるだろうしな」
「祭り?」
「あぁ、村人が産土神に感謝を捧げる祭りなんだ。だけど、その祭りも最後だ。村人は皆都会に行ってしまったからな。この辺りはもうほとんど人がいないし」
「そうなんだ。それは寂しいね」
「そうだな……」
呟くようにそう言った凪の表情は、悲し気で、そして寂しげでもあった。
凪の纏う空気に寂寥感が滲み出る。
ずっと明るい姿しか見ていなかった彩音はその姿に再び胸が締め付けられるようだった。
だが次の瞬間。それを吹き飛ばすように、凪は明るく笑いながら彩音の頭を撫でた。
「ま、暫くはここにいろ」
「ありがとう!」
ようやく自分の気持ちが認められたこともだったが、凪に受け入れてもらえたようにも感じられ、彩音の心は弾んだ。
(私、ここにいていいんだ)
安堵の気持ちが彩音の胸に広がっていく。
ほっと胸を撫で下ろした彩音は、ようやく凪の姿をじっくりと見た。
「あ、凪! どうしたの、それ?」
「それって、釣り道具だけど」
見れば分かる。
竿とバケツを持った姿は、どこをどう見ても釣りに行く格好だ。
(そういえば、私釣りなんて見たことないな)
ふと考えると、釣りというものとは縁遠い生活だ。
父をはじめとして魚釣りが好きな人間はいなかったし、自分でもわざわざ海に行って釣りをしたいと思ったことはない。
だからこそ、凪が釣りをするところを見たくなった。
むくむくと好奇心が頭をもたげる。
「私も行きたい!」
「いいけど……見ているだけじゃ、つまらないぞ?」
「そうなの? じゃあやってみたい!」
「釣りを、か?」
「うん。ダメかな? せっかくだから色んな事をしてみたいんだ」
先日畑に行って、実際に野菜が実っている光景を見て、彩音は衝撃を受けた。
自分には知らない世界があり、新たな世界に触れるのが楽しかった。
だから、今回も今まで見たことの無い世界が見えるかもしれない。
そんな風に思ったのだ。
彩音の言葉に戸惑いの表情を浮かべた凪だったが、興味津々と目を輝かせる彩音を見て、何かを感じ取ったようだ。
「ははは、分かった。じゃあ、一緒に行こうぜ」
「うん!」
こうして、彩音は人生初の魚釣りに出かけることになった。
そんな爽やかな朝なのだが、彩音はがっくりと項垂れて廊下を歩いていた。
(今日も起きれなかった……)
今日は洋食なのだろうか?
廊下にはベーコンの焼けたいい香りが漂っている。
つまり、すでに朝食は出来ているということだ。
早く起きて悠樹の準備を手伝おうと思ったが、もうその必要がないということを意味している。
今日こそ悠樹を手伝おうと意気込んでいただけに、彩音は現在自分の不甲斐なさに落ち込んでいるわけである。
「おはよう」
「あ、彩音おはよう」
「おう! 眠れたか?」
出迎えた悠樹と凪に挨拶しつつ、テーブルに視線を移すと、案の定テーブルには朝食が並んでいた。
こんがりいい具合に焼けたベーコンと、半熟の目玉焼き。
たぶん凪が採ったと思われる新鮮野菜のサラダも用意されている。
完璧な朝食だった。
「悠樹、ごめんね。手伝えなくて」
「いいんだよ、気にしないで。飲み物は何にする? 牛乳? オレンジジュースやコーヒーもあるけど」
「じゃあ、牛乳もらおうかな」
「了解」
朝食作りは手伝えなかったが、その分従業員として頑張ろうと彩音は心に決めた。
悠樹が台所に行くと、入れ替わりに鏡夜がのっそりと居間に入ってきた。
「おはよう~」
「おはようございます。相変わらず眠そうですね」
「うん。でも、彩音ちゃんの顔を見るために頑張って起きたんだよ~」
「そうですか」
鏡夜の飄々とした言葉を彩音はスルーするように答えた。
最初出会った頃から思ったが、鏡夜は少し掴みどころのない性格だ。
最初はどう対処していいか戸惑った彩音だったが、ここ2、3日凪と悠樹の態度を見て、鏡夜の軽口はスルーするに限ると学んだ。
「ううう……彩音ちゃんが冷たい」
「そういや鏡夜、彩音が来てから朝ちゃんと起きているな」
「え? そうなの?」
「だから言ったでしょ。彩音ちゃんの顔が見たくて起きてるんだってばぁ」
鏡夜は凪の言葉に半分冗談に聞こえる軽妙な返しをすると、凪はため息交じりに皮肉を返す。
「彩音がいなくても朝くらいは起きていてほしいもんだな」
「えー。別に僕が朝起きなくても困らないでしょ。どうせお客は居ないし、手伝う必要なんてないだろうし」
鏡夜の指摘はもっともで、彩音はここに滞在して数日経つが宿泊客はいない。
もしかして今日もいないのだろうか?
