迷い込んだ森の中、消えゆくあなたに恋をした

夕方、魚釣りを終えた彩音が台所に行くと、悠樹が既に夕食の準備をしていた。

「悠樹、手伝うことあるかな?」

彩音は声を掛けたものの、正直戦力になれるかは微妙なところだ。
だが、ご飯をよそったり、まな板を洗ったりならできる。

微力ではあるが、少しは悠樹の役に立ちたいと思い、彩音は手伝いを申し出た。

「あ、彩音お帰り。もう鮎の塩焼きが出来たら終わりだよ。えっと、そろそろ焼けたかな?」

悠樹が取り出したのは鮎の焼き物だった。
いい感じに焦げ目がついて、美味しそうだ。

「この鮎、さっき彩音たちが釣ってきてくれたものだよ」
「そうなの?」
「うん。今日は大漁だったね。初めての釣りはどうだった?」
「楽しかったよ」

生まれて初めての魚釣りは、とても充実したものだった。

流れゆく川の水面を眺められて癒されたし、野鳥のさえずりも心地よかった。
それに、こうして釣果もあった。

焼き魚を見ながら今日の釣りの事を振り返った時、魚を釣り上げた瞬間の事が思い出された。

形の良い薄い唇が触れるほど、近づいた凪の顔。
のしかかるように触れてしまった体はしっかりとしていて、布越しに凪の体温が伝わってきた。

(って、何を思い出しているの!?)

我に返った彩音は、先ほどの一件を忘れるように軽く頭を振った。
その様子を見た悠樹が不思議そうな表情で首を傾げている。

「彩音どうしたの? なんか顔が赤い気がするけど……」

まさか凪の事を考えていたなどとは言えず、彩音は慌てて誤魔化した。

「ええと、夕陽が当たっているからじゃないかな?」
「そう?」

不自然だったろうか?
内心ドキドキとしていると、悠樹は首を傾げたもののそれ以上は何も言わなかった。

(誤魔化せたかな?)

彩音はホッと胸を撫で下ろした。

「食器、運ぼうか?」
「いや、こっちはやっておくよ。凪と鏡夜を呼んできてくれる?」
「うん、いいよ」

彩音はそう返事をすると、二人を呼びに台所を出た。

たぶん鏡夜は部屋にいるだろう。鏡夜は夜型人間なのか、日中は部屋でゴロゴロしているようで、夜に活動している。

曰く、夜の方が集中して筆が進むとのことだった。

以前鏡夜が書いた本が気になり、悠樹に教えられた書庫に読みに行ったことがある。
聞いた話では鏡夜の作品は様々な地域にある伝承を元にアレンジを加えた内容らしい。

神々と交流した人間が、幸せに生きるというようなほっこりするものもある一方で、妖に人を呪い殺す依頼をした人間が、結果的に自分も呪い殺される、何という悲惨なものもあった。

寧ろそう言った「人の業」をテーマに書かれた小説の方が多く、ハッピーエンドと言うよりはメリバ的な結末を迎えてしまう作品が多かった。

それゆえ、ハピエン派の彩音としてはあまり読みたい本ではなかった。

まぁ、そこそこファンがいるらしいので、世の中の趣味は多種多様なのだろう。

(ええと、鏡夜さんは部屋にいるとして、凪はどこにいるのかな?)

魚釣りから帰ってきてから、凪の姿は見かけていない。
部屋にいるのか。
それとも畑に行ってしまったのか。
そう考えていた彩音の耳に、中庭から凪の声が聞こえてきた。

(凪がいるのかな?)

彩音は声を辿って廊下を進むと、案の定中庭に凪の姿を見つけた。
だが、そこにいたのは凪一人ではなかった。

傍らには日本人形のように綺麗な美少女が立っていた。
年の頃は彩音より年下に見える。

艶やかな黒髪に抜けるように白い肌、そしてきらびやかな和装をした少女は、まるでおとぎ話に出てくるかぐや姫のような姫を連想させた。

声を掛けようとした彩音だったが、二人を見て思わず足を止めてしまった。
美少女は凪に何かを必死に訴えている様子だったからだ。

本当はここを立ち去るべきだろう。
立ち聞きする趣味はない。

だが、どうしても二人の様子が気になってしまい、彩音はそこを動けずにいた。
風に乗って二人の会話が聞こえてくる。

「凪! 鏡夜に聞きましてよ! 人を金烏荘に迎え入れているって本当ですの?」
「彩音のことか?」

突然自分の名前が出て来て、彩音はどきりとした。

「そうですわ。どうして金烏荘に連れてきたのです!」
瀬織(ルビ)、落ち着けって」
「落ち着いてられませんわ! あんな人間を助けるなんて!」
「迷っていたんだ、助けるのは当然だろ」
「当然? あんな人間、凪が助ける価値なんてありませんわ」
「彩音のことは悪く言うな。決めたのは俺だ」

