「どこに行くの?」
「見てもらいたいところがあるんだ」
蛍を見に行った時のように行き先を尋ねてみるが、帰ってきた返事はやはり明確なものでは無い。
あの時とは違うのは夜空の下を歩いていくのではなく、澄み渡る空の下を歩いていること。
そして、凪と手を繋いで歩いていることだ。
凪の男らしい大きな手に包まれると、先ほどの不安が嘘のように消えていく。
凪がここにいると、実感することができた。
蝉の声が日光と共に降り注ぐ中ゆっくりと二人で並んで歩く。
何かを話さなければと思い、彩音は思いついた話題を口にした。
「そう言えば、畑のトマトが食べごろになっていたよ」
「あぁ、確かに今朝はまだ採りに行ってないな」
「また凪のトマトが食べたい」
「お前、トマト嫌いだったんじゃないか?」
「うん、でも凪のトマトは大好きだよ」
その後も彩音と凪はこの夏の思い出を話した。
水を掛け合って遊んで悠樹に怒られたこと、川で釣りをして鮎を釣り上げたこと、祭りに行ってりんご飴を食べたこと、蛍を見たこと……
凪とこんな風にたわいのない会話をしていると、やがて神社に辿り着いた。
神社の境内はこの間の祭りの喧騒とは打って変わってとても静かだった。
澄み渡った新鮮な空気は、思わず背筋が伸びてしまうような清浄なものに感じられた。
「この社も立派だよね。歴史を感じるって感じがして好きかも」
彩音はそう言いながら、鈴を鳴らし、二礼二拍手したあと目を閉じた。
(ずっと、凪と一緒にいられますように)
そう願っていると、夏の匂いを纏った風が、彩音の頬を撫でた。
ふと視線を感じると、凪がこちらを見て笑っている。
「凪はここに連れてきたかったの?」
「いや、違う。もうちょっと先だ」
凪がそう言って向かって行ったのは、神社の裏手にある森だった。
以前、神域だから入ってはいけないと言っていた場所にもかかわらず、凪は迷いなく進んで行く。
「入っちゃダメじゃないの?」
「俺は特別なんだ。さ、早く行こうぜ」
神域の森は、ゆっくりと上り坂になっている。
木立の間から柔らかく降り注ぐ光を浴びながら、山道を進むと、突然視界が開けた。
「わっ!」
眼下に広がる光景に、彩音は思わず感嘆の声を上げた。
そこからは村が一望でき、青々とした田んぼを風が吹き抜ける度に、波のように稲が揺れる。
中央には小川が流れて、日光を反射してキラキラと光っているのが見えた。
確かに、都会のように大きなビルも、家も何もない場所だ。
だが、これほどまでに雄大な自然は、それだけで芸術品なのではないかという程美しく、彩音の心を揺さぶるものだった。
「綺麗……」
上から臨む村の景色から目を逸らさず、彩音の口から言葉が漏れた。
「実は、彩音に見せたいのはもう一つあるんだ」
「もう一つ?」
「あぁ、あれだ」
そう言って凪が指さした先にあったのは、聳え立つように生えている大木だった。
彩音が抱きついたとしても、手が回りきれないほどの大きな幹。
生き生きと伸ばした枝には瑞々しい葉が茂っていた。
その存在感は圧倒的で、人が想像するには長すぎる時を生きていることが感じられた。
木の幹にはしめ縄が張られ、御幣が風に揺れている。
「大きな木だね。ご神木?」
「あぁ」
だからこの森は無闇に人が入ってはいけなかったのだろう。
彩音は近づいて神木に触れてみると、じんわりと温かいように思えた。
青々として生い茂る葉の隙間から、木漏れ日が彩音に降り注ぐ。
「この神木はこの村を見続け、守っていた。ずっと……ずっと……」
「そっか、このご神木があるから神域なんだね」
「ああ、でもお前には見せたかったんだ。この神木と、この村の姿を」
そう言って、凪は神木から木の葉を取り、彩音に渡した。
「ほら。これをやるよ」
固く、少し厚い葉は、表面がつるつるして光沢があり、葉脈が縦に筋状にあった。
一見して簡単には千切れないことが分かるほど、しっかりとした葉だった。
「これは梛木の樹だ。この葉は昔からお守りに使われているんだ。俺の気持ちだと思ってくれ」
一陣の風が神木の葉を揺らす。
その風は、彩音の心も揺らしているようだった。
凪が言った「俺の気持ち」の意味を聞きたい。
彩音が凪に向けている感情と、同じものを凪も持ってくれているのだろうか?
