体育館。照明は落とされ、リハーサル特有の張りつめた空気が満ちていた。軽音部の演奏に合わせ、ダンス部が動きをつける合同練習。その先頭に立っていたのが、三年生のユキだった。
マイクを持ち、歌い出した瞬間——空気が変わる。
柔らかく、それでいて芯のある声。視線を奪われ、逃がしてくれない。そこにいるのは、ただの女子高生じゃない。まるで舞台に立つ王子様だった。
一年生の陽太は、ステップを踏む足を止めかける。
「……かっけぇ」
次の瞬間、「おい、一年。集中しろ」と肩を叩かれ、はっとした。慌てて踊り直すが、耳にはまだユキの声が残っていた。
歌い終えたユキが、ふっと笑う。
その一瞬、体育館が少しだけ明るくなった気がした。
——こんな人、見たことない。
歌ひとつで、空気を支配する。
陽太の心臓は、さっきから落ち着く気配を見せなかった。
汗を拭きながら、ユキはペットボトルの水を飲む。
そこへダンス部の三年が声をかけた。
「今日も声ヤバかったじゃん。さすが」
「いえいえ。ダンス部の皆の勢いに激ったからね」
「まぁ、今年は一年も実力揃いだしね。気になる子いた?」
ユキは少し考えてから、端の方を見る。
「うーん……ああ、あの子。ターンとかキレキレで……かっこいいね」
「ああ、それは武巳だね。たっつん」
「たっつんかぁ……挨拶の時もなんか紳士だし、踊りながらも女子に気遣ってるの分かるよ」
「へぇ?推し?」
「ははっ、どうかな」
ユキが小さく笑う。
——その会話を、少し離れた場所で陽太は聞いていた。
隣では、武巳が水を飲んでいて、何も気づいていない。
「陽太、どうした?顔こわいけど」
「……別に」
「ええ?怒ってる?」
武巳の苦笑いを無視して、陽太は視線を逸らす。
……なんだよ、“かっこいい”って。
胸の奥がざわつく。
その感情に、まだ名前はなかった。
ただひとつ。
ユキが笑顔を向けた相手が、自分じゃないのが——どうしようもなく、気に食わなかった。
***
放課後の廊下を、ユキは手帳を片手に歩いていた。
歌詞のアイディアを探しながら、校内をぶらついている。
そのとき、練習室の扉の向こうから、リズムに合わせた足音が聞こえた。
足を止め、そっと覗く。
中で踊っていたのは、一年の陽太だった。
先日の合同練習の時に見かけた。
汗を滲ませながらも、楽しそうにステップを刻んでいる。
思わず見入ってしまう。
気づけば、ぱちんと手を叩いていた。
陽太が振り返る。
「覗きっすか、先輩」
「偶然だよ。きみの熱に引き寄せられた」
陽太は一瞬きょとんとしてから、にっと笑った。
「そんなに良かったっすか?」
「うん。かっこよかった」
素直にでた言葉。
陽太はうれしそうな表情で「じゃあ」と。
「もっと見てってくれます?」
「邪魔にならない?」
「ぜーんぜん。見られた方が張り合いあるんで大丈夫っす」
勧められるまま椅子に腰かける。
踊る陽太から、目が離せなかった。
軽やかな動き。
全力なのに、無理がない。
ただ、踊るのが楽しいという顔。
胸の奥が揺さぶられる。
ユキは手帳を開き、ペンを走らせた。
浮かぶ言葉が、止まらない。
「……できたっ!」
思わず声が漏れる。
「終わったんすか?」
気づけば、陽太が隣に座っていた。
「うん!今回のはすっごくいいっ……」
きらきらした表情のまま言ってしまい、はっとする。
慌てて微笑を整えた。
「……歌詞が、できたんだ」
だが陽太は吹き出す。
「ぷっ……先輩、それ無理あるっしょ」
「……な、何が?」
「いやぁ〜、顔。めっちゃキラキラして『できた!』って言ってたのに、急に“王子様”に戻ろうとしてるの、笑えるんすけど」
「っ……!」
ユキの頬が赤くなる。慌てて視線をそらすが、陽太はにやにや笑いを隠さない。
