恋は、終わったのです

 ガラスが割れた音とともに、頬に少しだけ水滴がつく。


「あー……良かった、間に合った」



 グラスが届く寸前で、息を切らしながら駆けてきたレオナードが、覆いかぶさるように、庇うように、私の前に立ちはだかった。



 冷たい液体がレオナードを濡らしていた。



「おい、これは一体どういうことだ」

 レオナードの低く、けれどはっきりと響く怒気を含んだ声。その場にいた令息や令嬢たちが一斉に息を呑む。




「こんなことが許されるとでも思っているのか!」

 振り返り、威圧するような視線を向けるレオナードに、彼らは後ずさった。さっきまであれほど傲慢に振る舞っていたのに、今は怯えたように目を逸らしている。




「ま、まだ……今日までは学生だ。平等なうちは言いたいことを言ってもいいだろう」

 誰かが震える声で言った。その言葉に、レオナードは冷ややかに笑う。



「こんな何人もで囲んでおいて平等だと? 平等な人間にお前たちはグラスを投げつけるのか!?」

 彼は一歩前に出る。その圧に、誰もが息を詰まらせる。




「なんなら、平等とは何か今すぐ学院長のもとで確かめてみるか? ……リディアは、侯爵令嬢だぞ。お前たち覚悟をするんだな! 少なくても俺は許さない!」


 沈黙が落ちる。


「み、みんな行きましょう」


 エマの声に、顔を青ざめさせたものたちが、返事もせずに一斉にその場からいなくなる。







「……リディア、大丈夫か?」

 レオナードが私の方を向いた。シルバーの髪からも水滴が落ちる。



「そんなに濡れてしまって……」



 ぽろり、と涙が零れる。




「あー、泣くな泣くな。大したことない」

 レオナードは困ったように笑い、胸のポケットからハンカチを取り出す。だが——



「……ああ、ハンカチも濡れているな」


 レオナードは、ハンカチをしまうと、迷いなく自分の袖で私の涙を拭った。




「あっ! しまった、間違えた……」

 彼が戸惑ったように呟くのが可笑しくて、私は涙の合間に微笑む。




「ふふ、あなたでも慌てるのね」

「泣いていたら普通、心配で慌てるだろ? いつもは、隠していただけだ」

「……初めて聞いたわ」

「初めて言ったからな」



 小さく笑い合う。






「ごめんなさい、ジャケットが……」

 申し訳なさそうに言うと、レオナードは気にした様子もなく肩をすくめた。



「ああ、いいんだ。安物だから。はは」

 軽口を叩きながら、彼は濡れたジャケットを見下ろし、ふっと息をついた。



「まあ、中までは濡れていないからジャケットは脱いでしまえばいいが、会場には戻れないな。一通り挨拶は済ませたから……そんな顔をするな、リディア」


 ジャケットを脱ぎながらそう言われたが、申し訳なさが消えない。あの人たちを挑発などしなければよかったわ。




「おっ! ダンスが始まったようだぞ」

 その時、華やかな音楽が響き、舞踏会の雰囲気がさらに盛り上がったようだった。庭にまで届く音楽の中、レオナードが軽く手を差し出した。



「レディ、私と踊ってくれませんか?」

 その言葉に、思わず目を見開く。



「いいの? 私、賭けに負けたのよ?」

 賭けはレオナードが勝ち、『エスコートをする』で、終わったはずだった。



「いいんだよ」

 レオナードはいたずらっぽく笑う。



「俺は、万が一、負けた時のために必死で練習したんだ。侯爵令嬢に恥をかかせないためにな。練習の成果を無駄にさせる気か?」

 その言葉に、くすりと笑いが漏れた。




「ふふ、じゃあ、喜んで」

 彼の温かい手を取る。



 夜の星空の下、リズムに乗せて、レオナードの手に導かれながらステップを踏む。




「文官試験、合格おめでとう」

「……ああ。これから配属先を決める面接が行われる」


 彼の視線がふと遠くを見た。



「どこを希望するの?」

「兄が家を継いだら、爵位はなくなるからな。王族直近や外交は無理だろう」

「外交に進むと思っていたわ」


 いくつもの他国の言葉を熱心に勉強していたから……。



「まあ、拾ってくれたところで頑張るさ。そこのトップに——最年少で、だ」

 彼らしい言葉に、ふっと微笑む。




「そう言っていたわね」

 レオナードは小さく頷いた。

 音楽が少しだけ緩やかになる。ステップも自然とゆったりとしたものになる。ダンスの時間もそろそろ終わりね。




「……会うのが当たり前だったのに」

 不意に胸が詰まるような感覚に襲われた。





「終わってしまうわね」

「……ああ。終わりだ」

 レオナードの声が、夜の静寂に溶ける。




「なあ、リディア。もし、いつか同じ夜会に居合わせて、俺がダンスの申し込みをしたら、断らないか?」


 彼は真っ直ぐ私を見つめた。私は彼の瞳に映る自分の姿を見つめながら、そっと微笑む。




「あなたの申し込みを断るわけがないわ」



 夜空の星々がふたりを見守る中、私たちは再会の約束を交わした。