…………!
遠くから声が聞こえる。
そして落ちゆく体を強く抱かれたかと思った瞬間、浮上する感覚に襲われた。
ザバッという音と共に視界が一気に明るくなる。
「っ……っかはっ!」
閉塞した肺に新鮮な空気が満たされていく。
ぼんやりと視界に映るのは心配そうに顔を覗き込む凪の顔だった。
いつもサラサラとした髪はしっとりと濡れ、流れ落ちる水滴が彩音の頬にパタリと落ちる。
見れば凪の服もすっかり濡れていることに気づいた。
「私……溺れて……」
瀬織に呼び出され、金烏荘から出て行くように言われ、そして何かが彩音を川に引きずり込んだ。
記憶を手繰り寄せた彩音は、ようやく我が身に起こったことを理解した。
「凪が、助けてくれたの?」
彩音がゆっくりと体を起こしたその時、凪に引き寄せられ、気がつけば彩音は彼の腕の中にいた。
「彩音が無事で良かった……」
耳元で囁くように言った凪の声音から、安堵していることが伝わってきた。
「凪、助けてくれてありがとう」
だが彩音の言葉に凪は答えず、耳元で絞り出すような声で囁いた。
「……俺のせいだ」
「え?」
凪の小さな声は震えていて、驚いた彩音は言葉の意味を聞き返した。
「瀬織があんなことをするなんて考えてなかった。俺が……あいつを止められなかった。だから彩音を危険な目に合わせてしまった」
彩音はゆっくりと体を離し、凪を見つめた。凪の表情には苦渋と悲壮な感情が浮かんでいた。
だが、なぜ凪がそんな顔をするのか、そもそもなぜ凪が謝るのか、責任を感じているのかが彩音には分からなかった。
誰の責任かと言えば瀬織のせいなはずだ。
「凪はいつも自分のことじゃないのにお礼を言ったり、謝ってばっかりだね。凪のせいじゃないのに」
「いや、俺が瀬織の忠告を無視したせいだ。この村で起こったことは俺の責任にもなる。でも……お前を失わずにすんで、本当に良かった……」
凪が彩音をまっすぐに見つめる。
その瞳には単なる安堵だけではない、ほのかに恋慕の色が見えるのは、彩音の願望なのだろうか。
互いに何も言わず、ただ見つめ合う。
すると、凪が突然彩音を横抱きにした。
「えっ?」
「このままじゃ、風邪ひいちまう。宿に戻るぞ」
これはお姫様抱っこという奴だろう。
重くないだろうかとか、この状態で金烏荘まで帰るのは恥ずかしいとか、彩音の頭の中で色々な考えが巡った。
だが、そんなことを口に出来ないくらい、体に力が入らず、自力で歩くのは不可能だった。
彩音は凪に体を預けることにした。
凪の服越しに伝わる体温と、一定のリズムで刻まれる心音が心地よい。
駆けつけてくれたことが嬉しくて。
手の温もりが、暖かくて。
本当にほっとして。
(あぁ、私、凪が好きだ……)
ゆりかごのように揺られながら、彩音はそう思って目を閉じた。
※
彩音はもう何度目かになる寝返りを打った。
闇夜に響くのは虫の音だけ。
車の音や人の声も聞こえない、静かな夜だ。
だが、眠ろうとしても眠ることができずにいた。
目を瞑っても、凪の姿が思い浮かぶ。
同時に横抱きにされて運ばれた時の凪の温もりも思い出してしまう。
だから部屋は夜になって涼しいはずなのに、彩音の体は火照ったように熱い。
(私、凪のことが好きになってたんだ……)
彩音は改めてそう思った。
いつから凪を好きになっていたのか。
山で助けてくれた時か、それとも魚釣りをした時か、川で助けてくれた時か。
たぶんいつからなんてはっきりしたことは言えない。
自然と凪に惹かれていったのだろう。
布団に入り、天井を見上げながらそんなことを考えていると、余計眠れなくなってしまった。
(水でも飲んでこよう)
このまま布団にいても寝付く気配はない。
彩音は気分を変えるために台所に向かうことにした。
すると、中庭の前に差しかかった時、人影が見えて、彩音は足を止めた。
こんな夜中に誰だろうか?
(もしかしてまた凪と瀬織さん?)
