sideリディア
学院の広い図書室には、静寂が満ちていた。
陽の光が大きな窓から差し込み、埃を含んだ空気が柔らかく輝いている。棚に並ぶ無数の本が、そこに詰まった知識と歴史を誇るかのようにそびえ立っていた。微かに漂う古い紙とインクの匂いが、静けさの中に心地よい落ち着きをもたらしている。
遠くでページをめくる音、羽ペンが紙をなぞるかすかな響き。
そのささやかな音の調和を破ったのは、ひそひそとした囁き声だった。
「聞いた?」
カタリナが身を乗り出し、声を潜める。
「例の王子殿下を狙って令嬢たちが、毎日、お近づきのチャンスを狙っているらしいわ」
私は、手元の本に視線を落としたまま、静かに耳を傾けた。
「まあ、王子殿下も大変ね」
「令嬢が憧れる王子、と言ってもいい見た目だもの。令嬢たちも色めき立つわ」
「そうなの?」
「あら、リディアはまだ会ったことがなかったかしら?」
本のページをめくる手を止め、静かに肩をすくめた。
「二つ下だもの。接点がないわ」
「令嬢の人だかりを見つけたらいるわよ。……エマもいるって噂よ。あの子は一体何をしたいのかしら」
「……」
そっと、閉じた本を机の上に置く。
エマ――彼女の名を聞いた途端、胸の奥に微かな違和感が生じた。だが、それを言葉にすることはせず、ただ小さく息を吐いた。
「ところで、リディアは、まだここにいる?」
「ええ、調べ物があるから。気にしないで、先に帰って」
「わかったわ。また明日」
カタリナが微笑みながら立ち上がり、図書室の扉へ向かう。彼女の姿が完全に見えなくなるまで、その背を見送った。
そして、そっとため息をつく。
セオドア……彼の顔が脳裏に浮かぶ。
関わらないと言った割に、人伝で課題を届けて寄越す。カタリナには内緒だ。
友人らしき人が取りに来るからまだいいけれど……これは、関わるうちに入らないと思っているのかしら。
学院の卒業も数ヵ月となり、出される課題もそれにふさわしくなってきた。簡単には片付けられない内容ばかりで、調べ物をする時間がどうしても必要だった。
静かな図書室の空気を吸い込み、立ち上がる。
足りない本を探しに、図書室の奥へと歩みを進めた。
――その時。
視界の隅に、違和感がよぎる。
本棚の陰。そこに、誰かが座り込んでいる。
……具合でも悪いのかしら?
本棚の並ぶ薄暗い隙間にうずくまる人影。
膝を抱え、静かにうつむく姿は、まるで世界から切り離されたように沈んでいた。光の届かないその場所だけが、まるで別の時間を生きているかのような錯覚を覚える。
私は、そっと足を止めた。
「……あの」
そっと声をかける。
「具合が悪いのなら、人を呼びましょうか?」
図書室の静寂に溶け込むように、柔らかく問いかけた。
本棚の影に座り込む人物は、しばし沈黙を保ったまま動かない。わずかに揺れた肩が、彼の浅い呼吸を伝えていた。
やがて、低く落ち着いた声が返ってくる。
「……誰も呼ばないでほしい。 ちょっと休憩していただけだから」
ゆっくりと顔を上げた瞬間、私は思わず息をのんだ。
金の髪が、差し込む光を受けて柔らかに輝いている。
整った目鼻立ちはどこか気品に満ち、だがそのブルーの瞳にはわずかな疲れが滲んでいた。
この方は……
学院に来て以来、噂に何度も聞いた名を持つ人物――私は、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「失礼いたしました。私、グラント侯爵の長女、リディアと申します」
彼は私を一瞥すると、穏やかに微笑んだ。
「リディア・グラント侯爵令嬢……ああ、聞いたことがある。ダリウスの友人の侯爵令嬢だね?」
静かな図書室に響く、落ち着いた声音。彼の口元に浮かぶ微笑みは柔らかかったが、どこか探るような視線を含んでいた。
「私は、留学に来ている、ラファエル・フォン・ルクセンベルクだ」
やはり。
この人が……あの話題の王子殿下
「こんなところで休憩ですか?」
「……少し、人の目線に疲れてしまってね」
王子殿下は、静かに言葉を紡ぐ。
「王子という立場なら、人の視線を浴びるのは当たり前だ……そう思ったかい?」
その問いには、どこか自嘲めいた響きがあった。
「いいえ、そんなことは……」
「令嬢たちの視線にちょっとね。はは。物珍しいのだろうけど、自国ではこんなにあからさまにされることがないから。ああ、すまない。初めて会った令嬢にこんな話をして。ダリウスの友人と思ったらつい……」