「俺にはバレバレっすよ。オフの顔、めっちゃかわいかったっすから」
「……やめてよ」
王子様の仮面を守ろうとするのに、陽太の無邪気な言葉がぐさりと刺さる。
でも、不思議と不快じゃない。
陽太は再びスマホをいじりながら、何でもない風を装う。
「また集中したくなったら、ここ来ればいいっすよ。俺、隣で待っとくんで」
「……ほんと、きみって」
ユキは思わずつぶやいた。
だがその先を口にする前に、再び手帳を開き、ペンを握った。
「で、先輩。何書いてんすか?」
ユキはペンを止めて、さらりと答える。
「歌詞、だよ」
「え、マジっすか!?」
陽太の目が丸くなる。
その反応に、ユキは少し肩を揺らして笑った。
「うちのバンドはオリジナル曲を演奏するんだ」
「オリジナル……!すごっ」
心底驚いた顔の陽太。
その純粋な反応が、ユキの胸をくすぐる。
「ありがとう。そう言ってくれるきみも素敵だ」
「うわー、褒められ慣れてるっすねぇ!返しが芸能人みたい」
「ふふっ……」
ユキは片目を閉じてウィンク。
「でもね。陽太くんの言葉、一番うれしいよ」
「……っ!えぐいっすね王子様。みんながキャーキャー騒ぐのわかる気がする」
照れ隠しに笑う陽太を見て、ユキはほんの少しだけ、仮面を外した。
***
数日後の昼休み。
陽太はトレーを手に、ざわつく食堂へ入った。
すぐに見つかる。
人だかりの中心。
背筋を伸ばして座るユキ。
穏やかな笑顔で会話を回し、誰に対しても優雅だ。
……やっぱ、すげぇ。
思わず足が止まる。
この前、練習室で見た“普通の顔”なんて、ここにはどこにもない。
仕草も声も、完璧な王子様モード。
あのときの笑顔、幻だったんか……?
「陽太ー?どうしたの、突っ立って」
武巳の声に、はっとして視線をそらす。
「あ、いや……」
それでも、もう一度だけユキを見る。
後輩に笑顔を向けられて、さらりと受け流すユキ。
……これ、オフ知らないやつは一生騙されるやつじゃん。
陽太は胸の高鳴りをごまかすように、武巳の後を追った。
同時刻。
ユキは庵ときくこと並んで座っていた。
皿の端にあるトマトに視線が止まる。
……苦手。でも、顔には出さない。
「ユキちゃーん!」
そして声がかかるたび、瞬時に笑顔を向ける。
「やぁ、元気そうだね」
「こんにちは。勉強は順調?」
完璧な王子様。
けれど、フォークは進まない。
「……全然食べないじゃない」
庵が呆れたように言い、きくこがくすっと笑う。
「苦手だもんねぇ」
二人は知っている。
自分のオフを。
それでも、私は王子様でいなければならない。
——ふと、ユキの視線の先に彼がいた。
陽太。
友人と笑いながら食べている。
……嫌な相手だ。
あの時、少しだけオフを見られた。
目が合う。
次の瞬間、口の端を上げて——ウインク。
「……っ」
心臓が跳ねた。
翻弄する側のはずなのに。
受ける側の感覚を知らなくて、ユキは一瞬、息を忘れた。
***
昇降口を出ると、湿った空気と小雨が肌に触れた。
部活終わりの身体に、じんわりと冷たさが染みる。
「……置き傘、あったはず」
傘立てから、最後の一本を抜き取る。
ほっと息をついた、その直後だった。
困ったように立ち尽くす女子生徒が目に入る。
傘がない。それだけで状況はわかる。
ユキは迷わず“オン”を纏った。
笑顔を作り、手にしていた傘を差し出す。
「どうぞ、使って」
「え、ユキ先輩……」
「大丈夫。私なら平気だから」
相手は何度も頭を下げて去っていく。
その背中を見送り、ユキの笑顔はふっと消えた。
「……え、これどうすんの、私」
ぽつりと零れる本音。
一歩踏み出して、すぐに戻る。雨粒が冷たい。
濡れて帰る?