(いやいやまさか)
彩音が自分の不安を打ち消すように否定した。
だが、初日に彩音が飛び込みの客だと勘違いした悠樹の喜びようを見ると、一抹の不安を感じる。
数日間宿泊客がいないというのは、経営的な意味で問題な状況なのではないか。
「ええと、今日はお客さん、来る……んだよね?」
彩音は恐る恐る尋ねてみたところ、悠樹は途端に顔を曇らせ、ため息交じりに答えた。
「残念ながら……。というか、かなり前から宿泊客がいない状態なんだ。コレと言って名物や観光地ってわけでもないし、仕方ないんだけど……」
確かに彩音が行こうとしていた隣駅はここよりも高原にあるためか、ちょっとした避暑地になっている。
だが、一方でこの周辺には観光地があるわけではない。それは駅の周辺に人がいないことが如実に示している。
加えて金烏荘は人里から離れた隠れ家的宿屋だ。
ここまで宿泊客が来るのは難しいのかもしれない。
「僕としては宣伝とかして、この村の魅力を押し出せばいいと思うんだけどね。凪は反対なんだよ」
「そうなの? なんで?」
「そう思うだろ? 僕はこの宿を繁盛させたいんだけどね……」
視線が凪に向かう。
だが凪は彩音と悠樹を見向きもせず、トーストを頬張りながらベーコンに手を伸ばしている。
「いいんだよ、この宿は本当に来たいと願ってくれる人間に来てもらえれば。さぁ、この話はここまでだ。ご馳走さん」
凪はそう言い終えると、さっさと居間から出て行ってしまった。
その後ろ姿を悠樹は何とも言えない表情で見送っている。
何か気がかりでもあるのだろうか?
「悠樹、どうしたの?」
彩音が尋ねると悠樹は目を伏せ、ため息交じりに答えた。
「うん……。実は、凪は金烏荘を今年の夏を最後に辞めるつもりかもしれないんだよ。はっきりは言わないけどさ」
「え! どうして!?」
「分からないんだよ。詳しくは僕にも教えてくれないんだ」
知らされた話に彩音は驚きの声を上げた。
沈んだ声の悠樹と、驚く彩音をよそに、鏡夜は何事もないかのように食後のお茶を飲んでいた。
その様子は彩音にとって意外だった。だがこの落ち着いた様子から察するに、鏡夜は凪が金烏荘を辞める理由を知っているのではないか。
彩音にはそんな風に思えた。
「鏡夜さんは何か知っているんですか?」
「うーん。知っているといえば知っている、知らないといえば知らない、かな」
「何ですか、それ? 鏡夜さんはこの宿がなくなっても平気なんですか? 宿がなくなっちゃったら、鏡夜さんだって行く場所ないんじゃないですか!」
鏡夜さんの煮え切らない態度に思わず語尾が荒くなってしまった。
しかし、鏡夜はそんな彩音の気持ちとは裏腹に、のんびりと答えた。
「そりゃ、僕としてものんびりゆっくり暮らせるこの宿がずっと続いてほしいと思うけどね。でもこの宿の主人は凪だから。僕は凪の意見に従うだけだよ」
はっきりと告げられた答えに、彩音はなんとも言えない気持ちになった。
思わず黙り込む彩音に、鏡夜はくすりと笑った。
だが、笑っているのに目はまるで笑っていない。
探るような色が見えるのは気のせいだろうか?
