迷い込んだ森の中、消えゆくあなたに恋をした

そんな考え事をしていたせいだろう。
ふと気づくと凪の姿はなかった。
どうやら先に行ってしまったようで、彩音は慌てて境内に戻った。

「凪、ごめん!」
「こっちは問題ない。それより、やっぱ薪運びは大変だろ? こっちは俺がやるから、悠樹の方を手伝ってやれ」
「分かった。戦力にならなくてごめんね」

手伝いに来ていたのに、薪運びの一つもできない自分が不甲斐ない。
思わずしゅんとして肩を落とすと、凪は優しく彩音の頭をぽんと撫でた。

「そんな顔するなって。人には向き不向きってのがあるんだし、手伝ってくれる気持ちだけでも十分だぜ。それに悠樹の方も手が足りないだろうからさ」
「うん、ありがとう。じゃあ、悠樹の手伝いしてくるね」
「おう」

凪の配慮に感謝しつつ彩音は社へと足早に向かった。
社が見えてきたところで、そこに一人の少女が立っていた。

(瀬織さん?)

淡い水色の着物には流れる水を彷彿とさせる水文柄で、大きな毬や桜といった華やかな柄も描かれている。

黒く艶やかな髪に抜けるような白い肌の瀬織は、凛とした佇まいで社の前に立っていた。

誰かを待っているのだろうか。

そう思って瀬織を見ていると、不意に彼女が彩音に視線を向けた。
そして、小さく頭を下げて、彩音に声を掛けてきた。

「こんにちは」
「こ、こんにちは」

突然声を掛けられた彩音は驚きながらも、挨拶を返した。
昨日あれほど鋭い視線で睨みつけられたことが思い出され、どう接すればいいのか悩んでしまう。

(無視するわけにはいかないし、かといって嫌われているのに話しかけるわけにもいかないし……)

思わず足を止めて逡巡していると、瀬織の方からゆっくりとこちらに歩いてきた。
昨日のことを思い出し、彩音は無意識に体が強張ってしまう。

「凪について話したいことがあるんですの」
「凪について、ですか?」

瀬織は彩音の緊張をよそに、静かにそう話しかけてきた。

その表情は昨日の憎悪に満ちたものとは打って変わって、静かな表情だった。
決して好意的ではないが、敵意も感じられない。

彩音が戸惑っていると瀬織が言葉を続けた。

「ええ。貴女、昨日わたくしたちの話を聞いておりましたでしょ?」
「それは……」

立ち聞きしていたとは言えず思わず口ごもってしまった。

「隠さなくても平気ですわ。それで、わたくしが何故あなたを金烏荘から出て行ってほしいのか、その理由をお教えしますわ」
「出て行ってほしい理由?」

確かに、彩音は昨日瀬織に向けられた鋭い視線の意味が分からなかった。
初対面に近い彩音が瀬織に憎しみを向けられた理由。

彩音はそれが知りたいと思った。

「ここではゆっくり話せませんわ。少し歩きましょう」

瀬織にそう促され、彩音は逡巡したあとその背中についていくことにした。

歩いている間も互いに無言で、張りつめた空気が二人の間に流れていた。

彩音から話しかけることもできず、瀬織に促されるまま歩くと、やがて以前凪と魚釣りをした川へと辿り着いた。

そこまで来て瀬織はようやく足を止めると、くるりとこちらを振り返り、彩音を見据えた。
その瞳は凪いでいて、昨日の激昂が嘘のように思えるほどだ。

憎しみも悲しみも見えず、ただただ静かな瞳。

だから彩音は瀬織が何を言うのか想像ができずにいた。
しかしこのまま見つめ合っても始まらない。

彩音はゆっくりと口を開き、瀬織に尋ねることにした。

「瀬織さん、それでお話ってなんでしょうか? 私が金烏荘に居てはいけない理由を教えてくれるって言いましたけど」
「わたくしは貴女が嫌い。いえ、人間が嫌いよ」

瀬織が開口一番に言ったのはそんな言葉だった。

彩音を嫌っているのは分かるが、「人間が嫌い」という言葉との関連が見えなかった。

そもそも瀬織だとて人間なのに、何故人間が嫌いという言葉になるのだろうか。
単なる〝人嫌い〟という意味にも取れるが、瀬織の口調からそうではないと感じた。

瀬織の意図している話の内容が分からず、彩音が思わず眉をひそめたが、瀬織はそのまま言葉を続けた。

「人間は、与えても与えられるのが当然と思って感謝もしない。恩を恩とも感じず、神から恵みを貰ったことなど忘れてしまう。そして、わたくしたちの気持ちを踏みにじる。わたくしはそんな人間が大嫌い」

瀬織の言葉には実感がこもっており、彼女は本当に人が嫌いなのだということは伝わってくる。
だが、それと彩音が金烏荘に居てはいけない理由がまるで結びつかない。

「話が見えないんですが」
「わたくしは人が嫌い。だから貴女には金烏荘から出て行ってほしい。単純な話よ」

「仰っている意味が分かりません。要は瀬織さんが私を気に入らないから出て行けってことですよね? それって自分勝手じゃないですか?」

「わたくしが自分勝手? 自分勝手なのは人間よ。だからわたくしは人間が嫌い。だけど、凪はそうじゃない。凪は人間が好きで、大切にしたいと思っているわ。だから金烏荘を守ろうとしているの」

「それは……金烏荘の主人は凪ですから、店を守ろうとしているのは当然だと思います」
「いいえ、凪はもう金烏荘を辞めるつもりだったはずよ。だけど金烏荘を辞めないのには理由があるの」
「理由ですか?」

確かに悠樹の話では、凪は今年の夏で金烏荘を辞めるつもりらしいと聞いている。

だが、悠樹もその理由が分からないと言っていた。
鏡夜は理由を知っているようだったが教えてくれなかった。

それを瀬織は知っているということだろうか?