──喉を壊したら終わりだ。
「うーん……」
そのとき。
ポン、と肩に触れられた。
「……!」
振り返ると、陽太が立っていた。
「何してんすか」
心臓が跳ねる。
ユキは慌てて笑顔を作る。
「なんでもないよ」
けれど、陽太は目を細めた。
「嘘っすね。傘なくて困ってんのバレバレ」
言い当てられて、言葉に詰まる。
「後輩に貸してたでしょ。……王子様も大変っすね」
責めるでもなく、からかうように。
その距離感が、胸をざわつかせる。
陽太は傘を揺らした。
「ほら」
黒い傘が開き、雨音が遠のく。
「一緒に帰るっしょ?」
断る理由はなかった。
ユキはその傘の下に入る。
「……ありがとう」
「いいえー」
肩が近い。
雨音と、彼の息遣いだけが聞こえる。
「……で、さ」
歩きながら、陽太が切り出した。
「前に言ってたじゃん。たっつんのダンス、かっこいいって」
ユキは即座に表情を整える。
「そうだったかな?」
陽太はじっと見て、口角を上げた。
「ずっと気になってたんすよね」
「……なにを?」
「俺、たっつんより“推し”になれたかなって」
茶化すような響き。でも瞳は真剣。
ユキは一瞬だけ目を見開いてしまった。
“推し”なんて言葉を、彼の口から聞くとは思っていなかったから。
けれど次の瞬間には、微笑みを整えていた。
オンの仮面を崩さない。それが、自分の役目。
「さぁ?」
涼しい声で躱す。
ほんの少し肩をすくめて、余裕めいた仕草を添える。
陽太は呆れたように笑った。
「はは、やっぱ無理っすね。ぜったい本音言わない」
彼の笑い声が傘の中に響いて、雨音に溶けていく。
ユキは平然と歩き続ける。
その胸の奥で、心臓だけが落ち着かなかった。
***
休み時間の教室はざわついていた。
ユキは机にノートを広げ、黙々とペンを走らせている。
向かいの席の庵が、淡々と声をかけた。
「……真面目ね」
ユキは顔を上げ、少し笑う。
「がっかりされたくないからね。王子様って呼ばれてる以上、努力しないと」
庵は小さく息を吐いた。皮肉が混じっている。
そこへ、別のクラスのきくこが教室に入ってきて、小さく手をあげる。
「ユキちゃん、この前貸した参考書、そろそろ返してほしいなぁ」
「あっ、ごめん!」
鞄を探る。……ない。
机の中も、……ない。
ロッカーに駆け寄り、扉を開けた瞬間。
ガラガラッと、山が崩れ落ちた。
「うわっ……!」
ノートやプリントが床に散乱する。
庵は額に手を当て、呆れた声を出した。
「……あんた、やっぱりね」
きくこがしゃがみ込み、紙束を手に取る。
そこには歌詞の断片がびっしり書き込まれていた。
「すごい……こんなに書いてるんだ」
感心するきくこに、庵が鋭く言う。
「感心してる場合じゃないでしょ。片付けられないのは悪癖よ」
「う……うん」
ユキは苦笑しながら紙をかき分け、ようやく参考書を見つけ出す。
「はい、きくちゃん。ごめん!」
笑顔で渡すと、きくこは「ありがと」と受け取った。
庵は追撃を忘れない。
「どうせ軽音部の部室も、私物化して雪崩起こしてるんでしょ」
ギクッと、ユキの動きが止まる。
「い、いやぁ……?」
しらを切ろうとした、その時。
「ユキ先輩!」
廊下から声が飛んできた。
振り返ると、下級生が手を振っている。
ユキは一瞬で表情を整え、立ち上がった。
「はい!」
爽やかに返事をして、王子様の顔で廊下へ向かう。
