※
少年に連れてこられたのは、一軒の鄙びた古民家のような場所だった。
引き戸を開けると、焦げ茶色の大きな柱と漆喰の壁が目に飛び込んできた。
吹き抜けの高い天井には、黒茶色の太い梁が見え、古民家の風情を醸し出している。
そんな家の中を彩音はぼーっと見つめた。
まだ地面が揺れている気がする。
息は切れ、死ぬ気で走ったため、心臓がバクバクと脈打ち、口から出そうだった。
「いらっしゃいませ……って、凪! お帰り!」
古民家風の屋敷の奥から、一人の少年が笑顔で現れたかと思うと、彩音たちの姿を見てぎょっとした表情を浮かべた。
この少年の言葉から察するに、彩音を連れて来た少年は凪という名前らしい。
「おう、ただいま」
「うわー! ずぶ濡れだね! タオルタオル!」
そう言って少年は一旦奥に戻ると、真っ白いタオルを持って駆け戻ってくる。
「サンキュ、悠樹。ほら、お前もタオルで体拭けよ。そのままじゃ、風邪引くだろ」
「あ、ありがとうございます」
凪に差し出されたタオルを受け取ると、彩音は髪の水気を拭きとった。
ここに来て、彩音はようやく凪という名の少年を改めて見ることができた。
年の頃は高校二年生の彩音より少し年上のように見える。
ということは、高三くらいだろう。
背が高く、しっかりとした体つきをしていることから運動でもしているのだろうか?
少し日焼けした肌に、きりりとした目、少し短めの髪から闊達な少年といった印象を受ける。
「凪、お客さん?」
悠樹と呼ばれた少年は状況が掴めないと言った様子で、困惑した表情を浮かべ、首を傾げた。
形の良い眉に柔らかな目元の少年は、彩音と同い年くらいに見える。
身長は凪ほど高くはないが、それでも長身の部類に入るだろう。
すらりとして長い手足のスタイルは、モデルといっても通じるだろう。
悠樹の問いに凪は端的に答えた。
「いや、拾った」
「え?」
「だから、道で拾ったんだよ」
確かに道にしゃがみこんで蹲っていれば荷物みたいに見えたかも知れない。
だが、いくらなんでもその言い方はあんまりだ。
同様のことを悠樹も思ったらしく、苦笑を浮かべつつ彩音に向き直った。
「えっと……とりあえず、いらっしゃいませ……?」
「え?」
(いらっしゃいませ?ってことは、ここはお店?)
彩音の疑問が表情に現れていたのだろう。悠樹が言葉を補った。
「ここは金烏荘|《きんうそう》……まぁ、この村の宿屋かな。お客は殆ど来ないけど……」
なるほど。
最近は古民家風の旅館があると、某有名旅行サイトに載っていた。
もしかして自分が泊まる予定の宿なのかと一瞬思ったが、事前に見たホームページの写真と違うし、何より「金烏荘」という名前でもなかったはずだ。
その時、宿屋の奥から着流しを着た男性が現れた。
「それよりもお嬢さんにお風呂を貸してあげるべきじゃないかな、悠樹」
艶やかな長い髪の青年は、凪や悠樹よりずっと年上のようだ。
目尻が少し下がり気味だが、目鼻立ちははっきりしていて、こちらも美青年と言えるだろう。
だが、その風貌と格好がなんとなく浮世離れして見えて、不思議な雰囲気を醸し出していた。
「こんな可愛らしいお嬢さんを濡れたままにしておくなんて、全く君たちはどうかしてるね」
男性はそう言いながら、彩音の存在に興味津々とばかりに近づくと、頬すれすれに顔を寄せる。
彩音は驚いて息を呑んだ。
それを気に掛けずに青年は悠然とした笑みを浮かべたまま、彩音の目を覗き込んだ。
「いいね。君、気に入ったよ。うん、おいしそうだ」
「な、な、な!」
青年は、反射的に後ずさった彩音の様子を見て笑いながら、その青年は再び彩音に近づく。
彩音が一歩後ずさる。
青年が一歩歩み寄る。
(な、何? 何をしようとしてるの!?)