答えを聞きたい想いと、聞くのが怖いという想いが、彩音の中で交錯した。
互いに見つめ合ったまま声を発することができず、二人の間の会話が途切れる。
先に口を開いたのは凪だった。
「もう分かってるんだろう?」
静かに言われたその言葉は、きっと凪が彩音に向ける気持ちが何なのかを知っているのかという問いではない。
凪が尋ねた言葉の意味はもっと別のものだ。
それが分かった彩音は一瞬だけ戸惑ったが、ゆっくりと答えた。
「うん、凪は……凪は人間じゃないんだね」
彩音の言葉と同時にざぁと風が吹いた。
風が吹き抜け、木の葉のざわめきが収まると、彩音はこれまで考えていたことを話すことにした。
自分の中の考えを整理するように、言葉を選びながら慎重に話し始めた。
「最初に違和感を覚えたのは凪の体の異変だった」
夜に舞の練習をしているのを見た時、動きがぎこちないと不思議に思った。
祭りの日も具合が悪そうだった上、その後寝込んでしまった。
だが決定打になったのは、蛍を見に行った時、凪の体が透けて見えたことだ。
「最初は見間違いじゃないかって思ったの。でもその後鏡夜さんや瀬織さんが言っていたことを思い出したの。凪が消えてしまうとか消滅してしまうとか。最初はそれを聞いても意味が分からなかった」
そして葵からの電話で神隠しの伝承を思い出し、凪も悠樹も彩音も神隠しに遭っているのではと考えた。
だがそうなると、鏡夜と瀬織の言葉に矛盾が生じる。
鏡夜は凪を金烏荘の主だと言っていたし、瀬織も凪にはもう金烏荘を守る力がないと言っていた。
つまりは、凪はここの住人ということになる。
調べた本では『神隠しというのは人間の住まう現世から人ならざる者たちの住まう幽世の狭間に迷い込むこと。
その狭間はその土地の産土神によって管理される』と書かれていた。
この二つから推測すると、金烏荘を管理している凪は産土神ということになる。
「だから、凪はこの地を守る産土神なんじゃないかって」
それまで黙って彩音の話を聞いていた凪は、深いため息をついて苦笑した。
「やっぱりバレてたか。あぁ、俺はこの地を守る産土神だ。産土神はその土地に住む者たちを守るためにある存在。だけどこの土地はもう人がいない。最後の人間もこの間死んだ。彩音も会っただろう」
(私が会った?)
考えた彩音の脳裏に祭りで会った老人の顔が浮かんだ。
最後に挨拶に来た老人は自分が最後になったと言った。
それはこの土地で生きていた人間を意味するのではないだろうか?
「あの、お婆さん?」
彩音が尋ねると凪はゆっくりと頷き、言葉を続けた。
「村人たちに受け継がれた血の記憶が地の記憶となり、俺という存在があった。守護すべき人間がいなくなり、この地の記憶が絶たれた今、俺の役目は終わった。忘れられた神は消えるしかない。それが宿命だ」
「そんな……」
目の前の凪が消える。
昨夜見た、色の薄れていく凪の姿が思い出され、彩音の背中に冷たいものが流れた。
胸が締め付けられ苦しい。
「凪がいなくなるのは嫌! 傍にいたい、もっと一緒にいたいの!」
「彩音……」
「凪、教えて。どうしたら凪は消えずに済むの?」
「それは……教えられない」
凪はそう言って視線を下げた。
教えられないということは、何か方法があるはずなのだ。
彩音はこれまで集めた記憶の欠片を思い返した。
(そういえば、鏡夜さんが言っていた)
祭りの前夜に凪と鏡夜が話したことを思い出したのだ。
確かあの時、鏡夜はこう言っていた。
『二人をこの地に縛りつけてしまえば、君は消滅しないで済むんだよ』
「ねぇ凪。私がこの世界に残れば、凪は消えなくて済むの?」
「っ!」
凪が目を瞠って彩音を見る。
それこそが肯定だった。
「そうなんだね。なら私はここに残るよ!」
「ダメだ」
「どうして!? 私は凪に消えてほしくない!」
「もしここに残ったら、彩音はもう二度と人の世に帰れなくなってしまうんだ。このままお前がいたら、お前は人間としては死を迎えることになる」
「それでもいい!」
「なんで、そこまでして……」
我儘を言って駄々をこねて、叫ぶ彩音は凪にとっては言うことを聞かない子供のように思えるだろう。
その証拠に目の前の凪は、困惑の表情を浮かべている。
「なんでって……それは私は凪が好きだから!」
「え?」
「だから、消えてほしくない! 凪の傍にいたいの!」
想いの丈を込めて、彩音は叫んだ。
いつから凪が好きだったのかなんてもう分からない。
雷雨の中で助けてくれた時なのか、畑でじゃれ合った時なのか、祭りを見た時なのか?