「彩音ちゃんだって一時的に身を寄せているに過ぎないじゃない?」
「!」
確かに鏡夜の言うことは正論だ。
金烏荘の主人は凪だし、彩音も一時的な使用人に過ぎない。
それなのに彩音がどうのこうの言える立場ではないのだ。
同時に、鏡夜の言い方から、彩音は明確に線引きされた気がした。
鏡夜は彩音を歓迎してくれていたようだったし、軽口や冗談をよく言ってくれる。
だから、なんとなく金烏荘の一員になれた気持ちでいたのだ。
だが、そうではないのだと突きつけられた気持ちだった。
その事実に何故か彩音の胸がぎゅっと締め付けられ、胸に痛みが走った。
「そうですね。……ご馳走様でした」
それだけ言うと、彩音は静かに居間を出た。
※
朝、廊下を歩くときにも気持ちは沈んでいたが、その比ではないほど、彩音の気持ちは沈んでいた。
ザッザッと箒で玄関を掃除している間も、鏡夜の言葉が頭から離れない。
『彩音ちゃんだって一時的に身を寄せているに過ぎないじゃない?』
そう、自分は一時的に金烏荘にいるだけでいずれはここを出て行く。
頭では分かっているのだ。
ただ、気持ちがついていかないだけで。
まだ数日過ごしただけなのに、金烏荘は居心地が良くてずっといたくなる。
ここを出ても、また戻ってきたくなるほどに。
「彩音ちゃん」
名前を呼ばれてハッと顔を上げると、鏡夜がにっこりと笑いながら歩いてきた。
「鏡夜さん」
「ねぇ、彩音ちゃん。さっきの話なんだけど」
さっきの話、というのは金烏荘の話だろう。
言葉の続きを待っていると、鏡夜が彩音の顔を覗き込んだ。
黒い瞳のはずなのに、間近に見ると濃い紫色のようにも見える。
普通の人間ならこんな瞳の色はしていない。
カラーコンタクトなのだろうか。
そんなことをぼんやりと考えてしまう。
男性とこんなに顔を近づけたことはないのに、羞恥心など全く湧かず、その瞳を逸らすことができずに見つめ返してしまう。
「彩音ちゃんは、この金烏荘にいたい?」
そうだ。
帰りたくない。
ずっと金烏荘にいたい。
帰る?
どこに帰るのだろうか?
鏡夜の瞳が一瞬怪し気に光ったような気がする。
だが思考がぼんやりとして、霞がかかったように感じた彩音には、それすらも気にはならなかった。
そして思わずぽつりと漏らしていた。
「私、ずっとここに居たいな」
「本当に、ずっと居たい? この地に、居てくれるかい?」
「うん、ずっと居るよ。この地に……」
そう答えた彩音の脳裏をよぎったのは、不思議な着物を纏った少年の姿だった。
後ろ姿だけだが、凪のように思えるのは何故だろうか?
「凪と離れたくないな……私は……帰りたくない。ここに、居たいな」
「そうか、じゃあ、ずっとこの金烏荘に居ようよ」
「うん。凪が許してくれるなら、居たいな」
彩音がそう笑って答えた時だった。
突然鋭い声が廊下に響いた。
「鏡夜! 何をしているんだ!」
荒げた凪の声に、彩音ははっとした。
声の方向を見ると、厳しい表情をした凪がこちらにやって来ていた。
明らかに怒っている様子の凪を見て、鏡夜は彩音との距離を取って瓢々とした笑みを浮かべる。
「ん? ちょっと話を聞いていただけだよ。怖い顔しないでくれよ」
「彩音に変な真似をしてみろ。この宿から叩き出すからな」
「それは困ったな。ここを追い出されたら行き場を失ってしまう。でも、凪は彩音ちゃんがいてくれた方が凪のためになるでしょ?」
(凪のため?)