苦笑する彼の横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
私は少し考えた後、静かに口を開く。
「そうでしたか。それでしたら、こちらへどうぞ」
そう言い、図書室の奥へと歩を進める。
「……?」
王子殿下が小さく眉を寄せながら、無言のままついてきた。
私は棚の間を抜け、小さな扉の前で立ち止まる。
「ここです」
扉を開くと、柔らかな陽の光が差し込んだ。
外へと続く扉の先には、小さく開かれた場所があった。
緑に囲まれた静かな庭。風に揺れる木々の葉が、さらさらと囁くように音を立てている。
そこにひっそりと置かれたベンチは、まるで隠れ家のようだった。
「私も事情があり、人の目線に疲れる時があります。このベンチは、ダリウスと友人のレオナードが作ってくれたもので、時々ここで休憩をするのです」
そう言うと、王子殿下はゆっくりとベンチに近づいた。
指先でそっとベンチの表面をなぞり、しばらく何かを考えるように眺めていた。
「……いいな、ここ」
静かな感嘆の声だった。
「ここは、あまり人が来ません。皆、花々が咲く中庭の方へ行きますから。いつでもお好きな時にお使いください」
「いいのかい?」
王子殿下が目を細める。
「ええ、ベンチを作ったダリウス達も喜びますわ」
そう言うと、王子殿下は微かに微笑み、静かにベンチへ腰を下ろした。
風がそっと吹き抜け、木々の枝が揺れた。今日は日差しが出ているから、少し冷たい風が心地よい。
何も言わず、ラファエル王子殿下は、ただ庭を眺めている。
穏やかな沈黙が流れる。
私は、ふと彼の横顔を一瞥した。
金色の髪が陽の光を受け、柔らかになびいている。
学院中の令嬢たちを惹きつける美貌。けれど、今この静寂の中で浮かぶ表情は、どこか疲れたものだった。
彼の瞳に映るのは何なのだろう。希望をもって留学しに来たはずなのに。
私は、言葉にすることなく、ただ静かに視線を戻した。
学院の広い図書室には、静寂が満ちていた。
陽の光が大きな窓から差し込み、埃を含んだ空気が柔らかく輝いている。棚に並ぶ無数の本が、そこに詰まった知識と歴史を誇るかのようにそびえ立っていた。微かに漂う古い紙とインクの匂いが、静けさの中に心地よい落ち着きをもたらしている。
遠くでページをめくる音、羽ペンが紙をなぞるかすかな響き。
そのささやかな音の調和を破ったのは、ひそひそとした囁き声だった。
「聞いた?」
カタリナが身を乗り出し、声を潜める。
「例の王子殿下を狙って令嬢たちが、毎日、お近づきのチャンスを狙っているらしいわ」
私は、手元の本に視線を落としたまま、静かに耳を傾けた。
「まあ、王子殿下も大変ね」
「令嬢が憧れる王子、と言ってもいい見た目だもの。令嬢たちも色めき立つわ」
「そうなの?」
「あら、リディアはまだ会ったことがなかったかしら?」
本のページをめくる手を止め、静かに肩をすくめた。
「二つ下だもの。接点がないわ」
「令嬢の人だかりを見つけたらいるわよ。……エマもいるって噂よ。あの子は一体何をしたいのかしら」
「……」
そっと、閉じた本を机の上に置く。
エマ――彼女の名を聞いた途端、胸の奥に微かな違和感が生じた。だが、それを言葉にすることはせず、ただ小さく息を吐いた。
「ところで、リディアは、まだここにいる?」
「ええ、調べ物があるから。気にしないで、先に帰って」
「わかったわ。また明日」
カタリナが微笑みながら立ち上がり、図書室の扉へ向かう。彼女の姿が完全に見えなくなるまで、その背を見送った。
そして、そっとため息をつく。
セオドア……彼の顔が脳裏に浮かぶ。
関わらないと言った割に、人伝で課題を届けて寄越す。カタリナには内緒だ。
友人らしき人が取りに来るからまだいいけれど……これは、関わるうちに入らないと思っているのかしら。
学院の卒業も数ヵ月となり、出される課題もそれにふさわしくなってきた。簡単には片付けられない内容ばかりで、調べ物をする時間がどうしても必要だった。
静かな図書室の空気を吸い込み、立ち上がる。
足りない本を探しに、図書室の奥へと歩みを進めた。
――その時。
視界の隅に、違和感がよぎる。
本棚の陰。そこに、誰かが座り込んでいる。
……具合でも悪いのかしら?
