迷い込んだ森の中、消えゆくあなたに恋をした

朝、彩音が居間に入ると、いつも迎えてくれる凪の姿が無かった。
逆にいつもはのんびりやって来るはずの鏡夜が、既に居間にいる。

「じゃ、これ凪の分の朝食だから。鏡夜、よろしく」
「りょうか~い。任せておいて!」

そう言って鏡夜が悠樹から食事の乗ったお盆を受け取った。その様子を見て、彩音は首を傾げた。

(誰の食事かな? お客さんはいないはずだし……)

「あ、彩音おはよう」
「悠樹、おはよう。凪がいないけど、まだ寝てるの?」
「実は凪、寝込んでるんだ」
「え、そうなの? 風邪? 具合は大丈夫なの?」

彩音の頭の中で、顔色の悪い凪の顔が浮かんだ。

祭りの前夜も様子がおかしかったし、祭りの当日も顔色が悪かった。
そんな体調の中で無理して舞を舞ったのだろうか。

それに、鏡夜も以前から凪の体調を気遣う言葉を口にしていた。
だとすれば、彩音と一緒に屋台を周った時も、無理していたのかもしれない。

「私が無理させちゃったからかな……」
「違うと思うよ。ちょっと疲れが出ただけって言ってる」
「そうそう、彩音ちゃんが気にすることないよー」

不安げに言った彩音の言葉を、悠樹と鏡夜が笑いながら否定した。

「あの、そのご飯、凪のですよね? 私が持って行きましょうか?」
「確かに、凪も彩音ちゃんが持って行ったほうが愛のパワーで治るかもしれないね」
「あ、愛!?」
「でも、ごめんねー。僕が凪に指名を受けてるんだよ」
「そうなんだよ。鏡夜以外、部屋に入るなって言われちゃってて、僕も会えない状況なんだ」

鏡夜の言葉に悠樹も頷きながら、少し困った表情を浮かべた。
弟の悠樹を部屋に入れないなんて、何か事情があるのだろうか?

「じゃー、凪のところに行ってくるね~」
「……凪にお大事にって伝えてください」
「うん、分かった! ちゃんと伝えるよ」

そう言って居間を出て行った鏡夜の後ろ姿を見送ったものの、やはり凪の様子が気になった。

「心配だね。悠樹も部屋に入れないって、よっぽど具合が悪いのかな?」
「まぁ、心配ではあるんだけど。でも、ここ最近こういうことがあるんだ」
「凪は体が弱いの? 持病があるとか?」
「ううん、そんなんじゃないよ。いつもすぐに元気になっているし、単なる疲労なんじゃないかな」
「そっか……」

鏡夜や瀬織が凪の体を心配していることから、凪には持病があるのではと考えたが、どうやらそうではないらしい。

「料理が冷めちゃうし、先に食べてようよ」
「あ、そう? じゃあ、食べようかな」

そうして彩音は悠樹と二人で朝食を食べることにした。
他愛無い話をしつつ、朝食を食べながら、彩音はふと気がついた。

(もしかして、悠樹と二人きりで食事をするって初めてじゃない?)

食事の時はいつも凪か鏡夜が一緒にいたし、台所仕事をする時に少し悠樹と二人になることはあったが、こうやって二人きりで食事をとるのは初めてのことだ。

彩音はそう思って改めて悠樹の顔を見た。
悠樹の顔立ちは一言で言えば優しい顔立ちだ。

大きな形の良い目と緩やかなカーブを描く眉が、穏やかな印象を与えており、少し赤みがかった髪も柔らかい印象を与える。

一方、凪はと言うと、どちらかといえばシャープな印象を受ける。
切れ長の涼し気な目元に、濡れ羽色の髪。きりりとした眉と、薄い唇から精悍さが感じられる。

体つきも、悠樹のような線の細さはなく、引き締まって男性らしい体つきだ。

正直、一見すると兄弟には見えない。

そう考えると、二人は本当に兄弟なのかという疑問が浮上した。
そもそも、まだ未成年の二人が、この金烏荘を切り盛りしていること自体不思議だ。
普通は親が管理するものではないのだろうか?

(そう言えば、凪たちのご両親、見たことがない……)

立ち入ったことだとは思いつつ、彩音はそれとなく尋ねてみることにした。

「ねぇ、前に鏡夜さんが金烏荘の主は凪って言ってたけど、普通はご両親が経営するものじゃないの? ご両親に会ったことないけど、どこかに出かけてるの?」
「両親? ……そういえば、そう、だね……」

彩音の問いを聞いた途端、悠樹の態度が変化した。

(何か聞いちゃまずい事情でもあるのかな?)

