迷い込んだ森の中、消えゆくあなたに恋をした

朝食が終わり、凪に連れられて(くだん)の家庭菜園へ向かった。
案内された場所についた彩音は思わず歓声を上げてしまった。

24mプールほどの大きさもあり、家庭菜園と言われて予想していた広さよりずっと大きい。
むしろ畑と言ってもいいくらいだ。

そこには一面の緑が生い茂っており、赤く熟れたトマトの他にも、ナスやキュウリ、ピーマンなどの夏野菜がたわわに実っている。

「凪! すごい畑だね! 家庭菜園っていうから庭の片隅に作るような小さいものだと思っていたけど、これって立派な畑だよ」
「そうかぁ? まぁ、この辺りは土地が余ってるし、自分で食べるくらいしか作ってないから、畑なんて大したもんじゃないぜ」
「いやいやいや、これだけの種類の野菜を作ってるんだもの。立派な畑だよ。それにしてもすごい種類の野菜を育ててるんだね」

彩音は茂った緑の葉を見ながら、苗を確認するように歩いた。

スーパーで売っている野菜しか見たことがない彩音にとっては、まだ茎にぶら下がったままの野菜を見るのは新鮮だった。

写真で見たことがあっても直接見るのは初めてだ。
その中で、一つ不思議な形の苗を見つけた。

(これは……百合?)

百合の蕾のように細長い緑の実が上の方に向かって伸びている。

畑に花を植えているわけはないだろうが、どう考えても野菜には見えない。

彩音が謎の苗の前で足を止めていると、不思議に思った凪が近づいてきた。

「ん? どうした?」
「これ、何の野菜かなって思って」
「あぁ、オクラだよ」
「オクラ!? オクラってあのネバネバの?」
「そう」

知らなかった。
てっきりオクラもトマトなどと同様に、下向きに実がつくと思っていたのに、まさか上向きに実をつけるなど。

目を丸くしてオクラを見つめる彩音の姿に、凪がくすりと笑った。

「そんなに驚くことか?」
「だって初めて知ったんだもの! 自然の神秘、恐るべし」

他にも面白い野菜が栽培されていないか、思わず他の野菜もガン見してしまう。

「まぁ、珍しいものなんてないけど、ゆっくり見てくれ」

そう言った凪はその場でしゃがみ込むと、草むしりを始めた。

「あ、私も手伝うよ。この辺の草むしりすればいい?」
「いや、そこまで雑草は多くないし、畑を見回りながらちょいちょい取っていくつもりだ。彩音にはそうだなぁ、じゃあ、あっちにホースがあるから水撒きしてくれ」
「分かった!」