キスされる距離まで近づかれて、心臓がバクバクと暴れる。
すると、そんな男性の肩を凪ががちりと捕まえて、引き留めた。
「おい、待てよ、鏡夜久しぶりに起きて、寝ぼけているのか?」
「やあ、凪。君もびしょ濡れだね。水も滴るいい男っていうわけかい?」
「ふざけるな! つーか、こいつから離れろ!」
「まぁまぁ、そうかっかしないでおくれ。お嬢さんがおびえているよ。……わかった、僕が悪かったよ。冗談が過ぎた」
どうやら青年は鏡夜と言う名前らしい。
鏡夜は大仰に手を上げると、笑みを浮かべたまま彩音から距離を取った。
「ちょっとお嬢さんが可愛かったから揶揄ってしまったんだ。だが、それはそうと……本当にこのままではお嬢さんは風邪を引いてしまうよ」
「確かにそうだな。おい、悠樹。こいつを風呂に案内してやれ」
「あっ、うん、そうだね。お風呂はこっちだよ。脱衣所にお客様用の浴衣が用意してあるはずだから、適当に使って」
「あ、はい。ありがとうございます」
最初は固辞しようと思った彩音だったが、確かに濡れたままでいたら風邪をひいてしまうだろう。
彩音は凪の配慮に感謝し、悠樹の後をついて風呂に向かった。
※ ※
案内された浴場は水道が五つ程度しかなく、宿としてはこぢんまりとしたものであったが、綺麗に掃除されて清潔感がある。
外には露天風呂もあるようだが、生憎の雨だ。
あまり長居しても悪いので、彩音はさっとシャワーだけで体を温めると、手早く身支度を整え、エントランスに戻ることにした。
エントランスに戻ると、ソファに座った凪たち三人の姿が見えた。
「すみません。お風呂、ありがとうございました」
「どう? もう温まった?」
「はい」
悠樹が微笑みながら彩音の前に冷たい麦茶を置いた。
一口飲むと、火照った体に冷たい麦茶が身に染みて、ようやく彩音はほっと息をつくことができた。
「それで、一応確認だが、お前は客か?」
「凪……そんな態度は失礼だよ。もしかして飛び込みのお客さんかもしれないじゃないか」
「そっか。確かに悠樹の言う通りだな。予約は無いが、飛び込みの客かもしれない」
「でしょ」
「あ……あの……」
凪と悠樹の会話の意味が分からず彩音は首を傾げ、控えめに問いかけた。
すると悠樹の表情が突然営業スマイルに転じた。
「いらっしゃいませ。宿泊のご予約は無いですよね?」
「は、はい……」
「では、飛び込みのお客様ということでよろしいでしょうか?」
「えっと……実はもう宿は予約していて……」
勢いに気圧されながらも何とか返答すると、それを聞いた悠樹の表情には「がっくり」という言葉がありありと浮かんでいた。
「あの……ごめんなさい」
「ほれみろ」
「はぁ……残念だなぁ。せっかく真っ当なお客様かと思ったのに」
「で、お前の宿はどこだ?」
「確か……名月庵っていうところだったと思います」
彩音が答えると、凪と悠樹が驚いた表情になった。
「名月庵だって!?」
「それ、山を越えた隣村だぜ」
二人の言葉に今度は彩音が驚いて目を見開いてしまった。
「……ええ!」
「降りる駅を一駅間違えたな」
(それで送迎バスが来なかったんだ。スマホも落としちゃうし……今日はツイてないな)
事の真相が分かると同時に、今日一日の不運を思い出し、彩音はがっくりと項垂れた。
「傷心なところ悪いが、悪い知らせはこれだけじゃない」
「え……? な、なに……?」
「この村と町を繋ぐ唯一の道にある吊り橋が壊れたみたいなんだ」
「え……?」
今度は悠樹が言葉を続けた。
「しかも、電話線も切れちゃったみたいで、電話も繋がらないんだよ」
「ええ!」
更に鏡夜が笑いながら言う。
「復旧まであと数日はかかるね、可愛いお嬢さん」
