恋は、終わったのです



 セオドアが迎えに来た。


 空はどんよりと曇り、風が微かに湿気を含んでいたが、雨はやはり降らなかった。その灰色がかった空は、今日の行方を暗示しているかのようだった。



「今日はよろしく頼むよ。楽しんできてくれ」


 お父様の声は穏やかで、私たちを微笑ましい者でも見るように見送る。


「はい、お任せください」



 相変わらず父には愛想がいい。しかし、その目に父への敬意があるわけでもなく、ただ礼儀を尽くすためだけの態度だと分かる。


 そして、ふと視線をドレスに落とす。お父様は、この私に不釣り合いなドレスを見ても、何も感じないのだろうか。



 馬車に乗り込むと、重苦しい空気が満ちた。革張りのシートは上質だが、冷たく、どこか冷え切った感じがする。


 腰掛けてから、正面に座るセオドアが、こちらを見ることはなかった。窓の外を眺めるセオドアの横顔が視界に入る。固く結ばれた口元とつまらなそうな目、その全てが不機嫌さを物語っていた。



「思っていたより、似合っていないな」


 唐突に放たれた言葉は、冷たい針のように胸に突き刺さる。


 驚いてセオドアを見つめるが、彼はこちらを見返さなかった。無表情な横顔は、その言葉が何の意味も持たないといっているかのようだった。


 ――もっと似合うと思っていたってこと? 


 それよりも、贈ったドレスなら、たとえ心の底ではそう思わなくても褒めるべきだ。自分のセンスを否定するようなものなのに。


 胸の内で疑問と怒りが交錯する。


 だが、そのどれもが口を突いて出ることはなかった。視線を足元に落とし、拳をそっと握りしめる。馬車の小刻みな揺れが、私の動揺を嘲笑うように規則正しく続いていた。


 しばらくして馬車が、男爵家の門をくぐると、屋敷が姿を現した。


「行こう」


 短い言葉を聞きながら、ため息をついて馬車を降りると、セオドアは、私を待たずに先に進む。


 冷たい空気が張り詰める中、屋敷の中へと進んでいった。



「セオ! リディア様もいらっしゃい!」


 高く弾んだ声が聞こえた。

 無意識にそちらへ視線を向けると、目に飛び込んできたのは、エマの満面の笑顔。



 彼女が身にまとうのは、淡いピンク色を基調としたフリルのドレス。

 幾重にも重ねられた軽やかなチュールがふんわりと揺れ、胸元には小さなリボンと繊細なレースが飾られている。


 それはまるで、美しい人形の衣装のようだった……。



 ――嘘。



 呼吸が止まるような感覚に襲われる。

 目の前のエマが身にまとっているそのドレス。それは、私が今着ているものと全く同じデザインだった。



「エマ、なんてかわいいんだ」

 セオドアが柔らかな微笑みを浮かべながらエマに声をかける。その笑顔は、先ほどまでの冷たい横顔とは別人のようだった。優しく、温かい笑顔。

 胸が冷たく締め付けられる。氷の手で心を掴まれるような感覚だ。


 自分がまだ立っていられることが、不思議で仕方がない。




「セオドア。これは一体……どういうこと?」

 震える声を絞り出すように問いただすと、彼は平然とした顔で答えた。



「どういうって? ああ、エマがリディアとお揃いのドレスを着たいって言ってね。ほら、今、仲の良い令嬢同士がお揃いのドレスを着るのが流行っているだろう」



 ――お揃い



 その言葉が頭の中で鈍く響く。思わず胸元に手を当てた。痛みを押し込めるように。


 色を揃える程度ならまだしも、ここまで全く同じデザインのドレスを着ることなど社交界ではまずあり得ない。他人と全く同じものを身にまとうことは、恥とされているからだ。それを彼は知らないはずがない。



 それに――エマにはよく似合っていた。私と違って。


「リディア様、駄目でしたか? 仲良くなりたいと思ってセオに頼んだのです。セオの選ぶドレスはいつも可愛らしくて、私、大好きなのです!」



 エマが無邪気に目を輝かせてそう言った。

 ――いつも?

 その一言が、頭の中をぐるぐると回る。



 セオドアが他の女性のために選んだドレス。


 エマが「大好き」と言うそのドレス。それを私にも着せた――。

 その事実が、心の奥底に鋭い刃を突き立て、何度も捻じ込むように痛みを増していく。



 息が詰まりそうな感覚が胸を締め付ける。何かを言おうとしても、言葉が喉に絡まり声にならない。目の前の光景が次第に霞むようだった。



「良く似合っている、エマ。それに引き換え――」




 セオドアが、あからさまに呆れたような表情で私に視線を向けた。その視線に込められた言葉にならない侮蔑を感じ、羞恥と怒りが一気に込み上げてくる。


 贈ったのはあなたよ……


「そうですわね。こう言ってはなんですが、あまりお似合いになりませんわね。ふふ」


 エマがふっと笑う。その声は柔らかく、楽しげで、表面的には無邪気さすら漂わせている。けれど、その笑顔の奥には見えない刃が隠されている気がしてならなかった。

 セオドア様は、エマにせがまれて私たちに同じドレスを贈ったのだ。


 彼に裏の思惑などなかったはずだ。エマに似合う、可愛らしいドレスを。


 果たしてエマは、どうだったのだろうか――。


 エマは、自分にドレスを贈ってくれるセオドア様の存在を知らしめたかったのか。

 それとも、同じドレスを身にまとったとしても、自分の方がどれほど「似合っている」かを彼に示したかったのだろうか。

 あるいは、ただただ私をみじめにするためだけに。


 そんな思いが次々と頭をよぎるが、どれも確かめることはできなかった。


 私は、全身を覆うみじめさを押し隠すため、必死に微笑み返した。しかし、自分の笑顔がどれほど歪んでいるか、痛いほど分かっていた。その笑顔を作ることでかえって、自分の心の醜さをさらけ出しているような気がしたのだ。



 胸の奥に渦巻く感情――悔しさ、怒り、悲しみ。私の心を貫き、容赦なく蝕んでいく。


 けれど、この場で涙など流さないわ。



 私は侯爵令嬢なのだ。完璧で、どんな場面でも優雅でなければならない。それが、私の立場であり、私に課された使命。

 しかし、何かがじわじわと胸の中で壊れていく。



 視界の端でセオドア様とエマが楽しげに話しているのが見える。


 彼が私に向けて見せることのない笑顔が、彼女には惜しみなく向けられていた。

 笑顔を作り続けることに限界を感じながら、私は静かに目を伏せた。視線を下げた先のドレスが、今はひどく重たく感じられた。