朝の光がカーテンの隙間から差し込んでいた。私は湯気の立つ紅茶を口に運びながら、新聞に目を通していた。居間の扉が軋む音とともに、足音が近づいてくる。
「おはよう……俺だよ」
その声に、私はゆっくりと顔を上げた。そして、紅茶を吹き出しそうになった。
「……は?」
そこに立っていたのは、見知らぬ女だった。腰まで届く艶やかな黒髪に、涼しげな切れ長の目。白い肌に、薄く色づいた唇。着ているのは、私の夫ギルベールの寝間着。
だが、どう見ても女だった。しかも、かなり整った顔立ちの。
「昨日の夜、なんか変な夢見てさ。起きたらこうなってた」
その喋り方は確かにギルベールのものだった。低くて、少し気だるげなあの声。
「……屁は?」
「出るよ。むしろ、前より凄い」
私は額に手を当てて、深く息を吐いた。
「一応、確認するけど……私の夫のギルベールで合ってる?」
「合ってるよ。ほら」
そう言って、彼──いや、彼女は背中を向けた。肩甲骨の下、右側にイボのようなホクロ。
「確かに。そんな変なホクロは、あなたね。わかったわ。
でも困ったわね。今夜の舞踏会、それじゃエスコートできないじゃない」
「できるよ」
「男装は無しよ」
「他の方法なら、いいんだな」
私は眉をひそめた。ギルベールの目が、妙に楽しげに細められていた。まるで、面白い遊びを思いついた子供のように。
シャンデリアの光がドレスの刺繍に反射して、まるで星屑の海にいるようだった。舞踏会の会場は、香水と笑い声と音楽で満ちている。
「何だか注目を浴びてるみたい」
私が小声で言うと、隣のセシルが微笑んだ。金髪を後ろで結い、黒の燕尾服を完璧に着こなした彼は、まるで絵画から抜け出したような騎士だった。
彼は、夫が勤めてた王宮騎士団の後輩。
「美男美女だからさ」
そう言ったのは、少し前を行くギルベール。今夜は深紅のドレスに身を包み、髪を巻いて花飾りまでつけている。完璧なレディの姿だった。
隣には、長身で鋭い目をしたライナルト。警備隊長らしい威圧感をまといながらも、ギルベールの腰に手を添えているのが妙に様になっていた。
彼もセシルと同じ後輩。
「自画自賛ね。
ねえ、私の再婚相手にちょうどいい人を教えてほしいの」
私が囁くと、セシルはすぐに視線を巡らせた。
「いいですよ。あそこにいるのがルシアン・ド・ブランシュフォール伯爵。見た目もいいし資産もあるが、潔癖症で婚約者が決まらない。31歳です」
視線の先には、白い手袋を何度も直している神経質そうな男がいた。整った顔立ちに、無駄のない仕立てのスーツ。確かに悪くない。
「ふむふむ。一緒にいる時間が少なければ問題ないわ」
「おいおいおいおい! 俺と結婚してるのに再婚相手とは、なんだよ?!」
ギルベールがこちらに歩み寄りながら、眉をひそめて抗議してきた。
「ちゃんと毎日『離婚したい』って言ってるじゃない」
「あれは、単なる口癖だと思ってた。まさかの本音なんて」
そのときだった。1人の男がギルベールに近づいてきた。黒髪を撫でつけ、やけに艶やかな笑みを浮かべている。
「麗しのレディ。私はロクナン・ムコイーリです。お名前を伺っても?」
ギルベールの顔が引きつった。
そして──ブウウウウウウっ!
