恋は、終わったのです

 夕暮れ時の図書室裏の庭は、春の訪れを静かに告げていた。


 西の空を紅く染める夕陽は、まるで燃え尽きる寸前の焔のように揺らめき、影を地面に落としている。風がそっと木々を撫で、まだ芽吹いたばかりの若葉を揺らした。


 花壇に咲く花は優しく香りを放ち、かすかに鼻をくすぐる。遠くから聞こえてくる生徒たちの声が、まるで学院で過ごした日々の名残を惜しんでいるようだった。


 その庭の一角、ベンチに腰掛け、私は静かに本のページをめくっていた。本の端に指をかけ、夕陽に透ける紙の薄さを指先で感じながら、話の続きを追う。だが、ふとした瞬間、気配に気づいて顔を上げた。



「まだ帰らないのか」

 不意に現れたレオナードの声は、沈みゆく陽射しと同じく、どこか穏やかで、そして寂しげだった。

 私はゆっくりと本を閉じ、その表紙を撫でながら微笑んだ。



「そろそろ帰るわ」



 レオナードが私の隣に座る。



「いよいよ卒業ね」

「ああ、来週だな」



 レオナードは空を仰ぐ。彼の瞳は、朱と群青が交わる刹那の色合いをしていた。



 学院で過ごした年月が、まるで走馬灯のように脳裏を駆け巡る。初めて門をくぐった日、必死に学び、笑い合った日々——それが、もうすぐ終わる。


 長いようで短かったこの時間が、今、静かに幕を下ろそうとしている。



「婚約者からドレスはもらったのか?」

 ふとした間の後に、レオナードが尋ねる。その何気ない問いかけに、私は小さくため息をついた。



「カタリナから聞いてないの? センスがすごく悪いのよ。似合わないドレスなんていらないわ。それなら自分で用意する方がいいもの」



 レオナードは一瞬目を瞬かせ、それから呆れたように肩をすくめる。



「そうか」

 軽く笑う彼の声には、どこか気遣うような響きがあった。



 ——そう、いらないと断ったわけではない。けれど、音沙汰がないのだから、贈るつもりはないのだろう。

 夕陽がさらに傾き、庭園に長く伸びた影が濃くなっていく。風が冷たさを帯び始めた。




「巷では、卒業パーティーで婚約破棄が流行っているらしいな」

 レオナードの言葉に、私はそっと視線を向ける。




「なぜかしら?」

「さあ? よくわからないが」



 私は肩をすくめる。学院の卒業パーティーは単なる式典ではなく、社交界への正式な第一歩でもある。そこでは、様々な思惑が渦巻いているのだ。



「味方の多い場所で、力ずくで破棄を迫るつもりなのかもしれないな」

「愚かなことね」



 淡々とした声で言い捨てると、レオナードはふっと目を細めた。




「……あいつらのクラスメイトが、お前を見る目が気になるんだ。何もなければいいが……」



 夕闇が深まり、温かだった空気がわずかに冷える。木々の間から覗く空には、早くも一番星が瞬いていた。



「さすがに、セオドアでも、卒業パーティーで婚約破棄宣言はしないと思うわ。うちの学院は、保護者も出席だもの」



 この学院での最後の夜を、そんな茶番のために使うなんて、あまりに滑稽だわ。




「エスコートは?」

 レオナードの言葉に、私はゆっくりと目を伏せた。



「……現地集合と言付けがあったわ」

「迎えに来ないのか!?」

「そうみたい」


 わずかに眉を寄せるレオナードの視線が、じっと私を捉えている。




「もし、土壇場になってエスコートしないと言ったらどうする?」

「そんなわけないわ。親も出席するのよ。現地集合というくらいだもの、する気はあるはずよ」



 私はそう言い切ったが、どこか心の奥にかすかな不安が残る。



「賭けるか?」


 レオナードが挑むような笑みを浮かべた。彼の表情には、いつもの余裕と悪戯心が混ざり合っている。




「また、レオナードったら……」

「きっとこれが最後の賭けだな。俺は、エスコートしないに賭ける」

「……あなたの望みは?」

「エスコートしなかったら、俺がエスコートする」

 
 彼の口調は軽いが、その瞳の奥には冗談ではない真剣さが見え隠れしていた。




「え? いいの? あなたのパートナーは?」

「おいおい、悲しいことを言わせるなよ。婚約者はいないし、貧乏子爵の三男なんてパートナーを見つけられるわけがないだろう。元々一人で行くつもりだったしな」

 レオナードは苦笑しながら肩をすくめた。



「見つけようとしなかっただけでしょ? あなたは、優秀だし、剣の腕も立つ。身長だって高いし、顔も整っているわ。あなたに心を寄せている子は、あなたが知らないだけでいるのよ」

「誰だ、その稀有な令嬢は。なんで教えてくれなかったんだ? もったいないことをしたな、はは。それで、賭けの報酬はそれでいいのか? ダメなのか?」

「もちろんいいわ。セオドアが、もし私をエスコートしなかったとしたら、エマをエスコートってことでしょう? 私が誰と入場しようと、文句は言わないわ」



 ええ、そうなったら私のことなど視界にすら入らないはず。



「リディアが勝ったら?」

「そうね……私にダンスを申し込んでちょうだい。ファーストダンスは婚約者とだから、三番目くらいに?」

「三番目かよ。まあ、妥当だな。そうなったら、並んで順番を待つよ」


 並んで待っているレオナードを想像し、吹き出しそうになる。



「ふふ、並ぶほど希望者はいないわ」

「お前が知らないだけで、お前に心を寄せている奴はいるんだぞ」

「いないわよ」

「……王子殿下とか」



 一瞬、息が止まる感覚になった。



「知ってたの?」

「ああ」

 
 レオナードの瞳が、僅かに細められた。彼の表情からは、感情を読み取れない。


 先週、王子殿下から想いを告げられたことを思い出す。

 婚約者がいる私に、さすがに直接的な言葉ではなかったが、それは確かに求愛の言葉だった。

 何も心配しなくていい、必ず何とかしてみせると。私を守りたいのだと。恋焦がれるような目で、そう言われた。


 返事は焦らない。ゆっくり考えてほしいと……。



「そうなの……」


 
 沈黙が二人の間を流れる。



 レオナードは苦笑し、ゆっくりと立ち上がった。




「……よし、じゃあ、エスコートの練習もダンスの練習も真面目にやるか。当日は、紳士な俺を見せてやるよ」

 
 彼は、軽やかに笑いながら手を差し伸べた。



「楽しみだわ」


 私は彼の手を取り立ち上がる。自然と微笑みがこぼれた。