恋は、終わったのです

 sideラファエル王子


 ふと夜空を見上げる。


 ──自分の心の中で、何かが変わったことに気づいた。


 夜風がそっと頬を撫でる。ひんやりとした空気が、熱を帯びた思考を冷ますように流れていく。

 月は静かに輝き、星々が瞬く。夜空は広く、どこまでも果てしなく、手を伸ばせば届きそうでいて、決して触れることのできない遠さを感じさせる。



 彼女の存在が、ただの知人ではなくなっていく。

 少し影のある美しい令嬢。初めて見たとき、その凛とした姿に目を奪われた。



 目を引くような華やかさとは少し違う。


 だが、気品があった。控えめでありながらも、漂う存在感。静かな仕草の一つひとつに、育ちの良さを感じさせる。机に向かい、静かに本をめくる指先。その細い指がページを滑るたびに、揺れる睫毛。穏やかな横顔。

 心の奥底に、じんわりと温かな何かが広がる。特別なものになる予感がする──いや、もうすでになってしまったのかもしれない。



 もし、あと二年……いや、一年でも早く生まれていれば。



 その「もし」が、どうしようもなく胸を締めつける。


 彼女ともっと長く、同じ時間を過ごせたのだろうか。彼女の隣に立ち、彼女の気持ちに寄り添い、支えることができたのだろうか。そんな思いが波紋のように広がり、消えぬまま心の底に沈んでいく。








 私を狙う令嬢たちから逃れるように入った図書室で、彼女と出会った。まるで運命の悪戯のように。

『具合が悪いのなら、人を呼びましょうか?』


 顔を上げると、彼女がこちらを覗き込んでいた。


 疲れ切っていた私に、そっと声をかけてくれた。その声には、ほんのわずかに滲む警戒心。だが、それ以上に静かな気遣いが感じられた。


 ダリウスの友人である彼女に偶然出会ったことが、運命のように感じた。話が合い、気兼ねなく言葉を交わせる時間が心地よくて、いつしかその時間を楽しみにするようになっていた。



 優しく、けれど決して踏み込みすぎることのない、絶妙な距離感。

 それが彼女の生き方なのだろう。だが、少しずつ表情が和らぎ、穏やかに微笑む姿が見られるようになった。気づけば、彼女のその変化が嬉しくて、もっと見たくなってしまっている自分がいた。



 それと同時に、彼女が抱える影にも気づいた。

 ダリウスから無理やり聞き出した話は、想像の範疇を超えていた。



「……婚約者が、浮気をしている?」



 その言葉が落ちた瞬間、世界がひどく静かになった気がした。

 信じたくなかった。しかし、ダリウスの表情は冗談を言っているものではなかった。



 それでも婚約は継続され続け、このまま婚姻へと進んでいくらしい。



 
 政略結婚。それ自体珍しくもない。そんな話は幼い頃から幾度となく耳にしてきた。解消など簡単にはいかない。妾や愛人がいる貴族など珍しくもない。

 彼女の婚約者もまた、そんな一人に過ぎないのだろう。

 
 だが、それが許せない。

 
 彼女は、そんな扱いを受けるべき人ではない。聡明で、努力を惜しまず、優雅に微笑む彼女が、不誠実な相手に縛られるなど。

 
 苛立ちが胸の奥で燻り続ける。拳を握りしめると、爪が食い込み、わずかに痛みが走った。


 彼女のために手を回すにも、彼女との仲を深めるにも、彼女の傷を癒すにも、時間が足りない。

 

 彼女は、あと数ヶ月で卒業だ。

 

 ──もっと早く生まれたかった。

 
 こんなことを考えたのは初めてだった。早く生まれたら王太子だったとすら思ったことがなかったのに。

 せめて、半年早く留学していれば……。


 
 今の私自身も戸惑っているこの思いを伝えたところで、彼女を困らせるだけだとわかっている。

 

 それでも、黙っていることはできなかった。



 
 ダリウスに、胸に秘めた苛立ちや芽生え始めた感情を、堰を切ったように吐露した。なんとか彼に、協力してもらいたい。彼女を救ってあげたい、そして……。

 

 しかし、ダリウスは困ったように笑った。



「ラファエル王子殿下。‥‥申し訳ないですが、私は協力することはできません」

 
 彼の声は静かで、だが、確固たる意志を秘めていた。



 
 理由を聞いても、教えてはくれなかった。

 
 付き合いは短く、私は年下だが、ダリウスのことを友人だと思っていたのに。

 


 リディア嬢が頑張っているのだから、邪魔をするなということなのか。

 ダリウスの大事にしている婚約者のカタリナ嬢は、リディア嬢の親友だと聞く。私は、カタリナ嬢のお眼鏡に敵わなかったのか?

 侯爵家の問題。それとも、婚約者が養子に入る公爵家の問題か?



 全く分からない。




 
 ──あぁ、明日も彼女は図書室にいるだろうか。



 
 あの静かな空間で、いつものように本をめくる彼女の姿を、また目にすることはできるのだろうか。

 胸の内に溜まる思いを抱えたまま、私はただ、夜の静寂に飲み込まれていった。