盛大な音が響いた。会場が一瞬、静まり返る。
「みんな、逃げるのよ! 他人のふりするの! 散!」
私の号令とともに、セシル、ライナルト、そして私自身が一斉に四方へと散った。誰もが、あの麗しのレディと自分は無関係だと主張するように。
私はバルコニーの扉を開け、夜風に身を晒した。冷たい空気が頬を撫で、ようやく肺がまともな空気を吸えた気がした。会場の中は、まだざわついている。あの音の余韻が、まだ残っているのだろう。
「こんばんは、夫人」
声がして振り返ると、1人の男がこちらに歩いてきた。銀縁の眼鏡に、白い手袋。完璧に整えられた金髪と、無駄のない動き。
「私はルシアン・ド・ブランシュフォール伯爵。会場が臭いので、逃げてきました」
それは、夫の屁のせいです。
「かつて戦場で嗅いだ、毒ガスのようでした。体調は、いかがですか?」
「ブランシュフォール伯爵。お気遣い痛み入ります。私は平気です。慣れてるので」
「え?」
「いいえ。
──ああ、私はフラットランス伯爵の妻、エネオーラです」
「フラットランス伯爵だって?! 戦場のスカンクと呼ばれた、あの?!」
ルシアンは目を見開いたまま、しばし沈黙した。そして、静かに頭を垂れる。
「……尊敬します。あなたは、私の想像を超えていました」
「それは、褒め言葉として受け取っておきます」
「あなたは逞しい女性だ。ぜひ──」
ブウウウウウウ。
またしても、あの音が夜風に乗って響いた。
「ぎゃあああ! 臭いー!」
ルシアンは顔をしかめ、マントを翻して走り去っていった。
……あの人はダメね。
「おい! 勝手に浮気するとは酷いじゃないか!」
カーテンの奥から、ギルベールの怒声が飛んできた。ドレスの裾を翻しながら、怒り心頭といった様子で私に詰め寄ってくる。
「勝手にしない浮気って、何? 公妾みたいな?」
「開き直るな! 俺の妻だぞ!」
そのとき、またしても現れた。今度は、やけに自信満々な笑みを浮かべた男が、ギルベールに向かって歩いてくる。
「失礼。美しいレディ。僕はサンナン・ムコイーリです。お話ししてもよろしいですか」
──ブウウウウウウ!
ギルベールの返答は、屁音で済まされた。しかも最大級の。
「こんなところに居たのですか。わっ、臭い。これは2発やってますね」
セシルが鼻を押さえながら現れ、私の手を取った。
「さ、夫人、逃げましょう」
私は何も言わず、セシルに引かれるまま走り出した。背後で、ギルベールがしょんぼりと肩を落としているのが見えた。
廊下を抜けた先、壁に向かって話しかけている男がいた。長身で、白い軍服を着ている。金の肩章がやけに目立つ。彼は真剣な顔で、石造りの壁に語りかけていた。
「やあ、オスカー。また壁と喋ってるのかい?」
セシルが声をかけると、男は振り返った。瞳がまっすぐで、どこか夢見るような光を宿している。
「そうなんだ。王宮の壁はいつも元気がないから、こうして励まさねばならない」
これは……癖が強い。
「はじめまして、紳士さま。私はフラットランス伯爵の妻、エネオーラです」
「なに? あの戦場のスカンクの?!」
私は頷いた。
すると、オスカーの目がぱあっと輝いた。
「すごいな……あの『屁風で敵軍を壊滅させた』という伝説の……!」
そして、壁に向かって叫んだ。
「聞いたか? この方が“スカンク様の妻”だぞ!