いつからかは分からないが、気づいた時には好きになっていた。
「凪、好き……」
「っ!」
言いながら想いが溢れて涙となって彩音の頬を伝っていた。と、次の瞬間、気づけば凪の腕の中にいた。
彩音の体をきつく抱きしめた凪は、耳元で囁いた。
「悠樹がこの村に来たのは魂が迷っていたからだ。進路の事、両親との不和、受験勉強、将来への不安……そういったものから逃れたいと思ってこの神域に入り込んだ。だから助けた。だけど、お前は違う」
「違う?」
「あぁ、俺が俺の意志で助けた。雨の中立ちすくんでいるお前を見て、なんでか見捨てることができなかったんだ。気づいたら彩音の手を取って、こんなところに連れてきてしまった。すまない」
その言葉から、凪が彩音を助けたことを後悔していることが伝わってきた。
謝らないでほしいと、彩音は思った。
もし凪が金烏荘に連れて来てくれなければ、彩音はあの雷雨の中どうなっていたのか分からない。
それに、金烏荘に来れたから凪と過ごして、凪を好きになることができたのだから。
それを伝えようとした彩音の言葉を遮るように、凪は抱きしめる腕の力をさらに強くし、言葉を続けた。
「すまない。彩音を好きになってしまった」
(凪が……私を好き?)
今度は彩音の息が止まった。
「最初は珍しい人間を拾ったという程度だったのは本当だ。だけど、お前と過ごして、些細なことで笑ったり怒ったり。表情がくるくる回るのが可愛いって思ったし、退屈なはずの村での暮らしにも、いちいちキラキラした目で感動したりしている顔を見て、気づいたら好きになってた。本当は、もっと早くお前を現世に帰すべきだった。だけど、少しでも一緒にいたくて、ここまで引き止めてしまった」
凪はゆっくりと体を離し、彩音の目を見つめた。
深い青色の凪の瞳には、彩音しか映っていない。
たぶん彩音の瞳にも凪しか映っていないだろう。
凪は愛しげに彩音を見つめ、もう一度、今度は力強く言った。
「好きだ」
「凪……」
そうしてゆっくりと唇が近づく。
初めて触れた唇は、温かく柔らかい。
胸がギュッと締め付けられ、甘い痺れを覚える。
トクトクと鼓動が早くなった。
それは一瞬だったのか、それとも数分だったのか分からない。
やがて凪の唇が離れた。
温もりが失われたことを寂しく思っていると、凪は優しく微笑んだ。
「好きだ」
「私も」
ようやく想いを通わせた喜びで微笑んだ彩音に、凪が口にした言葉は意外なものだった。
「だからこそ、人の世に生きてほしい」
(え?)
唇が再び触れそうな距離で、凪が囁くように言うと、突然トンと肩を押された。
次の瞬間、今まで自分が立っていた地面の感覚が薄れたかと思うと同時に、凪の姿も色を失っていく。
凪が消えていく?
(ちがう、私が消えているんだ!)