先日二人が抱き合っていた光景を思い出し、彩音の胸が不安でドクンと鳴った。
彩音は凪への気持ちを自覚したが、そもそも瀬織と凪の関係が分からないことに気づいた。
瀬織が凪を好きなことは確実で、凪とは両思いなのかもしれない。
いや、恋人同士という可能性だってある。
だから彩音が溺れた時、瀬織の代わりに謝ったのか。
そうであれば、凪の謝罪の意味も辻褄が合うのだ。
そのことに気づいた彩音は、先ほどのふわふわした気持ちが一気に萎え、胸の辺りが冷えていくのを感じた。
それでも人影が誰かを確かめたくて、彩音がそっと中庭を覗くと、そこにいたのは凪だった。
月明かりに照らされた凪は、金色の扇を使いながら舞を踊っているようだ。
(そういえば、お祭りで舞を踊るって言ってたっけ)
祭りも近いし、その練習なのだろうか?
しかし、その動きはどこかぎこちないように見えた。
確かに軽やかな足取りで、舞の型のようなものは素人目にも明らかだ。
だが、扇を振る手の動きに違和感を覚えた。
どこか無理に腕を動かそうとしているようにも見える。
その時、くるりと一回転して扇を振り上げた凪の手から、扇が滑り落ちた。
(あっ!)
小さく叫んだ彩音は凪に声をかけようとしたのだが、凪が突然しゃがみ込み、苛立たしげに地面を殴りつけた。
「くそ!」
凪の様子がいつもとはあまりに違っていて、彩音は声を掛けることができず、ただその様子を黙って見ているしかできなかった。
その時、空気が変わり、ふらりと中庭に現れたのは鏡夜だった。
「夜遅くまで、ごくろーさん」
「何だ……鏡夜か」
「何だとは酷いなぁ。一応心配して来てやったんだよ」
「よけーなお世話だ」
「可愛くないなぁ」
鏡夜はいつもの軽口を叩きながら、ゆっくりとした足取りで凪のもとに近づくと、地面に落ちた扇を拾い上げた。
「その体じゃ、まともに舞なんて舞えないだろ?」
「……」
鏡夜の問いに、凪は無言のままでいた。
「凪の気持ちも分からなくはないけど、無理に舞を舞う必要はないだろ? 僕も瀬織の言うとおり、早くこの地を離れた方がいいと思うけどねぇ」
「でも……今年で最後なんだ。最後の最後まで、俺はこの地を守りたい。それが俺の役目だ」
「見上げた根性だけどね。でも、最後の村人を見送ったら、君はこの地を守る必要はないはずだよ」
そう言って鏡夜は言葉を区切った。
「凪には三つの選択肢があるよね? 一つ目。金烏荘を離れ、君の力があるうちに幽世に還る」
「論外だ。そうしたら彩音たちの方が消えてしまう」
「じゃあ、二つ目。金烏荘に悠樹と彩音ちゃんを留める。二人をこの地に縛りつけてしまえば、君は消滅しないで済むんだよ」
「それもダメだ。そうしたら彩音はもう二度と現世に帰れなくなってしまう」
「えーこれが最善だと思うんだけどなぁ」
鏡夜の言葉に対し、凪は無言でそれを否定した。そんな凪を見た鏡夜は小さくため息をついた。
「じゃあ三つ目。君の力で金烏荘から二人を帰す。でも今の凪の力じゃ、君が消えてしまう。それでもいいのかい?」
「あぁ」
今度は迷いなく凪は答えた。その言葉に鏡夜は諦めにも似た表情を浮かべた。
「そう。……んじゃ、僕はもう寝るよ。おやすみ、凪」
鏡夜が居なくなったあと、凪は暫く目を閉じていたが、再び舞の練習をしていた。
彩音はその様子を見ながらも、鏡夜の言葉が気になっていた。
(現世? 幽世? 凪が消える? どういうこと?)
