迷い込んだ森の中、消えゆくあなたに恋をした

ジリリリリ!

激しく打ち鳴らされるベルの音が室内に響く。
彩音は布団の中から手を伸ばし、ボタンを押して止めると低く唸った。

「眠い……」

目覚まし時計は六時半を示している。

夏の朝は日が昇るのが早く、六時半にもかかわらず外はすっかり明るくなっていた。

夏休みだということで、いつもは昼近くまで惰眠を貪っていた彩音にとって、久しぶりの早起きは体に堪える。
だが、そうも言っていられない。

(早く行って悠樹の朝食準備を手伝わなくちゃ)

昨日は初日ということもあって、起きた頃には完璧な朝食が出来上がっていたが、やはり従業員たるもの朝食づくりの手伝いくらいはすべきだろう。

そう考えた彩音はこうして目覚まし時計をセットして早く起きたのだ。

眠い目を擦り、二度寝したい誘惑を振り切るように布団から勢いよく抜け出して身支度を始めた。
だが、気合を入れて廊下に出た時点で、何やら魚の焼けるいい香りが漂ってきた。

(まさか!)

彩音が慌てて居間に駆け込むと、既にテーブルいっぱいの料理が並べられていた。

つやつやのご飯が盛りつけられた茶碗に、こんがりといい具合に焼けた魚、納豆と卵、それに加えてほうれん草の和え物が並ぶ光景を見て、彩音はがっくりと項垂れてしまった。

「あ、おはよう」

台所からやって来た悠樹が爽やかな笑顔で挨拶をしてくれた。

「もう準備終わっちゃった?」
「うん。後はお味噌汁をよそっちゃうだけだよ」
「そっか……」

歯切れ悪く、少しトーンダウンする彩音を、既に座っていた凪が不思議そうに首を傾げて尋ねた。

「なんだよ、なんかあったのか?」
「だって……朝食の準備、手伝おうかと思って、ちょっと早く起きたんだよね」

がっかり、という彩音の表情を見て、苦笑しながら悠樹が慰めてくれた。

「そんなの気にしなくていいのに」
「でも……」

なおも言い募ろうとする彩音に凪もカラリと笑った。

「まぁ、従業員としての心意気は感心だけど、別に気にしなくていいぜ」
「おはよう~」

そのタイミングで居間に入ってきた鏡夜を凪は指さす。

「こういう気遣いの欠片もない居候もいるしな」
「え? なになに?」

いつものようにのんびり起きてきた鏡夜は、話の内容が分からないようで楽しそうに話題を聞いてきた。
まさか鏡夜が気遣いの無い居候だと言われていたことを告げることもできず、彩音は曖昧に笑った。

一方悠樹は、今まで悪口を言っていたなどと欠片も感じさせないような笑顔を鏡夜に向けた。

「おはよう、鏡夜。なんでもないよ。さ、ご飯にしようか」
「えー、なんか気になるなぁ」
「いただきます!」

凪も悠樹も鏡夜の問いには答えずに食べ始めたので、彩音はちょっと悩みつつ、そ知らぬ顔で朝食を食べることにした。

「えっと……いただきます」
「ああ! 彩音ちゃんまで。絶対何か知っているでしょ!」

鏡夜の視線は痛いが、真実を告げるわけにもいかず、彩音は話題をすり替えることにした。

「あ! このお味噌汁、出汁が利いて美味しいね! 鏡夜さんも早く食べた方がいいですよ!」
「むむむ。気になるけど、まいっか。いただきます」

何とか先ほどの話題を有耶無耶にしたが、鏡夜もそれ以上突っ込んでくることもなく、美味しそうにご飯を頬張っていた。
そうして朝食は滞りなく進んだが、ここで一つ問題が起こった。

彩音は自分の皿に残ったトマトとにらめっこをしていた。

実は彩音は、トマトが苦手なのだ。

だがせっかく用意してもらっている食事を残すのも憚られて、どうしたものかと悩んでいた。

(どうしよう。なんか、残すのも申し訳ないしなぁ……。でも食べたくないし……)