彩音がそう思って尋ねると、瀬織の口から出た答えは意外なものだった。

「悠樹と貴女がいるからよ」
「私?」

予想外の答えに、彩音は思わず聞き返していた。
なぜ自分がいることが金烏荘を辞めないという理由に結び付くのか。

思わず彩音が怪訝な顔をすると、瀬織はさらに言葉を続けた。

「わたくしはもっと早く金烏荘を辞めるべきだと言っていたの。彼にはもう金烏荘を守る力はないから。でも凪は『悠樹と彩音を帰すまでは続ける』と言って聞く耳を持ってくれなかったわ」
「悠樹と私を帰す?」

凪は自分たちをどこに帰そうというのか?

彩音は吊り橋が直るまで金烏荘にいて、直ったら両親のもとに帰るのは分かる。
だが、弟である悠樹を帰すというのはどういうことか。

「そうよ。貴女がここに……金烏荘にいることは凪の負担なの。凪は貴女のために金烏荘を続けると言っている。でも、貴女がいなければ、凪はもっと早く金烏荘を閉じることができるわ」

(私が負担……)

当たり前だ。
彩音は凪の厚意で金烏荘にいるが、お金を払っているわけではない。

宿代も出せない彩音は、ただでさえ客のいない金烏荘に金銭的な負担をかけてしまっている上、手伝いらしい手伝いもできていないのだ。

それが凪の負担になっていると言われてしまえば、認めざるを得ない。
だが、そう考えた彩音に対して瀬織が言った言葉は、あまりにも突飛な言葉だった。

「このままじゃ凪は消えてしまうわ」
「えっ……? それってどういうことですか?」

「そのままの意味よ。貴女が早く金烏荘を出て行ってくれれば、凪は早く金烏荘を離れられる。貴女は街に戻ったら凪のことを忘れてしまう。貴女にとってはその程度の存在よね? でも、わたくしにとって凪は大切な存在なの。凪がいないなんて絶対に嫌。だから、貴女には早くここから出て行ってくださいませ!」

感情が一気に溢れたように、瀬織は涙を流しながら彩音に訴えた。

瀬織の溢れ出る涙を見て、彩音は瀬織が凪を好きなのだと分かった。
そして、凪を想う強い気持ちも伝わって来た。

瀬織の気持ちは理解できる。

彩音にとっても、雷雨の中助けてくれた凪は大切な存在で恩人だ。
だが、すぐに出て行けと言われても、「はい、そうですか」とは頷けない。

今金烏荘を追い出されたら、彩音は路頭に迷ってしまう。
だけど、理由はそれだけだろうか?

知らず彩音はぽつりと呟いていた。

「嫌……凪と離れるのは、嫌」

思わず漏れた言葉に、彩音自身驚いてしまった。
しかし、その言葉を聞いた瀬織の顔が、一瞬にして憎悪の色に染まった。

「そうですの。穏便に立ち去ってもらおうと思いましたが、無駄だったようですね。じゃあ、このまま凪の前からいなくなってくださいな」
「いなくなるって……?」

その時、一陣の風が吹いた。
風が瀬織の前髪を揺らし、その奥の瞳がキラリと光ったような気がした。

同時に、突然彩音の足首に冷たい何かが巻き付いた。

(何!?)

それは透明な水だったが、驚くべきはそれが意志を持つようにうねり、気づいた時には彩音は川へと引き摺りこまれていた。

ドボンと音がして、体が一瞬にして冷えていく。

川に落ちているのだと分かったのは見上げた先にある水面。
そこから差し込む淡い光、そして口から出た息がごぼごぼと音を立て、水面へ向かって浮上していく泡を見た時だった。

(溺れる!)

何とか水面に顔を出そうと水中で藻掻くが、体が重く、思うように動かない。

藻掻けば藻掻くほど、呼吸が苦しくなり、肺の中の酸素が泡となって口から漏れ出てしまう。

指の先から熱がどんどん失われ、感覚が無くなっていく。

(あぁ、私、死ぬのかも)

そう思った彩音の意識が徐々に遠のいていった。
薄れゆく意識の中、思い出したのは凪のことだった。

凪は自分が突然いなくなって心配するだろうか?
それとも出て行ったと思って探してもくれないだろうか?

(凪……最後に、会いたかったな……)

そう思っているうちに、ゆっくりと瞼が降りてくる。
やがて彩音の意識が黒く染まり、闇の中に落ちて行った。