「ええええ!」
ツイていないどころの話じゃない。
殆ど天に見放されたといっても過言ではないだろう。
どうして旅行に来て、こんな目に遭わなくてはならないのか。
日頃の行いを振り返っても、そこまで素行は悪くないはずだ。
(なのに何故……)
だが最後の望みは捨てない。彩音は凪に尋ねた。
「迂回するとか他に隣村に行く方法はないんですか?」
「無いな」
「無いね」
「無いだろうねぇ」
凪、悠樹、鏡夜が立て続けに言った言葉に、彩音はとうとう口を開けたまま声が出せなくなってしまった。
「まぁ、五日かけて山を越えれば行けなくも無いだろうけど、道なんて無いしね。熊も出るし……」
道なき道を五日も歩くなど不可能だ。
「で、お前はどうする?行く宛ては……ないだろうな」
「……はい。ここに泊まらせていただけたら……」
「じゃあ、やっぱりお客様になるね!」
彩音の言葉に、悠樹の表情がぱぁああっと明るくなった。
だが、ここで彩音は一つ、問題があることに気づいた。
「あ……」
「どうしたの?」
「泊まらせて欲しいんですけど、その……お金が……」
そうなのだ。
現在の所持金は財布に五千円程度しか入っていない。
たいていの買い物はスマホの電子決済で済ませてしまっている。
だから現金の持ち合わせはなかった。
だが、このままこの宿から放り出されては困る。
彩音は五体投地する勢いで頭を下げた。
「で、でもここ以外に行く場所はないんです! お金は必ず払うので、泊めてください!」
必死になって懇願するが、悠樹は困った顔で凪を見ている。
凪は凪で、眉間に皺を寄せてなにやら考え込んでいる様子だ。
「……」
「……」
(うう……沈黙が、重い……)
その重苦しい空気を破ったのは、鏡夜だった。
「別にいいんじゃないのー? どうせ部屋はがら空きだし。ここに泊めてあげなかったら、この可愛いお嬢さんは本当に死んでしまうかもよ」
さっきはチャラい、よく分からない男性だと思っていたが、今の彩音には地獄に仏のように見えた。
鏡夜の言葉を受け、凪は逡巡した後、深いため息をつきつつ彩音に向き直った。
「……分かった。泊めてやるよ」
「本当!?」
「ただし、客じゃない! 従業員として、ここで働いてもらう。その代わり、宿泊費は無料。食事も支給してやる」
「あ、ありがとう! 私、精一杯頑張ります!」
「ということで、そろそろお嬢さんの名前を聞いてもいいかな」
鏡夜に尋ねられ、彩音は自己紹介もしていなかったことに気づいた。
「あ、まだ名乗ってませんでしたね。私は笹野彩音って言います。よろしくお願いします!」
「僕は悠樹。で、こっちが兄の凪だよ」
「お兄さんなの!?」
意外だったのは凪と悠樹が兄弟だということだ。
確かに二人とも整った顔をしているが、どう見ても兄弟には見えない。
異母兄弟とかそういう関係なのか?
一瞬そんなことを考えていると、彩音の反応に凪が怪訝な顔を向ける。
「何だよ」
「あ、なんでもないです。ええと、仲がいいからちょっとびっくりしちゃって。お友達同士なんだと思っていたので」
まさか異母兄弟ですか?などと家庭の事情を詮索するわけにもいかず、彩音は誤魔化した。
「そうか? 普通だろ? ま、これからよろしくな」
「はい。よろしくお願いします、凪君」
「……凪でいいよ。凪君だなんて、呼ばれ慣れない。それと敬語もいらねーよ」
「分かった。んじゃ、私のことも彩音って呼んでね」
「おう」
「僕のことも悠樹って呼び捨てでいいよ。あ、それとこっちは鏡夜」
「鏡夜さん、よろしくお願いします」
鏡夜に礼をすると、彼は彩音の手を自らの口元にそっと寄せた。
(な、なに!? 急に手の甲にキスってどういうこと!?)