一瞬彩音はそう思ったのだが、悠樹の様子は明らかにおかしかった。

「両親……あれ? どこにいるんだ? ここは……僕はどうして……?」
「悠樹? どうしたの?」

彩音が声を掛けるが、悠樹はここではないどこかをぼうっと見つめている。
彩音を見ているが、明らかに彩音を見ていない。そんな感じだ。

悠樹の異変に彩音は驚き、思わず立ち上がって慌てて声を掛けた。

「悠樹!? 大丈夫?」
「っ! 僕は……」
「ごめん、立ち入ったこと聞いちゃった?」
「大丈夫だよ。えっと、なんの話だっけ?」

上手くはぐらかされたとも思える悠樹の態度に、一瞬だけ彩音は違和感を覚えた。
だが、誰しも聞かれたくないことはあるだろう。

そう思った彩音は、それ以上踏み込むことはやめた。

「ううん。大丈夫。なんでもないよ」
「そう?」

悠樹の態度が気になりつつ、彩音は再び食事を続けようとした時だった。
玄関から人の呼び声がした。

「ごめんください」
「あれ? お客さんかな。私お出迎えしてくるね」

久しぶりの客かもしれない。

ここは従業員としてきちんと出迎えなくては。そんな妙な気合を入れて彩音は玄関に向かった。

そこには年を取った女性と五歳くらいの女の子が立っていた。

「はい。いらっしゃいませ」

その年老いた女性の顔には見覚えがあった。昨日神社で話した女性だ。

「あ、昨日の方ですよね。体調はどうですか?」
「あぁ、お嬢さんは金烏荘の方でしたか。体調はすっかり戻りました。入院生活は苦しかったですが、ようやく解放されました」
「それは良かったです」

確かに、女性の顔は昨日会った時よりも顔色がよく、晴れ晴れした表情だった。
あの後ちゃんと帰れたか気になっていた彩音は、女性の顔を見て安堵した。

「それで、今日は凪様にご挨拶をと思いまして。凪様はいらっしゃいますか?」
「え? 凪、ですか?」
「はい、凪様にはお世話になったのだから、最後に挨拶をするように娘に言われまして……」

そう言って、女性は手を繋いでいる女の子に視線をやった。

(この子が娘?)

女性の言葉通りなら、この女の子が娘だということになる。
だが、どう見ても祖母と孫にしか見えない。

戸惑いつつ彩音は答えた。

「すみません。実は、凪は体調不良で休んでいて……」
「来たか」
「凪!? 起き上がって平気なの!?」

突然、会話に割って入ったのは凪だった。

部屋から出られないような状態だと思っていた彩音は、凪の姿を見て驚きの声を上げた。
同時に、まだ顔色の優れない凪の体調が心配になった。

気遣わしげな視線を向ける彩音に、凪が小さく笑った。

「少しなら平気だ。……それに、この二人は俺の客だから」

凪は彩音を安心させるようにそう言うと、今度は玄関に立つ二人に向き直った。

「……行くのか?」
「はい。長い間、ありがとうございました。私が、最後になりましたか……」
「そうだな。お前が最後になっちまったな。もう、村人は居ない」
「凪様は、どうされるのですか?」
「さぁ……なるようになるさ」
「左様ですか。では、そろそろ……」
「気をつけて行けよ。道に迷うんじゃないぞ」
「はい、ありがとうございます」

凪が笑ってそう言うと、今度は女の子が自分の存在を主張するようにぴょんぴょんと飛び跳ねながら凪に言った。

「あたしがいるから大丈夫だもん! かあちゃんは、あたしがしっかり連れて行くもん!」
「そうだな。親子水入らずで道中行けば、平気か」
「はい。ゆっくり話をしながら行きたいと思います」
「あぁ」

そう言って、老人女性と女の子は小さく会釈をすると、金烏荘を去って行った。
凪は二人の姿を慈愛に満ちた微笑みで見送っていた。

すると、凪は今度は彩音に向き直ったかと思うと、神妙な顔つきで口を開いた。
そのただならぬ様子に、思わず構えてしまう。

「あのさ、彩音」
「な、何?」
「えっとさ……今日……その……」

凪は歯切れの悪く口籠った。
それに加えて凪の顔が薄っすらと赤らんでいるような気がして、彩音は思わず首を傾げてしまった。

「どうしたの?」
「今夜、時間あるか?」
「今夜? うん、予定はないけど」
「ならさ、よかったら出かけないか?」
「それはいいけど……。でも凪は体調悪いんじゃないの?」
「大丈夫だ。じゃあ、夜に迎えに行く。じゃあな!」

それだけ言い残し、凪はまるで逃げるように去って行ってしまった。

(出かけるって、悠樹たちも一緒かな? どこか用事でもあるのかな?)