眉間に皺を寄せてトマトと睨み合いを続けている彩音に鏡夜が気づいたようだ。

「ん? どうしたんだい? もしかして、トマト嫌いなのかな?」
「う……はい、実は……トマト嫌いで……」
「そうなの? そっか、凪、残念だね。これ、今朝の採れたてだったんじゃない?」

鏡夜が凪に話題を振ったのを聞いて、彩音はふと一つの可能性を思い付いた。

「もしかして、これ、凪が作ったんですか?」
「そうだよ。凪が作った畑で採ってきたんだよ。ちょっと食べてみたらどうだい? 都会のスーパーで売っているのと味が違うから」

彩音にトマトを勧める鏡夜の言葉を聞いた凪は、別に興味はないとばかりに食事の手を止めることなく言った。

「いや、嫌いなものを無理して食べることないぞ」
「そんなこと言ってー、本当は可愛い彩音ちゃんに食べてほしくて採ってきたくせに」
「なっ!」

先ほどまで関心がなさそうに食事を食べていた凪の手が止まり、言葉を詰まらせる。

ほんのりと耳が赤くなっている様子の凪を尻目に、鏡夜は彩音に対して言葉を続けた。

「凪の作る野菜は美味しいからね。ちょっとだけでも食べてみたらいいと思うよ。何なら僕が食べさせてあげようか?」
「いや、食べさせていただかなくて結構です」

ぴしゃりと言った彩音は、赤く熟れたトマトを見つめた。
折角、凪が自分のことを考えて採ってきてくれたという厚意を無駄にするのも気が引ける。

トマトを見つめる彩音に、鏡夜と悠樹、そして凪の視線が自分に集中しているのが分かった。

彩音はゆっくりと箸を伸ばし、トマトを掴む。そして、目を瞑って勢いよく口に放り込んだ。

「……」

無言でいる彩音の様子を、三人は固唾を飲んで見守っていた。

「……おいしい……」

思わずぽつりと本音がこぼれ出た。
その言葉を聞いた鏡夜が破顔する。

「でしょでしょ? 凪が作る野菜は美味しいんだよねぇ」
「うん! 本当ですね! スーパーで売っているトマトと大違い! こんなに美味しいなんてビックリしました!」

トマトの独特の味が苦手であったが、このトマトは瑞々しい上にフルーツのような甘味がある。
トマト本来の味、というのはこういうものなのだろう。

初めて味わうトマトの味に、彩音は興奮冷めやらず、栽培者である凪に向けて言葉を続けた。

「きっと凪が丹精込めて作った野菜だからだね。本当に美味しい。これなら私も食べられる!」
「ふふふだってさ。彩音ちゃんに褒めてもらってよかったねぇ~」

意味深に笑う鏡夜に対し、凪はまた素っ気ない返事をした。

「別に」
「またまたぁ、嬉しいくせに」
「うるせー、絡むな。黙って食ってろ!」

小突いてくる鏡夜を一喝すると、凪はまた黙々と食事を続けた。

「これ、採れたてなんでしょ? この近くに畑があるの?」
「裏庭に家庭菜園程度だけどな。トマトの他にもいくつか夏野菜を作ってる」

これまで畑なんて身近になかったし、どんな野菜があるのか彩音の興味がむくむくと湧いた。
それが表情に出ていたようで、凪が提案してくれた。

「畑に来てみるか? 畑で採れたてを食べるのもいいぞ」
「うん! 行ってみたい!」
「じゃあ、飯食ったら行くか」
「いーなー。僕も行きたいなぁ~」

また鏡夜が凪に絡むと、凪はまた冷たく言い放った。

「草むしり手伝うならな、居候よ」
「しくしくしく。凪が冷たい……」

二人のこのようなやり取りも、すっかり見慣れてしまった。
なんだかんだ二人の掛け合いにクスリと笑ってしまう。

そんな様子を見ながら彩音は家庭菜園に行くことを楽しみに思いつつ、残りの朝食を食べ終えた。