突然の行動に、動揺から言葉を失っていると、鏡夜は揶揄うように笑った。
「よろしく、彩音ちゃん」
「……」
絶対に反応を面白がっている。
凪や悠樹はともかく、鏡夜の行動は心臓に悪い。
「いたたたた! 凪、耳、引っ張るのやめてくれよ!」
「お前……ふざけるのもいい加減にしろよ!」
「やだなぁ。挨拶でしょ、こんなの。彩音ちゃんが可愛いから、ついね」
「つい、じゃない!」
凪は強い語調で鏡夜を一喝したあと、勢いそのままに彩音を振り返った。
「いいか、彩音。こいつは穀潰しの居候だ。だからこいつの存在は居ないものとしてくれていい!」
「酷いなぁ。お客に向かってそれはないだろう」
「宿代を払わない人間は客とは言わない」
「ま、確かにね」
二人はただの宿主と客のようだったが、そうは見えない。
どうやらここの関係も複雑なようだ。
「自己紹介はこんな感じかな。色々あって、疲れたでしょ。部屋を用意したから」
場を仕切り直すように悠樹はそう言うと、彩音を連れて部屋に向かった。
「ここが今日から彩音の部屋だよ」
通された部屋は明らかに客室だ。
古民家風なだけあって八畳の和室だった。
真新しい畳のいい香りが彩音の鼻孔を掠める。
てっきり従業員用の部屋に連れていかれると思っていたので、彩音は驚いてしまった。
「こんなに立派なお部屋を借りちゃっていいの?」
「いいんだよ。さっきもちょっと言ったけど、金烏荘はほとんどお客さんが来ないし。……それより色々あっただろうからゆっくり休むといいよ」
「うん。ありがとう」
「詳しいことは明日話そう。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
そう伝えた悠樹はドアまで歩を進めたが、くるりと振り返ると笑顔を向けた。
「あ、そうそう。金烏荘へようこそ」
こうして彩音の金烏荘での生活が始まった。
少年に連れてこられたのは、一軒の鄙びた古民家のような場所だった。
引き戸を開けると、焦げ茶色の大きな柱と漆喰の壁が目に飛び込んできた。
吹き抜けの高い天井には、黒茶色の太い梁が見え、古民家の風情を醸し出している。
そんな家の中を彩音はぼーっと見つめた。
まだ地面が揺れている気がする。
息は切れ、死ぬ気で走ったため、心臓がバクバクと脈打ち、口から出そうだった。
「いらっしゃいませ……って、凪! お帰り!」
古民家風の屋敷の奥から、一人の少年が笑顔で現れたかと思うと、彩音たちの姿を見てぎょっとした表情を浮かべた。
この少年の言葉から察するに、彩音を連れて来た少年は凪という名前らしい。
「おう、ただいま」
「うわー! ずぶ濡れだね! タオルタオル!」
そう言って少年は一旦奥に戻ると、真っ白いタオルを持って駆け戻ってくる。
「サンキュ、悠樹。ほら、お前もタオルで体拭けよ。そのままじゃ、風邪引くだろ」
「あ、ありがとうございます」
凪に差し出されたタオルを受け取ると、彩音は髪の水気を拭きとった。
ここに来て、彩音はようやく凪という名の少年を改めて見ることができた。
年の頃は高校二年生の彩音より少し年上のように見える。
ということは、高三くらいだろう。
背が高く、しっかりとした体つきをしていることから運動でもしているのだろうか?
少し日焼けした肌に、きりりとした目、少し短めの髪から闊達な少年といった印象を受ける。
「凪、お客さん?」
悠樹と呼ばれた少年は状況が掴めないと言った様子で、困惑した表情を浮かべ、首を傾げた。
形の良い眉に柔らかな目元の少年は、彩音と同い年くらいに見える。
身長は凪ほど高くはないが、それでも長身の部類に入るだろう。
すらりとして長い手足のスタイルは、モデルといっても通じるだろう。
悠樹の問いに凪は端的に答えた。
「いや、拾った」
「え?」
「だから、道で拾ったんだよ」
確かに道にしゃがみこんで蹲っていれば荷物みたいに見えたかも知れない。
だが、いくらなんでもその言い方はあんまりだ。
同様のことを悠樹も思ったらしく、苦笑を浮かべつつ彩音に向き直った。
「えっと……とりあえず、いらっしゃいませ……?」
「え?」
(いらっしゃいませ?ってことは、ここはお店?)
