迷い込んだ森の中、消えゆくあなたに恋をした

『約束する! この地のことも、凪のことも、絶対に忘れない! どんなことがあっても、ずっと忘れない!』

彩音は光の渦に飲み込まれながらそう叫び、あの後目の前が真っ白に塗りつぶされていった。

「思い出したか?」

葵に尋ねられて彩音は意識を戻した。
ただ、その問いには即答できなかった。

葵の話だと、自分は山道で倒れていて、それを救助された。

では自分は何故山道にいたのか。それを思い出そうとしていたのだが、頭の中に霞が掛かったようにはっきりと思い出せない。

(さっきまで何か覚えていた気がするんだけど……)

そう思うものの、やはり駅から降りて山道に入ったところで記憶が途絶えている。

「すみません……やっぱりよく思い出せなくて」
「そうか。じゃあ、俺たちと一度電車で会ったのは覚えているか?」
「電車……」

考えた彩音は、葵と柚月とは旅行の途中で乗った電車で会い、少し会話をしたことを思い出した。

「はい、旅行に行くときにお話してくれた方ですよね?」
「思い出したか?」
「はい。あの、葵さんたちが私を見つけてくれたんですか?」
「あぁ。俺たちは探偵のようなものをしている。依頼を受けて行方不明になった宮西悠樹を探している時に、あんたも山道で倒れてるところを発見したんだ」
「宮西悠樹……」

どこかで聞き覚えのある名前だったが、具体的に顔は思い浮かばなかった。
ふと枕元にあったスマホを見ると旅行に行った日の三日後だった。

「私、三日も行方不明だったんですか?」
「あ? あぁそうだ」

駅を降りたところまでは確実に覚えている。
だがその後の三日間の記憶がまるでない。

自分は何をしていたのか、どうして倒れていたのか。
普通記憶がないというのは不安に思うものだ。
だが、それなのに心の中がほっこりと温かくなるのは何故だろう。

「じゃあ、あんたも目が覚めたことだし、俺たちは行く。何かあったら、連絡してくれ」
「ありがとうございます」

そう言って葵は連絡先の書かれた名刺を置いて病室を出て行った。
葵を追いかけて病室を出ようとした柚月だったが、ふと何かに気づいて足を止めた。

「そうだ、彩音さんに渡しておこうと思ったものがあるんです」
「?」
「これを。大切に握りしめていたので、病院に運ぶ時に預かっておいたんです」

そう言って柚月が手渡したのは一枚の葉だった。
常緑樹の葉のようだ。緑色の葉はつやつやとしていて、少し硬い細長い形状の葉だった。
葉脈が縦に筋状に入っているのが特徴的だ。

「何の葉っぱでしょうか?」
「梛木の葉ですね。これはお守りに使われるんです」
「お守り?」
「はい。色々なご利益があるのですが、梛木は凪に通じるので、漁師が海から無事に戻れるようというお守りに使われるようなんです。あとは、葉が丈夫で千切れないので〝男女の縁が切れないように〟と言う意味を込めて、男女で持っているという風習もありますね」

柚月の話を聞いた時、彩音の頭の中で声がした。

『これは梛木の樹だ。この葉は昔からお守りに使われているんだ。俺の気持ちだと思ってくれ』

(俺の気持ち……)

その言葉は以前少年から言われたものの気がする。

低く落ち着いた声音で告げた少年の姿を記憶から掘り起こそうとするが、ぼんやりとしていて、はっきりと思い出すことができない。

ただ、胸がギュッと締め付けられ、彩音は我知らず涙が溢れていた。

「彩音さん?」
「あ、あれ? 私、どうして……」

涙の理由が分からない。
ただ、何か思い出さなければと思うのに、思い出せないことが悲しくて、もどかしくて、彩音は頬を伝う涙をぬぐうことなく、俯いて泣き続けた。

柚月はそんな彩音に声を掛けることなく、傍で佇んでいる。
その雰囲気から彩音を気遣っていることは伝わってきた。

突然泣き出されて柚月も困っているだろう。

何とか顔を上げた時、ガラリという音を立てて病室のドアが開いた。

「あ、柚月さん、ここにいらっしゃったんですね。ご挨拶しなくちゃって思ったんです」

そう言って病室に入ってきたのは、彩音と同い年くらいの少年だった。

「悠樹さん、もう歩いて大丈夫なんですか?」
「はい、もうすっかり大丈夫です」

(悠樹?)

彼が葵の探していた宮西悠樹のことだろうか?

モデルのようなすらりとした体躯に、少し赤みがかった柔らかな髪質の少年は、一見して柔和な性格だと分かる。

彼のことも見覚えがあった。だが、彩音の記憶を掘り起こそうとしたものの、やはりどこで会ったのか思い出せなかった。

他人の空似、あるいは既視感というものだろうか?

悠樹は彩音に目を留めると、小さく頭を下げた。

「あ、突然病室に入ってしまってごめんね。ええと、もしかして笹野彩音さん? 僕と一緒に見つかったって聞いたけど」
「うん、そうみたい」
「初めまして。宮西悠樹です」
「初めまして」

悠樹に倣って彩音も小さく頭を下げたのだが、悠樹は首を傾げながら彩音を見つめた。

「ええと、どうしたの?」
「うーん、僕たち初対面だよね?」
「うん。そうだと思うけど」
「だよね。でも、ちょっと懐かしいって思って」

それは彩音も感じたことだった。
だが悠樹も彩音同様、既視感はあるものの、どこで会ったか分からない様子だ。

その時、病室の外から悠樹の名を呼ぶ女性の声がした。

「あ、母さんだ。じゃあ柚月さん。僕、もう行きますね。今回はありがとうございました」
「いえいえ」

病室を去っていく悠樹の後ろ姿を、彩音は少しだけ寂寥感を覚えつつ見送った。
やがて柚月も病室を出て行き、室内には彩音一人が残された。

ジリジリという熱さを孕んだ日差しが窓から差し込み、外からは蝉の鳴き声がうるさいほど聞こえている。

(もう、夏も後半かな)