スカンク様は、どこだ?」
「えっと、それが……女体化してしまって」
私は正直に真実を告げる。
「何だと?!」
オスカーの顔が真剣になった。やっぱり女体化なんて信じないよね。というか、信じられる方が怖い。
「ならば俺の婚約者にしたい。今すぐ別れてくれ! 慰謝料は払う!」
オスカーが真剣な目で私を見つめながら、そう言い放った。
信じるのかよ。
「え、いいんですか?! では是非」
私は即答した。やった、離婚できる。
「これは前金だ」
オスカーが懐から取り出したのは、目が痛くなるほどギラついた巨大なブローチ。宝石がこれでもかと詰め込まれ、重さで手首が折れそうだった。
これで心置きなく離婚できる。
離婚の前に再婚相手を探さないといけなかったのは、我が家が貧乏で財産分与も慰謝料もないからだ。
「では、夫の元へ案内します」
私はオスカーを連れて会場へ戻った。そこには、ギルベールがいた。だが、彼の周囲には男たちが群がっていた。目を輝かせ、口々に何かを囁いている。
「くっ。こんなにもライバルが……!」
オスカーが歯を食いしばる。
私は彼を宥めると夫に言った。
「どうしたの、ギルベール。いつもみたいに屁で撃退すればいいじゃない」
「ガス切れだ!」
「ええ? 女体化してから『前より出る』って言ったくせに。情けないこと言わないで、思いきって踏ん張りなさい」
「わかった。ふんっ」
めりめりめり……ボトン。
「……実のほうが出た」
ギルベールの言葉と臭いに、会場が凍りついた。
「何でパンツ履いてないの?」
私は疑問だった。履いてれば、床に大便は落ちなかったのに。
「通気性を重視した」
そのとき、ロクナンが叫んだ。
「ノーパンなんてセクシーだ! ぜひ、私を婿に貰ってください!」
「いや、兄の僕が先だ!」
サンナンが割り込んでくる。
「ダメよ。グリムバルト辺境伯と結婚してちょうだい。もう前金もらったの」
「何だと? 俺を売ったのか! この薄情もの!」
ギルベールは叫びながら、ドレスの裾を翻して走り去っていった。
その場には、彼女の残した大便だけが残っていた。
「ギルベール……」
私はそっと目を伏せた。夜風が、妙に冷たく感じた。
玄関の扉が、ぎい、と音を立てて開いた。
そこに立っていたのは、かつての夫──ギルベールだった。長い髪を後ろで束ね、道着のような布をまとい、背中には竹筒のようなものを背負っている。顔は日焼けし、どこか仙人めいた雰囲気を漂わせていた。ただし女体のまま。
「今まで、どこ行ってたの?」
私が問いかけると、彼──彼女は堂々と胸を張った。
「武者修行だよ。屁の仙人と会っていたんだ」
「そうだったの。じゃあ、私はもうこの家に来なくていいわね。あなたとはサヨナラよ」
定期的に彼と暮らした家に来ていたのは、家庭菜園が枯れてしまうからだ。元夫が帰って来たなら、もう来なくていい。
ギルベールは、その場に膝をついた。目に涙を浮かべ、真剣な顔で私を見上げる。
「俺は、もう無限に屁ができるようになったんだよ。だから別れるのは、考え直してほしい」
「私は家の中で屁されるのが嫌だから、離婚の準備してたのよ」
「何だって? じゃあ今までの修行は、一体……」
私は深くため息をついた。
「わかった。それならもう、屁で返事するのはやめるよ」
そのとき、奥の部屋から小さな足音が聞こえた。
「ママー!」
子供が駆け寄ってきて、私の腰に抱きついた。ふわふわの金髪に、ぱっちりした目。ギルベールの目が、まん丸に見開かれる。
「な、な、なんだそれは?! 俺とは、まだ初夜をしてないのに出産したの? 聖母マリアか!」
「違う。俺の子だ」
背後から現れたのは、白い軍服に身を包んだオスカーだった。相変わらず真っ直ぐな目をしている。
「俺の妻に何てこと!」
ギルベールが、オスカーの襟を掴んで怒鳴りつけた。だが私は、冷静に言い放った。
「失踪して1年経つと、離婚できるのよ。知らなかったの? 私は正式にオスカーの妻よ」
ギルベールの顔が真っ青になり、唇が震える。同時に悲しげな音が響いた。
──ぷぅっすう。
そして、こう言った。
「わかった。俺は、その子の父親になる。それでいいだろう?」
「何でだよ」
私が即座に突っ込むと、今度はオスカーが真剣な顔で言った。
「もちろん。スカンク様のことは正妻にします。
エネオーラ、離婚してくれ」
「何でだよ」
「慰謝料は払う」
私は、すぐに答えを出した。
「まあいいか。慰謝料御殿でも建てよう。
じゃ、さよなら!」
私は子供の手を引いて、玄関を出た。背後では、私を追おうとするギルベールをオスカーが引き留めていた。
……あの2人、案外うまくやっていけるかもしれない。
□完結□