そう言えば瀬織もそんなこと言っていた。
このままじゃ凪は消えてしまうと。
だから彩音に金烏荘から出て行ってほしいと。
鏡夜と瀬織、そして凪には何か秘密があるのでは。
そんな考えが彩音の頭をよぎる。
だが、それが何なのか、今の彩音には分からなかった。
ただ一抹の不安が彩音の中に生まれたことは確かだった。
遠くから声が聞こえる。
そして落ちゆく体を強く抱かれたかと思った瞬間、浮上する感覚に襲われた。
ザバッという音と共に視界が一気に明るくなる。
「っ……っかはっ!」
閉塞した肺に新鮮な空気が満たされていく。
ぼんやりと視界に映るのは心配そうに顔を覗き込む凪の顔だった。
いつもサラサラとした髪はしっとりと濡れ、流れ落ちる水滴が彩音の頬にパタリと落ちる。
見れば凪の服もすっかり濡れていることに気づいた。
「私……溺れて……」
瀬織に呼び出され、金烏荘から出て行くように言われ、そして何かが彩音を川に引きずり込んだ。
記憶を手繰り寄せた彩音は、ようやく我が身に起こったことを理解した。
「凪が、助けてくれたの?」
彩音がゆっくりと体を起こしたその時、凪に引き寄せられ、気がつけば彩音は彼の腕の中にいた。
「彩音が無事で良かった……」
耳元で囁くように言った凪の声音から、安堵していることが伝わってきた。
「凪、助けてくれてありがとう」
だが彩音の言葉に凪は答えず、耳元で絞り出すような声で囁いた。
「……俺のせいだ」
「え?」
凪の小さな声は震えていて、驚いた彩音は言葉の意味を聞き返した。
「瀬織があんなことをするなんて考えてなかった。俺が……あいつを止められなかった。だから彩音を危険な目に合わせてしまった」
彩音はゆっくりと体を離し、凪を見つめた。凪の表情には苦渋と悲壮な感情が浮かんでいた。
だが、なぜ凪がそんな顔をするのか、そもそもなぜ凪が謝るのか、責任を感じているのかが彩音には分からなかった。
誰の責任かと言えば瀬織のせいなはずだ。
「凪はいつも自分のことじゃないのにお礼を言ったり、謝ってばっかりだね。凪のせいじゃないのに」
「いや、俺が瀬織の忠告を無視したせいだ。この村で起こったことは俺の責任にもなる。でも……お前を失わずにすんで、本当に良かった……」
凪が彩音をまっすぐに見つめる。
その瞳には単なる安堵だけではない、ほのかに恋慕の色が見えるのは、彩音の願望なのだろうか。
互いに何も言わず、ただ見つめ合う。
すると、凪が突然彩音を横抱きにした。
「えっ?」
「このままじゃ、風邪ひいちまう。宿に戻るぞ」
これはお姫様抱っこという奴だろう。
重くないだろうかとか、この状態で金烏荘まで帰るのは恥ずかしいとか、彩音の頭の中で色々な考えが巡った。
だが、そんなことを口に出来ないくらい、体に力が入らず、自力で歩くのは不可能だった。
彩音は凪に体を預けることにした。
凪の服越しに伝わる体温と、一定のリズムで刻まれる心音が心地よい。
駆けつけてくれたことが嬉しくて。
手の温もりが、暖かくて。
本当にほっとして。
(あぁ、私、凪が好きだ……)
ゆりかごのように揺られながら、彩音はそう思って目を閉じた。
※
彩音はもう何度目かになる寝返りを打った。
闇夜に響くのは虫の音だけ。
車の音や人の声も聞こえない、静かな夜だ。
だが、眠ろうとしても眠ることができずにいた。
目を瞑っても、凪の姿が思い浮かぶ。
同時に横抱きにされて運ばれた時の凪の温もりも思い出してしまう。
だから部屋は夜になって涼しいはずなのに、彩音の体は火照ったように熱い。
(私、凪のことが好きになってたんだ……)
彩音は改めてそう思った。
いつから凪を好きになっていたのか。
山で助けてくれた時か、それとも魚釣りをした時か、川で助けてくれた時か。
たぶんいつからなんてはっきりしたことは言えない。
自然と凪に惹かれていったのだろう。
布団に入り、天井を見上げながらそんなことを考えていると、余計眠れなくなってしまった。
(水でも飲んでこよう)
このまま布団にいても寝付く気配はない。
彩音は気分を変えるために台所に向かうことにした。
すると、中庭の前に差しかかった時、人影が見えて、彩音は足を止めた。
こんな夜中に誰だろうか?
(もしかしてまた凪と瀬織さん?)