彩音はそう思いつつ、病院での数日間を過ごし、やがて日常に戻ることになった。



それからなんとなく日々を過ごすうちに夏が終わった。

ただ、彩音の中には常に何かが引っ掛かっており、それが何かが思い出せずにいた。

記憶を辿ろうとしても、そもそも何を思い出せばいいのかも分からないのだ。
もやもやとした気持ちを抱えながら毎日を過ごした。

やがて夏が過ぎ、木の葉が色を失い、雪が降り、桜が咲いて、花吹雪が舞う。そうして季節は廻り、再びの夏が訪れた。

車窓から眺めると、そこには一面の緑が広がっていた。

抜けるように青い空にはもくもくとした積乱雲が夏の様相を呈している。
ガタンガタンという音と共に電車が揺れ、彩音の体もまた揺れた。

やがて、電車は彩音の目的の駅に止まった。

駅は一年前と同じようにやはり無人で、彩音は回収箱に切符を放りこんで駅を出た。

「うーん! やっぱり空気が違う!」

伸びをして深呼吸をすると、新鮮な空気が肺を満たした。
彩音は今、一年前に神隠しに遭ったという場所に来ている。だが、まだ一年前の記憶を取り戻せていないのだ。

それでも、なんとなく彩音はここに来なければと思い、足を運んだ。

「熱中症になりそうだなぁ」

誰に言うともなく言うと、彩音は駅を離れて周辺を歩いてみることにした。

今年は酷暑と聞いたが、彩音の予想以上に気温が高い。彩音は涼を求めて山の方に向かった。

ふらふらと目的もなく歩いていくと、山道は徐々に上り坂になっていく。この道を行けば、何か思い出すかもしれない。

そんな予感があるものの、こんな山に入る意味も目的もないと頭の中では理解していた。それでも本能が足を止めることを拒んでいた。

(……って、私なんでこんな道を歩いてるんだろう)

どれだけ歩いただろうか。
流石に疲労を覚え一旦立ち止まった彩音の頬に、ぽつりと冷たいものが当たった。

「雨?」

さっきまではカンカン照りで、雨の気配など微塵もなかったのに、雨がぽつりぽつりと降り始め、いつしか音を立てて地面を叩き始めた。

「わっ! 傘! 傘出さなきゃ!」

彩音はそう思うと、折り畳み傘を出そうとした時だった。
鞄からハラリと何かが落ちた。

(あ、梛木の葉、落ちちゃった)

行方不明で発見された時、彩音が握っていた梛木の葉を、彩音は捨てられずにずっと持っていた。
今日もお守りとして持ってきていたのだ。

それに触れた瞬間だった。
体に電流が走ったように震え、息が止まった。

同時に、頭の中で洪水のように渦を巻いて記憶が蘇っていく。

転びそうになった彩音を支える腕の強さ
水に濡れた体を包むシャツの感覚
彩音を見つめる深い青の瞳
繋がれた手の温もり

それをくれたのは全て……

「凪」

ぽつりと呟くのは、夏の日を共に過ごした少年。
彩音が初めて恋をした相手だ。

「凪……凪……凪!」

彩音は梛木の葉をギュッときつく握り、その場に崩れ落ちた。
頬を伝うのは雨か涙か。

彩音の中で悲しみと後悔が渦巻く。

(あんなに忘れないって言ったのに! 約束したのに!)

それなのに、今の今まで思い出せなかった。
あんなに好きで、傍にいたかったのに、凪を忘れてしまった自分を呪ってしまう。

もうあれから一年も経ってしまっている。今更凪の記憶を取り戻したとしても手遅れだ。

「あああああああっ!」

顔を伏せたまま慟哭しながら涙を流しても、次から次へと涙が溢れて止まらないのだ。
その時、不意に雨が止んだ。

「また迷子か?」
「え?」

それは懐かしい声だった。

聞き間違いではないのか。
驚いて顔を上げると、彩音に傘をさしてくれる凪の顔があった。

夢を見ているのだろうか? それとも幻なのか?

彩音は震えながらゆっくりと立ち上がると、凪に問いかけた。

「凪? ……本当に凪?」
「ああ、そうだ」
(やっと、会えた……)

彩音の心は歓喜に震え、その感情に任せて凪に抱き着いた。
凪の体がここにある。触れた体から布越しに体温が感じられる。

「凪、ごめんね! 忘れないって言ってたのに! 約束したのに!」
「でも、思い出してくれた」
「私、また凪のいる世界に来れたんだね」

今度こそ凪と離れない。

たとえ彩音がこの地にいることで、人間としての生を終えることになるとしても、もう凪と離れるつもりはなかった。

だが、凪はゆっくりと体を離して彩音の顔を覗き込んだ。愛しさと熱を孕んだ目で彩音を見つめると、ゆっくりと首を振った。

「いや、違う。俺が現世にいるんだ。人として、生きることができる」
「じゃあ……もう離れなくていいの」
「あぁ。もう、ずっとお前と一緒にいる」

そうしてゆっくりと唇が触れ合う。
その口づけは凪の好きだという想いが込められたもので、彩音もまた同じ想いを返した。

唇の感触と、伝わる温もりを感じ彩音の心から幸福が溢れていく。

(もう、絶対に凪を忘れない。凪を失わないよ)

いつしか雨は止み、柔らかな風が木の葉を揺らした。
これから始まるのだ。凪と共に過ごす夏が。

いや、これから始まるのだ。凪と共に歩く日々が――