彩音は凪に言われたホースを持つと、畑に水を撒き始めた。
乾いた大地に水が染み込むと、濃い緑の香りが鼻腔をつく。

初めは気持ちよく水撒きをしていたが、今日の日差しは強く、じりじりと肌が焼けるのを感じた。

「本当、暑いなぁ」

空を見上げると蒼穹の空に、ぎらぎらとした太陽が自己主張している。
そんな太陽目掛けて水をかけるように彩音はホースを上に向けた。

ホースから出た水が、勢い良く空を舞う。

日差しに照らされて、きらきらと雫が光り、彩音は思わず感嘆の声を上げてしまった。

「わー綺麗! 虹が出てる!」

その小さな虹がとても綺麗で、彩音は鼻歌を歌いながら、さらに高く水を放った。
弧を描く水が、苗の青々とした葉に当たり、小気味よい音を奏でる。

その時だった。

背の高さまで伸びたトマトの苗木の間から、突然凪が現れた。

「わ!」
「え!?」

あまりにも突然すぎたため、反応することができず、弧を描いた水がざばざばざばぁと音を立てて、勢いよく凪を直撃した。
慌てて水を撒く手を止めたが、時すでに遅し。

目の前には髪から水滴を滴らせ、シャツがぐっしょりと濡れてしまった凪の姿があった。

「な、凪……!?」

一瞬お互いの間に沈黙が生まれる。
何か言い訳をしなくてはと思った彩音が口にしたのは次の言葉だった。

「えーと。水も滴るいい男、とか?」
「おーまーえーはー!」
「ご、ごめん! ま、まさか人がいると思わなくてさ……それに、ほら見て見て! 綺麗でしょ?」

彩音の言っている意味が分からないというようで、凪は首を傾げる。

「ほらほら、これ。小さいけど虹が出来てるんだよ!」
「なるほど……。で、虹作りに夢中だったってわけか。ふふーん」
「な、なに、急に企んだ顔して……」

ニヤリと笑う凪の笑顔に思わずたじろいだ。

「そりゃ、イイモノ見せてもらったんだから、お礼しなくちゃなぁ~」
「え?」
「おりゃぁ~仕返し!」

そう言うと凪は彩音の持っていたホースを横取りし、彩音目掛けて水を掛け始めた。

「わー! つめたーい! でも、気持ちいい! ええっと、私も反撃!」
「しまった、取られたか!」

火照った体にかかる水は冷たく、心地よい。

彩音たちはお互いにホースの取り合いをしながら、逃げ回ったりしながら小さな虹をいくつも作り、互いに夢中になっていた。

やがて、どちらからともなくホースを奪い合う手を止めると、彩音は「はぁ」と弾んだ息を整えた。
こんなに笑ったのはいつぶりだろうか?
体を動かすのも、青空の下で駆けまわることも、ずっとなかった。

毎日家と学校と塾に通うという決まったルーティン。
偏差値と志望校を睨めっこして、悩む毎日を少しだけ忘れられた気がする。

「はぁ、楽しかった」
「でも結構濡れちまったな」

言われてみれば、お互いに頭から水を被った状態だ。
先日雷雨の中を走ったと同じくらい濡れてしまっている。

その時、突然凪がシャツを脱いだ。

「な、なんで脱いで……」
「は? だって濡れたままだと気持ち悪いだろ?」

そう言ってシャツを脱いだ凪は、それをギュッと絞っている。
凪の体は鍛えられていて、予想よりずっと引き締まっていた。

程よくついた筋肉と、少し日焼けした肌、水滴が流れ落ちる髪。
何故か、色気のようなものを感じてしまう。

男性の体などまともに見たことがない彩音は、凪の姿を見て固まってしまった。
同時に、彩音の胸がバクンと脈打った。

「ん? どうした?」

凪の言葉に彩音はじっと見つめてしまっていたことに気付き、慌てて目を逸らした。

「な、なんでもない」
「お前!」
「えっ?」

凪は短い叫びと同時に、Tシャツの上から羽織っていた黒いシャツを彩音に羽織らせる。
その行動の意味が分からず、彩音が小さく驚きの声を上げた。

「どうしたの、急に。暑いよ」
「シャツの下! 見えてる!」

そう言われて彩音は自分のシャツを見た。
白いシャツの下からうっすらと下着の色が見えている。

「っ!」
(は、恥ずかしい!)

水遊びに夢中で気づかなかった。

確かに、一緒に遊んでいた凪が服を脱ぐほど濡れていたのだ。
自分も同じくらい濡れているのは当然だろう。

「いいから着てろ! じゃあ、帰るぞ」

踵を返して凪は先に歩き出してしまった。
その耳がほんのり色を帯びているのは気のせいだろうか?

「ちょっと、凪、待って!」

吹き抜けた風は少しだけ涼を帯び、彩音の火照った頬を優しく撫でていった。
それを感じつつ、彩音は凪の後を追った。

ちなみに、金烏荘に戻った二人の姿を見た悠樹に、水遊びの事がバレてしまい、
「二人とも一体何をやってるんだよ! 彩音も彩音だよ。君、女の子だよ。こんなにずぶ濡れになって……自覚してよ!」
と怒られたのは言うまでもない。

それでもこの楽しい夏のひと時を、彩音は絶対に忘れないと思った。