そして何かに引っ張られるように彩音と凪の距離が離れていく。
「嫌だ、凪! 離れたくない!」
彩音は叫びながら手を伸ばした。
瞬間、凪も手を伸ばそうとしてくれた気がした。
あと、もう一歩。
いや、数センチかもしれない。
互いの手が触れるという距離なのに、彩音の指先は凪に届くことはなかった。
彩音の指先は色を失い、体が光に飲み込まれていく。
「もし、この地の記憶が必要なら、私が持っている。この地のことも、凪のことも、絶対に忘れない! どんなことがあっても、ずっと忘れない!」
最後まで凪の名を呼んだが、それが果たして声になっていたのか、彩音自身にも分からない。
(絶対に、凪の事を忘れない)
そう強く思う意識さえ、やがて光に飲み込まれていった。
「見てもらいたいところがあるんだ」
蛍を見に行った時のように行き先を尋ねてみるが、帰ってきた返事はやはり明確なものでは無い。
あの時とは違うのは夜空の下を歩いていくのではなく、澄み渡る空の下を歩いていること。
そして、凪と手を繋いで歩いていることだ。
凪の男らしい大きな手に包まれると、先ほどの不安が嘘のように消えていく。
凪がここにいると、実感することができた。
蝉の声が日光と共に降り注ぐ中ゆっくりと二人で並んで歩く。
何かを話さなければと思い、彩音は思いついた話題を口にした。
「そう言えば、畑のトマトが食べごろになっていたよ」
「あぁ、確かに今朝はまだ採りに行ってないな」
「また凪のトマトが食べたい」
「お前、トマト嫌いだったんじゃないか?」
「うん、でも凪のトマトは大好きだよ」
その後も彩音と凪はこの夏の思い出を話した。
水を掛け合って遊んで悠樹に怒られたこと、川で釣りをして鮎を釣り上げたこと、祭りに行ってりんご飴を食べたこと、蛍を見たこと……
凪とこんな風にたわいのない会話をしていると、やがて神社に辿り着いた。
神社の境内はこの間の祭りの喧騒とは打って変わってとても静かだった。
澄み渡った新鮮な空気は、思わず背筋が伸びてしまうような清浄なものに感じられた。
「この社も立派だよね。歴史を感じるって感じがして好きかも」
彩音はそう言いながら、鈴を鳴らし、二礼二拍手したあと目を閉じた。
(ずっと、凪と一緒にいられますように)
そう願っていると、夏の匂いを纏った風が、彩音の頬を撫でた。
ふと視線を感じると、凪がこちらを見て笑っている。
「凪はここに連れてきたかったの?」
「いや、違う。もうちょっと先だ」
凪がそう言って向かって行ったのは、神社の裏手にある森だった。
以前、神域だから入ってはいけないと言っていた場所にもかかわらず、凪は迷いなく進んで行く。
「入っちゃダメじゃないの?」
「俺は特別なんだ。さ、早く行こうぜ」
神域の森は、ゆっくりと上り坂になっている。
木立の間から柔らかく降り注ぐ光を浴びながら、山道を進むと、突然視界が開けた。
「わっ!」
眼下に広がる光景に、彩音は思わず感嘆の声を上げた。
そこからは村が一望でき、青々とした田んぼを風が吹き抜ける度に、波のように稲が揺れる。
中央には小川が流れて、日光を反射してキラキラと光っているのが見えた。
確かに、都会のように大きなビルも、家も何もない場所だ。
だが、これほどまでに雄大な自然は、それだけで芸術品なのではないかという程美しく、彩音の心を揺さぶるものだった。
「綺麗……」
上から臨む村の景色から目を逸らさず、彩音の口から言葉が漏れた。
「実は、彩音に見せたいのはもう一つあるんだ」
「もう一つ?」
「あぁ、あれだ」
そう言って凪が指さした先にあったのは、聳え立つように生えている大木だった。
彩音が抱きついたとしても、手が回りきれないほどの大きな幹。
生き生きと伸ばした枝には瑞々しい葉が茂っていた。
その存在感は圧倒的で、人が想像するには長すぎる時を生きていることが感じられた。
木の幹にはしめ縄が張られ、御幣が風に揺れている。
「大きな木だね。ご神木?」
「あぁ」
だからこの森は無闇に人が入ってはいけなかったのだろう。
彩音は近づいて神木に触れてみると、じんわりと温かいように思えた。
青々として生い茂る葉の隙間から、木漏れ日が彩音に降り注ぐ。
「この神木はこの村を見続け、守っていた。ずっと……ずっと……」
「そっか、このご神木があるから神域なんだね」
「ああ、でもお前には見せたかったんだ。この神木と、この村の姿を」
そう言って、凪は神木から木の葉を取り、彩音に渡した。
「ほら。これをやるよ」
固く、少し厚い葉は、表面がつるつるして光沢があり、葉脈が縦に筋状にあった。
一見して簡単には千切れないことが分かるほど、しっかりとした葉だった。
「これは梛木の樹だ。この葉は昔からお守りに使われているんだ。俺の気持ちだと思ってくれ」
一陣の風が神木の葉を揺らす。
その風は、彩音の心も揺らしているようだった。
凪が言った「俺の気持ち」の意味を聞きたい。
彩音が凪に向けている感情と、同じものを凪も持ってくれているのだろうか?