本棚の並ぶ薄暗い隙間にうずくまる人影。
膝を抱え、静かにうつむく姿は、まるで世界から切り離されたように沈んでいた。光の届かないその場所だけが、まるで別の時間を生きているかのような錯覚を覚える。
私は、そっと足を止めた。
「……あの」
そっと声をかける。
「具合が悪いのなら、人を呼びましょうか?」
図書室の静寂に溶け込むように、柔らかく問いかけた。
本棚の影に座り込む人物は、しばし沈黙を保ったまま動かない。わずかに揺れた肩が、彼の浅い呼吸を伝えていた。
やがて、低く落ち着いた声が返ってくる。
「……誰も呼ばないでほしい。 ちょっと休憩していただけだから」
ゆっくりと顔を上げた瞬間、私は思わず息をのんだ。
金の髪が、差し込む光を受けて柔らかに輝いている。
整った目鼻立ちはどこか気品に満ち、だがそのブルーの瞳にはわずかな疲れが滲んでいた。
この方は……
学院に来て以来、噂に何度も聞いた名を持つ人物――私は、慎重に言葉を選びながら口を開く。
「失礼いたしました。私、グラント侯爵の長女、リディアと申します」
彼は私を一瞥すると、穏やかに微笑んだ。
「リディア・グラント侯爵令嬢……ああ、聞いたことがある。ダリウスの友人の侯爵令嬢だね?」
静かな図書室に響く、落ち着いた声音。彼の口元に浮かぶ微笑みは柔らかかったが、どこか探るような視線を含んでいた。
「私は、留学に来ている、ラファエル・フォン・ルクセンベルクだ」
やはり。
この人が……あの話題の王子殿下
「こんなところで休憩ですか?」
「……少し、人の目線に疲れてしまってね」
王子殿下は、静かに言葉を紡ぐ。
「王子という立場なら、人の視線を浴びるのは当たり前だ……そう思ったかい?」
その問いには、どこか自嘲めいた響きがあった。
「いいえ、そんなことは……」
「令嬢たちの視線にちょっとね。はは。物珍しいのだろうけど、自国ではこんなにあからさまにされることがないから。ああ、すまない。初めて会った令嬢にこんな話をして。ダリウスの友人と思ったらつい……」
苦笑する彼の横顔は、どこか遠くを見ているようだった。
私は少し考えた後、静かに口を開く。
「そうでしたか。それでしたら、こちらへどうぞ」
そう言い、図書室の奥へと歩を進める。
「……?」
王子殿下が小さく眉を寄せながら、無言のままついてきた。
私は棚の間を抜け、小さな扉の前で立ち止まる。
「ここです」
扉を開くと、柔らかな陽の光が差し込んだ。
外へと続く扉の先には、小さく開かれた場所があった。
緑に囲まれた静かな庭。風に揺れる木々の葉が、さらさらと囁くように音を立てている。
そこにひっそりと置かれたベンチは、まるで隠れ家のようだった。
「私も事情があり、人の目線に疲れる時があります。このベンチは、ダリウスと友人のレオナードが作ってくれたもので、時々ここで休憩をするのです」
そう言うと、王子殿下はゆっくりとベンチに近づいた。
指先でそっとベンチの表面をなぞり、しばらく何かを考えるように眺めていた。
「……いいな、ここ」
静かな感嘆の声だった。
「ここは、あまり人が来ません。皆、花々が咲く中庭の方へ行きますから。いつでもお好きな時にお使いください」
「いいのかい?」
王子殿下が目を細める。
「ええ、ベンチを作ったダリウス達も喜びますわ」
そう言うと、王子殿下は微かに微笑み、静かにベンチへ腰を下ろした。
風がそっと吹き抜け、木々の枝が揺れた。今日は日差しが出ているから、少し冷たい風が心地よい。
何も言わず、ラファエル王子殿下は、ただ庭を眺めている。
穏やかな沈黙が流れる。
私は、ふと彼の横顔を一瞥した。
金色の髪が陽の光を受け、柔らかになびいている。
学院中の令嬢たちを惹きつける美貌。けれど、今この静寂の中で浮かぶ表情は、どこか疲れたものだった。
彼の瞳に映るのは何なのだろう。希望をもって留学しに来たはずなのに。
私は、言葉にすることなく、ただ静かに視線を戻した。

