恋は、終わったのです

 sideエマ



 人だかりの隙間から、彼の姿をじっと見つめた。視線を外そうと思えば思うほど、吸い寄せられてしまう。胸の奥がざわめき、理性が揺らぐのを必死に抑え込んだ。


『エマ、知ってる? 二つ下に隣国の王子が留学に来たんだって! 一緒に見に行きましょう!』



 弾むような友人の声に引かれ、私は半ば流されるようにしてこの場に来た。

 陽の光を浴びた金色の髪が、柔らかく揺れるたびに眩しくきらめく。


 その輝きに、目を細めずにはいられなかった。深いブルーの瞳が周囲を見渡すたび、人々の視線はまるで磁石に引き寄せられるように彼へと集中する。

 どこか穏やかで気品に満ちた横顔。

 意識していなくとも醸し出される王族特有の威厳。それが彼を、さらに際立たせていた。




「本当に、オーラが違うわね! やっぱり王族は違うわ!」


 隣の友人が、感嘆したように息を漏らす。私たちの周りにいる令嬢たちも、言葉を失ったように彼の姿に見入っていた。

 王子は、自然な仕草で微笑みながら周囲と会話を交わしている。その笑みが生まれた瞬間、周囲の空気が柔らかくほどけ、令嬢たちの小さな息をのむ音が耳に届いた。



 ――その気持ちは、痛いほどわかる。



 彼の存在は、まるで絵画のように完成されていた。優雅に立つだけで、そこに物語が生まれる。誰の目から見ても、彼は間違いなく“理想”そのものだった。



 本当に……美しい……




 おとぎ話の王子が、そのまま現実に現れたかのよう。

 あの瞳に映ることができたら。


 そんな叶うはずのない考えが、一瞬でも心をよぎった自分を、ひどく愚かだと思う。

 わかっているのに。考えたところで、どうにもならないのに。
 それでも。

 彼の姿を目にした瞬間、胸の奥に生まれたこの感情を、否定することはできなかった。






「エマ、こんなところにいたのか。探したぞ」

 低く落ち着いた声が耳に届き、ハッと我に返った。背後を振り返ると、セオが少し眉をひそめてこちらを見つめている。その視線には、心配と安堵が入り混じっていた。


「セオ……」

 その名前を口にするとき、無意識のうちに王子とセオを比べてしまう自分がいた。



 ――セオは、王子ではない。


 そんなことは百も承知だった。無意識に王子を見つめる自分を戒め、視線をセオに戻した。


 セオの金髪は、柔らかく優しい光を帯びている。王族の華麗な黄金とは違い、どこか親しみやすさを感じさせる色だ。瞳は、王子の深いブルーとは異なるが、静かな湖面のような穏やかさを湛えている。

 セオは、確かに凛々しい顔立ちではあるが、王子のような圧倒的な華やかさには届かない。

 どうしても地味に映ってしまう。



 罪悪感が胸を締め付けたが、それは仕方のないことだ。



「……どうした?」

 セオの声が再び耳に届く。


「な、なんでもないわ。行きましょう」


 無理にでも笑顔を作り、踵を返す。けれど、どうしても気になってしまう。

 足を止め、そっともう一度だけ王子の方を振り返る。




 ――彼の婚約者は、どんな人なのだろう? そもそも婚約者はいるのかしら?



 王族に相応しい、美しく聡明な令嬢なのだろうか。それとも……。彼が自由に愛を選ぶことができるのなら、どんな女性を選ぶのか――。



 頭の中で繰り返される問い。王子に憧れる令嬢たちの熱い視線が、心をさらにざわつかせる。彼女たちは皆、王子の隣に立つ自分を夢見ている。


 その心の内が痛いほど伝わってくるからこそ、焦燥と嫉妬が入り混じった感情が芽生える。



 王子の微笑みは、周囲の人々を魅了してやまない。どんな女性が彼の目に留まるのだろうかと考えるたび、胸の奥が締めつけられるような感覚に苛まれた。



 王子に憧れる気持ち、そしてそれが叶わぬことを知っているからこそ、余計にその存在が遠く感じる。手を伸ばしても届かない、遥か彼方に輝く星のように。



 ――これが、一目惚れ?


 自分でも信じられないような感情に戸惑っていたため、セオの声が耳に届くのが一瞬遅れる。



「エマ、どうした? 顔色が悪いぞ」


 その優しい声に、ようやく現実へと引き戻された。

 セオの瞳が、自分を見つめる。その眼差しが、まるで心の奥底まで見透かすかのようで、慌てて視線を逸らした。



「ごめんなさい、ちょっと考え事をしていたの。大丈夫よ、気にしないで」



 セオは一瞬、言葉を飲み込むようにしてから頷き、再び歩き出した。彼の隣を歩きながらも、未だに王子の姿を振り払えずにいた。


 セオの存在をもっと大切にしなければならないとわかっているのに。



 彼が何も言わずとも、その優しさが伝わってくるからこそ、余計に罪悪感が募る。




 でも――



 もし私が伯爵令嬢になれたなら。王子と並び立つ未来もあるのだろうか?

 そんな夢のような考えが、ふと頭をよぎる。




 ――いいえ、そんなことあるはずがない。




 自分の心を戒めるように、首を小さく振る。

 これはただの憧れ。

 せめて遠くから見つめることくらいは許されてもいいはず。



 ――ほんの少しだけ、夢を見てもいい。


 自分の胸に秘めた小さな想いをそっと抱きしめ、再び歩き出した。心は、まだ王子の輝きに囚われたままであった。