残された庵は呆れ顔。
きくこは苦笑しながら、散らばった紙をロッカーに押し込んだ。
放課後。
陽太は廊下を歩いている途中で、ふと足を止めた。
聞き覚えのある歌声。
ユキ先輩の声だ。
すぐにわかった。ステージで響く王子様の声と同じなのに、今はずっと柔らかい。
力の抜けた、“オフ”の音。
……やっぱり、気になる。
どうせ距離を置かれてるなら、話して仲良くなればいい。
気づけば、軽音部の部室の前に立っていた。
ノックして、ドアを開ける。
──足を踏み入れた瞬間、固まった。
床一面に散らばる紙束。
歌詞だらけのノート、転がったペン、開きっぱなしの鞄。
その真ん中で、寝そべって歌っているユキ。
完璧な王子様?
どこにいるんすか、それ。
歌を止めたユキがこちらを見て、目を見開く。
「えっ……!」
立ち上がろうとして、足を滑らせる。
「わ──っ!」
陽太は咄嗟に手を伸ばした。
抱きとめると、顔がすぐ目の前にある。
泣きそうな表情。
完璧な笑顔なんて、どこにもない。
「……」
声が出ないユキに、陽太は苦笑する。
「先輩……これ、めっちゃ“らしい”っすね」
***
放課後のファミレス。
ガラス越しの夕陽がテーブルを橙色に染めている。
椅子に腰を下ろすなり、陽太はタッチパネルを操作した。
「これと……あ、こっちも」
迷いのない指先に、満足げな笑み。
「腹減った体にドリアとチキンステーキは正解っすね」
そう言って、メニューをユキに向ける。
対面のユキは背筋を伸ばし、視線を逸らした。
「私はコーヒーでいい」
声は涼やか。
王子様の仮面を崩さぬように。
ドリンクバーで注いだのはブラックコーヒー。
けれど席に戻ると、小さなミルクポーションを次々と剥き、白い液体を注ぎ込む。
本当は苦いのが得意じゃない。
けれど今日は、平気な顔を作る余裕もなかった。
その様子を見ていた陽太が、吹き出す。
「プッ……っはは!先輩、それもう牛乳じゃないっすか。カフェオレ通り越してますよ」
「……っ!」
顔が熱くなる。
ユキは慌てて取り繕う。
「コーヒーは、こういう飲み方もあるんだよ」
「いやいや、ぜっったい苦いの無理っすよね?」
図星。
それでも仮面は外せない。
カップを口元に運びながら、ユキは内心で呻いた。
──どうしよう。この子、厄介すぎる。
陽太は笑みを引っ込め、真顔になる。
「先輩、もう無理しなくてよくないっすか。“頑張ってる顔”、バレバレですよ」
「……何のこと?私はいつも通りだよ」
姿勢を正し、声色を整える。
だが狼狽は隠しきれない。
「はい、即ツッコミ案件。全然落ち着けてないっす」
言い切られて、言葉を失う。
その隙に、陽太はメニューを開き、デザートページを差し出した。
「で、ほんとは何が好きなんすか?」
「……コーヒーゼリー」
「はい、ダウト」
即答。
にやりと口元を歪める。
「正直に言わないなら──今日のこと、言っちゃうかも」
心臓が跳ねる。
それだけは、絶対に避けたい。
ユキは唇を噛み、視線を落としたまま、そっと指を滑らせる。
チョコパフェの写真へ。
陽太は、優しく笑った。
「素直になれたじゃないっすか」
すぐに注文を通す。
運ばれてきたチョコパフェは、堂々とユキの前に置かれた。
艶やかなチョコレートソースと、ふんわり盛られたクリーム。
「ほら、早く食べてくださいよ。食べないならアーンしますけど?」