先日二人が抱き合っていた光景を思い出し、彩音の胸が不安でドクンと鳴った。
彩音は凪への気持ちを自覚したが、そもそも瀬織と凪の関係が分からないことに気づいた。
瀬織が凪を好きなことは確実で、凪とは両思いなのかもしれない。
いや、恋人同士という可能性だってある。
だから彩音が溺れた時、瀬織の代わりに謝ったのか。
そうであれば、凪の謝罪の意味も辻褄が合うのだ。
そのことに気づいた彩音は、先ほどのふわふわした気持ちが一気に萎え、胸の辺りが冷えていくのを感じた。
それでも人影が誰かを確かめたくて、彩音がそっと中庭を覗くと、そこにいたのは凪だった。
月明かりに照らされた凪は、金色の扇を使いながら舞を踊っているようだ。
(そういえば、お祭りで舞を踊るって言ってたっけ)
祭りも近いし、その練習なのだろうか?
しかし、その動きはどこかぎこちないように見えた。
確かに軽やかな足取りで、舞の型のようなものは素人目にも明らかだ。
だが、扇を振る手の動きに違和感を覚えた。
どこか無理に腕を動かそうとしているようにも見える。
その時、くるりと一回転して扇を振り上げた凪の手から、扇が滑り落ちた。
(あっ!)
小さく叫んだ彩音は凪に声をかけようとしたのだが、凪が突然しゃがみ込み、苛立たしげに地面を殴りつけた。
「くそ!」
凪の様子がいつもとはあまりに違っていて、彩音は声を掛けることができず、ただその様子を黙って見ているしかできなかった。
その時、空気が変わり、ふらりと中庭に現れたのは鏡夜だった。
「夜遅くまで、ごくろーさん」
「何だ……鏡夜か」
「何だとは酷いなぁ。一応心配して来てやったんだよ」
「よけーなお世話だ」
「可愛くないなぁ」
鏡夜はいつもの軽口を叩きながら、ゆっくりとした足取りで凪のもとに近づくと、地面に落ちた扇を拾い上げた。
「その体じゃ、まともに舞なんて舞えないだろ?」
「……」
鏡夜の問いに、凪は無言のままでいた。
「凪の気持ちも分からなくはないけど、無理に舞を舞う必要はないだろ? 僕も瀬織の言うとおり、早くこの地を離れた方がいいと思うけどねぇ」
「でも……今年で最後なんだ。最後の最後まで、俺はこの地を守りたい。それが俺の役目だ」
「見上げた根性だけどね。でも、最後の村人を見送ったら、君はこの地を守る必要はないはずだよ」
そう言って鏡夜は言葉を区切った。
「凪には三つの選択肢があるよね? 一つ目。金烏荘を離れ、君の力があるうちに幽世に還る」
「論外だ。そうしたら彩音たちの方が消えてしまう」
「じゃあ、二つ目。金烏荘に悠樹と彩音ちゃんを留める。二人をこの地に縛りつけてしまえば、君は消滅しないで済むんだよ」
「それもダメだ。そうしたら彩音はもう二度と現世に帰れなくなってしまう」
「えーこれが最善だと思うんだけどなぁ」
鏡夜の言葉に対し、凪は無言でそれを否定した。そんな凪を見た鏡夜は小さくため息をついた。
「じゃあ三つ目。君の力で金烏荘から二人を帰す。でも今の凪の力じゃ、君が消えてしまう。それでもいいのかい?」
「あぁ」
今度は迷いなく凪は答えた。その言葉に鏡夜は諦めにも似た表情を浮かべた。
「そう。……んじゃ、僕はもう寝るよ。おやすみ、凪」
鏡夜が居なくなったあと、凪は暫く目を閉じていたが、再び舞の練習をしていた。
彩音はその様子を見ながらも、鏡夜の言葉が気になっていた。
(現世? 幽世? 凪が消える? どういうこと?)
そう言えば瀬織もそんなこと言っていた。
このままじゃ凪は消えてしまうと。
だから彩音に金烏荘から出て行ってほしいと。
鏡夜と瀬織、そして凪には何か秘密があるのでは。
そんな考えが彩音の頭をよぎる。
だが、それが何なのか、今の彩音には分からなかった。
ただ一抹の不安が彩音の中に生まれたことは確かだった。