鏡夜の言葉に彩音は首を傾げた。
彩音がそんな疑問を尋ねようとするが、鏡夜を睨みつける凪の空気に口を開くことができなかった。
「余計なお節介だ。居候はさっさと部屋に戻れ」
「おお怖い。じゃあ大人しく僕は部屋に戻るよ」
じゃあねとひらひらと手を振りながら鏡夜は去って行った。
その後ろ姿を見送った凪は、小さくため息をついた。
先ほどの怒りはすっかり消えており、凪の声はいたって普通の様子に戻っていた。
「はぁ。油断も隙もあったものじゃないな。彩音、大丈夫だったか?」
「大丈夫って、うん、大丈夫だけど」
「そっか。鏡夜の言葉を気にするなよ」
「気にするなって?」
凪が何を心配しているのか分からず、彩音は首を傾げた。
ただ単にここに残りたいかどうかを聞かれただけなのに。
「ねぇ、金烏荘を締めちゃうって本当?」
「あぁ。そのつもりだ。彩音もさっさと帰った方がいい」
「帰りたくないな。居ちゃダメ、かな?」
先ほど口にした言葉が思わずついて出る。
「それはお前の本当の気持ちか? 鏡夜に言わされているんじゃないか?」
彩音はその言葉を聞いて、自分の想いを疑われているように感じた。
だから、気づけば想いを込めて訴えかけていた。
「確かに、まだ数日しかここに居ないけど、ここにはここの魅力があるでしょ」
都会には都会の便利さがあるし、刺激も見所もいっぱいだ。
スマホの電波の入らないここに比べれば、都会はたくさんの娯楽に溢れている。
都会には都会のよさがあると思う。
だが、この村には都会には無い魅力がいっぱいある。
美味しい空気に、たくさんの緑、のんびりとした時間の流れ、静かな時間。
これらは都会にはないこの村の魅力だ。
「それにね、おかしいかも知れないけど、この宿って安心するの。凪や悠樹が丁寧に掃除しているところとか、お客さんがいつ来てもいいようにって真心込めて準備している姿とか見ているとね、ずっとこの宿があればいいのにって思えてきたの」
たった数日のことなのに、凪も悠樹も鏡夜も、この金烏荘を大切に思っていることは伝わってきた。
「うん……私、金烏荘、好きだなぁ」
本当に思わず漏れた一言だった。
そして、すぐに我に返った。
まるで、それは告白のようだ。
そのことに気づいた彩音は急に我に返って慌てて弁解の言葉を述べた。
「や、やだ! 私ってば、一人で語っちゃって。ごめん!」
急に恥ずかしくなり、早口になった彩音を、凪は眩しい物を見るように目を細めた。
その眼差しがあまりにも優しくて、何故か彩音の胸がギュッと締め付けられて息を呑んだ。
「……はぁ。仕方ない、もう少しだけいるといい。どうせ祭りが終わったら帰ることになるだろうしな」
「祭り?」
「あぁ、村人が産土神に感謝を捧げる祭りなんだ。だけど、その祭りも最後だ。村人は皆都会に行ってしまったからな。この辺りはもうほとんど人がいないし」
「そうなんだ。それは寂しいね」
「そうだな……」
呟くようにそう言った凪の表情は、悲し気で、そして寂しげでもあった。
凪の纏う空気に寂寥感が滲み出る。
ずっと明るい姿しか見ていなかった彩音はその姿に再び胸が締め付けられるようだった。
だが次の瞬間。それを吹き飛ばすように、凪は明るく笑いながら彩音の頭を撫でた。
「ま、暫くはここにいろ」
「ありがとう!」
ようやく自分の気持ちが認められたこともだったが、凪に受け入れてもらえたようにも感じられ、彩音の心は弾んだ。
(私、ここにいていいんだ)
安堵の気持ちが彩音の胸に広がっていく。
ほっと胸を撫で下ろした彩音は、ようやく凪の姿をじっくりと見た。
「あ、凪! どうしたの、それ?」
「それって、釣り道具だけど」
見れば分かる。
竿とバケツを持った姿は、どこをどう見ても釣りに行く格好だ。
(そういえば、私釣りなんて見たことないな)
ふと考えると、釣りというものとは縁遠い生活だ。
父をはじめとして魚釣りが好きな人間はいなかったし、自分でもわざわざ海に行って釣りをしたいと思ったことはない。
だからこそ、凪が釣りをするところを見たくなった。
むくむくと好奇心が頭をもたげる。
「私も行きたい!」
「いいけど……見ているだけじゃ、つまらないぞ?」
「そうなの? じゃあやってみたい!」
「釣りを、か?」
「うん。ダメかな? せっかくだから色んな事をしてみたいんだ」
先日畑に行って、実際に野菜が実っている光景を見て、彩音は衝撃を受けた。
自分には知らない世界があり、新たな世界に触れるのが楽しかった。
だから、今回も今まで見たことの無い世界が見えるかもしれない。
そんな風に思ったのだ。
彩音の言葉に戸惑いの表情を浮かべた凪だったが、興味津々と目を輝かせる彩音を見て、何かを感じ取ったようだ。
「ははは、分かった。じゃあ、一緒に行こうぜ」
「うん!」
こうして、彩音は人生初の魚釣りに出かけることになった。