それだけは避けたい。
ユキは観念してスプーンを取る。
ひと口。
甘さが舌に広がった瞬間、張り詰めていたものがほどけた。
頬が自然と緩み、表情が明るくなる。
王子様の仮面は、もうどこにもない。
陽太は黙ってそれを見つめ、静かに笑った。
「……王子様してる先輩もかっこいいっすけど。俺は、こっちの先輩の方が好きっすね」
胸の奥が揺れる。
ユキはスプーンを止め、俯いた。
耳まで、真っ赤だった。
***
ここ数日、なぜかユキは陽太とよく目が合う。
廊下の端、階段の踊り場、昇降口。
遠くからでも、彼はユキを見つけるとふっと笑った。
何気ない笑みのはずなのに、胸がざわつく。
──バレてる。
私が“王子様”を演じてるってこと。
周囲には平然とした顔を向ける。
けれど、陽太の視線の前では、必死さが透けてしまう気がした。
ある日、購買へ向かう途中で出会った陽太が、手を差し出してくる。
黄色い包みのミルク飴。
「先輩、いつもレモン系のど飴もらってるじゃないすか」
にっと笑って続ける。
「これも好きでしょ。……甘いやつ」
「ありがとう」
涼やかに受け取る。
けれど掌の中の飴玉を見下ろすと、胸が熱くなった。
陽太は何も言わず、その反応を見透かしたように笑う。
──ダメだ。
この人の前じゃ、仮面がもたない。
だから今、ただの女の子の顔で、飴を握りしめている。
そして放課後。
軽音部の部室。
散らかった紙束の中でペンを走らせていると、ノックの音。
「失礼しまーす」
またか、と内心で息をつく。
扉の隙間から顔を出したのは、やっぱり陽太だった。
「今日も相変わらずっすね」
そう言って差し出される袋。
「チョコ。先輩、これ好きっしょ?」
「ありがとう。でも……」
言い訳を探す前に、遮られる。
「無理しなくていいっすよ。ここ、二人きりなんだし」
逃げ場のない声音。
ユキは抗えず、ひと口かじる。
甘さが広がって、無意識に顔が緩んだ。
陽太はそれを見て、目を細める。
「やっぱ、その顔の方が似合ってます」
──いつからだろう。
このやり取りが、当たり前になったのは。
部室に来ることも。
甘いものを差し出されることも。
それに逆らえない自分も。
「先輩」
背もたれにもたれたまま、陽太が軽く言う。
「王子様は外だけでいいっすよ。俺には、そのまんまで」
胸を撃ち抜かれたような感覚。
ユキは視線を落とす。
「……でも」
掠れた声が零れる。
「私は“かっこいい王子様”だから、みんなが見てくれるの」
それが鎧だった。
そう信じてきた。
「陽太くんも……面白がってるだけでしょ?」
笑ってみせるが、瞳は揺れる。
「“王子様”が本当は、こんなダメ人間だって」
散らかった机。
甘いものに頬を緩める顔。
全部、知られてしまった。
一瞬の沈黙。
そして、陽太は吹き出した。
「なるほど」
覗き込むように言う。
「先輩、素はネガなんすね」
「ネガ……?」
「外じゃ王子様。でも中じゃ『どうせダメだし』って自分を下げてる。……そのギャップ、正直面白いっす」
からかう口調。
けれど視線は真剣で、逸らせなかった。
陽太は肩をすくめる。
「でも、ネガでも王子様でも、どっちも先輩でしょ。俺は……そのまんまの先輩の方がいいっすけど」
胸の奥が、じんと熱くなる。
演技でも冗談でもない。
ただ“自分”を肯定される言葉。
それはユキにとって、