答えを聞きたい想いと、聞くのが怖いという想いが、彩音の中で交錯した。
互いに見つめ合ったまま声を発することができず、二人の間の会話が途切れる。
先に口を開いたのは凪だった。
「もう分かってるんだろう?」
静かに言われたその言葉は、きっと凪が彩音に向ける気持ちが何なのかを知っているのかという問いではない。
凪が尋ねた言葉の意味はもっと別のものだ。
それが分かった彩音は一瞬だけ戸惑ったが、ゆっくりと答えた。
「うん、凪は……凪は人間じゃないんだね」
彩音の言葉と同時にざぁと風が吹いた。
風が吹き抜け、木の葉のざわめきが収まると、彩音はこれまで考えていたことを話すことにした。
自分の中の考えを整理するように、言葉を選びながら慎重に話し始めた。
「最初に違和感を覚えたのは凪の体の異変だった」
夜に舞の練習をしているのを見た時、動きがぎこちないと不思議に思った。
祭りの日も具合が悪そうだった上、その後寝込んでしまった。
だが決定打になったのは、蛍を見に行った時、凪の体が透けて見えたことだ。
「最初は見間違いじゃないかって思ったの。でもその後鏡夜さんや瀬織さんが言っていたことを思い出したの。凪が消えてしまうとか消滅してしまうとか。最初はそれを聞いても意味が分からなかった」
そして葵からの電話で神隠しの伝承を思い出し、凪も悠樹も彩音も神隠しに遭っているのではと考えた。
だがそうなると、鏡夜と瀬織の言葉に矛盾が生じる。
鏡夜は凪を金烏荘の主だと言っていたし、瀬織も凪にはもう金烏荘を守る力がないと言っていた。
つまりは、凪はここの住人ということになる。
調べた本では『神隠しというのは人間の住まう現世から人ならざる者たちの住まう幽世の狭間に迷い込むこと。
その狭間はその土地の産土神によって管理される』と書かれていた。
この二つから推測すると、金烏荘を管理している凪は産土神ということになる。
「だから、凪はこの地を守る産土神なんじゃないかって」
それまで黙って彩音の話を聞いていた凪は、深いため息をついて苦笑した。
「やっぱりバレてたか。あぁ、俺はこの地を守る産土神だ。産土神はその土地に住む者たちを守るためにある存在。だけどこの土地はもう人がいない。最後の人間もこの間死んだ。彩音も会っただろう」
(私が会った?)
考えた彩音の脳裏に祭りで会った老人の顔が浮かんだ。
最後に挨拶に来た老人は自分が最後になったと言った。
それはこの土地で生きていた人間を意味するのではないだろうか?
「あの、お婆さん?」
彩音が尋ねると凪はゆっくりと頷き、言葉を続けた。
「村人たちに受け継がれた血の記憶が地の記憶となり、俺という存在があった。守護すべき人間がいなくなり、この地の記憶が絶たれた今、俺の役目は終わった。忘れられた神は消えるしかない。それが宿命だ」
「そんな……」
目の前の凪が消える。
昨夜見た、色の薄れていく凪の姿が思い出され、彩音の背中に冷たいものが流れた。
胸が締め付けられ苦しい。
「凪がいなくなるのは嫌! 傍にいたい、もっと一緒にいたいの!」
「彩音……」
「凪、教えて。どうしたら凪は消えずに済むの?」
「それは……教えられない」
凪はそう言って視線を下げた。
教えられないということは、何か方法があるはずなのだ。
彩音はこれまで集めた記憶の欠片を思い返した。
(そういえば、鏡夜さんが言っていた)
祭りの前夜に凪と鏡夜が話したことを思い出したのだ。
確かあの時、鏡夜はこう言っていた。
『二人をこの地に縛りつけてしまえば、君は消滅しないで済むんだよ』
「ねぇ凪。私がこの世界に残れば、凪は消えなくて済むの?」
「っ!」
凪が目を瞠って彩音を見る。
それこそが肯定だった。
「そうなんだね。なら私はここに残るよ!」
「ダメだ」
「どうして!? 私は凪に消えてほしくない!」
「もしここに残ったら、彩音はもう二度と人の世に帰れなくなってしまうんだ。このままお前がいたら、お前は人間としては死を迎えることになる」
「それでもいい!」
「なんで、そこまでして……」
我儘を言って駄々をこねて、叫ぶ彩音は凪にとっては言うことを聞かない子供のように思えるだろう。
その証拠に目の前の凪は、困惑の表情を浮かべている。
「なんでって……それは私は凪が好きだから!」
「え?」
「だから、消えてほしくない! 凪の傍にいたいの!」
想いの丈を込めて、彩音は叫んだ。
いつから凪が好きだったのかなんてもう分からない。
雷雨の中で助けてくれた時なのか、畑でじゃれ合った時なのか、祭りを見た時なのか?
