迷い込んだ森の中、消えゆくあなたに恋をした

「まずはここの掃除だな」

そう言って凪が彩音を連れてきたのは玄関だった。
しかし、その惨状を見た彩音は、思わず目を丸くしてしまった。

一瞬、玄関を嵐が吹き荒れたのでは……と思ったが、昨日の自分を思い出して、この惨状に合点がいった。

雷に加え、目の前が見えない程の大雨の中を走った彩音たちが駆け込んだのだ。

外の風雨が玄関まで吹き込んだようで、少し枯れた木の葉が玄関に散らばっている。
たたきにも水が残っており、泥だらけだ。

廊下を見ると彩音が濡れたままで宿に上がったせいで、乾いた泥の足跡が風呂場まで点々と続いているようだ。

(責任を感じるわ……)

その惨状を見て、申し訳ない気持ちでいっぱいになっていると、どこからか掃除道具を持って、凪が戻ってきた。

「じゃあ、サクッとやるか。お前はそっちの水拭き頼むな。俺は外を掃いてくる」
「了解!」

彩音は雑巾とバケツを渡され、さっそく廊下の水拭きに取り掛かった。

ごしごしごしごし

一昼夜置いてしまったため、乾いた泥はなかなか取れない。
彩音は黙々と、力を込めて床を磨いた。

思うように取れないものの、地道に少しずつ水拭きを進める。

どれくらいの時間泥と格闘しただろうか?

見回すと、大方の泥はすっかりなくなっている。

「よーし、だいぶ綺麗になったかな」

泥だらけであった事が嘘のようにピカピカに磨き上げた床を見ると、彩音は満足して頷いた。
ずっと四つん這いで掃除をしていたので、すっかり体が固まってしまった。

彩音は体の強張りを解すように、立ち上がるとそのまま伸びをした。

「うーん! よ~し! 完了! あ、バケツの水、片付けなくちゃ」

そう思って足を踏み出した彩音だったが、予想以上に足が痺れていたようだ。
力を入れたはずの足には力が入らず、同時にジーンという痺れが足を襲い、思うように足が動かなかった。

同時にバランスを崩した彩音は、転倒を免れようとたたらを踏んでしまう。

何とか力を入れてバランスを取ろうと思って足を着いたその先には……雑巾があった。

「わー!」

反射的に大きな声を上げながら、彩音の体が傾く。
その視界に飛び込んできたのは、汚れた水がなみなみに入ったバケツだった。

バケツの存在を認識した時には、時すでに遅し。
彩音の足はバケツをサッカーボールの如く蹴っていた。

(転ぶ!)

反射的に目を瞑る。

このまま体は倒れて床に打ち付けられるだろう。
水音とバケツが転がる乾いた音が玄関に響き渡った。

だが、彩音の体は床に倒れることなく、柔らかいものに抱き留められていることに気づいた。

「……と、大丈夫か?」

気づけば、凪の力強い腕が彩音の腰を抱いていた。

がっちりとした腕の強さと、思わず近づいた距離に、緊張と驚きで彩音の心臓がドクンと大きく音を立てた。

「ご、ごめん」
「怪我はないか」
「うん、ありがとう」

凪が抱き留めてくれなければ盛大に転んでいただろう。

滑って転ぶ瞬間、凪が抱きとめてくれたお陰で無様に転倒するということはなかったものの、玄関は再び水浸し状態になってしまっていた。

これまでの努力が水の泡になったこともショックだったが、それよりも申し訳なさの方が勝る。

彩音は唸るように謝った。

「ううう……ごめん。すぐに片付けるね」
「いや、怪我なくて良かったよ」

そう言って笑う凪の顔が近い。
本人は気づいていないのか、凪は彩音の体を抱いたままの体勢だ。

端正な顔が近いのと、抱き留められている腕の力を感じて彩音の胸がバクバク動悸を打つ。

(……というより、この体勢、非常に居心地が悪いんですけど!)

「な、凪。もう大丈夫だから」
「……」
「……」
「っ! わ、悪い!」

突然我に返った凪は赤面すると、慌てて彩音を放した。

そのように逆に照れられると、彩音としても意識してしまい、今更ながらに羞恥心が湧いてくる。

それを誤魔化すように彩音は明るく言った。

「ええと、うん。平気。問題なし!」
「……問題あるだろ」
「え?」
「水浸しだろ」

凪の視線の先には、廊下一面に広がった泥水と虚しく転がったバケツがあった。

「ですよね……。ここは、私が責任もって片付けるから!」
「冗談だよ。掃除、やってくれたんだろ。ありがとな」
「……怒ってない?」

彩音が恐る恐る尋ねると、凪はカラリと笑った。

「当たり前だろ。掃除やってもらって、こっちこそ悪かったな。じゃ、さっさと片付けるか」
「でも! 私がやらかしちゃったことだし!」
「いいんだよ。二人でやったほうが早いだろ! ほれ、さっさと手を動かす!」
「うん……」

申し訳ない気持ちで曖昧に返事をしたら、凪に叱咤された。

「こら! 元気ないぞ。もう一度、返事は?」
「はい! ご主人様!」
「……ご主人様は気持ち悪いからやめろ」
「えー! だって凪は金烏荘の主人でしょ。ご主人様って表現は正しいよ」
「やーめーろー! 今度は怒るぞ!」

凪には昨日から世話になりっぱなしである。

それでも嫌な顔一つせずにこうして助けてくれることに、彩音の胸がじんわりと温かくなった。

あの雷雨の中、あのまま一人で動けなくなっていた彩音を、ここまで連れてきた凪。
彼は少しぶっきらぼうなところもあるが、きっと優しい人物なのだろう。

彩音はそう思いつつ、凪と共に片付けを始めた。