声を荒げる美少女——瀬織に対し、凪は静かに、だが力強く告げた。
その言葉を聞いた瀬織は、激高した表情を一転させ、悔しそうに眉を顰めた。

「貴方は優しすぎですわ。あんな人間たちを守護する必要なんてないはずよ。鏡夜もわたくしも、どんな目に遭っているか知っているでしょう?」
「悠樹だって金烏荘にいるんだ。悠樹のことは許せるんだろ? あいつだって彩音と同じだ」
「それは……」

凪の言葉に瀬織は言い淀んだ。
視線を下に向け、俯く瀬織の瞳から涙が零れ落ちるのが見えた。

そして声を震わせて、涙声になりながら言葉を続けた。

「……わたしくは心配なのです。力が弱くなっているのに、これ以上守護する人間が増えたら、凪は消えてしまうかもしれないのに……」
「瀬織、お前が心配してくれているのは分かってる。でも、俺は困っている人間を放ってはおけない」
「いいえ、凪は分かっておりませんわ!」
「瀬織……」
「貴方が大切なの。貴方がいなくなったら、わたくしも生きていけない」

そう言うと瀬織は凪に倒れこむようにして泣き出して、凪は黙って瀬織を抱きしめた。

(!)

思わず息を呑んでしまう。
彩音は見てはいけないものを見てしまったと思った。

動悸がする。
胸が騒ぐ。

凪と瀬織が抱き合う光景を見て、彩音は知らずに後ろに下がっていた。
その時、悲し気に目を伏せていた凪が不意に顔を上げ、彩音に気づいた。

「彩音……」
「えっと、夕飯だから凪を呼んできてくれって悠樹に言われて……」

突然のことに彩音は動揺し、震える声でそう告げるのが精一杯だった。
それにつられるように、瀬織も彩音を見た。

その瞬間、瀬織の目に憎悪の色が浮かんだかと思うと、鋭い視線で彩音を睨みつけた。

「貴女が彩音?」
「そう、です」
「ここは貴女がいる場所ではなくてよ。早く出て行ってちょうだい」

その気迫と、瀬織の怒りを滲んだ声に、彩音は答えることができず、息を呑んだまま見つめ返すしかなかった。
どうしてそこまで憎悪されるのかも分からない。

「このままじゃ凪は……」

掴みかからんばかりの勢いで、言葉を続けようとした瀬織に対し、凪がその声を断ち切るように名を呼んだ。

「瀬織!」

それは、彩音が聞いたことのないほどの強い口調だった。
瀬織が口を閉ざすと、凪は小さくため息をついた。

「とりあえず、今日は帰ってくれ」
「……また、来ますわ」

瀬織は悔しそうに顔を歪めると、言いたい言葉を飲み込むようにしてその場を去って行った。

中庭には凪と彩音の二人きりになった。
沈黙が場を支配する。

正直、彩音は凪と瀬織の会話の意味が分からなかった。

ただ瀬織は彩音のことが嫌いで、金烏荘にいてほしくないということだけは分かった。
そのことを、凪にどう尋ねていいのか、彩音は言葉を探しあぐねていた。

「……その、悪かったな」

不意に凪が口を開いた。
その言葉の意味が分からず彩音が答えずにいると、凪は続けて言った。

「瀬織のことだよ。あいつ、本当はいい奴なんだ。ただ、ちょっと人見知りっていうか、いきなり知らない人間がいて驚いたっていうか」

凪が一生懸命に言い訳をして、瀬織を庇おうとしているのが伝わる。
別に凪が謝る必要はないのに。

だから凪が言葉を発する度、胸のざわつきが止まらなくて、彩音はこの話題を打ち切ろうとした。

「気にしてないから大丈夫だよ」

なるべく平気に見えるように、彩音は努めて明るく言った。
本当は二人がどういう関係なのか知りたい。

だが、そんなことを聞けるはずもない。

そもそも単なる従業員の彩音が瀬織との関係をとやかくいうべきではないだろう。

分かってはいるが、胸の痛みだけは押さえられなくて、彩音はなんとか笑みを張り付けた。

「お夕飯が冷めちゃうし、悠樹も待っているだろうから。私、先に行ってるね」

彩音は逃げるようにそこから立ち去った。
凪が何かを言いたげな視線を感じたが、彩音はそれを振り切るようにして居間へと戻った。