いちばん危うくて、いちばん欲しかったものだった。
***
数日後。
昼休み、ユキは庵やきくこと並んで食堂へ向かっていた。
後輩に声をかけられれば、いつも通り柔らかく応じる。
背筋を伸ばし、余裕を見せる。
完璧な“王子様”。
……のはずなのに。
気づけば、視線が勝手に動いていた。
教室の窓、廊下の先、人の流れ。
──どこにいるかな。
そして、見つける。
窓際で武巳と談笑している陽太。
軽やかな笑い声。
その姿を捉えた瞬間、胸がふっと浮いた。
「……っ」
表情が緩みかけて、慌てて引き締める。
唇に微笑みを戻し、仮面を被り直す。
けれど。
視線が、合った。
陽太は一瞬で状況を察し、にやりと笑う。
肩を震わせ、とうとう吹き出した。
「……なに、あの子」
庵の怪訝な声に、ユキは即座に取り繕う。
「なんでもないよ」
さらりと笑う。
けれど内心は、ぐちゃぐちゃだった。
──見られた。
オフからオンに切り替わる、その一瞬を。
悔しい。恥ずかしい。
なのに、胸は高鳴っている。
からかわれただけ。
……なのに、なぜか「可愛い」と言われたみたいで。
だから余計に、胸がざわめいた。
最近、自分でもおかしいと思う。
視線が先に探す。
陽太の姿を。
以前は逆だった。
けれど今は、ユキの方が先に気づいてしまう。
その変化に、一番戸惑っているのは自分だった。
放課後。
軽音部の部室。
ここはもう、歌詞を書く場所だけじゃない。
陽太に会える場所でもある。
けれど──今日は来ない。
夜の気配が窓に滲み、ペンを握る指先から力が抜けた。
……来ない、のかな。
帰ろうと鞄を手にする。胸の奥に小さな寂しさが広がった。
ドアに指をかけ、静かに開ける。
冷たい空気が頬を撫でた、そのときだった。
「──あーっ!」
廊下の向こうから駆けてくる足音。
振り返った瞬間、陽太の姿が飛び込んでくる。肩で息をしながら、髪は乱れ、額には汗がにじんでいた。
「よかった!まだいた!」
その声は、胸にまっすぐ飛び込んでくる。
ユキは思わず目を見開き、次の瞬間、顔が熱を帯びていくのを隠せなかった。
陽太は、ほんの少し照れくさそうに笑い、息を整えながら言う。
「……悪い、ダンスで遅くなった。必死で飛んできたんすよ」
胸の鼓動が、夜の静けさに溶けていく。
二人だけの空気は、もう逃げ場のないほど濃密だった。
「……反応、なし?まじすか?」
陽太は肩で息をしながら、わざとらしく眉を上げる。
「俺がこなくて、寂しかった?」
茶化すような声音だった。
──けれど。
ユキは、ゆっくりと頷いた。
「……陽太くんのこと、待ってたよ」
オンモードの仮面は、どこにもない。オフの素直なまま。
陽太の呼吸が止まる。喉がかすかに鳴った。
「……っ、なるほどな」
わずかに目を細め、低く笑う。
「俺が……推しになった?」
その言葉には、ずっと燻らせていた対抗意識が滲んでいた。
武巳のダンスを見て「かっこいい」──あのとき軽く言ったユキの一言を、陽太は忘れていなかった。
だからこそ、今は聞きたかった。自分はどの位置にいるのかを。
ユキはふわりと微笑んだ。
「さぁ?」
その声には王子様モードの軽やかさではない。
もう答えは、とうに出ている──そんな柔らかい確信を含んでいた。
夜の廊下に、二人の間だけに満ちる空気。
陽太は、胸の奥のざわめきを押さえきれず、ただその笑顔を見つめていた。