どこに行くとか、誰と行くとか、詳細が全く分からない。

ただ、言いたいことを言って去ってしまった凪の様子に彩音は首を傾げていると、突然電話がけたたましく鳴った。

「わっ!」

まさか電話が鳴るとは思っていなかった彩音は、玄関に響き渡る音に飛び上がって驚いてしまった。

先日の雷雨の影響で電話は使えないと聞いていた。
だが電話が鳴っているということは電話が通じるようになったのだろうか?

(悠樹から直ったなんて聞いてないけどなぁ‥‥)

不思議に思いつつ、彩音は受話器を上げた。

「はい、金烏荘です」
「繋がった……。笹野彩音か?」
「そうですけど……どなたですか?」

若い男の声だった。
張り詰めた声で、何かただならぬ様子が伝わってきて、彩音は戸惑いながら答えた。

だが、彩音の声を聞いたためか、青年は安堵の溜息をついた。

「良かった。無事だったか。……俺は浅砂葵(あさずなあおい)と言う。電車で会ったのを覚えているか?」
「電車でって……あ、もしかして同じ車両に乗っていた二人組の男性の方ですか?」

電車の中で会った黒髪の男性の名前が葵だったと記憶している。

「あぁ、そうだ。お前、今どこに居るんだ?」
「どこって、金烏荘という宿です。実はあのあと道に迷ってしまって、今は金烏荘に滞在させてもらってるんです」
「もしかして、宮西悠樹も一緒か?」

尋ねられた彩音は、一瞬言葉に詰まってしまった。

確かに金烏荘に〝悠樹〟はいるが、〝宮西悠樹〟だとは分からなかったからだ。

そもそも悠樹の苗字が宮西だというかも分からず、彩音は答えることができなかった。
返事をしない彩音の言葉を待たずに、葵は話を続けた。

「時間がない、単刀直入に言う。早く帰って来い。そこはお前が居る場所じゃないんだ。俺たちも探しているが、お前たちの所在が掴めない以上、そっちには行けない」
「ちょっと待ってください。意味が分かりません! 帰って来いって言われても、帰るための吊り橋が直らないんです!」
「吊り橋は本当にあったのか?」
「え?」

問われて即答できなかった。
駅を出て、森で迷って、凪に連れられて金烏荘(ここ)に来た。

だが、指摘されると、確かに吊り橋を渡った記憶はない。

(でもあの時は雨が凄くて、無我夢中だったし)

戸惑う彩音に、葵は更に続けて尋ねた。

「金烏荘とはどこにある場所なのか、分かっているのか?」

どこにあるのか?
問われると、確かにこの場所を確認したことなどない。
そもそも住所だって分からない。

(ここは、どこ?)

彩音が動揺し、言葉を発せずにいると、突然葵の声がノイズ混じりになった。
途切れ途切れになりよく聞き取れない。

「そこは……の世界じゃない! お前も消える……か? 時間が……んだ!」
「えっ? よく聞こえません!」

彩音が大声で叫ぶように言ったが、その途端、プツリと通話が途切れた。

電話口で葵に呼びかけたが、答えはなく、ただ電子音がツーツーツーとするだけだった。

呆然とした面持ちで、彩音はゆっくりと受話器を置いた。
葵は何を伝えようとしたのだろうか。

彼の切羽詰まった様子から、ただならぬことが起きているのは理解した。

(何? 葵さんが言っていたことってどういうこと?)

「彩音?」

声を掛けられ、彩音の体がビクリと震えた。
振り返るとそこに立っていたのは悠樹だった。

安堵した彩音を不思議そうに見つめつつ、悠樹は首を傾げて尋ねた。

「どうしたの?」
「電話が鳴ったから出たんだけど、なんか変なことを言われてしまって。悪戯電話かな?」
「え? 電話が繋がったなんて聞いてないけど」
「でも、さっき電話が鳴ったよ」

彩音は悠樹の言葉に驚きながら、再び受話器を取った。

しかし、普通は鳴るであろう電子音は聞こえず、受話器の向こうからはただただ静寂が聞こえるだけだった。

つまり、電話は通じていないということになる。

(どういうこと?)

背中に冷や汗が流れる。これは……一体どういうことなのだろうか?
蒼白になった彩音の顔を、悠樹が心配そうに覗き込む。

「大丈夫? 何かあった? 顔色悪いよ?」
「ううん……大丈夫、何でもない……」

彩音は何とか笑顔を作ってそう答えるだけで精一杯だった。

頭の中が混乱してこの状況を理解できない。
それなのに悠樹になんと伝えればいいのか頭が働かなかった。

彩音の頭の中では、まだ葵の言葉が響いていた。

『吊り橋は本当にあったのか?』
『金烏荘はどこにあるのか?』

ただ一つだけ分かることは、この金烏荘は、いや、ここの住人たちには彩音が知らない秘密があるということだ。
彩音はそう確信した。