彩音の疑問が表情に現れていたのだろう。悠樹が言葉を補った。
「ここは金烏荘|《きんうそう》……まぁ、この村の宿屋かな。お客は殆ど来ないけど……」
なるほど。
最近は古民家風の旅館があると、某有名旅行サイトに載っていた。
もしかして自分が泊まる予定の宿なのかと一瞬思ったが、事前に見たホームページの写真と違うし、何より「金烏荘」という名前でもなかったはずだ。
その時、宿屋の奥から着流しを着た男性が現れた。
「それよりもお嬢さんにお風呂を貸してあげるべきじゃないかな、悠樹」
艶やかな長い髪の青年は、凪や悠樹よりずっと年上のようだ。
目尻が少し下がり気味だが、目鼻立ちははっきりしていて、こちらも美青年と言えるだろう。
だが、その風貌と格好がなんとなく浮世離れして見えて、不思議な雰囲気を醸し出していた。
「こんな可愛らしいお嬢さんを濡れたままにしておくなんて、全く君たちはどうかしてるね」
男性はそう言いながら、彩音の存在に興味津々とばかりに近づくと、頬すれすれに顔を寄せる。
彩音は驚いて息を呑んだ。
それを気に掛けずに青年は悠然とした笑みを浮かべたまま、彩音の目を覗き込んだ。
「いいね。君、気に入ったよ。うん、おいしそうだ」
「な、な、な!」
青年は、反射的に後ずさった彩音の様子を見て笑いながら、その青年は再び彩音に近づく。
彩音が一歩後ずさる。
青年が一歩歩み寄る。
(な、何? 何をしようとしてるの!?)
キスされる距離まで近づかれて、心臓がバクバクと暴れる。
すると、そんな男性の肩を凪ががちりと捕まえて、引き留めた。
「おい、待てよ、鏡夜久しぶりに起きて、寝ぼけているのか?」
「やあ、凪。君もびしょ濡れだね。水も滴るいい男っていうわけかい?」
「ふざけるな! つーか、こいつから離れろ!」
「まぁまぁ、そうかっかしないでおくれ。お嬢さんがおびえているよ。……わかった、僕が悪かったよ。冗談が過ぎた」
どうやら青年は鏡夜と言う名前らしい。
鏡夜は大仰に手を上げると、笑みを浮かべたまま彩音から距離を取った。
「ちょっとお嬢さんが可愛かったから揶揄ってしまったんだ。だが、それはそうと……本当にこのままではお嬢さんは風邪を引いてしまうよ」
「確かにそうだな。おい、悠樹。こいつを風呂に案内してやれ」
「あっ、うん、そうだね。お風呂はこっちだよ。脱衣所にお客様用の浴衣が用意してあるはずだから、適当に使って」
「あ、はい。ありがとうございます」
最初は固辞しようと思った彩音だったが、確かに濡れたままでいたら風邪をひいてしまうだろう。
彩音は凪の配慮に感謝し、悠樹の後をついて風呂に向かった。
※ ※
案内された浴場は水道が五つ程度しかなく、宿としてはこぢんまりとしたものであったが、綺麗に掃除されて清潔感がある。
外には露天風呂もあるようだが、生憎の雨だ。
あまり長居しても悪いので、彩音はさっとシャワーだけで体を温めると、手早く身支度を整え、エントランスに戻ることにした。
エントランスに戻ると、ソファに座った凪たち三人の姿が見えた。
「すみません。お風呂、ありがとうございました」
「どう? もう温まった?」
「はい」
悠樹が微笑みながら彩音の前に冷たい麦茶を置いた。
一口飲むと、火照った体に冷たい麦茶が身に染みて、ようやく彩音はほっと息をつくことができた。
「それで、一応確認だが、お前は客か?」
「凪……そんな態度は失礼だよ。もしかして飛び込みのお客さんかもしれないじゃないか」
「そっか。確かに悠樹の言う通りだな。予約は無いが、飛び込みの客かもしれない」
「でしょ」
「あ……あの……」
凪と悠樹の会話の意味が分からず彩音は首を傾げ、控えめに問いかけた。
すると悠樹の表情が突然営業スマイルに転じた。
「いらっしゃいませ。宿泊のご予約は無いですよね?」
「は、はい……」
「では、飛び込みのお客様ということでよろしいでしょうか?」
「えっと……実はもう宿は予約していて……」