いつからかは分からないが、気づいた時には好きになっていた。
「凪、好き……」
「っ!」
言いながら想いが溢れて涙となって彩音の頬を伝っていた。と、次の瞬間、気づけば凪の腕の中にいた。
彩音の体をきつく抱きしめた凪は、耳元で囁いた。
「悠樹がこの村に来たのは魂が迷っていたからだ。進路の事、両親との不和、受験勉強、将来への不安……そういったものから逃れたいと思ってこの神域に入り込んだ。だから助けた。だけど、お前は違う」
「違う?」
「あぁ、俺が俺の意志で助けた。雨の中立ちすくんでいるお前を見て、なんでか見捨てることができなかったんだ。気づいたら彩音の手を取って、こんなところに連れてきてしまった。すまない」
その言葉から、凪が彩音を助けたことを後悔していることが伝わってきた。
謝らないでほしいと、彩音は思った。
もし凪が金烏荘に連れて来てくれなければ、彩音はあの雷雨の中どうなっていたのか分からない。
それに、金烏荘に来れたから凪と過ごして、凪を好きになることができたのだから。
それを伝えようとした彩音の言葉を遮るように、凪は抱きしめる腕の力をさらに強くし、言葉を続けた。
「すまない。彩音を好きになってしまった」
(凪が……私を好き?)
今度は彩音の息が止まった。
「最初は珍しい人間を拾ったという程度だったのは本当だ。だけど、お前と過ごして、些細なことで笑ったり怒ったり。表情がくるくる回るのが可愛いって思ったし、退屈なはずの村での暮らしにも、いちいちキラキラした目で感動したりしている顔を見て、気づいたら好きになってた。本当は、もっと早くお前を現世に帰すべきだった。だけど、少しでも一緒にいたくて、ここまで引き止めてしまった」
凪はゆっくりと体を離し、彩音の目を見つめた。
深い青色の凪の瞳には、彩音しか映っていない。
たぶん彩音の瞳にも凪しか映っていないだろう。
凪は愛しげに彩音を見つめ、もう一度、今度は力強く言った。
「好きだ」
「凪……」
そうしてゆっくりと唇が近づく。
初めて触れた唇は、温かく柔らかい。
胸がギュッと締め付けられ、甘い痺れを覚える。
トクトクと鼓動が早くなった。
それは一瞬だったのか、それとも数分だったのか分からない。
やがて凪の唇が離れた。
温もりが失われたことを寂しく思っていると、凪は優しく微笑んだ。
「好きだ」
「私も」
ようやく想いを通わせた喜びで微笑んだ彩音に、凪が口にした言葉は意外なものだった。
「だからこそ、人の世に生きてほしい」
(え?)
唇が再び触れそうな距離で、凪が囁くように言うと、突然トンと肩を押された。
次の瞬間、今まで自分が立っていた地面の感覚が薄れたかと思うと同時に、凪の姿も色を失っていく。
凪が消えていく?
(ちがう、私が消えているんだ!)
そして何かに引っ張られるように彩音と凪の距離が離れていく。
「嫌だ、凪! 離れたくない!」
彩音は叫びながら手を伸ばした。
瞬間、凪も手を伸ばそうとしてくれた気がした。
あと、もう一歩。
いや、数センチかもしれない。
互いの手が触れるという距離なのに、彩音の指先は凪に届くことはなかった。
彩音の指先は色を失い、体が光に飲み込まれていく。
「もし、この地の記憶が必要なら、私が持っている。この地のことも、凪のことも、絶対に忘れない! どんなことがあっても、ずっと忘れない!」
最後まで凪の名を呼んだが、それが果たして声になっていたのか、彩音自身にも分からない。
(絶対に、凪の事を忘れない)
そう強く思う意識さえ、やがて光に飲み込まれていった。
