迷い込んだ森の中、消えゆくあなたに恋をした

釣竿を借りた彩音は凪から簡単に釣りの方法を教わると、さっそく魚釣りを始めた。

餌についてはミミズを餌にするのだが、さすがにそれを触る勇気はない。
そこは凪にお願いして用意してもらった。

そして、期待に胸を膨らませ糸を垂らしてみたものの、待てど暮らせど彩音の竿には一向に魚がかかる気配が無い。

仕方ないので、彩音はぼうっと水面を見つめながら魚を待つことにした。

目を閉じると少しひんやりとした風が感じられて心地よい。
耳に入るのは緑のざわめきと降り注ぐような蝉の声、そして遠くで鳴く鳥の声だけだった。

「大丈夫か? 結構つまらないだろ?」
「意外に忍耐勝負ってことが分かった」
「まぁ、な」

苦笑する凪の顔から、彩音を連れてきた申し訳なさが滲み出ていたので、彩音はそれを否定したくて言葉を続けた。

「でも、都会だとこんなにゆっくりぼーっとする時間がないし、こういうのも悪くないよ」
「確かに静かだけどな」
「それに川ってこんなに綺麗なんだね。水面がきらきら光って綺麗!」

そうなのだ。
彩音が知る川は、ごみが捨てられていたり水が濁ったりしたものだ。

だがここの川はまさしく清流。

川底が見えるほど澄み渡り、もちろんごみの一つも浮いていない。
だからだろうか。
水面に太陽の光が反射して煌めいている。

「うーん。俺にとっちゃ普通のことだけどな」
「都会じゃ、考えられないよ。とっても綺麗……」
「そっか。んじゃ、蛍なんて見ることもないんだな」
「え!? 蛍が見れるの?」
「ああ。夜になるとこの川辺いっぱいに蛍が舞うんだぜ」
「へー! 見てみたいなぁ」

蛍など、写真や動画でしか見たことがない。
また、新たな世界が広がるようで彩音の声が弾んだ。

「そっか。んじゃ、近いうちに見に来ようぜ」
「うん! 約束だよ。楽しみにしてる!」

その時だった。
突然彩音の竿に反応があった。

が、あまりにも強い引きのため、どうしていいのか分からず、彩音はパニックになりながら、凪に助けを求めた。

「な、凪! なんか引いてる! っていうかどうすればいいの?」
「ほら、しっかり引け! 足、踏ん張るんだ!」
「や、やってる! けど! きゃ!」

凪は彩音の背後から手を回し、竿を握った。
彩音の手の上に、凪の大きな手が重なる。

驚いて息を呑んでしまったのは、魚が引いているからだろうか、それとも凪の手が触れたからだろうか?
瞬間的に心臓が跳ねた。

だが、それも一瞬の事で、ザバッという水音と共に中を魚が舞った。

水しぶきが空に煌めき、魚が空に躍動する。
その光景はスローモーションのように彩音の視界に映った。

「あっ!」
「うわっ!」

彩音が小さく叫んだ瞬間、今度は視界が反転した。
倒れる。

そう思って目を瞑り、彩音は衝撃に備えた。
だが、痛みも衝撃も訪れなかった。

代わりに柔らかいものが彩音を包む。

「え?」

何が起こったのか分からず、彩音はゆっくりと目を開くと、そこにあったのは目を見開いた凪の顔だった。
息がかかるほどに迫った端正な顔を、思わず見つめてしまう。

光の加減で深い青のようにも見える凪の瞳に、彩音の瞳が吸い寄せられる。

それは一瞬だったのかもしれない。

だが、彩音は時が止まったように、凪の瞳を見つめていた。

互いに言葉を発せずにいた。
見つめ合う形になっていると、不意に凪が口を開いた。

「おい、どけてくれ」

凪の言葉に彩音ははっと我に返った。
凪が彩音の下にいる。つまり押し倒した格好になっている。

魚を釣り上げた反動で、倒れた彩音を凪が抱き留めてくれたことを、遅れて理解した。

「ご、ごめん! 凪」
「うーん。重い」
「酷い! そこは重くないって言うところでしょ!」
「ははは、冗談だよ」

軽口を叩きながら、彩音は凪から距離を取った。

だが、その心中は動揺し、心臓はうるさく鳴っている。

だから冗談を言わないと、その動揺が凪にバレてしまいそうだ。

凪の顔がまともに見られなくて、視線を外した彩音の視界に、ピチピチと勢いよく跳ねる魚の姿があった。

「あ! 魚!」
「初の獲物獲得じゃないか」
「うん!」

初の収穫に、彩音は満面の笑みで答えると、凪も満足したように笑った。

その笑顔が眩しく映る。
まだ彩音の心臓は忙しなく動いている。

それを凪に気づかれたくなくて、彩音は魚をじっと見つめることにしたのだった。



結局、あの後凪はそこそこの釣果だったが、彩音は魚を釣ることができず、「そろそろ帰るか」という凪の言葉によって魚釣りは終わった。

彩音が魚を釣れなかったのには理由がある。魚釣りに集中できなかったのだ。

釣り糸を垂らしても、隣で魚釣りをしている凪の存在を意識してしまう。

(雑念があると魚が釣れないって言うけど本当の事だった……)