勢いに気圧されながらも何とか返答すると、それを聞いた悠樹の表情には「がっくり」という言葉がありありと浮かんでいた。
「あの……ごめんなさい」
「ほれみろ」
「はぁ……残念だなぁ。せっかく真っ当なお客様かと思ったのに」
「で、お前の宿はどこだ?」
「確か……名月庵っていうところだったと思います」
彩音が答えると、凪と悠樹が驚いた表情になった。
「名月庵だって!?」
「それ、山を越えた隣村だぜ」
二人の言葉に今度は彩音が驚いて目を見開いてしまった。
「……ええ!」
「降りる駅を一駅間違えたな」
(それで送迎バスが来なかったんだ。スマホも落としちゃうし……今日はツイてないな)
事の真相が分かると同時に、今日一日の不運を思い出し、彩音はがっくりと項垂れた。
「傷心なところ悪いが、悪い知らせはこれだけじゃない」
「え……? な、なに……?」
「この村と町を繋ぐ唯一の道にある吊り橋が壊れたみたいなんだ」
「え……?」
今度は悠樹が言葉を続けた。
「しかも、電話線も切れちゃったみたいで、電話も繋がらないんだよ」
「ええ!」
更に鏡夜が笑いながら言う。
「復旧まであと数日はかかるね、可愛いお嬢さん」
「ええええ!」
ツイていないどころの話じゃない。
殆ど天に見放されたといっても過言ではないだろう。
どうして旅行に来て、こんな目に遭わなくてはならないのか。
日頃の行いを振り返っても、そこまで素行は悪くないはずだ。
(なのに何故……)
だが最後の望みは捨てない。彩音は凪に尋ねた。
「迂回するとか他に隣村に行く方法はないんですか?」
「無いな」
「無いね」
「無いだろうねぇ」
凪、悠樹、鏡夜が立て続けに言った言葉に、彩音はとうとう口を開けたまま声が出せなくなってしまった。
「まぁ、五日かけて山を越えれば行けなくも無いだろうけど、道なんて無いしね。熊も出るし……」
道なき道を五日も歩くなど不可能だ。
「で、お前はどうする?行く宛ては……ないだろうな」
「……はい。ここに泊まらせていただけたら……」
「じゃあ、やっぱりお客様になるね!」
彩音の言葉に、悠樹の表情がぱぁああっと明るくなった。
だが、ここで彩音は一つ、問題があることに気づいた。
「あ……」
「どうしたの?」
「泊まらせて欲しいんですけど、その……お金が……」
そうなのだ。
現在の所持金は財布に五千円程度しか入っていない。
たいていの買い物はスマホの電子決済で済ませてしまっている。
だから現金の持ち合わせはなかった。
だが、このままこの宿から放り出されては困る。
彩音は五体投地する勢いで頭を下げた。
「で、でもここ以外に行く場所はないんです! お金は必ず払うので、泊めてください!」
必死になって懇願するが、悠樹は困った顔で凪を見ている。
凪は凪で、眉間に皺を寄せてなにやら考え込んでいる様子だ。
「……」
「……」
(うう……沈黙が、重い……)
その重苦しい空気を破ったのは、鏡夜だった。
「別にいいんじゃないのー? どうせ部屋はがら空きだし。ここに泊めてあげなかったら、この可愛いお嬢さんは本当に死んでしまうかもよ」
さっきはチャラい、よく分からない男性だと思っていたが、今の彩音には地獄に仏のように見えた。
鏡夜の言葉を受け、凪は逡巡した後、深いため息をつきつつ彩音に向き直った。
「……分かった。泊めてやるよ」
「本当!?」
「ただし、客じゃない! 従業員として、ここで働いてもらう。その代わり、宿泊費は無料。食事も支給してやる」
「あ、ありがとう! 私、精一杯頑張ります!」
「ということで、そろそろお嬢さんの名前を聞いてもいいかな」
鏡夜に尋ねられ、彩音は自己紹介もしていなかったことに気づいた。
「あ、まだ名乗ってませんでしたね。私は笹野彩音って言います。よろしくお願いします!」
「僕は悠樹。で、こっちが兄の凪だよ」
「お兄さんなの!?」
意外だったのは凪と悠樹が兄弟だということだ。
確かに二人とも整った顔をしているが、どう見ても兄弟には見えない。
異母兄弟とかそういう関係なのか?
