恋は、終わったのです

 sideエマ




 教室に着くとすぐに、友人たちが楽しげな声を上げながら私のもとへ駆け寄ってきた。


「ねえ、エマ! 王子のこと、もっと知りたくない?」

 ドキリとしながらも、努めて平静を装う。


「……別に、そこまで気にはしていないわ」

 そう答えながらも、指先がわずかに震えていた。


「まあまあ、実はね、少し調べてみたの! 彼はラファエル・フォン・ルクセンベルク王子。お隣のルクセンベルク王国の第三王子よ」

「第三王子……?」


 思わず聞き返す。あの気品で第一王子ではなく、三男だというのは意外だった。



「ええ。だから王位継承権はあるけれど、そこまで高くないの。だからこそ、この学院に留学してきたみたい」

「王位継承権が低いのに、なぜ留学を?」

「外交の一環みたいよ。とはいえ、あの美貌と人柄で、すでに学院中の注目の的だけれどね!」

「まあ……」


 無意識に胸の前で手を組む。心の中で「これ以上、知りたいと思ってはいけない」と繰り返しながらも、どうしても興味を抑えきれなかった。



「それで、婚約者は?」


 その言葉が口をついて出た瞬間、自分で驚いた。どうしてこんなことを聞いてしまったのだろう。

 友人たちは一瞬だけ目を見合わせ、それから小さく声を潜めた。



「いないらしいわよ」

「……本当に?」

「ええ、貴族の令嬢たちはみんな狙っているわ」

「そうよね……」



 当然のことだ。王族であり、あれほどの美しさを持ち、品格まで備えているのだから、相応しい相手は山ほどいるだろう。



「エマも、狙ってみたら?」

「……そんなわけにいかないでしょう?」


 精一杯、笑顔を作って言い返す。



「でも、気にならない? あなたの可愛らしさならもしかして……」



 友人のからかうような声に、何も言い返せなかった。

 王子の名前を知ってしまったことで、彼の存在がさらに現実味を帯びてくる。


 ダメよ、考えちゃダメ。私は……セオが……

 けれど、学院の廊下を歩きながらも、何度も王子の名前を心の中で反芻してしまう。



 ラファエル・フォン・ルクセンベルク王子



 一目見ただけの彼の姿が、今もなお鮮明に焼き付いている。

 知らないままの方が、良かったのかもしれない。

 だけど――

 どうしても気になってしまう。





 家に帰ってからも、王子の顔が頭から離れなかった。

 あの金色の髪、深いブルーの瞳、そして優雅な佇まい。まるで夢の中の存在のように、美しく、気品に満ちていた。


 ほんの一目見ただけなのに、胸の奥に焼き付いてしまったようで、何度思い返しても息をのむしかない。



「……はぁ」

 気づけば、大きなため息をついていた。



「どうしたの、エマ?」

 優しく響く声に、ハッとして顔を上げると、母がこちらを見ていた。優雅な仕草で紅茶を口にしながら、その端正な顔立ちに小さな微笑みを浮かべている。



「お母様……」

 少し迷ったけれど、隠し通せる気がしなかった。



「今日、留学してきた王子を見たのだけれど……あまりにも美しくて、ため息が出たの」

 母は少し驚いたように目を瞬かせ、それからくすりと笑った。




「そんなに美しかったの?」

「ええ……金色の髪とブルーの瞳が、セオが色あせて見えるほどに……」

 言ってしまった瞬間、胸がチクリと痛んだ。




 セオは私にとって大切な人。それなのに、彼と王子を比べてしまうなんて――


「それは絶対にモンクレア伯爵令息に言ってはいけないわよ」

 母がいたずらっぽく言う。




「……わかってる」

 分かっているけれど、心の中では抑えきれない感情が渦巻いている。



「女はね、感情を隠して、いちばん美しい顔で、男性に微笑むのよ」



 母の言葉は静かで、けれどどこか重みがあった。

 セオのことをあんなに想っていたのに。私のためにいつも気を配ってくれる、優しい人なのに。

 それなのに、一度王子を見ただけで、心が揺らいでしまうなんて。



「私……ひどいのかしら? 一目見ただけで心惹かれてしまったの。こんなの、気の迷いよね?」

 自分でも信じられない。こんなに簡単に揺らいでしまうなんて。




「まあ、あなたもやっぱりまだ子供ね」

 母は微笑みながら、そっと紅茶を置いた。



「どういうこと?」

「どうなるかもわからない、まだ話をしたこともない人を諦める必要があるのかしら?」



 母の言葉に、思わず息を呑んだ。




「いい女は、選ばれるものよ。私だって、数多くの求愛から旦那様を選んだのよ。その結果、いまは男爵夫人になったわ」

 母は涼しい顔でそう言うけれど、そんなこと、私にはできるのだろうか?




「でも……王族よ? 婚約者はいないらしいけど、学年も違うし……お近づきになんてなれないわ」

 私と王子なんて、住む世界が違いすぎる。



「前にも言ったけど、選択肢は多いに越したことがないわよ」

 母はさらりと言う。その言葉の意味を、私はすぐには理解できなかった。




「自分の心に素直になることね。あなたが、遠くから見て満足というなら、私は、それでもいいけど?」

「……あんな完璧な人が、私を好きになってくれるとは限らないもの」

 小さな声で呟いた。



 それに……セオは裏切ることはできない。



 セオは、いつも私を大切にしてくれる。そんな彼を手放して、夢のような存在に心を傾けるのは、あまりにも愚かではないだろうか?




「気の迷いで、人生を台無しにはできないわ」

 そう言い聞かせるように、ぎゅっと拳を握る。


 それでも――




 母の言葉が、頭の中でぐるぐると回る。

 やっぱり、眠りに入るまで王子の姿を忘れることはできなかった。