魚釣りは禅に通ずるという言葉を聞いたことがあるのだが、まさしくそれだと彩音は痛感した。

釣りの間、内心凪を意識して集中できなかった彩音に反し、凪は涼しい顔をしていた。
そして、今も、帰りながら川沿いを二人で並んで歩いているが、凪はいたって涼しい顔だ。

(凪にとっては些細なことだったんだろうな)

自分ばかりが意識していることがいたたまれなくなる。

とりあえず、さっきのアクシデントは一旦忘れることにして、なるべく凪を見ないようにして川を歩くと、岸部にごみが散乱しているのが目に入った。

上流から流れて来たのか。
はたまた心無い人が捨てて帰ってしまったのか。

先ほどまで清流を見ていただけに、美しい自然とは反する汚れた人工物が気になって、彩音は足を止めた。

「ん? どうした?」
「あそこにごみが溜まってて。酷いことするなぁって思って」

折角風光明媚なこの景色を穢されたように思え、顔を顰めてしまった。

「人間全てがそうじゃないとは思うけど、まぁああいう輩はいるんだよな」
「私、拾って帰るね」
「え?」
「あ、凪は帰ってていいよ。せっかく綺麗な景色が汚れるのって見てて気持ちよくないじゃない? それに、川の魚だって綺麗じゃないと死んじゃうし。川の恵みを貰ったんだから恩返ししなくちゃね」

そう言いながら、彩音は手近で目に入ったごみから拾うことにした。

最初は飴の外装といった小さなものが目立ったが、拾い始めると空き缶やたばこの吸い殻、菓子パンの袋など、多くのごみが目につく。

(ったく、もう信じられない! 日本人のモラル、どうなってるの!?)

彩音は内心憤慨しつつごみ拾いをしていると、後ろにいた凪もまたごみを拾い始めていた。

「俺も手伝うよ」
「ありがとう」
「いいって、この川のためにありがとな」
「別に凪のためじゃないよ」

ごみ拾いをして凪に感謝されるのもちょっと不思議な気もするが、彩音はそのまま再びごみ拾いを続けた。
その時、一段と汚れている場所があった。

水の流れが滞留する場所のようで、ごみが吹き溜まっているのだ。

(これは酷い……)

彩音は憤慨していると、不意に祠があることに気づいた。
小さな祠は石づくりで、所々が苔むしていた。

こんな場所に祠があるのも驚きだったが、その前には一際多くのごみが散乱していたのだ。

「ったく、バチが当たっちゃうよ」

彩音は文句を言いつつごみを拾うと、祠の周辺はすっかり綺麗になった。
腰を伸ばしてそれを見た彩音は、達成感を覚えつつ、満足しながら頷いた。

だが、祠だけでは寂しい。
ごみが放置されていた状況を鑑みると、誰も祠を管理していないのだろうか。
それが少しだけ切なくなった。

彩音が周囲を見回すと、ちょうど薄紫の小さな花が咲いているのを見つけた。

(無いよりましかな)

綺麗に咲く可憐な花を手折るのは申し訳ないと思いつつ、三輪ほど花を摘んで祠に添えた。

(川の神様、人間がごみを捨てちゃってごめんなさい)

そう拝んでいると、凪が彩音の元にやって来た。

「イワタバコの花か」
「そう言う花なの? うん、なんか祠が殺風景だったし、お供えしちゃった」
「ありがとうな」
「ふふふ、だからなんで凪がお礼を言うの?」
「彩音が優しいことが嬉しい。俺は、お前のそう言うところが好きだぜ」
(え?)

聞き間違いだろうか?
凪から好きという言葉が聞こえた気がした。

驚いて凪の顔を見ると、凪はいたって普通の表情だ。

「じゃあ、帰るか」
「あ、うん」

彩音は「好き」と言われたような気がしたが、川のせせらぎによってよく聞こえなかった。
凪の態度からするときっと気のせいだろう。

そう結論づけ、彩音は金烏荘へと戻ることにした。