一瞬そんなことを考えていると、彩音の反応に凪が怪訝な顔を向ける。
「何だよ」
「あ、なんでもないです。ええと、仲がいいからちょっとびっくりしちゃって。お友達同士なんだと思っていたので」
まさか異母兄弟ですか?などと家庭の事情を詮索するわけにもいかず、彩音は誤魔化した。
「そうか? 普通だろ? ま、これからよろしくな」
「はい。よろしくお願いします、凪君」
「……凪でいいよ。凪君だなんて、呼ばれ慣れない。それと敬語もいらねーよ」
「分かった。んじゃ、私のことも彩音って呼んでね」
「おう」
「僕のことも悠樹って呼び捨てでいいよ。あ、それとこっちは鏡夜」
「鏡夜さん、よろしくお願いします」
鏡夜に礼をすると、彼は彩音の手を自らの口元にそっと寄せた。
(な、なに!? 急に手の甲にキスってどういうこと!?)
突然の行動に、動揺から言葉を失っていると、鏡夜は揶揄うように笑った。
「よろしく、彩音ちゃん」
「……」
絶対に反応を面白がっている。
凪や悠樹はともかく、鏡夜の行動は心臓に悪い。
「いたたたた! 凪、耳、引っ張るのやめてくれよ!」
「お前……ふざけるのもいい加減にしろよ!」
「やだなぁ。挨拶でしょ、こんなの。彩音ちゃんが可愛いから、ついね」
「つい、じゃない!」
凪は強い語調で鏡夜を一喝したあと、勢いそのままに彩音を振り返った。
「いいか、彩音。こいつは穀潰しの居候だ。だからこいつの存在は居ないものとしてくれていい!」
「酷いなぁ。お客に向かってそれはないだろう」
「宿代を払わない人間は客とは言わない」
「ま、確かにね」
二人はただの宿主と客のようだったが、そうは見えない。
どうやらここの関係も複雑なようだ。
「自己紹介はこんな感じかな。色々あって、疲れたでしょ。部屋を用意したから」
場を仕切り直すように悠樹はそう言うと、彩音を連れて部屋に向かった。
「ここが今日から彩音の部屋だよ」
通された部屋は明らかに客室だ。
古民家風なだけあって八畳の和室だった。
真新しい畳のいい香りが彩音の鼻孔を掠める。
てっきり従業員用の部屋に連れていかれると思っていたので、彩音は驚いてしまった。
「こんなに立派なお部屋を借りちゃっていいの?」
「いいんだよ。さっきもちょっと言ったけど、金烏荘はほとんどお客さんが来ないし。……それより色々あっただろうからゆっくり休むといいよ」
「うん。ありがとう」
「詳しいことは明日話そう。じゃ、おやすみ」
「おやすみなさい」
そう伝えた悠樹はドアまで歩を進めたが、くるりと振り返ると笑顔を向けた。
「あ、そうそう。金烏荘へようこそ」
こうして彩音の金烏荘での生活が始まった。
